奈々子も子供ではない。
「自分の言ったことには、責任を持たなくてはいけない」
と、説教するほどでもないが(したくても相手がいない)、一応、自分ではそう思っている。
しかし、まあ……。
「私も物好きねえ」
と、奈々子は呟《つぶや》いた。
自分で言ってりゃ世話ないや。——本当に我ながら、いやになってしまう。
あんな奴、放っときゃ良かったんだ。
確かに、リヒャルトは奈々子を逃がしてくれようとした。しかし、もとはと言えば、奈々子を捕えて監禁したのも、リヒャルトなのである。
何も私があんなのに恩を感じる必要なんてないんだわ。——そうよ。
しかし、すでに手遅れだった。
誰かが助けに来るという希望も、なかったのだ。何しろ、今、奈々子は前と違う山荘に連れて来られていたからである。
二階の一部屋に入れられて、ベッドで引っくり返っている、という図は、ちっとも変らない。
何だかんだと大騒ぎして、結局少しも進歩がなかったということになる。
もう夕方……。
夜になれば、あの神原ってのが、よだれをたらしながらやって来る。そして、哀れ、奈々子はその欲望のえじきになるのだ。
「可《か》哀《わい》そうに」
なんて、まるで他《ひ》人《と》事《ごと》のようなことを言っている。
と——足音がして、鍵《かぎ》がカチャリと回る。
起き上ると、当の神原が立っていた。
ちょっと!——待ってよ! まだ早いじゃないの。
奈々子はいささか焦《あせ》った。
「夕食を持って来ましたよ」
と、神原が言ったので、奈々子はホッとした。
取りあえず、今はまだ無《ぶ》事《じ》らしい。
「どうも。——そこへ置いといて下さい」
と、奈々子は言った。
神原は、盆をテーブルにのせると、エヘンと咳《せき》払《ばら》いした。
「風邪ですか?」
と、奈々子は訊いた。「無理しない方がいいですよ」
「至って健康です」
「そうですか」
「——この食事をすませるのに、一時間。その後、お風呂に入られるのに一時間として、二時間後には、私もここへ参ります」
「二時間後……。でも、少し早くありません? まだ外は明るいし……」
「遅くなると、用事がありましてね。——いや、とはおっしゃらないでしょうね」
「ええ。自分で言ったことですから」
「結構。大いに楽しみにしておりますよ」
ヒヒヒ、と下品な笑い方をして、神原は部屋を出ようとする。
「あの——」
「何か?」
「リヒャルトはどうです?」
「何とか命は助かるそうです。ま、丈夫だけが取り柄《え》のような奴ですから」
「取り柄があるだけ、あんたよりまし」
「何です?」
「いえ、こっちの話です」
「では、二時間後に」
と、神原はニヤリと笑い、出て行った。
やれやれ……。二時間後か。
リヒャルトが命を取り止めたのは、嬉しかった。——本当かしら?
でも、一応はあの男の言葉を信用するしかない。
「困ったなあ」
と、呟きつつ、奈々子は、食事の盆の前に座っていた。
二時間後には、どんな運命が自分を待っているのか、知らぬわけではなかったが、それでもちゃんと食事をしようというのが、奈々子の奈々子らしいところである。
かけてあったナプキンを取ると、結構おいしそうなシチュー。
「いい匂《にお》いだ」
こうなったら、せいぜい食べて、体力をつけとこう、と思った。何があっても、まず体力だ。
——正直なところ、奈々子も後悔しているわけではない。自分の性格というものはよく分っているのだし、それは変えようもないことだ。
はた目には、馬鹿げたことかもしれないが、別に他人に迷惑かけるわけじゃないしね……。私が犠牲になりゃすむことなんだわ。
もちろん、神原に何をされるか、奈々子だって子供じゃないから分っている。腕ずもうとか、五目並べとかをやって終る、ってことはないだろう。
神原の手で体中をなで回され(考えただけでも気持悪い!)、そして……。
「——そうだ!」
と、奈々子は、思わず声を上げた。
どうしてこんなことに気が付かなかったんだろう?——困った!
奈々子は、困りながらも、ちゃんとシチューを食べていた。困った、というのは……。
今年二十歳の奈々子であるが、今のところまるで未経験。——しかし、三枝美貴は、れっきとした(?)人妻である。
つまり——神原に抱かれたとして、奈々子が未経験だったと分っちゃったら、奈々子が美貴でないことが知れてしまうのだ。
そんなことまで、考えてもいなかったのである。
「どうしよう?」
奈々子は悩みつつも、パンをちぎって、食べ始めていた。
ルミ子は、ホテルのロビーに下りて来た。
美貴と一緒にずっと部屋にいても、仕方がないと思ったのである。
もうすぐ夜になる。——ルミ子は、気が重かった。
奈々子はどうなったのか? そして姉の美貴は何を考えているのか?
