奈々子は医者ではない。
もちろん、医学の心得もない。まあ、鼻血が出たらどうするか、とか、すりむいたら、オキシフルで消毒して、キズテープを貼《は》りゃいい、ぐらいのことは分っているが、それを「医学的知識」とは呼べない。
しかし、その奈々子でも、人間、血が出て、いつまでも止らないと、たいてい死ぬもんだということぐらいは分っている。
リヒャルトの脇《わき》腹《ばら》の傷は思いの他深いようで、出血は一向に止らなかった。
「困ったわね……」
奈々子は迷った。
リヒャルトの方は、早く逃げろ、と手ぶりで言っていたのだが、その内、それだけの元気もなくなったらしい。
体が大きいだけに、ぐったりと弱っているのが、哀れである。
私を助けようとして……。本当に、却《かえ》って余計なことをしてくれるじゃないのよ!
奈々子は、仕方なく、立ち上ると、
「待ってて。誰か連れて来るからね」
と、リヒャルトに向って言った。
たぶん聞こえなかっただろうし、聞こえたって、分りゃしないだろう。日本語じゃ。
奈々子は、森の中を見当をつけて、歩いて行った。——まだ、追いかけて来た男たちはどこかその辺にいるはずだ。
「ちょっと!」
と、奈々子は大声で言った。「どこ捜してんのよ! このボンクラ! 方向音《おん》痴《ち》!」
バタバタと足音がした。
二、三人が、奈々子を見付けて、大声で怒《ど》鳴《な》った。
「——早くしなよ、全く」
と、奈々子はブツブツ言っている。
「やあ、そこにいましたな」
と、顔を出したのは、神原という男だった。
「どこに行ってたんです? 捜しましたよ」
と、奈々子は言ってやった。「リヒャルトって人が、あそこで血を流しています。助けてあげて」
「あんな奴は放っときゃいい」
と、神原はムッとした様子で、「あんたを逃がそうとした」
「でも、仲間でしょ」
「ただの金目当ての臨時雇でね。——さ、行きましょう」
神原が出した手を、奈々子は振り払って、
「あの人を助けて。そうでないと、私は戻りません」
と、言い放った。
神原は苦笑して、
「いいですか。あんたをひっかついで行くのは簡単ですよ」
と、低い声で言った。「ここにいる連中は気が短いですからね」
「でも、私をあんまりひどい目にあわせると困るんじゃありません?」
と、奈々子は言った。「主人との取引きの時に、血で血を洗うことになりかねませんよ」
これには神原も少し詰った。
「しかしね、あんなチンピラを……」
「いいわ」
と、奈々子は肯《うなず》いた。「私と取引きしません?」
「奥さんと?」
「ええ。あのリヒャルトという人を、すぐ医者へ運んで手当して下さい」
「で、その通りにしたら?」
「私をあなたの好きなようにして下さい」
神原が目を見開いて、
「な、何です?」
「あなたに抱かれます。おとなしく。逆らったりしませんわ」
「し、しかし……」
神原は、真赤になっている。「あとで、それをご主人に——」
「あざ一つなしで、そんな話をしても、好きで寝たと思われるだけです。私も馬鹿じゃありませんから」
奈々子は、我ながら、よくこんなセリフがスラスラ出て来る、と感心した。
考えてみりゃ、大変な「約束」をしているのだが。
「——本当ですか」
と、神原は、ギラつく目で、奈々子を見ている。
「ええ。信じて下さい。私も、三枝成正の妻ですわ」
まるでヤクザ映画のセリフ。少々気恥ずかしかったが、それでも、堂々と言うと、それなりに、真実味があるらしい。
大体、私のこと、こんな目で見る男もいるんだわ、と奈々子は、変なことに感心していた。
「——いいでしょう」
神原は肯《うなず》いて、「おい!」
ドイツ語で何か怒《ど》鳴《な》った。
奈々子は、リヒャルトが三人がかりで運ばれるのを見てから、
「じゃ、参りましょう」
と、先に立って歩き出した。
——どうにかなるさ。そう、自分へ言い聞かせながら……。
「気の毒にね」
と、美貴は言った。
「あんまり役に立たない人だったけど……」
と、ルミ子が言った。
「確かにそうだが、命は大切だ」
と、ペーターが肯く。
「身よりはあったのかしら」
「一応人間だったんだし、あるんじゃないの?」
ルミ子は、あまり同情的とは言えない調子で言った。
前のメンバーにハンスも加わって、美貴の部屋で、〈森田氏追《つい》悼《とう》会《かい》〉をやっているところだった。
もっとも、目の前にあるのは、森田のパスポートだけ。
「このパスポートの写真。お葬式にいいわね」
と、美貴が言った。「よくとれてるじゃない」
「よすぎない? 別人のかと思って、お焼香に来た人が帰っちゃうわ」
と、ルミ子が言うと、
「ハクション!」
誰かがクシャミをした。
「——誰、今の?」
と、ルミ子が言った。
「ハクション!」
「——廊下だ」
と、ハンスが言った。「誰かいる」
「僕が開ける」
と、ペーターが、立って行き、パッとドアを開けた。
「ハクション!」
と、もう一度クシャミをしたのは——森田当人だった。
「まあ」
と、美貴が言った。「ちょうど、噂《うわさ》してたのよ!」
「お化け!」
と、ルミ子が飛び上った。
「——生きてるぞ!」
と、森田がよろよろと中へ入って来た。
上衣はなくなり、ワイシャツは裂《さ》けている、ズボンも……、一応はいてるが、ともかく、全身ずぶ濡《ぬ》れ。
「カーペットに水が落ちてるよ」
と、ハンスが言った。
「バスルームヘ!」
みんなで森田をバスルームへ押しこめて、ドアを閉めてしまった。
「ああ、びっくりした!」
と、ルミ子が息をつく。
「しかし、運の強い男だ」
と、ペーターが笑う。
たぶん、当人は、笑うどころじゃなかったろう。バスルームの中でも、
「ハクション!」
と、クシャミをしていたからだ。
——十五分ほどして、やっと森田は現われた。
ホテルのバスローブを着て、生き返ったようで、
「何か食わしてくれ!」
と、訴えた。
さすがに、多少同情したルミ子は、ルームサービスを頼んでやった。
「——美術館を出たとたん、物かげに引きずり込まれたんだ」
と、森田は言った。「ポカポカ殴《なぐ》られて……。気が付いたらあの格《かつ》好《こう》で、池の中へ放り込まれたんだ」
「待って」
と、ルミ子が言った。「でも、あなたは殺されたって……」
「たぶん」
と、ペーターが言った。「君を襲った犯人が、東洋系の人間だったんだ。そして君の財布やパスポートを持って、他の誰かに殺された」
「何ですって?」
「だから、却《かえ》って君は命拾いをしたのかもしれないよ」
ペーターに言われて、森田は、ちょっと顔をしかめると、
「こんな目にあって、誰が喜べるか」
と、言った。
珍しく、森田の言葉に、誰もが納《なつ》得《とく》して肯いた。
ルームサービスの食事が来ると、森田は、猛然と食べ始めたのである。