目《め》覚《ざま》し時《ど》計《けい》が鳴り出した。
塚《つか》原《はら》啓《けい》子《こ》は、すぐに目を覚《さ》まして、急いで時計の方へ手を伸《の》ばした。ベルを止めて、ホッと息をつく。
もっとも、こんな音ぐらいで目を覚ます夫ではないから、あわてて止めなくてもいいのだが。そう思って、ヒョイと隣《となり》の布《ふ》団《とん》を見る。
「あら」
と、啓子は起き上った。
夫の布団は、もう空《から》だった。——トイレにでも行ったのかと思ったが、それにしては、きちんと直してあるし、シャツや靴《くつ》下《した》も見えなくなっている。
起き出したのだ。啓子は、時計を見直した。
いつもの通りだ。別に、寝《ね》坊《ぼう》したわけでもない。それなのに……。
「どうしたのかしら……」
啓子は呟《つぶや》きながら、布《ふ》団《とん》を出て、大《おお》欠伸《あくび》をした。
茶の間へ行くと、塚《つか》原《はら》が、ちゃんとネクタイまでしめて、新聞を開いている。
「あなた——」
「ああ、おはよう」
塚原は、顔を上げた。
「こんなに早く、どうしたの?」
「いや、何となく目が覚《さ》めただけさ」
「また寝《ね》ればいいのに……。すぐ仕《し》度《たく》するから待ってて」
洗《せん》面《めん》所《じよ》へ急ぐ啓子に、
「ゆっくりでいいよ」
と、塚原の声が追いついて来た。
——妙《みよう》だわ。どうしたのかしら?
啓子は顔を洗《あら》い、服を着て、まだ少しぼんやりしている頭をブルブルッと振《ふ》った。
朝の仕度といっても、そう時間がかかるわけではない。このところ、塚原の朝食は、パンとミルクだったからである。それに、弁《べん》当《とう》も持って行かない。
「すぐ、パンを焼くわ」
と、啓子が台所へ入って行くと、
「おい」
と、塚原が声をかけた。
「ゆうべのみそ汁《しる》は残ってるか?」
「残ってるけど——どうして?」
「今朝《けさ》はご飯とみそ汁が食べたいんだ」
「そう……」
啓子は、ちょっと面くらって、「でも——おかずがないわよ」
「構《かま》わん。何か漬《つけ》物《もの》でもあれば」
「卵《たまご》でも焼く?」
「ああ、そうしてくれ」
啓子は、すっかり調子が狂《くる》ってしまっていた。塚原が、時々気まぐれを言い出す性《せい》格《かく》の男なら、そうびっくりもしないのだが、実《じつ》際《さい》はまるで逆《ぎやく》で、何事も一《いつ》旦《たん》これと決めたら、そう簡《かん》単《たん》には変えない男なのだ。
ネクタイだって、背《せ》広《びろ》だって、啓子が適《てき》当《とう》に時期を見て変えてやっているので、そうでなければ、いつまでも同じものを身につけているに違《ちが》いない。
塚原は、啓子が急いで焼いた目玉焼と、ゆうべの残りのみそ汁で、いかにも旨《うま》そうにご飯を食べた。
その様子を、啓子は、複《ふく》雑《ざつ》な気分で眺《なが》めていた。——夫がいつもと違うことをする。
これは、結《けつ》婚《こん》生活始まって以来の珍《ちん》事《じ》と言っても、よかった。
「——早く起きると、ゆっくり食べられていいもんだな」
と、残ったご飯にお茶をかけながら、塚原は言った。
「そうね……」
「この家も、もうずいぶん住んだもんだなあ……」
と、しみじみとした口調で言って、茶の間の中を見回す。「お前にも、ずいぶん苦労をかけた」
啓《けい》子《こ》は、気《き》味《み》が悪くなった。夫がこんなことを言い出すなんて、どうしちゃったんだろう?
