午後四時。 普《ふ》通《つう》の会社なら、まだこれから一仕事、という時間である。もちろん、脇《わき》元《もと》通商だって、営《えい》業《ぎよう》部員などは、これから会社に戻《もど》って来て、仕事である。
しかし、塚《つか》原《はら》のいる総《そう》務《む》課《か》は、大体五時で帰れる日が多かった。楽ではあるが、当然給料はあまり良くない。
五時で終り、となると、四時ごろから、何となく、課全体がのんびりムードになって来る。気の早い女子社員などは、トイレに立って、お化《け》粧《しよう》を直したりしているのである。
塚原は、大体、急ぎの仕事を片《かた》付《づ》けてしまうと、さめたお茶をちょっとすすって、オフィスの中を見回した。
雑《ざつ》然《ぜん》として、十年一日の如《ごと》く、どこも変りのないオフィス。ただ、変っていくのは人の顔だけである。
津《つ》村《むら》も、浦《うら》田《た》京子も、いつもの通りの様子で、仕事をこなしている。
——怪《あや》しまれないように、会社に残る。これが、計画の第一歩である。
塚原は、係の会議を招《しよう》集《しゆう》しようと思っていた。急な議題があるわけではないが、そんなものは何とでもできる。
五時ピタリに終らせず、少し引き延《の》ばして、人が減《へ》るのを待つ。——これが一番自然な方法だ。
「おい、塚原君」
と、課長の呼《よ》ぶ声で、塚原はハッと我に返った。
「はい!」
課長の河《かわ》上《かみ》が、手《て》招《まね》きしている。河上の場合、向こうからやって来ることは考えられない。何しろもう停年直前である。
しかも、数年前に大病をして、めっきり弱ってしまった。七十といっても通用するくらいなのだ。
だから、実《じつ》際《さい》にはほとんど席を暖《あたた》めているだけの課長で、よくコックリコックリ、居《い》眠《ねむ》りをしていることもある。
それでも、人がいいので、あまりにらまれることも、苦《く》情《じよう》を言われることもない。河上の後《こう》任《にん》として決っている男が、かなりの「やり手」なので、河上が退《たい》職《しよく》するのを残念がる、のんびり社員も少なくなかった。
「——何か?」
「うん。君、今夜、何か予定あるか?」
河上は、テープの回転速度を間《ま》違《ちが》えたような、間のびした声で言った。
「といいますと……」
「何もなかったら、すまんが、会議に出てくれんか」
「会議ですか……」
「五時から、せいぜい一時間くらいで、話を聞いてるだけでいい。俺《おれ》はどうも具合が悪くてな……」
「はあ」
塚原は、ちょっと迷《まよ》った。確《たし》かに、河上の顔色は、いいとは言えなかった。
「すまんが、頼《たの》むよ、塚原君」
河上課長に重ねて頼まれ、塚原は、今日、他の係長がみんな外出していて、席にいないことに気付いた。
待てよ。これはいい機会かもしれない。
「分りました」
と、塚原は言った。「議事録は明日《あした》、お目にかければ——」
「いらんいらん」
と、河上が面《めん》倒《どう》くさそうに手を振《ふ》る。「どうせ読みゃせんよ。じゃ、頼《たの》むぞ」
「はい。ただ——私一人では、ちょっと心もとないので、津村君を同席させてもよろしいでしょうか」
「ああ、構《かま》わんよ」
「——係長」
いつの間に来たのか、浦《うら》田《た》京子がすぐ後ろに立っていた。「こちらに印を」
「ああ、分った」
「私、お茶を出しましょうか」
と、浦田京子が言った。
「そうしてくれるか?」
「はい。ご自分で、お淹《い》れになるのも大変でしょう。特に予定もありませんから」
「じゃ、頼むよ」
と、塚原は言った。
「浦田君はいいねえ、やさしくて女らしくて」
と、河上が相《そう》好《ごう》を崩《くず》す。
「ありがとうございます」
浦田京子は微《ほほ》笑《え》んだ。
臨《りん》機《き》応《おう》変《へん》に、パッと対《たい》応《おう》して来るところはさすがに浦田京子だ、と塚原は思った。
