何の音だろう?
奈々子は、食べかけていた手を休めて、階下から聞こえて来る音に耳を傾けた。
どう考えても、それは「友好的な音」とは言い難かった。——ドシン、バタン、バリン、と続いて、やがて静かになる。
見張りの二人が、えらく怖い顔で出て行ったのを、奈々子は見ていたので、どうもただごとじゃない、と気付いていた。
車の音がしたから、誰かがやって来たことは間違いない。——誰が? 何の用事でやって来たのだろう?
ゴトッ、ゴトッ、と足音がして、何人かが階段を上って来る。
美貴やルミ子たちが、ここを捜し当てて、助けに来てくれたというのなら、奈々子も大喜びするところだが、そうは思えない。
奈々子は、立ち上った——。
そして……。ドアが開く。
「ここだな」
と、日本語が聞こえて来た。「どこに行った?」
「あいつらが、どこかへ隠したのかも……」
もう一人も日本人である。
「いや、そんな時間はなかったはずだ。——捜してみろ」
誰だろう?
奈々子は、声だけを聞いていた。ベッドの下へ隠れていたのである。
あんまり気のきいた隠れ場所とは思えないが、何しろ時間がなかったのだから、仕方ない。——向うがうまく引っかかってくれるといいが。
一人の方の声は、何となく聞いたことがあるような気もする。もちろん、断言はできないのだが。
バスルームのドアを開ける音がした。
「——おい、窓が開いてる!」
「何だと?」
二人がバスルームへ入って行く。
その間に、奈々子は、ベッドの下から這《は》い出した。
「こんな狭い所から出られるかな」
「やってできないことはないだろう」
と、二人が話しているのが聞こえて来る。
あの二人だけ、ってことはないだろう、と奈々子は見ていた。たぶん他にも誰か連れて来ている。
奈々子は、部屋を出ようとしたが、階段をまた上って来る足音。——まずい!
どうにもならなくて、奈々子は、内側へと開いたドアの陰、壁との間に、入り込んだ。これじゃ、見付かっても仕方ない。
「——外へ出ても、遠くへは行ってないだろう」
と、一人が言った。
これは、かなり若い男の声だ。もう一人、何となく聞き憶《おぼ》えのある声の方は、もう少し中年に近い印象だった。
「そうだ。そこの戸《と》棚《だな》の中を覗《のぞ》いてみろ」
と、若い方が言った。
「——いないな。ベッドの下は?」
「うん。——いない。そうなると、やはり外へ出たのか」
「どうする?」
二人が、少し考え込んでいる様子。そこへ、新たに上って来た一人が、ドイツ語で話しかけた。
若い方が、ドイツ語で返事をすると、もう一人を、
「行こう。神原の奴が来るとまずい」
と、促した。
「女はどうする?」
「必ずホテルへ連絡するさ。あの連中を見張ってりゃ、居場所はつかめる」
「なるほど」
二人が出て行って、ドアが閉る。
奈々子はホッとした。——こんなにうまく行くなんて!
しかし、今の二人は誰なのだろう? 奈々子たちのことを、ちゃんと知っている様子だったが。
ともかく、今の話を聞いていても、奈々子を助けるつもりでここへ来たのではないらしいことは分る。奈々子の勝手な想像では、神原と同様、何か良からぬことに係《かかわ》り合っている連中で、神原と敵同士、というところであろう。
神原が来るとまずい、とか言ってたけど、引き上げるのだろうか? そしたら、今の内にここから逃げ出して、町まで行けるだろう。
ドアをそっと細く開けて、一階の様子に耳を傾けていると、何やらドイツ語で言う声がして、ドタドタと足音が……。
ドアが閉り、少しして車の音が、遠ざかって行った。——どうやら、引き上げて行ったらしい。
奈々子は、まだ油断できないぞ、と自分に言い聞かせ、ゆっくりと部屋を出て足音を殺しながら、階段を下りて行った。
そっと、一階の様子を覗《のぞ》いてみると——何とも、ひどいこと。
机や椅《い》子《す》は、引っくり返っているだけでなく、二つに割れたり、足が折れたり、めちゃくちゃである。
よくやったわね、こんなに……。
奈々子は、呆《あき》れて首を振った。そして——そう言えば、あの二人の大男。どこへ行ったんだろう?
逃げたのかしら。——まあ、お金のため、とはいえ、命をかけてまで、人質を奪《うば》われないように頑張るほどのこともあるまい。
「それが普通の人間ってもんよね」
と、奈々子は一人で納《なつ》得《とく》している。
さて——これからどうしよう?
外へ出ても、辺《あた》りはもう暗くなっている。一旦外へ出て、朝までどこかに隠れているか……。
「ウーン」
何だ、今の?
