どんな所でも、パッと眠れるというのが、奈々子の特技の一つである。
しかし、それはやはりベッドの上とか、布《ふ》団《とん》の中での話で……。
いくら奈々子だって、湖面に揺れるボートの中じゃ、眠れるわけがない。しかも、例の見張りの大男を殺した連中が、あるいは奈々子を誘《ゆう》拐《かい》した神原の一味が、いつ追いかけて来るかもしれないのだ。
岸につながれたボートの中で、毛布にくるまって、奈々子は目を閉じていたが、何しろヨーロッパでは春といっても、ずいぶん寒い。
特に、夜や朝早くなどは、夏だって寒いくらいなのだから、とてもグーグー眠ってなんかいられない……。
グー……。
朝もやが、湖面にヴェールのように漂っていた。鳥の声が、まるで舞台の効果音みたいに鮮《あざ》やかに静寂を破る。
スー……。
どうやら、奈々子の神経というのも、相当丈夫にできているらしい。——完全に眠ってしまっている。
しかし——朝もやの中から男が一人、ボートの方へ、岩を渡って近付いて来る。そしてボートの傍《そば》へ来ると、奈々子がぐっすり寝込んでいるのを見て、上衣を脱いだ……。
奈々子は、上衣をかけてもらって、少し身動きして……。目を開いた。
「あら、何だ」
と、目をパチクリさせて、「リヒャルト。——グーテンモルゲン」
奈々子の日本風のドイツ語(?)が通じたのか、リヒャルトはちょっと笑った。
「あーあ」
奈々子は、ボートの中に起き上った。「グラグラ揺れるし、寒いし、とっても寝られたもんじゃないわね」
よく言うもんである。
雨に降られた犬みたいにブルブルッと頭を振ると、大欠伸《 あ く び》。
もしリヒャルトが奈々子の寝姿に、欲望を刺激されたとしても、この欠伸で一度にその気を失くしただろう。
「ウワーア」
と、長い欠伸の後、グーッとお腹が鳴ったのである。
これだけは、万国共通と見えて、
「カム」
と、リヒャルトが促して奈々子を立たせ、手を取って、ボートから岩の上に上げてやった。
「お腹空いたね。——ハングリー。分る? あんたもでしょ」
「ヤアヤア」
リヒャルトは、ポンと奈々子の肩を叩《たた》いた。
背の高い木立ちの間を抜けて行くと——そこには〈すかいらーく〉があった……なんてわけはないが、ともかくポツンと建っているのは、何だか絵本の中にでも出て来そうな、小さな教会。
「あそこへ行くの?」
と、奈々子は訊いた。「最近は教会も、モーニングサービスがあるの?」
奈々子たちは、教会の前に来て、息をついた。
——匂《にお》いがする! 何かこう……シチューか何かみたいな。
刺激された奈々子は、とたんにまた、お腹がグーッと鳴って、咳《せき》払《ばら》いをした。
すると、教会の扉が開いて、白髪の神父さんが、ニコニコしながら出て来た。どうやら、リヒャルトが、先に来て、話をしておいてくれたらしい。
すぐに、奈々子たちは中に入れてもらえた。そして——と、もったいぶるほどのこともない。
もったいぶっている間に、もう奈々子はシチューを食べ終えていたのだった。
一方、ルミ子たちも、ホテルで朝食をとっていた。
もちろん、時間的には、奈々子より少し後のことになる。
「——お姉さん、どうしたかな」
と、ルミ子が言った。
「うん……。まあ、そっとしておいた方がいいよ」
と言ったのは、野田である。
当然、ハンスも一緒だったのだが、何しろ美貴は、ゆうべ野田にジュースをぶっかけている。そして、ルミ子が部屋へ戻《もど》ると、もう毛布を頭からかぶって、寝てしまっていたのである。
で、ルミ子も、今朝、無理に起こさなかったのだった。
「でも、野田さん」
と、ルミ子がコーヒーを飲みながら、言った。
「何だい? どうして美貴さんが、あんなことを言ったか、っていうのか?」
「そんなとこ」
「僕にも見当がつかないよ」
と、野田は首を振った。「ともかく、美貴さんは神経が参ってるんだ。そうとしか思えないね」
「だけど……。妙だわ。野田さん、何か姉さんに恨まれるようなこと、したんじゃないの?」
「おいおい」
と、野田は苦笑して、「僕はわざわざ会社を休んで、君らを手伝いに来たんだぜ」
「分ってるわよ。でも、お姉さんの方で、何か思い込んでいるのは確かじゃない?」
と、ルミ子が言うと、ハンスが、
「グーテンモルゲン」
と、挨《あい》拶《さつ》した。
ルミ子は振り向いて、美貴がやって来たのを見た。
「おはよう」
美貴は、意外にさっぱりとした声を出して、
「野田さん」
「どうも」
「ゆうべはごめんなさい。私、苛《いら》々《いら》していたの。勘弁してね」
と、ニッコリ笑う。
「——気にしてないさ」
と、野田は笑って、「どうせかけるのなら、ワインにしてほしかったけどね」
美貴は、ちょっと声を上げて笑った。
「私もコンチネンタルの朝食にするわ」
「うん……」
