塚《つか》原《はら》は、口《くち》笛《ぶえ》を吹《ふ》きながら起き出して来て、啓《けい》子《こ》をびっくりさせた。
「おはよう!」
「あなた……。何だか楽しそうね」
啓子は、ちょっと無《む》理《り》にこしらえた笑《え》顔《がお》を見せて言った。
「いい朝じゃないか! こんなにいい朝は生れて初めてだ!」
塚原は、やおらエイ、ヤッ、と体《たい》操《そう》などを始めた。
「あなた。——今朝《けさ》も、みそ汁《しる》とご飯にする?」
「うん? ああ、何でもいい。ステーキだって食えるぞ! ハハ……」
啓子は、ポカンとして夫を眺《なが》めていた。
昨日《きのう》の朝は何だか妙《みよう》なことばっかり言ってたと思ったら、今日《きよう》はやたら張り切っちゃって……。どうかしちゃったのかしら?
「じゃ、ベーコンエッグか何かで……」
「ああ、いいね。卵《たまご》は二つにしてくれ」
「はいはい」
啓子は頭を振《ふ》って台所へと急いだ。
塚原は、ガラス戸を開けて、猫《ねこ》の額《ひたい》、といったら猫から苦《く》情《じよう》が出るかもしれない、狭《せま》い庭に下りた。
いい朝だ、ったって、実《じつ》際《さい》にはどんより曇《くも》っていて、今にも雨になりそうだ。それでも塚原は大いに活力に満ち溢《あふ》れていた。
それが、あの七千万円のせいだということは塚原にも分っていた。金があるから元気が出るなんて、俗《ぞく》物《ぶつ》的《てき》でいやだな、とも思うのだが、事実は素《す》直《なお》に認《みと》めるしかない。それに、にわか成金のように、馬《ば》鹿《か》げたことに金をバラまくつもりはなかった。
食《しよく》卓《たく》につくと、塚原はアッという間にベーコンエッグを平らげ、啓子を再《ふたた》び唖《あ》然《ぜん》とさせた。
「そうだ、啓子、お前、今夜は何か予定があるのか?」
「今夜? 私に予定なんてあるはずないじゃありませんか」
啓子は、最近の「カルチャーセンターブーム」を支《ささ》える主《しゆ》婦《ふ》たちとは違《ちが》って、あまり家から出ない。我《が》慢《まん》しているのなら、体に毒かもしれないが、生来、出《で》不《ぶ》精《しよう》で、家でのんびりしているのが性《しよう》に合っているのだ。
積極的に外へ出て行く、親しい主婦たちのことが羨《うらや》ましくはあった。あんな風に自分も出て行けたら……。新しい世界がひらけるかもしれない。
でも、啓子は、至《いた》って人見知りをする性《せい》格《かく》で、慣《な》れない所へ行くと疲《つか》れてしまうのだ。
「予定がなきゃ、たまには外で食事をしないか? どこか、一流のホテルで。どうだい?」
「あなた——突《とつ》然《ぜん》どうしたの?」
「いいじゃないか。おい、明《あけ》美《み》の奴《やつ》にも早く帰るように言っといてくれ。会社から電話するからな!」
正《まさ》に問答無《む》用《よう》である。
「津《つ》村《むら》君」
塚原は声をかけた。
「あ、おはようございます」
喫《きつ》茶《さ》店《てん》の奥《おく》の方のテーブルで、津村は、ちょっと腰《こし》を浮《う》かした。
まだ、朝の八時三十分である。
会社から少し離《はな》れた喫茶店が、三人の待ち合せ場所だった。こういうオフィス街《がい》の喫茶店は、遠方から出《しゆつ》勤《きん》して来るサラリーマンのためにモーニングサービスをしていて、八時ごろから開く店が多い。
ここも、その一軒《けん》だった。ただ、遠いので脇《わき》元《もと》通商の社員は、まず立ち寄《よ》らない。
「ゆうべはご苦労さん」
