「何だか変ってるわよ」
と、ルミ子が言った。「でも、ちょっとすてきだけどね」
「いいの、そんなこと、彼の前で言っても?」
と、美貴が、チラッとハンスの方を見る。
「大丈夫。彼、日本語そんなに分んないんだもん」
ルミ子は平気なものである。
昼食を終って、一行は美貴の部屋に戻《もど》っていた。
奈々子がさらわれたのに、こんなホテルでのんびりして、非人情な、と思われそうだが、正直なところ、美貴やルミ子には、どうすることもできない。警察にも届けられない、ということになると、この部屋で、ひたすら連絡を待つしかないのである。
「でも、私、そんなに悪い人とは思わなかったけど」
と、美貴が言ったのは、もちろん、ペーターという男のこと。
「奈々子さんに一目惚《ぼ》れして追いかけて来たっていうのが本当かどうか、知らないけどね」
「あら。私は本当じゃないかと思うわよ。奈々子さんって、魅力あるじゃない」
「私だって、別に奈々子さんが惚《ほ》れられるわけない、って言ってんじゃないわよ。ただ、あのペーターって人だって、仕事はあるわけでしょ」
「何だか裏の方にお店があるとか……」
「そういう意味の裏じゃないでしょ」
と、ルミ子は呆《あき》れたように言った。「もしかしたら——情報部員かもね」
「情報部員?」
「007みたいなスパイかもしれないわよ」
「まさか」
と、美貴は目を丸くして、「ピストル、持ってた?」
「知らないけど。——ともかく、どこへ行ったのかしら」
「そうねえ……。何だか急にどこかへ行っちゃって——」
と、美貴が言いかけると、電話が鳴り出して、ルミ子がパッと手を伸ばした。
「姉さんは、誘《ゆう》拐《かい》されたことになってんだからね!——ヤア」
話を聞いて、ルミ子は目を輝かせた。
「——ね! ロビーに、疲れ切った日本人が一人倒れてたって! もしかすると奈々子さんかもしれないわ」
「行ってみましょう!」
ハンスも一緒に、三人で部屋を飛び出すと、ホテルのロビーへ。
フロントの男に訊くと、ロビーの奥のソファを指した。
振り返って——三人とも、急いで来たことを後悔したのだった。
ソファにぐったりとのびていたのは、森田だったからである。
「——ちょっと」
と、ルミ子につつかれて、森田が目をパチクリさせる。
「何だ。——こっちは疲れてるんだ!」
「何してたのよ?」
「あのペーターって奴《やつ》だ、犯人は」
と、森田は言った。
「何ですって?」
美貴がびっくりして、「何かつかめたの?」
「あいつは、わざと俺のことをまいたんだ。怪しいに決ってる」
「まいた、って……」
ルミ子は疑わしげに、「あんたが、ただついて行けなかっただけじゃないの?」
「同じことだ」
「全然違うでしょ。大体何でそんなにのびてるの?」
「異国で道も分らないのに、放り出されたんだぞ! このホテルを必死で捜して歩いてたんだ」
「誰かに訊《き》きゃいいのに」
「日本語で、か?——それに、ホテルの名を忘れちまった」
「救い難いわね」
「こんな長い名をつける方が間違ってる!」
八つ当りである。
「——だけど、あのペーターって人、どこへ行ったのかしら?」
と、美貴が言った。
確かに、美貴たちに自分から声をかけて来ながら、また突然姿を消してしまったというのは、妙である。
すると、そこへ——。
「何だ、ここにいたのか」
と、当のペーターがロビーへ入って来た。「どこへ行ったのかと思った」
森田は一人でむくれている。
ルミ子が説明すると、ペーターは苦笑いして、
「確かに急いでいて、彼のことは気にしてなかったね」
「気にしなくていいわ、これからも」
と、ルミ子は言った。「でも、どこへ行ってたの?」
「いや、妙な仲介が入ることがあるからね、こういう場合。その用心さ」
「仲介って?」
「何か、盗まれた物を買い戻したいとか、さらわれた人間を取り戻したい、って話を耳にするとね、マフィアとか、あの手の連中が動くことがあるんだ」
「マフィア?」
「うん。仲介してやる代りに、手数料を取る。べらぼうな額をね。そうなると、ますますややこしくなるから。前もって手を打っておく必要がある」
「へえ……」
ルミ子は、唖《あ》然《ぜん》としている。「何か、映画の中の話みたい」
「現実に、そんなことがあるんだよ」
と、ペーターは言った。
「で、話はついたの?」
「うん。向うも今は他の仕事で忙しいらしい。そんな小さなことまで手が回らない、と言ってたよ」
「あなた——マフィアを知ってるの?」
「知り合いがいる、ってだけだ。何かと便利だからね」
と、ペーターは言った。「さて、あの広告に対して、犯人たちがまたどう応じて来るかだね」
しかし、ルミ子と美貴は、ポカンとして、ペーターを眺めているばかり……。
森田は一人、ふてくされて、そっぽを向いていた。
「おおいたい……」
奈々子は、ベッドに起き上って、顔をしかめた。
——そろそろ夕食の時間だということは分っていた。しかし、いやに早いような気がする。
放り投げられて、何時間か気を失っていたせいだろう。
それにしても……。あの馬鹿力!
