「もう十二時すぎだわ」
と、奈々子は言った。
「何も起らないわね」
木立ちの間から、奈々子とルミ子は、この「秘密の滑走路」の様子を、ずっとうかがっていた。
自家用のジェット機は、ずっと滑走路の端に停《とま》ったままだし、格納庫からも誰も出て来なかった。
「どうやら、ルミ子さんが逃げたことも、まだ分ってないようね」
と、奈々子は言った。
「あのペーターの奴! 何とか仕返ししてやりたいわ」
と、ルミ子はまだ怒っている。
「気持は分るけど、今は命を大切にしなきゃ。あなたはちゃんと逃げるのよ、何があっても」
あまり他人に意見できる立場じゃないとは承知の上で、奈々子はそう言った……。
「でも、美貴姉さんがここへやって来たら、どうなるのかしら?」
「さあ……。見たいような、見たくないような、ね」
と、奈々子は正直に言う。「——冷えるわね、夜中は」
「ね、車の音——」
と、ルミ子が言った。
「本当だ」
木立ちの間を、ヘッドライトが動いて来る。こっちへ近付いて来るのだ。車は一台だった。
「もしかしたら、あれが……」
「そうかもしれない。——リヒャルト、用意はいい?」
と、奈々子はすぐ後ろにいるリヒャルトへ声をかけたが……。「——リヒャルト?」
返事がないので、振り向くと、リヒャルトは木の幹にもたれて、じっと目を閉じている。
「眠っちゃだめじゃない! 肝心の時に。リヒャルト!」
奈々子は、リヒャルトの肩を揺さぶった。すると——リヒャルトの大きな体は、ゆっくりと地面に倒れ、動かなくなったのである。
「リヒャルト……。まさか——」
奈々子は、あわてて、リヒャルトの胸に耳を押し当てた。ルミ子も目をみはって、
「どうしたの?」
「——もう心臓が——停《とま》ってる」
何てことだろう! そんなにひどい出血だったのか。
それなのに、私を助けるために、こんな無茶をして……。奈々子は、こみ上げて来る涙を、ギュッと歯をかみしめてこらえた。
「死んじゃったの?」
と、ルミ子が訊《き》く。
「そう。……可《か》哀《わい》そうに!」
奈々子は、リヒャルトの額に、そっとキスしてやった。「あんたのこと、忘れないわよ」
奈々子は、リヒャルトがしっかりと抱いていた機関銃を、もぎ取るようにして、手にすると、立ち上った。
その間に、車は滑走路の近くへと走って行って、停った。格納庫の中から、男たちが出て来る。
「奈々子さん——」
「ルミ子さん。あなたはともかくここを離れて。朝になれば、きっと森からも出られるわ」
「どうするの、奈々子さん?」
「殴《なぐ》り込んでやる!」
「だめよ! 殺されちゃう!」
と、ルミ子は仰天した。
「いいの。ともかく、真実を知らなきゃ、死んでも死に切れない」
「奈々子さん——」
「大丈夫。好きで死にゃしないわよ」
奈々子は、ルミ子の肩を軽く叩《たた》いて、「じゃ、生きてたら、またあのホテルで会いましょうね」
と言うと、頭を低くし、機関銃をかかえて、闇《やみ》の中へと駆け出して行った。
奈々子は、ルミ子たちが隠れたのと同じ、積み上げた箱の陰に駆け込むようにして、身を隠した。——プロの戦士ってわけでもないのに、見付からずにここまで来たのは、幸運と言うべきだったろう。
一つには、男たちが、やって来た車の方に気を取られていたせいでもある。
格納庫から出て来た男たちの先頭に立ってやって来るのは、やはり見間違いではない、三枝成正だった。その少し後ろに、どこかで見たことのある日本人がいる。
車のライトに照らされた、その顔を見ていて、奈々子は、誰だったろう、と首をかしげた。
そしてその次に歩いて来るのは——ペーターだった!
ルミ子の話で、充分にショックを受けていたものの、やはり、奈々子は改めてショックを受けた。ペーターが……。
もちろん、どこの馬の骨かも分らない男だったが、奈々子は直感的にペーターを信じていたのだ。それなのに……。男なんて、信じられない!
つくづく、奈々子は世の無常を思った(?)のだった……。
車のドアが開いた。
降り立ったのは、美貴である。奈々子の目にも、美貴の横顔はやや青ざめて、ゾッとするほど美しく見えた。
三枝が、五、六メートルの所まで来て、足を止めると、ニヤリと笑って、
「やあ、来たね」
と、言った。
「あなた——」
美貴が言った。「生きてたのね」
だが、その言い方には、少しも嬉《うれ》しそうな響きはなかった。むしろ、哀《かな》しげですらあったのだ。
奈々子は、これをどう考えていいのか、分らなかった。
「どうした? 駆け寄って抱きついて来てくれないのかい?」
と、三枝が言って、両手を広げて見せた。
「そうしたいわ」
と、美貴が、ゆっくりと首を振って、「どんなに、そうしたいか、あなたには分らないでしょう」
「なぜ、そうしない?」
美貴は、黙っていた。——三枝が、ちょっと笑って、
「君も知ってたはずじゃないか。僕の本業を」
「ええ。だけど、あなたはあの女の人を殺したじゃないの!」
「若村麻衣子のことか? どうってことじゃないさ、あんな女の一人」
「あなたにとってはね」
と、美貴は肯《うなず》いて、「あなたが、密輸業者同士の争いで、いくら人を殺そうと、私は目をつぶっていられるかもしれない。でも、あの人は、あなたの子供を宿してたのよ」
「野田の奴《やつ》が、あいつを連れて追いかけて来るなんて、余計なことをしなけりゃ、殺さずにすんだんだ」
「言いわけにならない。——あなたが姿を消して、私は、本当に心配だった。でも、若村麻衣子の死体が上った時、私はもっともっと——悲しかったわ。いっそ、河に上ったのが、あなたの死体だったら良かった、と……」
「とんだ女房だな」
と、三枝は苦笑して、「何もかも、すんだことじゃないか。さあ、この飛行機で、地中海の隠れ家へ飛ぼう。二人のハネムーンのやり直しといこうじゃないか」
三枝が、美貴の方へ歩み寄る。すると、突然、美貴がバッグへ手を入れ、小さな拳《けん》銃《じゆう》を取り出したのだ。
バアン、と銃声がして、三枝は、左腕を押えて、よろけた。
「美貴……」
「死んで。本当に死んで。私も死ぬから!」
美貴の叫び声は悲痛だった。
奈々子は、美貴の背後に、銃を持った男が迫るのを見た。——放っちゃおけない!