ともかく、これで、社に残る口実ができたわけである。しかも、自分から進んで残ったのではない。それなら疑《うたが》われることもあるまい。
なかなか好《こう》調《ちよう》だぞ、と塚原は席に戻《もど》りながら考えていた。椅《い》子《す》にかけると、
「おい、津村君!」
と、声をかける……。
いいことばかりでもなかった。
ともかく、会議が退《たい》屈《くつ》そのものだったのである。——忙《いそが》しい営《えい》業《ぎよう》あたりの人間が見たら、腹《はら》を立てたかもしれない。
回《かい》覧《らん》でも回せば済《す》むような伝達事《じ》項《こう》の朗《ろう》読《どく》が延《えん》々《えん》と続き、さすがに塚原も何度か欠伸《あくび》が出た。十人ぐらいの出席者の半分は、二十分後には居《い》眠《ねむ》りしていたのである。
しかも、一時間ぐらいと聞いていたのに、一時間半たっても、まだいつ終るか分らないような状《じよう》態《たい》で、塚原も、少し苛《いら》々《いら》して来た。
お茶を替《か》えに来た浦田京子が、
「係長、ちょっと」
と、声をかけた。
会議室を出ると、浦田京子は、周囲を素《す》早《ばや》く見回し、
「今、秘《ひ》書《しよ》の久《く》野《の》が社長室へ入って行きました」
と言った。
久野が社長室へ入って行った。
つまり、塚原たちの狙《ねら》う一億円が、今、社長室にあるということなのだ。塚原の胸《むね》は高鳴った。
「急ぐことはありませんわ」
と、浦田京子が言った。「いつも、出るのは夜中です。たっぷり時間はあります」
会議室から、津村が出て来た。
「どうしたんです?」
「おい、三人でヒソヒソやってちゃ、怪《あや》しまれるぞ」
と、塚原は声をひそめた。
「だって、眠《ねむ》くて仕方ないんですよ。顔でも洗わないことにゃ」
津村はそう言って大《おお》欠伸《あくび》をした。それがうつったのか、塚原も欠伸をして、それから笑《わら》い出した。
「よし。——会議の片《かた》付《づ》けを、わざとぐずぐずやって、残るようにしよう。タイムレコーダーは押《お》し忘《わす》れないようにしないとな」
「三人一度に押さないようにした方がいいですね」
と、浦田京子は言った。「私はロッカールームにいます。女子は他《ほか》に一人もいませんから」
「僕《ぼく》らは適《てき》当《とう》に、トイレかどこかにいよう。ともかく、オフィスの方は施《せ》錠《じよう》してしまうからな」
「会議が終って三十分したら、エレベーターの前に集まることに」
「分ってる」
塚原は肯《うなず》いて、会議室の中に戻《もど》った。少し立ち話をしたせいか、頭がスッキリした。
——会議は、思ったほど長引かなかった。議長をしている部長が——もう七十五、六だったが——くたびれて来て、
「まあ、後は目を通しといてくれ」
の一言で、残りの三分の一くらいを片《かた》付《づ》けてしまったからだ。
これじゃ、我《わ》が社も少し合理化した方がいいな、と塚原は苦《く》笑《しよう》しながら考えていた。
寝《ね》ている課長たちを起こして回ったり、机《つくえ》を元の形に動かしたりして、やっと片付いたのは、それでも会議が終って二十分もたってからだった。
「——ご苦労さん」
と、塚原は言った。
「まだ誰《だれ》かいますかね」
「営《えい》業《ぎよう》の方はいるさ。このフロアにはいないだろう」
営業のセクションは、遅《おそ》いときには十二時ごろまで残っている。
それだけに、総《そう》務《む》のフロアは一《いつ》旦《たん》暗くして、鍵《かぎ》をかけてしまわないと、却《かえ》っておかしなものなのである。
「誰《だれ》も残ってないか?」
「今、見て回りました」
「よし、俺《おれ》たちも帰るか」
塚原は、「帰る」というところに、ちょっとアクセントをつけて、言った。
夜、十一時。
脇《わき》元《もと》ビルの前に、やたら車体の長い外車が停《とま》った。黒塗《ぬ》りの、いかにも重くて、ガソリンを食いそうなその車から、一人の男が降《お》り立つ。