「明《あけ》美《み》も、あんなに大きくなったし。——俺《おれ》は幸せだよ」
「あ、あなた」
と、啓子は思わず身を乗り出していた。「早まったことはしないでね! 何があっても、三人で助け合って生きて行けばいいんだから!」
今度は塚原の方がキョトンとして、
「早まったこと? 何だ、そりゃ?」
「いえ——別に」
啓子は、あわてて首を振《ふ》った。「だって、あなたが何だか変なこと言うから……」
「そうかい? 考え過《す》ぎだよ」
と、塚原は笑《わら》って、お茶《ちや》漬《づけ》をかっ込《こ》んだ。「さて、そろそろ出かけるか」
「あなた、お小づかいが足りないんじゃない? 少し入れる?」
「先週もらったばっかりだぜ」
塚原はニヤリと笑《わら》って、「どうしたんだ? 今朝《けさ》はいやに優《やさ》しいじゃないか」
「そうでもないけど……」
啓子としては、どう考えていいのか、分らないのである。確《たし》かに、夫の様子は、いつもとは違《ちが》う。でも、どこがどう違うかという点になると、さっぱり分らないのだ。
塚原は、何か忘《わす》れ物でもしたのか、二階へ上って行った。
「でも——変だわ」
と、啓子は、呟《つぶや》いた。
啓子は、夫が必ずしも会社で、充《じゆう》実《じつ》した日々を送っていないことを知っていた。
塚原は、至《いた》っておとなしい、気の優しい男である。生来の人の良さが、何をしても現《あら》われる。
会社でも、人を押《お》しのけても出世したいとは思っていなかった。だから、一向にパッとしない……。
「キャーッ!」
二階から、明美の叫《さけ》び声が聞こえて来て、啓子はびっくりした。
あの度《ど》胸《きよう》のいい明美が悲鳴を上げるなんて——。
啓子があわてて茶の間を出ると、塚原がドタドタと階《かい》段《だん》を降《お》りて来て、
「行って来る!」
と一《ひと》言《こと》、上《うわ》衣《ぎ》を着ながら、玄《げん》関《かん》へと駆《か》け出して行った。
「——どうなってるの?」
啓子は思わず呟《つぶや》いた。
「お母《かあ》さん」
と、声がして、明美がパジャマ姿《すがた》で、降《お》りて来る。
「明美、どうしたの? あんな凄《すご》い声出して」
「こっちこそ訊《き》きたいわよ!」
と、明美は憤《ふん》然《ぜん》として言った。「せっかく人がぐっすり眠《ねむ》ってるのに」
「どうしたっていうの?」
「何だか気《け》配《はい》を感じたの。誰《だれ》か、こう——すぐ近くにいるような。で、ふっと目を開くと、お父《とう》さんが、私の顔をじーっと覗《のぞ》き込《こ》んでるんだもの」
「お父さんが?」
「そうよ。私の顔から二十センチくらいのところに、顔があって。——もう、びっくりして、悲鳴ぐらい上げるわよ」
あーあ、と明美は頭を振《ふ》って、「どうしちゃったの? まさか、お父さん、欲《よつ》求《きゆう》不満で私《わたし》の方に——」
「変なこと言わないでよ!」
と、啓子は顔をしかめた。「でも……」
確《たし》かに、どうかしてるわ、あの人。
啓子は、不安な面《おも》持《も》ちで、ため息をついた……。
やれやれ、こんな風じゃだめだな。しっかりしろ!
塚原は、バスに乗り込《こ》んで、ホッと息をついた。
——やっと、この辺も、朝の寒さはやわらいで来た。もう三月になろうというのに、ついこの間までは、身を縮《ちぢ》めるほどの寒い朝が続いたものである。
ともかく郊《こう》外《がい》なのだから仕方ないとはいえ、駅の周辺なら、そう寒くもない。しかし、塚原の家は、駅から、さらにバスで二十分も乗るのだった。
明美の通っている私《し》立《りつ》校は、割《わり》合《あい》に近いので、通学は楽だが、その代り父親の通《つう》勤《きん》は、正にちょっとした「遠足」だった。
塚原は、バスの一番奥《おく》の方へ行って、空席を見付けると、腰《こし》をおろした。
こんな「奥《おく》地《ち》」の建売住《じゆう》宅《たく》だが、それでも塚原が越《こ》して来てから、年々人口は増《ふ》え続けている。バスの本数もいくらか増《ふ》えたが、それでも、以前なら半分も席が埋《うま》っていなかったのに、今は空席を捜《さが》すのに手間取るようになった。
もう半年もすれば、座《すわ》れなくなるだろうな、と、塚原は思った。それまでに、どこか、もっと便利な所へ引《ひつ》越《こ》せるだろうか?
