「さあ、乾《かん》杯《ぱい》だ」
と、塚原が言った。
「お疲《つか》れさまでした」
と、浦田京子が、コップを持ち上げる。
「成功に!」
津村が一番興《こう》奮《ふん》しているようだ。頬《ほお》が紅《こう》潮《ちよう》している。
三人は、二十四時間営《えい》業《ぎよう》のチェーンレストランに入っていた。乾杯、といっても、津村は運転をしなくてはならないので、みんなジンジャーエールである。
「アルコール抜《ぬ》きでも酔《よ》えそうだ」
と言って、津村は笑った。「急に腹《はら》が減《へ》って来たな。でも——大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》かな」
急に不安になった様子で、窓《まど》から駐《ちゆう》車《しや》場《じよう》を見下ろす。わざわざ、目の届《とど》く所に停《と》めて来たのだ。
「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》だよ。誰《だれ》も知らないんだから」
と、塚原は笑《わら》った。「さあ、ゆっくり食事をしよう」
「私もお腹《なか》が空《す》きました」
と、浦田京子がメニューを開く。
「浦田さんが、お腹が空いたなんて言うの、初めて聞いたな」
「まあ。ガソリンでも補《ほ》給《きゆう》するロボットだと思ったんでしょ」
と、浦田京子は笑った。
車の中の二億円のことは、みんななぜか口に出さない。まるで、話題にしたら消えてなくなるとでも思っているように。
「——お決りですかあ」
と、眠《ねむ》そうな声を出して、ウエイトレスがやって来る。
「ええと……浦田君は?」
「私、このステーキを」
「ああ、僕《ぼく》もそうしよう。ライス大《おお》盛《もり》で」
津村が言った。
「じゃ、同じでいい」
塚原は言って、「おい、セットにすると、スープとコーヒーがついて二百円高いだけだ。これにしようか」
「ステーキセット三つですね」
と、ウエイトレスはメニューを集めて、退《さ》がって行く。
三人は、顔を見合わせて、何となく笑《わら》い出してしまった。
「二百円高いだけ、か。——どうもみみっちいなあ」
塚原は首を振《ふ》った。「身にしみついた経《けい》済《ざい》観念は変らんね」
「それはいいことだと思いますわ」
と、浦田京子は言った。「急にお金を使ったりしたら、目立ちます。これまで通りの生活をしないと」
「そりゃそうだけど、せっかく手に入れたんだ。少しは使わなきゃ」
「でも当分は控《ひか》えた方がいいですわ」
と、浦田京子は、他の二人《ふたり》の顔を見て、「危《き》険《けん》です。充《じゆう》分《ぶん》に用心しましょう」
ステーキが来て、三人はしばし食べることに専《せん》念《ねん》した。
「月に一度、これからは一流ホテルへ行って飯を食おう」
と、津村は言った。
もう、真先にステーキを平らげてしまっている。
「それくらいなら、怪《あや》しまれることもないでしょうね」
「浦田君はどうするんだ?」
と、塚原が訊《き》いた。「会社を辞《や》めるんだろう?」
「すぐには辞められません。目をつけられますもの」
「そんなに用心しなくたって。競馬で当てたとでも言っときゃ分りませんよ」
津村は呑《のん》気《き》なものである。いや、少々浮《う》かれているのかもしれない。
「社長が、この一《いつ》件《けん》を警《けい》察《さつ》へ届《とど》けないことはまず確《かく》実《じつ》です」
と、浦田京子は言った。「でも、それだからって、犯《はん》人《にん》を探《さが》さないとは思えません。見付かれば、表《おもて》沙《ざ》汰《た》になっていないだけ、却《かえ》って危《き》険《けん》ですわ」
「そうかもしれんな」
塚原は肯《うなず》いた。「まあ、ともかく慎《しん》重《ちよう》の上にも慎重に、だ。金があると思うだけでも、いい気分じゃないか」
「そうですね。僕《ぼく》も、会社なんて辞めちまいたいと思ってましたが、いざ、辞めても大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》なくらい金があると、辞めようとも思いませんね」
そんなものかもしれない、と塚原は思った。辞めたくても辞められないからこそ、人は辞めたいと願うのだ。
