「どう? 痛む?」
と、奈々子は男の額の傷を、水で濡《ぬ》らしたタオルで拭《ふ》いてやりながら訊いた。
男は、返事もしない。
「ね、ワインでも飲む? 少し元気が出るかもよ。——ねえ」
奈々子が話しかけても、一向にだめ。
男は、ぼんやりと、床に座り込んでいるばかりである。
もう一人の男が、床に横たわっていた。
死んでいるのだ。——先に下ろしてやった男と奈々子が二人がかりで、この男を下ろしたのだが……。
もう、すっかり心臓が止ってしまっていたのである。
見たところ、ひどい出血とかはないので、たぶん、殴《なぐ》られたのと、ぶら下げられたショックで例の心臓がやられてしまったのだろう、と奈々子は思った。
「可哀そうにねえ。——ま、色々、乱暴もされたけど、根は悪い奴《やつ》じゃなかったみたいだし」
と、奈々子は言った。「アーメン」
日本語は分らないだろうが、「アーメン」という言葉は分ったと見えて、じっと仲間の死体を見つめていた男は、奈々子の方を向いた。
その目に、涙が一杯に浮んでいる。——まあ、誘《ゆう》拐《かい》されている身としては、そうのんびりしちゃいられないはずだが、奈々子も、つい、もらい泣き、というわけで、目《め》頭《がしら》が熱くなって来た……。
「ダンケ」
と、男が言った。「ダンケシェーン」
男が、その大きくて、ごっつい手で、奈々子の手を取ると、その甲にキスした。
「あんたも、なかなかいい人ね」
と、奈々子は言った。「名前は?——ネーム?」
「リヒャルト」
「ああ、リヒャルトね。分るわ。私は——奈々子」
ま、この男なら、「美貴」だろうと「奈々子」だろうと関係ない、と思った。
「——ともかく、私、行くわ」
と、奈々子は立ち上った。「大分手間取っちゃった。それじゃ、リヒャルト、アウフビーダーゼン」
やっと憶《おぼ》えた「さよなら」を使ってみたのだが、残念ながら、さよならするわけにはいかなかった。
リヒャルトと名乗ったその男が、パッと立ち上った。そして、奈々子を止める。
「どうしたの?」
と、奈々子は訊《き》いたが……。
返事を訊く前に、分っていた。——車の音だ。
車が近付いて来る。
リヒャルトが、奈々子の手をつかんで、部屋の奥のドアへと引張って行った。
「ちょっと! どこへ行くのよ!」
と、奈々子は言ったが、もちろん、通じやしないのである。
引張って行かれたのは、台所。——台所といっても結構広い。しかし、外へ出る窓もないのだ。
「どうすんの、こんな所で?」
「ヤア」
と、リヒャルトが、かがみ込んで、床に敷いてあった布をめくると、床に、四角く、蓋《ふた》が切ってある。
「何かしまっとく所?」
蓋が開くと——中へ下りて行く、急な階段がある。
「ここへ? 下りるの?」
問答無用。押し込まれてしまった。
「——分ったわよ。危いじゃない! 押さないでよ」
階段を下りて、奈々子は、目をみはった。そこから、また道がある。
リヒャルトが、続いて下りながら、蓋を閉めた。真暗になったが、すぐにリヒャルトの手にした懐中電灯の明りが、奈々子の前を照らした。
——どこへつながっているんだろう?
ともかく、こうなったら、行くしかない。
諦《あきら》めて、奈々子は、この奇妙なトンネルの中を、歩き出した。
道はくねくねと曲り、しかも、下り坂である。——よく、こんなに掘ったもんね、と感心する。
かなり古くからあるトンネルらしい。下りが急なところは、ちゃんと石を敷いて、滑《すべ》らないようにしてある。
「あら」
途中、広い場所へ出た。
荷物置場? こんな所に……。
ちょっとした教会ぐらいの広さがある場所で、そこに、木の箱が、いくつも積んであった。
もちろん、訊《き》かなかったが、これは、たぶん密輸品なのだろう。懐中電灯の光の中に、箱が何十も数えられる。
そのまま促されて、その場所を抜け、さらに細い下りのトンネル。
どうやら、奈々子にも見当がついて来た。
少し歩いて行くと、ひやっとする風が、下から吹いて来る。
パシャ、パシャ、と水の音が聞こえて来た。
——やっと着いた!
