「マスター、コーヒー三つ」
と、奈々子は言った。
「あいよ」
マスターは、相変らずの、淡々とした調子である。
大分、新しい店にも慣れた。
建て直したのではなく、うまい具合に売りに出た店を買い取って、改装したのである。
もちろん、店名は〈南十字星〉。
広さも、前の店とあまり変らない。
もう開業して二か月。——あの波乱万丈の旅から、半年近くたつ。
ルミ子も時々、この店にやって来て、おしゃべりして行くのだ。野田への想いもすっかりふっ切れているらしい。
——あの出来事をきっかけに、ヨーロッパでも、大きな密輸組織が摘発されつつあるらしい。
きっとペーターも頑《がん》張《ば》っているんだろう。もちろん、日本から来た、少しおめでたい女のことなんか、もう忘れてしまったに違いない。
そう思うと、少し胸も痛むが……。でも、忘れられる日も来る。
「奈々ちゃん、大人っぽくなったね」
なんてマスターに言われて、奈々子、喜んだりしているのである。
「——新しい粉を出して」
「はい」
と、動きかけて、店の戸が開いた。「いらっしゃい——」
入って来たのは、ペーターだった。
「——やあ」
「どうも……」
奈々子は、ポカンとして、立っていた。
「コーヒーを」
と、ペーターは言った。「それと、君をもらいたくて来た」
「私?」
「危い仕事をやってるから、いつ殺されるかもしれない。それでもいいかい?」
奈々子は肯《うなず》いて、
「一つ、条件があるの」
「何だい?」
「ハネムーンで、南十字星を見たい」
「お安いご用だ。本物のね」
「本物の……」
——奈々子は、頬《ほお》を染めた。胸が一杯だ。
ペーターは、席について、
「じゃ、取りあえず、コーヒーを先にもらおうかな」
と言うと、微《ほほ》笑《え》んで、ゆったりと寛《くつろ》いだ。
奈々子は、マスターに、
「コーヒー一つ」
と、言って、「それから、私、ここを辞めます」
「おめでとう」
マスターは、ちょっとウインクした。
——奈々子は、ペーターとのハネムーンで、無事に南十字星と対面できたか?
それはまた、別のお話になりそうである。