「畜生!」
と、言ったのは、森田だった。「何で、こんなに沢山、絵ばっかりあるんだ!」
そりゃ当然のことだ。何しろ、森田は美術館の中を歩いていたのだから。
ヨーロッパの美術館のスケールというのは、日本のデパートで「ルノアール展」なんてのを見て、
「これが美術展ってもんか」
などと思っている人間には、とても想像がつかないほど巨大なものである。
このミュンヘンのアルテ・ピナコテークも、ドイツ有数の美術館というだけあって、その規模たるや、目をみはるほどのものである。
また、美術館というのは不思議なところであって、絵の好きな人は、いくら歩いても(といっても限度はあるが)そう疲れないが、絵に関しては、
「いくらするのか」
という関心しか持てない手合にとっては、無限の砂漠を歩いているように、疲れる場所なのである。
森田の場合、どっちかというと——いや、はっきり、後者で、しかも朝食抜きで、ルミ子に叩《たた》き出されるようにしてホテルを出て来たのだから、グロッキーになるのも、当然であった。
今のところ、野田と美貴の二人を尾行していられるのが、奇跡と言っても良かったのである。
だが——森田の忍耐力も、ほぼ限界に達しつつあった。
野田と美貴は、一つの部屋へ入ると、そこに置かれたソファに腰をおろし、低い声で何やら話し始めたのである。
森田はよろけた。——あいつらは、朝飯もたっぷり食って、しかもソファに座ってる! ところが俺《おれ》は、飲まず食わずで、座る所もないと来てる! こんな不平等があっていいのか?
神の前に人間は平等だ!
突如として、真理にめざめた森田は意を決すると、一階まで駆け下りることにした。入口のわきにカフェがあって、コーヒーの匂《にお》いが漂っていたのを、ちゃんと鼻が憶《おぼ》えていたのである。
他の客が顔をしかめて見るのも構わず、森田は、ドタドタと足音をたてながら一階へ下りた。
カフェ!——ここだ!
中へ入った森田は、ドイツ語が分らないことなど、まるで気にならなかった。
「コーヒーとサンドイッチ!」
と、堂々と(?)日本語で注文したのである。
日本人観光客も多いので、店の女性の方も慣れているのか、
「ヤア」
と、コーヒーとサンドイッチをよこした。
「やった!」
と、森田は感動に身を震わせた。「人間の真心は、通じるもんだ!」
すると、その女性が言った。
「あんた、ちゃんとお金払ってよ」
森田は、危うく引っくり返るところであった……。
——何とか支払いも無事にすまし、森田は空いた椅《い》子《す》に座って、食べ始めた。
「ちょっと」
と、日本語をしゃべる女性が、言った。「ミルクとお砂糖は——」
その先は、言う必要もなかった。その時には、森田の目の前から、サンドイッチとコーヒーは消え去って、既にお腹の中へ移動していたのである……。
「ダンケ」
と、森田は、大分ご機嫌も良くなり、唯《ゆい》一《いつ》の知っているドイツ語を使ったりした。「日本語、うまいな」
「亭主が日本人だったのよ」
と、その女性が言った。「あんた、三日前から食べてなかったの?」
「いや、昨日からだ」
と、馬鹿正直に言った。「コーヒー、もう一杯くれ」
「タダよ。サービスしてあげる」
「悪いな」
「あんた、どことなく、死んだ亭主と似てるからね」
と、その女性は、ニヤッと笑って、「今夜、暇なの?」
森田は肩をすくめて、二杯目のコーヒーをガブ飲みすると、
「仕事があるんだ。——じゃあな」
「頑《がん》張《ば》って」
森田は、あわててカフェから飛び出した。——何しろ、その女性、どう見ても百キロ以上の体重があったからである。
「やれやれ……」
さっきは、腹が空いて、めまいがした階段を、トコトコ上って、森田は、もとの場所までやって来た。
「——いかん」
美貴と、野田の二人は、もう姿が見えなくなっていたのだ。
なに、この中をずっと矢印通りに歩きゃ、必ず追いつく。——そうだとも。
森田は、傑作の数々には目もくれず、次の部屋、またその次、と通り抜けて行った。
しかし、どこにも野田たちの姿は……。
すると、何だか聞いたことのある女の笑い声が、階段の方から聞こえて来た。
美貴だ! 下の方から聞こえて来る。
してみると、もう二人はここを出るつもりで階段を下りて行ったらしい。
森田は、あわてて階段の方へと戻《もど》って、また、すれ違う人の眉《まゆ》をひそめさせながら、階段を駆け下りて行った……。
ペーターは、電話が鳴ると、すぐに立って駆け寄った。
ルミ子は、気が気じゃなかった。
姉さんたら、一体何を考えてるのかしら?