一億円。
塚原のような、ごく平《へい》凡《ぼん》なサラリーマンにとっては、単なる数字に過《す》ぎない金《きん》額《がく》である。
もちろん、会社の取引などで、何億という金が動くことはあるが、それはただ、伝票と、小切手と、そして銀行口《こう》座《ざ》への振《ふり》込《こみ》用紙の上だけのことだ。
もし、その金《きん》額《がく》の札《さつ》束《たば》が目の前にあって、全部、自分のものだとしたら、どんな気がするだろう? 塚原には見当もつかなかった。
しかし、今、そ《ヽ》れ《ヽ》を現《げん》実《じつ》のものにするべく、塚原は会社へと向っているのだった。
今日がその当日だといっても、一向に実感はない。おそらく、津《つ》村《むら》もそうだろう。
浦《うら》田《た》京子は? 彼女《かのじよ》は、この計画に加わった三人の中でも、一番落ちついている。
現実の問題として、あれこれ可《か》能《のう》性《せい》を考えていることだろう。
頼《たよ》りないもんだな、男なんて、と塚原は苦《く》笑《しよう》した。万一失敗して、逮《たい》捕《ほ》されたりしたとき、家族の受けるショックを考えると、塚原もつい気が弱くなる。
だから、あんな風に、まじまじと明美の寝《ね》顔《がお》を覗《のぞ》き込《こ》んだりして、驚《おどろ》かせてしまったのだが……。
「だめだな、こんなことじゃ——」
と、塚原は呟《つぶや》いた。
やっと、バスは駅に着いた。時間に余《よ》裕《ゆう》のないグループが、ワッと駅の改《かい》札《さつ》口《ぐち》へと駆《か》け出して行く。塚原は、早目に出ているので、ゆっくり降《お》りて間に合うのだ。
いつもの通り、定期券《けん》を見せて、改札口を通る。何も考えなくても、手の方が勝手に動いてくれるのも、長年の習《しゆう》慣《かん》だ。
——そう。
何もかも、いつもの通りである。
電車も遅《おく》れているし(朝は、遅れているのが、いつもの状《じよう》態《たい》なのだ)、ホームには、二本目の電車を待つ列までできている。
二本目だと——運さえ良ければだが——座《すわ》って行けるのである。塚原は、そこまでする気にはなれなかった。
もっとも、あと何年かして、混《こ》んだ電車で立って行く五十分間が、体に応《こた》えるようになったら、どうなるか分らないが……。
「——乗って来るかな」
と、塚原は、やって来た電車に乗り込《こ》みながら、呟《つぶや》いた。
津村が、時々、この三つ先の駅から、同じ電車に乗って来るのだ。
電車が動き出す。——まだ、身動きもならないという混み方ではない。
窓《まど》の外の景色が、山や林の間に家がある、という光景から、徐《じよ》々《じよ》に家《いえ》並《なみ》で埋《う》め尽《つ》くされて来ると、当然、車内も人で一《いつ》杯《ぱい》になる。
この朝、津村は乗って来なかった。前の晩《ばん》、華《はな》子《こ》を相手に頑《がん》張《ば》って、寝《ね》坊《ぼう》してしまったのである……。
「おはようございます」
浦田京子が、いつもの通り、席《せき》から声をかけて来た。
「おはよう」
塚原は、自分の席の方へ歩きながら、改めて感心していた。
全く、いつもの通りの様子をしている。大した女《じよ》性《せい》だ。
もちろん、俺《おれ》だって、いつも通りに振《ふる》舞《ま》ってはいるつもりだが……。しかし、はた目にもそう見えるか、自信はない。
まあ、もともと、あまり人の目をひく存《そん》在《ざい》ではないのだから、その点は楽である。
始業まで、まだ十五分あるので、オフィス内はガラ空《あ》きだ。
塚原は、〈脇《わき》元《もと》通商株《かぶ》式《しき》会社〉の総《そう》務《む》課《か》の係長である。四十八歳《さい》で係長だから、あまり威《い》張《ば》れたものではない。しかも、この先、停年まで勤《つと》め上げても、よほど、予想外の出来事が起らない限《かぎ》り、課長になれる見《み》込《こ》みもなかった。
決して入社が遅《おそ》かったわけではない。二十三歳で入社。二十五年間、真《ま》面《じ》目《め》に勤めて来た……。
「どうぞ」
浦田京子が、いつもの通りお茶を持って来てくれる。
「ありがとう」