助けてなんか、やるんじゃなかった。——つくづく、奈々子は、己れの人の好さに、いや気がさして来てしまった。
腰だの、膝《ひざ》だの、頭だの……。あちこちぶつけて、すりむいているし……。
シャワーでも浴びようか。こうなったら、お風呂にでも好きなだけ入って、溺《おぼ》れ死んでやる!
理屈の合わない怒り方をしていると、足音がして、ドアの鍵《かぎ》をあける音。
「あ……」
今度は二人で来た!
一人は夕食の盆を持っている。あの、心臓が苦しくてのびてた奴。
もう一人、奈々子を放り投げた奴が、一緒に入って来た。
「何よ……。何すんのよ」
と、奈々子は、二人が近付いて来たので、後ずさった。
そういや、神原ってのが言ってたっけ。
逃げようとしたら、この二人が、奈々子のことを、殺しさえしなきゃ、何してもいい、ってことになってる、って……。
「それ以上、近付いたら……引っかくからね! 私は猫年なんだから! 爪《つめ》は痛いんだぞ!」
日本語でやっても、通じるわけがない。
すると、二人の大男、同時に足を止めると、一斉に、
「ドウモ、スミマセン!」
と、コーラスをやり出したのである。
これには奈々子、引っくり返りそうになってしまった。
一人がポケットから小さな本を出すと、ページをめくって、
「アー……マチガイ……デシタ。ゴメンネ」
「はあ?」
「クスリ……ダンケ」
二人が、とぎれとぎれの日本語を並べて、何とか言おうとすることを、奈々子は必死で想像力をめぐらせ、やっと分った。
つまり、後から駆けつけて来た男は、相棒が倒れているのを、奈々子にやられた、と思い込んで、カッとなり、かつぎ上げて投げつけた、ということだった。
後で、相棒から、事実を聞いて、反省したということで、お詫《わ》びに来た、というわけである。
「何だ、そういうことなのね」
と、奈々子は肯《うなず》いて、「ま、いいや。——別に骨が折れたってわけでもないしね」
ケロッとしてしまうのが、また奈々子らしい。
本当にすまないと思ってるんなら、逃がしてくれりゃいい、とも思うが、そうなると、今度はこの男たちが危いのだろう。
「ヤア、ヤア。オーケー、オーケー」
と、奈々子は笑って肯いて見せた。
人間の気持は、通じるものである。二人の男は嬉《うれ》しそうに、ニコニコして肯き合い、奈々子の前にテーブルを持って来て、夕食の盆を置いた。
「ダンケ。——あの……カフェ?」
コーヒーはカフェ、というのは奈々子も憶《おぼ》えていた。
「ヤア」
男の一人が出て行くと、奈々子は、大してお腹も空いていなかったが、ナイフとフォークを手に、食べ始めた。
すると、男が戻《もど》って来て……。
奈々子は、その盆に、特大の——日本のクリスマスに、四人家族で食べるより倍も大きいケーキがドン、とのっているのを見て、仰天した。
どうやら、お詫びの印《しるし》に、このケーキを持って来たらしい。しかし……。その甘そうな匂《にお》い!
匂いだけで、奈々子は、食欲を失ってしまった……。
「ダンケ……。あの——一緒に食べない? ね?」
と、身ぶり手ぶりでやっていると……。
車の音がした。二人の男は顔を見合わせると、急いで、部屋を出て行った。
「誰かしら……」
神原かしらね。でも、あの二人、いやに怖い顔して出てったけど。
奈々子は、ともかく、巨大な肉の塊に、ナイフを入れた。
すると——階下で、何かが叩《たた》き壊されるような、凄《すご》い音がしたのだった。