人間、失敗する可能性が一番高いのは、物事に慣れて来た時である。
奈々子も、〈南十字星〉に勤めて、三か月ぐらいたったころ、やたらオーダーを間違えてマスターに伝え、叱《しか》られたことがある。初めのころの緊張感が薄れて、ろくに考えていなくてもやれる、と思ってしまった時が怖いのである。
まあ、奈々子など、喫茶店で、コーヒーと紅茶を間違えるくらいだからいいが、これが病院か何かに勤めてて、つい、胃の薬と毒薬を間違えて渡しちゃった、なんてことになったら、
「あ、いけね」
と、ペロッと舌を出してすむ、ってものではない。
奈々子が〈南十字星〉に勤めたのは、社会の平和のためにも、良かったのかもしれない……。
まあ、そんなことはともかく——。
「やっぱり三枝って人は、生きてたんだわ」
と、昼食を食べ終って、ベッドに引っくり返っていた奈々子は、呟《つぶや》いた。
あの神原って男の言葉によれば、新聞広告に返事が載ったという。それが決定的な証拠ってわけじゃないだろうが、まあ、少なくとも、「生きてる」ってことは事実らしい。
だが、奈々子にとって、未来は必ずしも明るくないのである。
三枝は、美貴が神原に誘《ゆう》拐《かい》されたと思っているわけだから、いざ取引きの場になって、
「そんな女、俺の女房じゃない」
と、一言、言われてしまったら、おしまいである。
何といったって、三枝は奈々子の顔も知らない。いちいち事前に事情を説明してる余裕もないだろうし……。
その場合、奈々子は、神原からも三枝からも、「邪魔者」扱いされる可能性が大きいわけである。誰も私のことなんて、同情もしてくれないわよね、なんて、奈々子は一人ですねていた。
わざわざ、赤の他人のためにドイツくんだりまでやって来て、こんな所へ閉じこめられ、鍵《かぎ》をかけられて、一歩も外へ出られない、というんだから……。まあ、お人好しも、ここまで来りゃ芸術だ(?)。
鍵……。鍵?
——奈々子は、ベッドに起き上った。
昼食を食べてる時に、神原が来て、出て行った。それからすぐに、あの赤ら顔で大男のドイツ人が、盆を下げて行ったが……。
鍵のかかる音、したっけ?
記憶がなかった。
何しろ、ここの部屋の鍵は、古くてやたらに大きいので、かけると、凄《すご》い音がする。銀行の大金庫の中にでも閉じこめられちゃったような気がするくらいだ。
その点はホテルなんかでも、古いホテルの鍵など、これで人をぶん殴《なぐ》れるな、と思えるくらい重く、頑《がん》丈《じよう》にできていたりする。
しかし——さっき、あのガチャッ、という音は聞こえなかったような気がする。
もちろん、奈々子がぼんやりしていて、気付かなかった、ということだってあり得るのだけど……。でも、ものはためし、ってこともあるし……。
奈々子は、そっとドアへ近付いて、廊下の様子をうかがった。見張りの男は、いつも下の部屋にいる。
ノブを回して、引いてみると……。
開いた!
頭だけ出して左右を見回す。——誰もいない。こりゃ、やっぱりあの見張りが、鍵をかけるのを忘れたのに違いない。
さっき、神原が顔を出した後、車が走って行く音がしたから、神原はもういないだろう。見張りの男は? 下で、たぶん……。
奈々子は靴を脱いで、手に下げると、そっと階段を下りて行った。
もちろん、人間誰しも奈々子と似ているわけではない。しかし、中には良く似たタイプの人間というものも、性別や国籍を越えて、存在する。
奈々子は、食事時間の少し前になると、ちょくちょく、下から目覚し時計のベルらしき音が聞こえて来るのに気付いていた。
確かに、何もしないで、ただ見張っているというのも、退屈なものである。眠くなって当然、と……。
やっぱりね。
——見張りの、大男は、ソファでだらしなく眠りこけていた。ハーッ、スーッ、と、盛大な寝息をたてている。
こんなによく眠っているところを、起こしちゃ悪いわ、と奈々子は思った……。
そっと部屋を横切り、外へ出るドアの方へ……。
神原の話じゃ、ここは人里離れた、湖《こ》畔《はん》の山の上ということだったが、まさかエベレストの頂上ってわけじゃあるまい。
ともかく、どこか人家があれば、電話を借りて……。ホテルへかければ、きっと誰か残っててくれるだろう。
まさか、奈々子のことなんか放っといて、見物を続けましょ、とか、そんなわけは……。
「いくら何でもね」
と、奈々子は呟《つぶや》いた。
それほど人に嫌われちゃいないという自信はある。
よし! 奈々子はそっとドアを開けた。
運が悪かった。ちょうど、男の体が傾き過ぎて、ソファから床へ落っこちてしまったのだ。
「ワッ!」
いくら鈍い男でも、目を覚ます。——そして、あわてて靴をはいている奈々子を、ポカンとして、眺めていた。
「——失礼します」
わざわざピョコンと頭を下げて、奈々子は駆け出した。
「ウォーッ!」
やっと事態に気付いた大男の方も、起き上って、駆け出した。
——外へは出たものの、道は一本道で、眼下の湖の方へ曲りくねって下りて行く。
奈々子は、一瞬考えた。走って下りても、湖まで行ったら追いつめられるし、大体、途中で追いつかれる。
それなら……。
上るしかない!