と、塚原は言った。「やっと暖《あたた》かくなって来たね。——いや、都心の方はとっくに春になってたのかな」
「アパートへ帰ると寒いですわ」
と、浦田京子は言った。「独《ひと》り住いだと、布《ふ》団《とん》も干《ほ》せませんし」
何となく生活の匂《にお》いを感じさせない浦田京子が、「布団を干す」なんて言うと、どうも妙《みよう》な感じだった。
といって、別に彼女《かのじよ》が女らしくない、というのではない。
中肉中《ちゆう》背《ぜい》で、きりっとした顔立ち。容《よう》姿《し》は整っている、と言ってもいいのではないか。
しかし、およそ「華《はな》やかさ」のない女《じよ》性《せい》なのである。服《ふく》装《そう》などからいってもそうだ。
「係長」
と、浦田京子は、いつもの声で言った。「お昼休みに、打ち合せを」
「うん?——ああ、そうか。分った」
一《いつ》瞬《しゆん》、塚原は戸《と》惑《まど》った。てっきり仕事の話かと思ったのだ。
「津村君にも言っておくよ」
と、塚原は、湯《ゆ》呑《の》み茶《ぢや》碗《わん》を取り上げた。
「私《わたし》から伝えましょうか」
「そうだな。君の方が確《かく》実《じつ》そうだ」
塚原の言葉に、浦田京子は初めて微《び》笑《しよう》を見せた。
同じ電車で来たらしい十人ばかりが、ワッとオフィスに入って来て、浦田京子は席へと戻《もど》って行った。
さて。——始まるぞ。
塚原は、まだ空席の目立つオフィスの中を見回した。
昼休みまでが、いやに長かった。
いつもなら、割《わり》合《あい》に忙《いそが》しい時期なのだが、今日に限《かぎ》って、あまり仕事がない。却《かえ》って、苛《いら》立《だ》ちがつのった。
津村は、かなり忙しそうで、電話をかけまくっている。浦田京子は、いつもマイペースだ。
三者三様で、やっと十二時のチャイムを迎《むか》えた。
塚原は、いつも通り、財《さい》布《ふ》を手に、少しのんびりとオフィスを出た。たいてい一人で食べているので、誘《さそ》われることもない。
脇《わき》元《もと》通商は、八階建のビルの一階から五階までを使っていた。大体、ビル自体が〈脇元ビル〉というのだ。
七年前に建ったときは、なかなかモダンないいビルだと思ったものだが、今では両側にもっと立《りつ》派《ぱ》なビルが建って、見すぼらしい感じになってしまった。
塚原のいる総《そう》務《む》課《か》は四階だった。
エレベーターで一階に降《お》り、ビルの裏《うら》手《て》の通用口から外へ出る。
打ち合せの場所は、前もって決めてあった。近所にある、うなぎ屋の二階だ。
そこならまず、同《どう》僚《りよう》とかち合うことはない。
二階の座《ざ》敷《しき》に上ると、もう津村と浦田京子は、先に来ていた。
「遅《おく》れて済《す》まん」
と、塚原は、畳《たたみ》にあぐらをかいた。
「そう時間はかかりませんわ」
と、浦田京子は言った。
「単《たん》純《じゆん》な戦《せん》略《りやく》こそ、いい戦略ですよ」
と、津村が肯《うなず》いて言った。
多少浮《う》かれているようだが妙《みよう》に思われるほどではない。
「今日《きよう》だというのは——」
「間《ま》違《ちが》いありません」
と、浦田京子が言った。「今朝《けさ》、出社の途《と》中《ちゆう》で、社長のマンションの前を通ったんです」
「何かあったのかい?」
「これまでの例からみて、前の晩《ばん》は必ず、秘《ひ》書《しよ》の久《く》野《の》が、社長のマンションに泊《とま》ります」
「なるほど」
「十分くらい、マンションの表で見ていたら、久野が出て来ました。スーツケースを持って」
「間違いないな。それが目的のものですよ」
津村がポンと膝《ひざ》を叩《たた》いた。「そっくりいただきだ!」
「うまくやろう。落ちついて、計画の通りにだ」
塚原は、穏《おだ》やかに言った。
うな重が来て、三人は食べ始めた。
「——あ《ヽ》れ《ヽ》が手に入ったら、毎日でもうなぎが食えるな」
と、津村が言ったので、塚原も浦田京子も笑《わら》い出した。
津村の「ささやかな」夢《ゆめ》が、いかにもおかしかったのだ。その笑いが、三人の固さをほぐしたようでもあった。