ルミ子は、ウエイターを呼んで、美貴の分を注文してやった。——それにしても、美人は得だ、とルミ子は改めて感じたのだった……。
美貴は、何だかいやに陽気になっているようで、奈々子のことなんか全然口に出さなかった。
「野田さん、ミュンヘンは来たことあったっけ?」
「通ったことはあるよ。この前の時だって——」
「ああ、そうね。何度もご足労かけちゃって、悪いわね」
「いや、君のためならね。それに友情のためさ」
「でも、ゆっくりミュンヘン見物したことはないんでしょ? じゃ、私が案内してあげるわ」
と、美貴が言い出したので、ルミ子はびっくりした。
「お姉さん、そんなことしてる場合じゃないでしょ」
「どうして?」
「どうして、って……。奈々子さんのことが……」
「ああ、分ってるわよ。忘れてるわけじゃないわ。でも、あなただって、そう心配しても仕方ないって言ったじゃない」
「そりゃ……。そんなようなことも言ったけど」
「じゃ、いいでしょ。ルミ子がいればホテルの方は大丈夫。ね、野田さん。アルテ・ピナコテークに行きましょう」
「新しいディスコかい?」
「まさか」
と、美貴は笑って、「美術館よ。とてもすてきな雰《ふん》囲《い》気《き》の所なの。ね、食事がすんだら、仕度してロビーで待ってて。絵のことなら、私が説明してあげる。ね、いいでしょ?」
その熱心さは、もうほとんど子供のようだった。野田も、
「分った。絵ってのは、ルノアールしか分らないんだけどね。行くよ」
と、肯《うなず》いた。
美貴は、ルミ子も呆《あき》れるくらい、よくしゃべり、笑い、楽しそうにしていた。
「——ごちそうさま」
と、早々に食べ終ると、美貴は席を立った。
「じゃ、野田さん、十五分後に、ロビーでね」
「十五分だね」
美貴は、足早にレストランを出て行く。
「——どうしちゃったんだろ、お姉さんたら?」
ルミ子はポカンとして、それを見送っていた。
「しかし、十五分と言われたら、もう行かないとね。——君はまだいるのかい?」
「ロビーに行ってるわ。もちろん、一緒には行かないけど」
ルミ子はそう言って、野田が行ってしまうと、
「女心は分らない……」
と、女にしては妙なセリフを吐いたのだった……。
ロビーに出て、ルミ子がソファに座っていると、
「ここにいたのか」
と、やって来たのは、ペーターだった。
「あら、おはよう」
と、ルミ子は言った。「何か新しいこと、分った?」
「どうも妙な具合だ」
と、ペーターは心配そうに言った。「あの女性は?」
「美貴姉さん? 今、デートのお仕度中よ」
「何だって?」
ペーターが目を丸くする。——ルミ子が、野田のことを説明すると、
「妙だね」
と、ペーターは考え込んだ。
「ねえ、お姉さんったら、何を考えてるんだろう」
「いや、そうじゃない」
と、ペーターは首を振った。
「そうじゃない、って……?」
「野田って男のことだ。昨日ここへ着いたって?」
「そうよ」
「実は、例の僕の知ってるマフィアの幹部が妙なことを教えてくれたんだ」
「奈々子さんのことで?」
「そう。どうやら、取引きは、流れてしまったらしい」
「じゃ——どうなるの、奈々子さん」
「もし、正体が分ってしまったのだとしたら、流れてもおかしくない」
ルミ子は青くなった。
「ばれちゃったのかしら?」
「そうでないことを祈るがね」
そこへ、美貴が現われた。そして、野田もほとんど同時に姿を見せる。
「お姉さん、大変よ」
ルミ子が、今のペーターの話を伝えると、
「そう」
と、美貴は肯《うなず》いた。
「ね、デートはやめて、ホテルに待機していようよ」
「私がホテルにじっとしていると、奈々子さんが助かるの?」
「そうじゃないけど……」
「じゃ、出かけて来るわ。野田さん、行きましょ」
と、さっさと歩き出す。
「お姉さん——」
野田が、あわてて、美貴の後を追いながら、
「途中から電話するよ!」
と、ルミ子に言った。
「——あれが野田?」
と、ペーターが言った。
「そうよ。お姉さん、何考えてるんだろ、全く!」
ルミ子はさじを投げた格《かつ》好《こう》。しかし、ペーターは、
「何かわけがあるのかもしれないね」
と、言った。「あの二人の後を尾《つ》けた方がいいかもしれない。しかし、僕は行く所があるんだ」
「私、尾行する?」
「いや、君は部屋にいた方がいい」
「じゃ、どうするの?」
と、ルミ子が言うと、
「——何だ、もう朝飯はすんだのか?」
欠伸《 あ く び》しながら、やって来たのは、森田だった。ルミ子とペーターは顔を見合わせて、
「仕方ないだろうね」
「仕方ないわね」
と、意見は一致した。「——ちょっと!」
「何だ?」
「仕事よ。今出てった姉さんたちの後を尾けて! 早くしないと、また見失うわよ」
「おい。俺はまだ朝飯を……」
文句を言う森田を、ルミ子はほとんど突き飛ばすようにして、ホテルから「出発」させたのだった……。