椅《い》子《す》に腰をかけて、塚原は言った。紙《かみ》袋《ぶくろ》をさり気なく足下に置く。津村の方は、ピッタリと体のわきに抱《だ》き寄《よ》せていた。
「眠《ねむ》れましたか?」
と、津村が訊《き》いた。
「君は?」
「ええ、まあ……。でも、寝《ね》不《ぶ》足《そく》って気分じゃないんですよ」
「僕《ぼく》もだよ。爽《そう》快《かい》だな」
塚原はニヤリと笑《わら》った。熱いおしぼりで顔を拭《ふ》き、コーヒーを頼《たの》む。
「浦《うら》田《た》君がまだとは意外だな」
「そうですね。先に来てるとばかり思ってたんですが」
八時半に、ここで会うことにしてあったのだ。浦田京子が時間に遅《おく》れて来るのは、珍《めずら》しい。
「彼女《かのじよ》も、さすがに興《こう》奮《ふん》して寝つけなかったのかもしれませんよ」
「そうだな。——今度のことも、彼女なしでは不《ふ》可《か》能《のう》だった」
塚原は、ちょっと肯《うなず》いて、言った。
——津村は、それきり黙《だま》って、コーヒーを飲んでいた。
妻《つま》の華《はな》子《こ》に、金を見付けられてしまったのを、しゃべったものかどうか、ためらっていたのである。おまけに、華子は百万円の束《たば》を一つ、
「これぐらい、大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》よ。どこかに落としたことにしたって」
と、抜《ぬ》き取ってしまったのだった。
これで、あの服とこのブラウスとあの靴《くつ》を買って——などと喜んでいる恋《こい》女《によう》房《ぼう》の顔を見ていると、津村としても、だめだとは言えなくなってしまった。
ともかく、金を「拾った」ことは誰《だれ》にも言うな、と口止めして、残る六千九百万円を紙《かみ》袋《ぶくろ》に戻《もど》し、持って出て来たのである。
こんなこと、浦田京子に知られたら怒《おこ》られるだろうな、と津村は思った。やっぱり黙《だま》っていた方が良さそうだ。
「——おかしいな」
と、塚原が言った。「ちょっと電話してみよう」
八時四十五分になっていた。塚原は、店の電話で浦田京子のアパートへ電話を入れたが、いくら呼《よ》んでも、一向に出て来ない。
「変ですね」
と津村は、眉《まゆ》を寄《よ》せて言った。
「うん」
塚原も、深《しん》刻《こく》な顔になっていた。
浦田京子が、約《やく》束《そく》の時間になっても現《あらわ》れないのは、正に「事《じ》件《けん》」だった。何かあったのだろうか?
「彼女《かのじよ》のアパートに行ってみましょうか」
「いや、昨日《きのう》の今日《きよう》だ。遅《ち》刻《こく》すれば目立つ。一《いつ》旦《たん》会社へ行くしかない」
「これ、どうします?」
津村が、金の入った紙《かみ》袋《ぶくろ》を軽く手で叩《たた》いた。
「そうだなあ……」
持って出社するわけにはいかない。
「そうだ、駅のコインロッカーへ入れましょうよ。それしかありません」
「そうだな」
塚原はチラリと腕《うで》時《ど》計《けい》を見て、「もう出ないと九時に間に合わん。——よし、行こう」
二人は、急いで支《し》払《はら》いを済《す》ませ、店を出た。
コインロッカーへ二つの紙《かみ》袋《ぶくろ》を入れ、二人して会社へ駆《か》けこんだのは八時五十九分。
正に滑《すべ》り込《こ》みセーフ、というタイミングだった。
息を弾《はず》ませて席につく。浦田京子はまだ出社していなかった。
いや、彼女《かのじよ》はどうせ今朝《けさ》は歯医者に寄《よ》って来るということで、遅《ち》刻《こく》の届《とどけ》が出ている。しかし、なぜあの待ち合せた店に姿《すがた》を現《あらわ》さなかったのだろう?
