「——なるほど」
ペーターは、野田について、詳しい話をルミ子から聞くと、「じゃ、お姉さんが、ゆうべ、そんな騒ぎを起こしたのは……」
「分らないけど、お姉さん、三枝さんが消えたのも、野田さんのせい、みたいなこと、言ってたわ」
二人はラウンジに座っていた。ペーターはコーヒーを一杯飲むため、ルミ子は、森田がもし、迷子になって戻って来たら、叩《たた》き出す(!)ためだった……。
「その野田って男が怪しい、って理由はあるのかな?」
「そんなことないわ! 確かに、三枝さんと二人で、お姉さんをめぐって争ってたけれど……」
「なるほど。——しかし、そんなことをする男じゃない、と」
「もちろんよ」
「君は野田のことが好きなようだね」
ルミ子は、不意をつかれて、赤くなってしまった。
「別に……好きったって……」
「僕らヨーロッパ人は恋のベテランさ」
と、ペーターは微《ほほ》笑《え》んだ。「分るんだよ。恋してる人間を見るとね」
「でも……そんな本気じゃないのよ。——本当よ」
「君はいい子だ」
と、ペーターは肯《うなず》いた。「奈々子さんもすてきだがね」
「そんなことより——」
「なぜ取引きが流れたか、今、当ってる。もちろん、奈々子さんが、別人だったとばれてしまった、という可能性が一番高いがね」
「どうなるかしら、奈々子さん?」
「そうだね。当然誘《ゆう》拐《かい》した人間の顔も見ているだろうし……。危いかもしれない。極めて危いだろうね。ただ——」
「何か?」
「いや——あの女《ひと》は、妙に運の強い人だ。しかも、当人は運が悪いと思ってる。こういう人は、結構大丈夫なものでね」
ペーターの言葉に、何となくルミ子は、納《なつ》得《とく》して肯いたのだった。
「ハクション!」
と、奈々子はクシャミをした。「——ハクション!」
あのリヒャルトという男が、奈々子の顔を覗《のぞ》き込むようにして、何か言った。
たぶん、「大丈夫か?」と言ったのだろう。奈々子は、
「オーケー、オーケー」
と、手を振って見せた。「誰かが噂《うわさ》してんのよ、きっと」
「ウワサ……?」
「いいの。——気にしないで」
奈々子も、大分元気になっている。何といっても、お腹が一杯!
神父さんは、ニコニコして、あったかいシチューの後に、ワインもごちそうしてくれたのである。
「さて、と……。これからどうするか」
残念ながらここには電話はなかった。
リヒャルトが、奈々子を指して、
「ホテル。ホテル」
と、くり返した。
「ホテルへ送ってくれるの?」
まさか、ホテルへ二人で入ろう、と誘ってるわけじゃあるまい。しかし——奈々子は、あのもう一人の死んだ男のことが気になった。
この男が、また殺されちまったら、やっぱり、後味が悪い。
「テレフォン。——分る? テレフォン。——ね? ホテルへ電話したら、誰かが迎えに来てくれるわ」
「テレフォン、ヤア!」
リヒャルトは何度も肯《うなず》いた。
何となく、こうして心が通じるってのは、いいもんだ、と奈々子は、こんな時に、呑《のん》気《き》なことを考えていた。
「——ごちそうさま」
と、奈々子は、人の良さそうな神父に、お礼を言って、リヒャルトと二人で外へ出た。
陽も大分高くなって、暖かい。
「ハイキングでもしたい気分ね」
と、奈々子は言った。
少し遠くに、小さな町が見えた。——あそこへ行けば、電話がかけられる。
リヒャルトと奈々子は、足を早めた。
ブルル……。エンジンの音が聞こえた。
振り向いた奈々子は、車が一台、走って来るのを見た。リヒャルトが、サッと青ざめる。
「何かしら?——キャッ!」
奈々子が悲鳴を上げたのは、リヒャルトがヒョイと奈々子をかついで、駆け出したからである。
「ちょっと!——危いわよ!」
と、抗議しても、とても聞こえやしなかったろう。
車が、ぐんぐんと迫って来る。リヒャルトは、向きを変えて、斜面を下り始めた。
町の方とは逆になるが、確かに、今は仕方ない。車が停《とま》り、男たちが、バラバラと降りて来た。
バン、バンと弾《はじ》けるような音。——銃声だ!
「危いわ! 伏せて!」
と、叫んだが、もちろん、聞こえやしなかった。
斜面を下って行くと、黒々とした森が広がっている。リヒャルトは、何とかその中へ逃げ込みたいらしい。
「下ろして! 私も走るわよ!」
と、奈々子は主張したが、聞いてもらえなかった。
追いかけて来る男たちの怒《ど》鳴《な》る声。そしてまた銃声が何度か響いた。
しかし——何とかリヒャルトは、森の中へ駆け込んだ。
何しろ深いというか、太い木が、昼間も暗いほどの間隔で立っているのだ。この中なら、少なくとも撃たれる心配はない。
リヒャルトは、森の中を右へ左へ、駆け抜けた。
ゴツン、と、奈々子の頭が幹にぶつかり、
「いてっ!」
と、悲鳴を上げる。
これで、やっとリヒャルトも、奈々子を下ろしてくれた。
リヒャルトに手を引かれ、
「おお、いてえ……」
と、頭をさすりつつ、奈々子は森の中を、小走りに進んで行った。
もちろん、追いかけて来てはいるのだろうが、この中で見付けるのは、楽じゃあるまい。
リヒャルトが、足を止めた。
奈々子も、足を止め、息を弾《はず》ませつつ、耳を澄ますと……。
男たちの声が、段々、遠ざかって行く。
「うまく、まいたみたいね」
と、奈々子は言った。「でも、あんた、大丈夫なの? こんなことして、ボスににらまれて——」
急にリヒャルトが、呻《うめ》いて、膝《ひざ》をついた。
「どうしたの!」
奈々子がびっくりして覗《のぞ》き込むと……。
血が——リヒャルトの脇《わき》腹《ばら》から出ている。
「撃たれたの? どうして黙って……」
リヒャルトは、ドサッと地面に腰をおろすと、奈々子を見て、
「テレフォン……」
と、言った。
「分った。でもね、あんたのけがの手当てをしなきゃ……」
でも、どうしたらいいだろう?
ドイツの深い森の中で、奈々子は、途方にくれてしまっていた……。