「傷の具合は?」
と、ルミ子が訊《き》く。
「大したことないわ」
奈々子は、ちょっと肩をすくめて見せた。
——ミュンヘンのホテルのロビー。
チェックアウトをすませて、奈々子とルミ子は、空港への車の迎えが来るのを、待っていた。
「森田さん、荷物を運んでよ」
と、ルミ子が言うと、
「分ってる」
と、森田は、二人の荷物をせっせと運び始めた。
「あの人も気の毒ね」
と、奈々子は言った。「クビになんなきゃいいけど」
「でも……奈々子さん、ごめんなさいね」
「どうしてルミ子さんが謝るの?」
「だって——父の頼んだことで、あんなひどい目にあって」
「私は、ちゃんと承知の上で引き受けたんだから。——でも、結局、何の役にも立たなかったわ」
と、奈々子は、首を振った。
「お姉さん……三枝さんの正体を、分ってたのね」
「たぶん、好きになってから、知ったんでしょうね。だから、今さら、諦《あきら》められなかったのよ」
「それを、また野田さんがあの若村麻衣子って人を連れて、追いかけて行って……」
「野田さんは、別の恋人を見せれば、美貴さんの気が変ると思ったのね。まさか、三枝さんが平気でその女の人を殺してしまうなんて思わなかった」
「でも、どうして三枝さんは姿を消したのかしら?」
「本当のところは、真相を知った美貴さんがショックで、一人で帰国したんじゃないかしら。でも、まさか夫が女を殺したとも言えなくて、いなくなった、と説明して……」
「——そうだろうね」
と、声がした。
「ペーター。あなた……」
「さっき、君のお父さんと会ったよ」
と、ペーターはルミ子に言った。「あんなことになって、残念だ」
「ええ」
ルミ子は、ちょっと目を伏せた。「野田さんは?」
「あと何日か、ここに残ることになるだろう。——君らにはひどい思いをさせてしまったね」
「あなたのせいじゃないわ」
と、奈々子は言った。「三枝さんは、こっちで何をしていたの?」
「知っている通りさ。密輸業のボスの一人だった。冷《れい》酷《こく》で、僕の仲間も、何人か消された」
「どうして、ずっとこっちに?」
「それは、君の言った通り、若村麻衣子という女を殺してしまい、新妻が帰国してしまって、帰るのが怖かったんだ、と思うね。帰国したとたん、逮捕されるかもしれないし」
「でも、美貴さんは黙ってたわ」
「三枝を愛していたんだろうな」
「そうね……」
と、奈々子は言った。
フランクフルトとミュンヘンのドイツ博物館の二か所で、三枝は美貴と離れている。フランクフルトで、野田と会い、若村麻衣子が来ていることを聞いた。そしてミュンヘンのドイツ博物館で、三枝は若村麻衣子を、自分の部下に連れ去らせたのだ。
たぶん、美貴は夫が若村麻衣子と会っているところを見た。そして彼女が姿を消したのを知って、夫が殺したのだと察した。——美貴は一人で帰国し、怖くなった野田も、追いかけるように帰って来て、口をつぐんでいたのだ。
三枝が女を殺すなどと、野田は考えてもいなかったのだから。
——野田は、美貴にあの美術館へ引張っていかれて、そこでハネムーンの時、若村麻衣子を連れて行ったのが自分だった、と告白させられたのだった。
「しかし——あんな終り方になるとはね」
と、ペーターが首を振った。
「車、来たみたい」
と、ルミ子が立ち上って、「先に行ってるわ。奈々子さん、お二人で話があるんでしょ?」
と、行ってしまう。
奈々子は、何となく照れて、
「話……ある?」
と、訊《き》いた。
「君は?」
「私は——あなたを信じてたわ」
「あの時も?」
「ええ」
ペーターは、奈々子の方へ身を寄せてキスした。——今度は、少しキスらしいキスだった。
「あなたはただ——仕事で、付合ってたんでしょ、私と」
「仕事もある。でも、君にひかれていたのは確かだ」
と、ペーターは言った。「しかし……僕の仕事は、これからだ。危険も多い」
「そうね……」
「いつか——君を迎えに、日本へ行きたい」
と、ペーターは言って、奈々子の髪を、なでた。
「〈南十字星〉にいるわ」
「南十字星?」
「喫茶店よ。今はつぶれちゃってるけど」
「そうか」
「いつか——本物の南十字星を見たいわ」
「見せてあげられるといいがね」
「いいのよ。無理しないで」
と言って、奈々子は立ち上った。「もう行かなきゃ」
「空港まで送れなくて、すまないね」
ペーターは表の車まで、送って来てくれた。
「じゃ、さよなら」
「また会えるよ」
と、ペーターは言って、もう一度、奈々子にキスした……。
車が走り出すと、
「奈々子さん、あの人のこと、好きなんでしょ」
と、ルミ子が言った。
「今は、そんな気分じゃないの」
そうだ。——美貴は死んでしまった。
志村に頼まれたことを、結局、奈々子は果せなかったのである。
自分が、たとえペーターを愛していたとしても、今は、そんなことを考えている時じゃないのだ……。
「やっと帰れるな」
と、車の助手席で、森田が言った。
言い方が、あまりに切実で、奈々子とルミ子は思わず笑ってしまったのだった……。