しかし、意外だった。塚原は、事があまりに簡《かん》単《たん》に運んだので、信じられないような思いだったのだ。
秘《ひ》書《しよ》の久《く》野《の》が金の入ったトランクを社長室へ運び込《こ》む。ガードマンが一人《ひとり》、そこにつく。久野が脇《わき》元《もと》を迎《むか》えに出る。
その間、ガードマンは一人になる。そのガードマンが、いつも自分でお茶を淹《い》れに行くく《ヽ》せ《ヽ》のあることを、浦田京子がつかんでいた。
給湯室の入口から、社長室のドアが見通せるので、油《ゆ》断《だん》するのも無《む》理《り》はないのだ。
津村が、エレベーターを、わざと無《む》人《じん》で、社長室のある五階のフロアへ上げる。エレベーターの扉《とびら》の開く音で、ガードマンがびっくりして様子を見に行くと、その間に、女子トイレに隠《かく》れていた浦田京子が、給湯室へ走って、お茶に薬を入れる……。
——総《すべ》ては、あまりに計画の通りに運んだ。油断というのは怖《こわ》いもんだ、と塚原は思った。
一億、二億という金を、こんなにやすやすと盗《ぬす》まれるとは、向うも考えてもいなかったろう。油断大《たい》敵《てき》。——その言葉が今度は俺《おれ》たち三人に向けられることになるんだな、と塚原は心の中で呟《つぶや》いた。
「二つ、問題があります」
と、食後のコーヒーになったとき、浦田京子が言った。「一つは、金《きん》額《がく》が予想より大きかったことです。倍ですものね。この扱《あつか》いをどうするか……」
「一人六千万としても……二千万余《あま》る」
と、津村は夢《ゆめ》心《ごこ》地《ち》。
「全部分けてしまうか、それとも、予定外の分は別にしておいて、何か考えるか……」
「そうだなあ」
と塚原は腕《うで》組《ぐ》みをして、「突《とつ》然《ぜん》のことだし……。今夜、ゆっくり考えてみようじゃないか」
「そうですね」
浦田京子は微《ほほ》笑《え》んだ。「もう一つは、今夜あのお金をどうするか、なんです」
「銀行は明日《あした》にならんと開かないね」
もちろん、預《よ》金《きん》をするのではない、貸《かし》金《きん》庫《こ》を利用するのである。
「浦田さん、持ってて下さいよ」
と、津村が言った。「うちは女《によう》房《ぼう》の目があるし」
「そうだな。うちにも娘《むすめ》がいる。浦田君の所が一番安全だろう」
「ただ……」
と、浦田京子は言いかけて、ためらった。
「誰《だれ》も、浦田さんが持ち逃《に》げするとは思いませんよ」
「そうじゃないんです。もし、私が疑《うたが》われていた場合——そういうことも、あり得《え》ないわけじゃありませんわ——お金を全部、取り返されてしまう危《き》険《けん》があります。もちろん、誰が一《いつ》緒《しよ》にやったか訊《き》かれても、私は答えませんけど、分けておけば、それぞれ自分の分は助かるわけです」
塚原は、浦田京子の言葉に感心した。自分は年《ねん》齢《れい》的《てき》にもリーダーの立場にいながら、そんなことは考えてもみなかったのだ。
「——分けて持とう」
と、塚原が言った。「浦田君一人に危険を負わせるわけにいかない」
「分りました」
津村も肯《うなず》いて、「華《はな》子《こ》の奴《やつ》に見付からないようにしなきゃ」
と考え込《こ》んだ。
「じゃ、明日《あした》、朝、どこかで落ち合いましょう。私、それを貸《かし》金《きん》庫《こ》へ入れてから出社しますわ」
「変だと思われないかな」
「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》です。歯医者にも寄《よ》って来ますから。そのために予約しておいたんです」
塚原は、浦田京子の話に、また感心した。
「——じゃ、行くか」
少し休んで、三人は立ち上った。
「せいぜいいい夢《ゆめ》を見ましょうか」
と、津村が笑った。
「ここは僕《ぼく》が払《はら》う」
と、塚原は言った。
ほんの何千円かだが、初めてのぜいたくであった。
塚原は帰《き》宅《たく》して、まだ明りが点《つ》いているのにびっくりした。
明《あけ》美《み》が起きているのかな、と思った。今の高校生は夜ふかしなど平気である。
しかし、玄《げん》関《かん》の鍵《かぎ》を開け、入って行くと、妻の啓《けい》子《こ》が出て来た。
「お帰りなさい」