脇元嗣《つぐ》夫《お》は、運転手がドアを開けるのを待っていない。車の運転はできないので、人任《まか》せにするのも仕方ないが、自分でできることに、人の力を借りる必要はない、というのが、脇元の考えだった。
いくら社長は遅《ち》刻《こく》にならないといったところで、こんな時間に出《しゆつ》勤《きん》して来るのは珍《めずら》しい。もちろん、ごく普《ふ》通《つう》の意味での出勤ではないのである。
脇元は五十五歳《さい》になったばかりだ。人に比《くら》べても、小《こ》柄《がら》で、体つきもどっちかといえば貧《ひん》弱《じやく》だったが、それでいて一種の威《い》圧《あつ》感《かん》のようなものを、周囲に感じさせた。
メガネの奥《おく》に光る目は、やはり鋭《するど》い。それに、あまり顔に表《ひよう》情《じよう》がないのも、特《とく》徴《ちよう》の一つだった。社員はほとんど、社長の笑《わら》った顔を見たことがない。
「——社長」
秘《ひ》書《しよ》の久《く》野《の》が、エレベーターの前に立っていた。「準《じゆん》備《び》は済《す》んでおります」
脇《わき》元《もと》は黙《だま》って肯《うなず》いた。
久野がエレベーターのボタンを押《お》す。社長室は五階にあった。
久野は、いかにも几《き》帳《ちよう》面《めん》に髪《かみ》をきちんと分け、三つ揃《ぞろ》いに身を固めて、誰《だれ》が見ても、
「あれは誰かの秘書じゃないか」
と思うようなタイプである。
見かけ通り、正《せい》確《かく》この上もない男だった。
「今夜はどうなさいますか」
と、久野が訊《き》いた。
「うむ」
脇元は、少し間を置いて、
「——麻《あざ》布《ぶ》にしておこう」
と言った。
「かしこまりました」
脇元には本《ほん》宅《たく》の他に、三つのマンションがあり、それぞれ、別の女《じよ》性《せい》が住んでいる。今夜は麻布の方へ泊《とま》る、という意味だった。
秘書の久野としては、緊《きん》急《きゆう》の際《さい》の連《れん》絡《らく》をどこへつけたらいいのか、知っておく必要があったのだ。
「誰《だれ》か残ってるのか?」
と、脇《わき》元《もと》はエレベーターを出ながら、訊《き》いた。
「営《えい》業《ぎよう》に二、三人。もう帰り仕《じ》度《たく》をしていました」
「仕事熱心で結《けつ》構《こう》だな」
と、脇元は、ちょっと唇《くちびる》の端《はし》を動かした。
笑《わら》ったつもりらしい。
社長室に入ると、中央のテーブルに、トランクが置かれて、そのわきに、ガードマンが座《すわ》っている。——おかしい、と気付いたのは久野だった。
ガードマンが、軽く頭を前に垂《た》れて、二人《ふたり》が入って来たのに、立とうともしなかったのだ。
久野がガードマンへと駆《か》け寄《よ》った。
「どうしたんだ?」
と、見ていた脇元が声をかける。
「分りません! どうも——」
久野がそう言いかけて、言葉を切った。——ガードマンが、ゆっくり横に体を傾《かたむ》けると、そのまま椅《い》子《す》から転げ落ちた。
「何てことだ!」
久野はガードマンの上にかがみ込《こ》んだ。
「死んでるのか?」
と、脇元が訊《き》く。
「いいえ。——息はしています。意《い》識《しき》を失っているだけのようで……」
「そのお茶は?」
テーブルに、ほとんど空になった湯《ゆ》呑《の》み茶《ぢや》碗《わん》が置かれている。
「さあ。多分、自分でいれて来たんだと思いますが……。では、中に薬でも?」
久野がハッと息を呑んだ。
「トランクを開けてみろ」
脇元は、無《む》表《ひよう》情《じよう》なままで言った。
久野がポケットから鍵《かぎ》を出し、トランクを開ける。冷静沈《ちん》着《ちやく》が背《せ》広《びろ》を着て歩いているような久野も、さすがにあわてているようで、取り出した鍵を、落としてしまったりしている。
やっと、トランクの蓋《ふた》が開いた。
「——やられました!」