あの野田さんのこと、どうしようっていうんだろう。あの人を疑うなんて、どうかしてるわ!
ペーターは、誰かドイツ人と話している様子だ。
もちろん、ルミ子は、奈々子のことも心配していた。もし、奈々子の身に万一のことでもあったら……。
死んでお詫《わ》びをする、ってわけにはいかないけど、でも——やっぱり諦《あきら》めるしかないか……。アーメン。
ルミ子が、結構いい加減な心配の仕方をしていると、ペーターは電話を切って、
「いやはや……」
と、首を振った。
「どうしたの?」
と、ルミ子は訊いた。「奈々子さんのことで、何か?」
「うん。あの人も、凄《すご》いことをやる人だな」
「というと?」
「今、入った情報だと、肝心の人質が逃げ出したらしい、ってことだ」
「じゃ——奈々子さんが?」
ルミ子は飛び上って、「やった!」
「喜んじゃいけない」
「どうして?」
「逃げおおせて、ちゃんとどこか安全な所へ辿《たど》りつけば、まずここへ電話して来ると思わないか?」
「あ、そうか」
「逃げたはいいが、撃たれたとか、崖《がけ》から落ちたとか——」
「そんなこと!」
「最悪の場合は、だよ。まあ何とか無事に逃げのびてくれるといいんだけど……」
と、ペーターはため息をついた。
二人は、美貴の部屋にいた。おそらく、連絡が入るとすればここのはずだからだ。
「——お姉さんたち、どうしたのかしら」
と、ルミ子は言った。「あの探偵、頼りないものね」
「そうだね。しかし——」
と、ペーターが言いかけると、ドアをノックする音。
ルミ子が立って行って、
「どなた?」
と、ドイツ語で訊《き》いた。
「フロントでございます」
ペーターが代って、ドアを開ける。
「——何か用かね?」
「こちらの連れの方でしょうか」
と、フロントの男が出したのは、パスポートだった。
「これ……。見せて」
ルミ子が開くと、「あの森田のだわ」
「これはどこで?」
と、ペーターが訊くと、
「実は——」
と、フロントの男は、ルミ子の方を見て、ためらった。
「何を聞いても、びっくりしないわよ、大丈夫!」
と、ルミ子は言った。「どうせ、また何かやらかしたんでしょ」
「この持主の方は亡くなりました」
と、フロントの男は言った。
ルミ子はポカンとしていたが……。
「今、何て言ったの?」
「亡くなった、って——どういうことなんだ?」
と、ペーターも目を丸くしている。
「アルテ・ピナコテークを出たところで、誰かに殴《なぐ》られ……。ナイフで刺されて、財布などを盗まれたようです」
「まあ」
ルミ子は呆《ぼう》然《ぜん》として、「じゃ——死んじゃったの?」
「何てことだ……。分った。確かに、ここの連れだ」
と、ペーターは言った。
「お気の毒でございます」
と、フロントの男は、ていねいに頭を下げて、「警察の方が、後ほど伺いたい、と——」
「当然だろうね。分った」
「では、ご連絡いたしますので」
と、また一礼して、フロントの男は戻《もど》って行った。
「——信じられない!」
ルミ子は、椅《い》子《す》にドサッと座り込んだ。
「しかし、どうやら間違いないらしいね」
と、ペーターは、パスポートを見直して、「この写真はずいぶん若くとれてるが」
「でも、誰がそんなことを?」
「単なる物《もの》盗《と》りかもしれない。財布を抜いて行っているからね」
「でも——昼間から?」
「そこは妙だね。だが、あの男を殺して何か得をする人間がいるかな」
そう言われると、ルミ子としても、森田が狙《ねら》われるほどの「大物」だったかどうか、首をかしげてしまう。
「——お姉さんたち、まだ戻らないのかしら?」
と、ルミ子は不安になって、立ち上ると、
「私、ロビーへ行って来る」
ドアを勢い良く開けると——。
「あら、出かけるの」
目の前に、美貴が立っていたのだ。
「——お姉さん!」
「楽しかったわよ、美術館も。あなたも、少しああいうものを見なくちゃ。ね、野田さん」
野田も入って来て、
「僕も、面白かったけどね」
と、息をついて、「——くたびれた!」
ソファに身を投げ出すように引っくり返る。
「オーバーね」
と、美貴は笑った。「あら……。どうしたの?」
ペーターとルミ子が、何とも妙な表情をしているのを見て、美貴は、
「何かあったの?」
と、不安そうに言った。「あなたたち——まさか、あやまちを……」
ルミ子とペーターが、引っくり返りそうになったのも、無理のないことではあった……。