「ワーッ!」
と大声を出して、奈々子は飛び出すと、機関銃の引金を引いた。
ダダダ、と凄《すご》い勢いで銃声が飛びはねて、男たちがワーッと散って、伏せた。
「美貴さん! 早く逃げるのよ!」
と、奈々子は叫んだ。
「奈々子さん!」
「早く車に乗って! 逃げなきゃ——」
その時、銃声がして、奈々子は左腕に焼けつくような痛みを感じた。思わず、膝《ひざ》をつく。美貴が駆け寄って来た。
「早く逃げて! 私のことはいいから!」
と、奈々子は言ったが……。
やはり、無茶だったようだ。二人は、すっかり取り囲まれていたのである。
「全く、呆《あき》れた奴だな」
と、奈々子の方へやって来たのは、三枝のすぐ後ろにいた日本人。
奈々子の腕を撃ったのは、この男である。——奈々子は、ハッとした。
「あんた……アンカレッジで話しかけて来た人ね!」
「おや、よく憶《おぼ》えててくれたね」
あの時は、老《ふ》けた変装をしていたが、今見ると、せいぜい四十前後。しかし、声を聞いて、奈々子もピンと来たのである。
「あんたが、日本で……」
「そう。君のお店を爆破したり、ナイフでちょっとおどかしたりした。てっきり君が、そちらの奥さんにあれこれ入れ知恵してるのかと思っていたんでね」
「見当違いよ」
「しかし、結局は君を消すことになったね」
と、男は笑った。「君の強運も、ここでおしまいだ」
奈々子も、覚悟を決めた。これじゃ、とても助からない。
「あなた!」
と、美貴が叫んだ。「この人を助けてあげて!」
「いいんです」
と、奈々子は美貴に言った。「こんな連中に命請いするぐらいなら、死んだ方がまし」
「奈々子さん……。ごめんなさい」
と、美貴はうなだれた。
奈々子は、腕の傷も、それほど痛みを感じなかった。立ち上ると、三枝の方へ、
「殺すならどうぞ」
と、言った。「その代り、一つお願いがあるの」
「何だ?」
「そこの、ペーターに撃たせて」
「なるほど。——おい。望みを聞いてやれ」
三枝が促すと、ペーターは、
「いいでしょう」
と、拳《けん》銃《じゆう》を取り出した。「一発で仕止めてあげる」
「よろしく」
奈々子は、のんびりと言った。
ペーターが、銃口を奈々子の胸に向けて——引金を引く。
銃声と共に倒れたのは、奈々子ではなかった。あの、奈々子を撃った男だったのだ。
「貴様!」
と、三枝が怒《ど》鳴《な》った。
「三枝さん。もう諦《あきら》めることだ。警察が駆けつけて来ますよ」
ペーターは、素早く、奈々子たちの方へやって来ると、「さあ、車に乗れ」
「ペーター!」
「僕は買収されたふりをして、探っていたんだ。さあ、早く車へ——」
と、ペーターが言いかけた時、いくつも銃声が起った。
振り向くと、あの森から、警官たちが飛び出して来る。——助かった!
奈々子は飛び上って喜んだ。
「逃げろ!」
三枝が叫んだ。そして三枝は、ジェット機の中へと駆け込んで行った。
「ルミ子君は——」
「私が助けたわ。森の中にいる」
「良かった! ああしないと、すぐ殺されてしまうところだったからね」
撃ち合いが続いて、奈々子たちはペーターと一緒に、車のかげに隠れていた。
「ジェット機が——」
と、美貴が言った。
ジェット機が、エンジンの音を鋭く響かせて、滑走路を走り始めていた。
「逃げられやしないよ」
と、ペーターが言った。
すると——突然、美貴が車の中へ飛び込んで、ドアを閉め、エンジンをかけたのである。
「おい、何をする!」
と、ペーターが怒鳴る。
「美貴さん!」
車は、猛然と走り出した。——何をするんだろう?
奈々子は、美貴の運転する車が、滑走路の端まで行って、クルッとUターンするのを見た。そして車は、滑走して来るジェット機に、真正面から向って行ったのである。
「危《あぶな》い!」
と、奈々子は叫んだ。「美貴さん!」
もちろん、聞こえるわけはない。
ジェット機の飛び発《た》つ余裕はなかった。
息をのんで見つめる前で、ジェット機と、美貴の運転する車が正面からぶつかった。
爆発音。——機首がはね上り、次の瞬間、黄色い炎が渦を巻いてふき上げた。
「美貴さん……」
と、奈々子は呟《つぶや》くように言った。
車とジェット機は、見分けがたいほど一体になって、燃えつづけていた。——三枝と美貴の、最後の抱《ほう》擁《よう》であるかのように。