塚原はやや落ち着かない気分で、ともかく仕事を始めていた。
会社の中に、何か妙《みよう》な雰《ふん》囲《い》気《き》はあるだろうか? 塚原は、仕事にかこつけて、時々席を立っては、他の課にも顔を出してみた。
途《と》中《ちゆう》、社長秘《ひ》書《しよ》の久《く》野《の》ともすれ違《ちが》ったが、いつもと少しも変りのない、取り澄《すま》した顔をしていた。内心は、それどころではないはずだ。
十時半ごろ、トイレに入って、津村と顔を合せた。
「——どうしたんでしょうね」
と、津村が低い声で言う。
「分らん。歯医者に寄《よ》ったとしても、もう出て来ていいころだが……」
塚原は首を振《ふ》った。——他の社員がトイレに入って来たので、二人はそれきり口をつぐんだ。
塚原が席に戻《もど》ると、課長の河《かわ》上《かみ》が、
「おい、塚原君」
と手《て》招《まね》きした。「——ゆうべは代ってくれてありがとう」
「いえ、とんでもない」
「それから、今、電話があってな。浦田君、少し休むそうだ」
「どうしたんでしょう?」
「うむ。ゆうべ、急性盲《もう》腸《ちよう》炎《えん》で入院したんだそうだ」
塚原は愕《がく》然《ぜん》として、一《いつ》瞬《しゆん》立ちすくんだ。
「社長——」
久野は、社長室のドアを開けた。「よろしいでしょうか」
「ああ、構《かま》わん」
脇《わき》元《もと》は、書類から顔を上げた。「全く、要《よう》領《りよう》の悪い報《ほう》告《こく》書《しよ》には苛《いら》々《いら》するよ。どうした?」
久野はポケットからメモを出して、脇元の前に置いた。
「ゆうべ、残業していた者のリストです」
「そうか。しかし、やった奴《やつ》が必ず残業していたとは限《かぎ》らんぞ」
「それは承《しよう》知《ち》しております。ただ、多少は確《かく》率《りつ》が高いかと思いまして」
「それはそうだがな。これは、と思うのがいるか?」
「営《えい》業《ぎよう》の方は大勢残業しています。中には、割《わり》合《あい》派《は》手《で》に金をつかっている者もあるので、少し当ってみようかと思いますが」
「ギャンブル好《ず》きの奴《やつ》を特に注意しろ。ああいうものだと、何千万もす《ヽ》る《ヽ》のはすぐだ」
「かしこまりました」
「他の課では?」
「これ、というのはいませんが……。総《そう》務《む》で三人ほど残業していました。会議に出ていただけですが」
「誰《だれ》だ?」
「河上課長の代りというので、塚《つか》原《はら》係長、それと津《つ》村《むら》、それからお茶出しに浦《うら》田《た》京子」
「ああ、あの女か。なかなか良く仕事をしてるじゃないか」
「ええ。ただ——」
「何だ?」
「昨日《きのう》残業した者の中で、今日一人だけ休んでいるのが、浦田京子なんです」
「ほう」
脇元は、メガネを直した。「前もって届《とどけ》が出ていたのか?」
「いえ、ゆうべ盲《もう》腸《ちよう》で入院したとか」
「盲腸か……」
脇元は、ちょっと考え込《こ》んだ。
「もし、高飛びするつもりで、入院したと嘘《うそ》をついたのなら……」
「本当に入院しているのかどうか、調べてみろ」
と、脇元は言った。
「かしこまりました」
「あの女が。——まさか、とは思うがな」
脇元は、少しお茶を飲んで、顔をしかめた。「ぬるいぞ。いれかえさせてくれ」
「はい、ただいま」
久野は、急いで社長室を出ると、秘《ひ》書《しよ》室《しつ》の女の子に、社長のお茶をいれかえるように言って、机《つくえ》の電話へ、手を伸《の》ばした。だが、ふと思い直した様子で、秘書室を出て行く。
久野が総《そう》務《む》課《か》のある四階へ下りて来ると、ちょうど塚原がエレベーターホールへ出て来たところだった。
「塚原さん」
久野は、さり気ない様子で、声をかけた。
声をかけられる前に、塚原の方で久野に気付いていたのは、幸運だった。
そうでなければ、こんな時だけに、ギクリとして、それが表《ひよう》情《じよう》にも出てしまっていたに違《ちが》いない。しかし、前もって気付いていたので、声をかけられても、当り前に、
「ああ。何か?」
と応《おう》じることができた。
「浦田さんが盲《もう》腸《ちよう》で入院したとか?」
「うん。突《とつ》然《ぜん》でびっくりしたよ。まあ、ああいうことは突然で当り前だけどね」
「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》なんですか?」
「今、病院に電話してみたんだ。緊《きん》急《きゆう》手術をして、大事には至《いた》らなかったらしい」
「そうですか。そりゃ良かった」
「あの通り、しっかり者だから、却《かえ》って少々の痛《いた》みは我《が》慢《まん》しちゃうんだね。手《て》遅《おく》れになると、盲腸だからって、馬《ば》鹿《か》にはできないからな。まあ、間に合って良かったよ」
「全くね。いや、さっき社長と話をしてたら、浦田さんのことが話に出ましてね、社長も気にしておられたので」
「そりゃ光栄だな。津村君が、今日帰りに見《み》舞《まい》に寄《よ》ると言ってたから、彼女《かのじよ》に伝えておくよ」
「そうして下さい。——病院はどこですって?」
「ええと、何ていったかな。津村君なら知ってるよ。浦田君に何か伝えることでも?」
「いや、別にそういうわけじゃ……。まあ、お大事に、と伝えて下さい」
「ありがとう」
塚原は、久野が階《かい》段《だん》の方へ戻《もど》って行くのを、ちょっと見送って立っていた。
あいつ、あれだけのことを言いに来たのか。どういうつもりなんだ?