「何だ。起きてたのか」
塚原は、ギクリとした。何しろ、手に下げた紙《かみ》袋《ぶくろ》には、七千万の現金が入っているのだ。
「何だかあれこれやってる内に十二時になっちゃったの。ついでだからと思って、起きてたのよ」
「そうか——」
塚原は上り込《こ》んだ。「明美はもう寝《ね》たのか?」
「残念でした」
ヒョイ、と明美が顔を出す。
「何だ、早く寝《ね》ないとだめじゃないか」
「何言ってんの、お父《とう》さんを待ってたんじゃない」
「俺《おれ》を?」
「そうよ。だって、今朝《けさ》の様子がおかしかったから、お母《かあ》さんが心配してたの。もしかしたら、会社で失敗でもして自殺するんじゃないかって」
「明美!」
と啓子がにらむ。「そんなこと言わないでしょ」
「そう思ってたくせに」
そうか。——塚原は苦《く》笑《しよう》した。自分では、今朝のことなどもうすっかり忘《わす》れていたのだ。
啓子と明美が、自分のことを心配して起きていてくれたと思うと、やはり嬉《うれ》しかった。
「それ、何のおみやげ?」
明美が、塚原の紙《かみ》袋《ぶくろ》に手を伸《の》ばした。塚原はあわてて、
「これは会社へ持って行く資《し》料《りよう》なんだ! 大事なもんだから、触《さわ》るなよ」
「ふーん」
明美は、ちょっと小《こ》生《なま》意《い》気《き》声を出して、冷やかすように、「お父さん、そんなに信用あるの、会社で」
「何を言ってるの」
と、啓子が明美をせき立てるようにして、「さあ、早く寝《ね》なさい!」
「はいはい。お邪《じや》魔《ま》はしませんわ」
——口ばっかり達者になって、と塚原は苦《く》笑《しよう》した。しかし、父親が、さほど会社で重きをなしていないことは、分っているらしい。
「あなた、お風《ふ》呂《ろ》に入る?」
「うん。——ともかく、これを置いてくる」
塚原は、金の入った紙袋を手に、寝《しん》室《しつ》へ入って行った。持って帰って来たものの、どこへしまっておくか、考えていなかったのである。
もし、今夜強《ごう》盗《とう》でも入ったら、きっと大喜びするだろうな、と塚原は思った。
人間、誰《だれ》しも考えることは同じようなものらしい。
津村も、家へ入りながら、もし今夜強盗が入ったら、などと考えていた。何しろ七千万の現《げん》金《きん》があるのだ。こんな家は、めったにあるまい。
ただ、塚原と違《ちが》ったのは、こちらは妻《つま》の華《はな》子《こ》が起きていなかったことである。
津村は寝《しん》室《しつ》を覗《のぞ》いて見た。華子は、かなり壮《そう》大《だい》な寝《ね》息《いき》をたてて眠《ねむ》りこんでいる。
どんなに疑《うたぐ》り深い医者だって、この寝息を聞けば、華子の健康に太《たい》鼓《こ》判《ばん》を押《お》したに違《ちが》いない。
津村は安心して、まず金の入った紙《かみ》袋《ぶくろ》を、カメラとか、大工道具の類の入れてある戸《と》棚《だな》へ押《お》し込《こ》んだ。華子が、開けそうもない所である。
「——一風《ふ》呂《ろ》浴びるか」
と、服を脱《ぬ》ぎながら呟《つぶや》く。
明日《あした》の仕事のことを考えれば、さっさと寝た方がいいだろうが、ともかく、興《こう》奮《ふん》しているせいで、ちっとも眠くない。風呂にでも入って体をほぐさないと、とても寝つけまい。
風呂のお湯はもう落としてあった。新しくお湯を入れながら、津村は、のんびりTVをつけ、新聞を広げた。
何だか見る気にもなれないバラエティー番組も、こういう気分のときは、腹《はら》が立たない。人間、金があると思うと、こうも寛《かん》大《だい》になれるものか、と津村は思った。
地《じ》獄《ごく》の沙《さ》汰《た》も金次第、ということは、この世の沙汰はもっと金次第なのだ。ちょっと情《なさけ》ない話だが、それが現《げん》実《じつ》なのである。
七千万円。——少々減《へ》ったとしても、五、六千万にはなる。
一戸建てのマイホームを買うか、それともここにいて、車でも買うか。——そりゃ、浦田京子の言うように、金づかいが突《とつ》然《ぜん》荒《あら》くなったら、怪《あや》しまれるだろうが、家や車なんて、ローンで買った、と言っておけば分りはしない。
せっかく手に入れた金だ。少しは使わなくちゃ。——何のために危《あぶな》い橋を渡《わた》ったのか分らないじゃないか!