奈々子は、キョロキョロ見回した。しかし何も見えない。
空耳かね……。奈々子は外へ出ようとした。
「ウーン……」
こりゃどうも、空耳ではないらしい。
しかも——どうやら頭の上の方から、聞こえて来る。
で、当然のことながら、奈々子は頭上を見上げた。
「キャーッ!」
と、悲鳴を上げたのは、奈々子だった。
あの二人の大男——見張りをしていた男たちが、天井のはりから、ぶら下っていたのである。
奈々子、その場にドスン、と尻《しり》もちをついてしまった。——こんなにびっくりしたのは、あの〈南十字星〉が爆弾で吹っ飛んで以来だ。
心臓が、飛び出しそう!——びっくりさせるな!
だけど……。その二人だって、好きで奈々子をびっくりさせたわけではなかった。
二人とも、縄で縛られ、はりから吊《つ》り下げられている。頭を何かで殴《なぐ》られたのだろう。血が顔を伝って落ちていた。
「ひどいことして……」
と、奈々子は、思わず呟《つぶや》いた。
驚きからさめると、奈々子は、さっき、あの二人が、わざわざ日本語の練習までして、謝りに来たことを思い出し、とてもこのまま放ってはおけない、という気になった。
こんなの、放っといて早く逃げりゃいい、とも思うのだが、そこは持って生れた性格というやつである。
まず、何とかあの二人を下ろさなくてはならない。しかし、はりまでは高くて、とても上れないのである。
「何かないかしら……。何でもいいけど——何でもよくない」
自分でもわけの分らないことを呟きながら、奈々子は、手当り次第、ドアや引出しを開けてみた。
ナイフがあった!——ナイフといっても、鉛筆を削るのにはあまり役に立ちそうもないが、包丁の代りにはなるかもしれない。
それくらい大きくて、重い。
「はしご。はしごか何かない?」
キョロキョロしていると、上から何やら声がふって来た。
一人の男——奈々子を放り投げた方だ——が、気が付いた様子で、何やら喚《わめ》いている。
奈々子は、ドイツ語など分らない。しかし、この場合は、おそらく、
「おろしてくれ!」
と言っているのに違いない。
切羽詰れば、言葉は分らなくても、気持は通じるものだ、と奈々子は思った。これは、あまりに特殊な場合かもしれないけれど……。
奈々子が、
「分ったから! はしごは? はしごはどこ?」
と、怒《ど》鳴《な》って、はしごを上る手つきをすると、幸い通じたらしい。
「バック! バック!」
たぶん、英語の方がまだ分ると思ったのだろう。
バック? 後ろ?——そんなもんないわよ。
「アウト! アウト!」
野球やってんじゃないわよ。——アウト。
外か! この家の外だ。
「オーケー、オーケー」
と、手を上げて見せ、奈々子は、家から外へ出た。
外の、「バック」。——つまり、きっと裏手の方だ。
しかし、あいつも英語力、相当低いわね、と、奈々子は変なところで安心しているのだった……。
電話が鳴った。
「何だか、電話の鳴り方も、ヨーロッパはのんびりしてるわね」
と、ルミ子は言って、受話器を取った。
ここは美貴の部屋。——奈々子が消えてしまったので、ルミ子が、美貴と一緒にいるのである。
「ヤア」
と、ルミ子は言った。「——え? もしもし?」
「何だ、ルミ子か。何してるんだい?」
「——野田さん?」
と、ルミ子は言った。「どこからかけてるの?」
「ホテルのロビー」
「このホテル?」
「そりゃ、東京のホテルからかけても、しょうがないだろ」
と、野田は笑って言った。
「びっくりした! いつ着いたのよ?」
「たった今。部屋を頼んでるところさ」
「待ってね! 今、お姉さん、入浴中なの」
「いいよ。一旦こっちも部屋へ入ってから、出直す。そっちへ行っていいかな」
「待って。——お姉さん、長風呂だからね。じゃ、バーで待ち合せってのは?」
「三十分後?」
「OK。——ね、野田さん、一人?」
「もちろんさ」
「私、一人じゃないのよ、断っとくけど」
と、ルミ子は言った。
電話を切って、少しすると、美貴がお風呂から出て来た。
「——ああ、いいお湯だった」
と、ほてった顔で、ホテルのマークの入ったバスローブを着て、「でも、申し訳ないわ、奈々子さんが私の代りにどんなひどい目に——」
「そればっかり言ってる。こうなっちゃったからには仕方ないわよ。——あのペーターって人もついてるし、野田さんもいるし」
「野田さん? 日本で、何かしてくれるわけ?」
「このホテルに、今、着いたって」
美貴は、唖《あ》然《ぜん》としてルミ子を見ていた。
「——野田さんが?」
「うん。三十分したら、バーで会うことにしてるの」
「そう……」
と、美貴は呟《つぶや》いた。「分ったわ」
「お姉さんは、あんまり出ない方がいいよ、夜は」
「そうね。じゃ、明日の朝食の時にでも会うわ」
「そう言っとく。——パッとシャワーを浴びて来るかな」
ルミ子が、服を脱いでバスルームへ入って行くと、美貴は、しばらく何やら考え込んでいる様子だったが——。
バスルームから、シャワーの音が聞こえて来る。
美貴は、ベッドに腰をおろすと、受話器を取り、フロントへかけて、野田の部屋のルームナンバーを訊《き》いた……。