「——どうしました?」
津村が出て来る。「今、久野が……」
「見てたのか。浦田君のことを訊《き》きに来たのさ」
「何かかぎつけたんですかね」
津村は、声を低くして言った。
「いや、そうじゃあるまい。昨日《きのう》の事《じ》件《けん》の後、彼女《かのじよ》が入院したと聞いたから、もしかしたらどこかへ逃《に》げたのかと思ったんじゃないかな」
「そうですね。怪《あや》しんでるふうでは——」
「そんなことはなかったよ」
塚原は首を振《ふ》った。「——病院へ寄《よ》って、その後、どこかで落ち合おうか」
「はあ、それが……」
と、津村はためらった。
「用事かい?」
「ちょっと、女《によう》房《ぼう》の奴《やつ》と待ち合せてまして」
そう言われて、塚原も、アッと思った。どこかのホテルで食事をしよう、と今朝《けさ》、啓《けい》子《こ》に言って来たのを忘《わす》れていた。
「そうか。俺《おれ》もそうだった。——仕方ない。明日《あした》にしよう」
「で、あ《ヽ》れ《ヽ》はどうします?」
津村は、ちょっと不安げな顔になった。
津村が「あれ」というのは、もちろん、駅のコインロッカーに入れてある金のことだ。二人分、合せて一億四千万円もある。いや、華《はな》子《こ》が百万円抜《ぬ》いたから、正《せい》確《かく》には一億三千九百万だ。
「うん……。仕方ないな。今日のところは、また持って帰ろう」
「そうですねえ」
貸《かし》金《きん》庫《こ》は、浦田京子の名義で借りてあるのだ。もちろん、彼女《かのじよ》の印《いん》鑑《かん》と鍵《かぎ》がないと、使えない。
「彼女に話をしてみてくれ。彼女の分も心配だ。たぶんアパートに置きっ放しだろう」
「分りました。じゃ、帰りがけ、一《いつ》緒《しよ》にコインロッカーへ行って……」
二人の立ち話は、それきりになった。女子社員が二、三人、ワイワイやりながら出て来たのである。
「出てないわ!」
と、津村華子はホッとしたように言った。
華子の周囲には、新聞紙が散乱していた。ともかく、駅まで行って、手に入る限《かぎ》りの新聞を、スポーツ紙、競馬新聞まで、全部買い込《こ》んで来たのである。
それらを全部、隅《すみ》から隅まで目を通している内に、もう夕方近くになってしまった。
どこにも、大金を落とした、という記事は出ていない。七千万円だ。もし、まともな金なら、どんな金持だって、あわてて届《とど》け出ているだろう。
それが、全く届け出ていない、ということは……。
「うまく行けば、私たちのものだわ!」
と、華子はウットリした表《ひよう》情《じよう》で、呟《つぶや》いた。
とたんに、お腹《なか》がグーッと鳴った。
「いやだわ!」
そういえば、新聞を見るのに夢《む》中《ちゆう》で、お昼ご飯を抜《ぬ》かしてしまった。
ま、いいや。夜はどうせ待ち合せて外で食事なのだ。今は我《が》慢《まん》しておこう。
華子は、口《くち》笛《ぶえ》など吹《ふ》きながら、出かける仕《し》度《たく》をした。——めったに着ない、高級なワンピースを選ぶ。
「どうせ新しいのを買うんだから、着とかなきゃ」
かなり浮《う》かれてはいたが、そこはそう若《わか》くもない。ただやたら細かい物を買っていても仕方ない。
何か、大きな買物に充《あ》てた方が利口というものだろう。せっかく、七千万というまとまったお金があるんだもの!
——華子は、もうすっかり七千万が自分のものになった気でいるのだ。
「いくら持って行こうかな……」
華子は、抜《ぬ》いておいた百万円の束《たば》から、一万円札を二十枚ほど抜き取り、財《さい》布《ふ》へ入れた。その厚《あつ》味《み》! 華子がまたウットリしていると、お腹《なか》が空《くう》腹《ふく》を訴《うつた》えて鳴ったのだった……。