ハンスが、急用で出かけてしまっていることもあって、ルミ子は話相手もなく、一人で悩んでいたのである。
ロビーで、ルミ子は新聞を眺めていた。英語の新聞である。
子供のころから、かなり「国際人教育」を受けて育ったルミ子は、外国の子供たちと、よく遊んだりして、ごく自然に英語、フランス語、ドイツ語になじんで来たのである。
もちろん、ペラペラってわけにはいかないが、むしろ文字で勉強して来た友だちに比べると、テストの点は悪くとも、実用になるのだった。
「三枝……」
ふと、耳にその名前が飛び込んで来て、ルミ子は顔を上げた。
三枝? 三枝って言ったのかしら?
それとも、全然別の言葉が、そう聞こえただけなのか。
ロビーを見回すと……。誰か、ロビーの隅《すみ》の電話で話している人間がいる。
「……ヤア……。サエグサ……」
やっぱり、どう聞いても、「三枝」だ。
ドイツ人らしいが、ドイツ語で、「三枝」と聞き間違えるような言葉を、少なくともルミ子は知らない。
誰だろう?——気付かれないように、ルミ子は、そっとソファを立って、太い柱の陰に身を隠した。
太った金髪の男で、サングラスをかけている。——身なりはそう悪くないし、こんな一流ホテルにも、場違いとは見えない。
電話を切ると、その男は、ホテルの正面玄関の方へと歩き出した。
ルミ子は、一瞬迷った。
何かの手がかりになるかどうか。——しかし、一人であの男を追って行くなんて、とてもじゃないけど……。
でも——。
男は大《おお》股《また》に歩いて行ってしまう。誰かをここへ呼んで来る余裕はなかった。
ルミ子は、思い切って、男の後をついて歩き出した。このホテルの近くだけなら、尾《つ》けて行っても大丈夫だろう。少し外には明るさも残っているし。
ホテルを出ると、男はオペラ座の方へと歩いて行く。何しろ体が大きいから、一歩の歩幅も広い。ルミ子は、ほとんど小走りに、追って行かなくてはならなかった。
男が、足を止める。誰かを待っているかのようだ。
歩道のふちに立って、左右を眺めている。ルミ子は、少し離れた所で足を止め、ちょうどオペラ座のポスターがあったので、それを眺めているふりをした。
何をしてるんだろう?
男は少し苛《いら》々《いら》している様子だった。腕時計を見ては、首を振ったりしている。
すると——車のライトが近付いて来た。
トラックだ。そう大きくもないが、かなり使い古した感じのトラック。
それが男の方へと寄って停《とま》った。
男がドアを開けて乗り込む。すぐにはトラックは出なかった。
中で、何やら大声で言い合っているらしいのが、ルミ子の耳にも聞こえて来る。たぶん、あの男が、遅かった、と文句を言っているのだろう。
ルミ子は、トラックの運転席に誰がいるのか、見えないかと思って、ゆっくりと歩き出した。
トラックのわきを通りながら、さりげなく見る。——日本人らしい顔が、チラッと見えた。
しかし、向うは、例のサングラスの男と言い合っているので、ルミ子に気付いた様子はない。
トラックの後尾まで来て、ルミ子は足を止めた。荷台は空っぽで、幌《ほろ》はついているが、乗ろうと思えば簡単だ。
乗ろうと思えば?
何言ってんのよ! そんな危いこと!
一人でそんなことして、もしものことがあったら……。
ブルル、とエンジンが音をたて、トラックが走り出す。
とっさに、ルミ子はトラックの荷台へと、駆け寄って、ポンと飛びついた。頭から転り込む。びっくりするくらい、うまく行った。
ガタガタと揺れる荷台に起き上った時、ダダッと足音がして、誰かが、またトラックの荷台へ飛び込んで来たのである。
「キャッ!」
と、ルミ子が思わず声を上げる。
「しっ!」
と、起き上ったのは、ペーターだった。
「あ、なあんだ」
「何だ、じゃない」
と、ペーターはルミ子をにらんで、「こんな物騒なことをして!」
もちろん押し殺した声だ。でも、ルミ子はホッとしていた。何といっても、ペーターが一緒なら、安心だ。
「だって、つい、足が動いちゃったんだもん」
と、ルミ子が言うと、ペーターは首を振って、
「全く、君の一行は、まともでない人間ばっかりだ」
と、呟《つぶや》いたのだった……。