そこは、船着場だった。——といっても、大して大きくはない。洞《どう》窟《くつ》は、たぶん人工の物だろうが、うまく自然にできたもののように作られている。
ボートがつないであり、それが波に揺れていた。
洞窟の出入口は、表からは見えないようになっているらしい。
「——これに乗るの?」
奈々子も、あまりためらわなかった。
ここまで来たら、何をやっても同じ。もう開き直っている。
「——足下、照らしてよ。——ワッ!」
危うく、水へ落っこちるところだったが、何とかボートに乗った。リヒャルトが、ロープを解いて、自分もボートに乗る。
体重の差で、奈々子の座った方はぐいと持ち上ってしまった。
リヒャルトが、オールを操り、ボートをこぎ始めた。
岩が重なり合った間を、くぐり抜けて——ボートは、湖へ出ていた。
一度に目の前が広くなったので、奈々子は思わず息を止めるほどびっくりした。
しかし、湖は静かで、夜の中、ひっそりと波打っているばかり。
——恋人と二人でボートに乗ってるのなら、ロマンチックなのにね、と奈々子は思った……。
「——すると、美貴さんの代りに、あの子が誘《ゆう》拐《かい》されたのか」
と、野田は肯《うなず》いた。「なるほど、それで分ったよ」
「今のところ、はっきりとした手がかりはつかめてないの」
と、ルミ子は言った。
ホテルのバー。落ちついた造りで、英国風の雰《ふん》囲《い》気《き》のバーである。
ルミ子はハンスを連れて来ていた。
「君にこんなボーイフレンドがいたとはね」
と、野田が苦笑した。
「がっかりした? 悪いわね」
と、ルミ子はからかうように言った。「ね、お父さんには内緒よ」
「分ったよ」
野田は、ウイスキーのグラスを、少し揺らしながら、「その誘拐が、三枝の行方不明と関係あるとしたら……」
「当然、あると思うわよ」
と、ルミ子は言った。
「犯人は、その内、気付くぞ、人違いに」
「そこなのよ。心配なの。——人違いと分って、無事に奈々子さんが戻るかどうか」
「微妙なところだね。こっちの密輸グループなんて、人殺しなんか平気だ」
「奈々子さんにもしものことがあったら、って、お姉さん、心配してるわ」
「うん、分るよ。もちろん、うまく持っていけば、三枝のことも何か……」
と、言いかけて、野田は言葉を切った。
「——美貴さん」
ルミ子は、びっくりして振り向いた。美貴が、バーへ入って来たのだ。
「どうしたの、お姉さん? あんまり出て来ちゃまずいよ」
とルミ子が言うのを無視して、
「野田さん。何しに来たの?」
と、突っかかるような口調で言った。
「僕は、君のお父さんに頼まれて——」
「嘘《うそ》よ!」
と、甲《かん》高《だか》い声を出した。
バーの中の客が、みんな話をやめて、見ている。
「お姉さん、部屋へ——」
と、ルミ子が腕を取ろうとするのを、振り切って、
「あなたが来ると、誰かが姿を消すのよ!」
と、美貴は、野田に食ってかかるように身をのり出した。
「落ちついて。——ね、美貴さん」
と、野田はなだめようとしたが、
「今度は私も消そうっていうのね? そうはいかないわよ!」
「美貴さん——」
美貴が、ルミ子の飲んでいたアップルジュースのグラスをつかむと、パッと野田の顔へひっかけた。
「お姉さん!」
「私に近付かないで! 分ったわね!」
と、叫ぶように言って、美貴はバーを飛び出して行った。
顔をハンカチで拭《ふ》くと、野田は、ゆっくりと首を振った。
「どうやら、かなり頭へ来てるね」
「そうね……」
ルミ子も、ただ唖《あ》然《ぜん》としているばかりだったのである……。