奈々子は、横手の、草原を駆け上り始めた。山、というほどの急斜面ではないが、かなり長い上りだ。もしかしたら……。
何か怒《ど》鳴《な》る声が聞こえた。あの大男が、赤い顔を更に真赤にして、わめいている。
奈々子は、ベエと舌を出して——こういう余計なことをしている場合じゃないのだが——また駆け出した。
男の方も、奈々子を追って駆け出す。何といっても、体が大きくて、一歩の歩幅が広いから、ぐんぐんと間をつめて行ったが……。
奈々子は、苦しくなって、足を止め、振り返った。
——やった!
相手は体が重いので、上りはきついのだ。もう息を切らして、走るというより、歩いている感じ。
見ろ!——何といっても、奈々子は身軽である。
タッタッタ、と軽い足取りで、丘の高みへ上って、見下ろすと——。
町だ!
何キロかはあるだろうが、だらだらと草原を下って行けば、町に着く。
やったやった! ざま見ろ!
と、振り向いた奈々子——。
あれ? あの男は?
見張りの大男の姿が見えないのだ。
さてはどこか近道を——と思ったが、そういうわけでもないらしい。
すると……。五、六十メートル後ろの、少し地面がくぼんだ辺りから、あの大男がふらふらと現われるのが見えた。
しかし、相当参っているようで、とてもじゃないが、追って来られまい。
と、見ていると、男が胸を押えて、苦しげに呻《うめ》いた。どうしたんだろう?
男がドサッと倒れる。——そして動かなくなった。
「死んじゃったの?」
と、奈々子は呟《つぶや》いた。
しかし、あんな奴《やつ》のこと、構ってられるか! 自《じ》業《ごう》自《じ》得《とく》ってもんよ!
奈々子は、そのまま駆け出そうとして——後ろへ向って駆け出していた。
全く、手間のかかる奴!
近付いてみると、男は真青になって、びっしょり汗をかいている。ハアハア喘《あえ》いで、とてもじゃないが演技でもなさそう。
「どうしたの?」
奈々子が声をかけると、男は、もつれた口で、何やらポケットを指している。
「ポケット?——中に?」
かがみ込んで、探ってみると、くしゃくしゃの紙袋。
「薬か。これ、服《の》むの?」
男の手では、とても震えていて、中からカプセルを出すなんてことができないのだ。
「心臓ね、きっと。——太り過ぎよ。それに甘いもんの食べ過ぎ。少し摂生しなさいよ。全く」
奈々子も胸焼けするような大きなケーキをペロリと食べてしまうのだ。太らなきゃ不思議である。
「ほら、服んで」
カプセルを取り出して、男の口の中へ入れてやる。「——しばらくじっとしてんのね。じゃ、私はこれで」
と、立ち上ると……。
目の前に、交替で見張りに来る、もう一人の大男が、怖い顔で、立っていた。
「あ——どうも」
と、奈々子はニッコリ笑って、「あのね、この人が具合悪そうだったから——」
次の瞬間、奈々子の体は宙に浮いていた。ヒョイと持ち上げられてしまったのである。「やめて! ちょっと——おろして!」
日本語が分ったわけじゃないだろうが、その男は奈々子をおろしてくれた。ただし、三メートルも先に。
投げつけられて、奈々子は地面に「衝突」。アッという間もなく、気絶してしまったのである……。