——お湯が入って、津村はたっぷり一時間近く、風《ふ》呂《ろ》に入っていた。元来はそう長風呂でもないのだが、このちまちました風呂が、まるで温《おん》泉《せん》の大浴場みたいにすら思えたのである。
いい加《か》減《げん》のぼせて、やっと出て来ると、津村は大きな欠伸《あくび》をした。これで、気持よく眠《ねむ》れそうだ。
「——あなた」
突《とつ》然《ぜん》、華《はな》子《こ》の声がして、津村はギョッとした。
「華子! 起きてたのかい?」
「目が覚《さ》めたのよ。——あなた、これ、どういうこと?」
リビングのテーブルに積み上げられた札《さつ》束《たば》を見て、津村の眠《ねむ》気《け》は一度にふっ飛んでしまった。
「そ、それは……」
津村は、突然のことで、もっともらしい説明を、どうにも思い付けなかった。
もっとも、どんなに口達者な男でも、普《ふ》通《つう》のサラリーマンが急に七千万もの現《げん》金《きん》を持って帰って来たのを、妻《つま》に納《なつ》得《とく》させるのは容《よう》易《い》でない。
「お隣《となり》の人に、カメラを貸《か》してくれって昼間頼《たの》まれたの。今、目を覚《さ》ましてから、思い出したんで、忘《わす》れない内に出しとこうと思ってね。——これ、本物のお金?」
華子の方も、訳《わけ》が分らない様子だ。まさか夫が盗《ぬす》んで来たとは思うまい。
「う、うん。まあ——たぶんね」
「あなた、パンツぐらいはいたら?」
言われて、津村は初めて、腰《こし》に巻《ま》いていたバスタオルが落っこちてしまっているのに気付いたのだった……。
「——拾った?」
と、華子は訊《き》き返した。
「うん、そうなんだ。タクシーに乗るときに、酔《よ》ってたんで、気が付かなかったんだ。きっと前の客が置いて行ったんだよ」
と、津村は言った。
パジャマを着ている間に、やっと思い付いたのが、この面白くもない説明だった。
「じゃ、運転手さんに言えばいいのに」
「それが、タクシーの中でウトウトしちまってね。降《お》りるとき、つい無《む》意《い》識《しき》に一《いつ》緒《しよ》に持って来ちまったんだよ」
「——いくらあるの?」
と、華子は訊いた。
「うん……。さっき数えたら——七千万ぐらいかな」
「七千……」
華子はポカンとして夫を見つめた。
「まあ——どうしたもんか、明日《あした》にでも相談しようと思ってたんだよ。よく眠《ねむ》ってるみたいだったから、起こすのもどうかと思ってね」
津村は、せっかく風《ふ》呂《ろ》に入ったのに、また汗《あせ》をかいていた。——これで華子が、この金を警《けい》察《さつ》へ届《とど》けるなどと言い出したら、どうしよう?
落し主が出ないのはともかく、こんな話が知れ渡《わた》ったら、脇《わき》元《もと》社長には、誰《だれ》が金を盗《ぬす》んだか分ってしまう。ここは何とか、金を隠《かく》すように、華子を説《せつ》得《とく》しなくてはならない。
「落した人が大《おお》騒《さわ》ぎしてるでしょうね」
と、華子は言った。
「そ、そうだろうね、うん」
「もし、届《とど》け出なかったら?」
「僕《ぼく》が?」
「いえ、落し主が。——そしたら、このお金、きっといわくのあるものだってことね」
華子の顔に、やっと笑《え》みが浮《うか》んだ。「ねえ、私、前からミンクのコートが欲《ほ》しいと思ってたのよ!」