久野の声は、かすれていた。脇元はテーブルの所まで、足早にやって来ると、空っぽのトランクをチラリと眺《なが》め、そのまま自分の椅《い》子《す》へと歩いて行った。
「すぐに一一〇番を——」
と言いかけて、久野は言葉を切った。
脇元が机《つくえ》の上の電話に手を伸《のば》していたのだ。
「——ああ、もしもし。脇元だが。——うん。実は、今夜はちょっと具合が悪くなったんだ。——いや、別にまずいことがあったわけではない。ただ、ちょっと私の体の具合がね。——ああ、いや、大したことはないよ。まだまだ長生きさせてもらうさ。——二、三日中に電話をする。間《ま》違《ちが》いなく。——それじゃ、おやすみ」
脇元は受話器を戻《もど》すと、ゆっくりと両手を組んで、息をついた。
「一一〇番するわけにはいかん。そうだろう? これはまともな金ではないんだ」
「はい」
久野は、目を伏《ふ》せた。「申し訳《わけ》ありません」
「問題は誰《だれ》がやったか、ということだ」
脇元は、立ち上った。「——明らかに、この金のことを知っていた人間だ」
「しかし、このことは、社内でも……」
「噂《うわさ》というやつは、どうしたって、防《ふせ》ぐことはできんものさ」
と、脇元は言った。
「何としても、犯《はん》人《にん》を見付けます」
と、久野が強い口調で言った。
脇元は、テーブルに近づくと、空のトランクを眺《なが》めた。
「いいか、間違えるな」
と、脇元は、久野に言った。「一番の問題は金ではない」
「は?」
久野が眉《まゆ》を寄《よ》せた。
「もちろん、大金だ。取り戻《もど》せれば、それに越《こ》したことはないが、しかし、この程《てい》度《ど》の損《そん》失《しつ》で首を吊《つ》る必要はない。分るか? 一番問題なのは、これを盗《ぬす》んだ奴《やつ》が、この金のことを知っている、という点だ」
久野は、ゆっくりと肯《うなず》いた。
「分りました」
「おそらく、そいつも、我《われ》々《われ》が警《けい》察《さつ》へ通《つう》報《ほう》できないと見《み》抜《ぬ》いているんだ。しかし、だからこそ、そいつを放っておくわけにはいかないぞ」
「必ず、見付けてごらんに入れます」
久野の口元が、細かく震《ふる》えていた。珍《めずら》しいことだ。怒《いか》りを、じっと押《おさ》えているのである。
「それにしても」
と、脇元が首を振《ふ》った。「鮮《あざ》やかにやられたもんだな」
その顔には笑《え》みさえ浮《う》かんでいた。
「ここでいいだろう」
と、塚《つか》原《はら》が言うと、津《つ》村《むら》はブレーキを踏《ふ》んだ。
車は、静かに停止した。——都内でも指折りの住《じゆう》宅《たく》地の一角である。
両側には、ただ高い塀《へい》が続いているだけだった。車はレンタカーである。津村が借りたのだった。
「ここなら、誰《だれ》も通らんさ」
と、塚原は言って、「——どうだね?」
と助手席から振《ふ》り向いた。
後部座《ざ》席《せき》では、浦《うら》田《た》京子が、札《さつ》束《たば》を一つ一つ、細かく点《てん》検《けん》していた。三つの山に、分けながら、である。
「もう少しです。急ぎますから」
「いや、のんびりやって下さい」
と、津村が言った。「どうせ今日は遅《おそ》くなると言って来たんだ」
「この辺は有名人も多いですから、パトロールが来るはずですわ。見られたら説明のしようがないでしょう?」
「そうか。気が付かなかった!」
塚原は首を振った。「他の所へ行くか」
「いいえ。これで終りですから」
浦田京子が、最後の札束を点検し終えた。
「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》です。印のついているものも、続き番号もありません」
「やった!」
津村がギュッと拳《こぶし》を固めた。「一億円が僕《ぼく》たちのもんだ」
「いいえ、一億円じゃありませんでしたわ、今日は」
と、浦田京子は静かに言った。「二億円ありました」