浦《うら》田《た》京子の病室は、すぐに分った。
津《つ》村《むら》は、見《み》舞《ま》いといっても、果《くだ》物《もの》のカゴ一つ下げて来るでもなかったので、病院の入口に売店が出ている花屋で、小さな花《はな》束《たば》を作ってもらって、手にしていた。
病院そのものは、あまり新しいとも言えなかったが、看《かん》護《ご》婦《ふ》の応《おう》対《たい》は至《いた》って気持良かったし、いかにもてきぱきと、しかも愛想よく行動し、患《かん》者《じや》に接《せつ》しているという印象を受けた。
津村はまだ大病というものをしたことがないので、入院の経《けい》験《けん》はなかった。華子にしても同様だ。
「あ、そうか」
華子と待ち合せているのだった。浦田京子との話は手っ取り早く済《す》ませる必要がある。——どうせ華子の方は、たっぷり三十分、遅《おく》れて来るに決っているのだが。大体が、大変なのんびり屋なのである。
「——ここか」
病室は四人部《べ》屋《や》だった。〈浦田京子〉の名《な》札《ふだ》がある。
そっとドアを開ける。
もちろん、津村も、入院したことはなくても、見《み》舞《ま》いに来たことぐらいはあったが、病室のドアを開ける瞬《しゆん》間《かん》というのは、何だか気が重く、後ろめたい思いがするものだ。
眠《ねむ》りかけた患《かん》者《じや》を起こしてしまうかもしれないし、それに——こちらの方が辛《つら》いのだが——自分が見舞う当人以外の患者が、誰《だれ》か来てくれたのかと期待をこめた目を向けて来る。当て外《はず》れと分って、がっかりする表《ひよう》情《じよう》を見ると、いつも津村は、何だか自分がひどく残《ざん》酷《こく》なことをしたように思えて、胸《むね》が痛《いた》むのだった。
こんな風だから、出世もできないのかもしれない。
しかし、このときは、胸を痛めずに済《す》んだ。左手の二人の患者はTVを見ていて、津村の方に目も向けなかったし、右手の奥《おく》、窓《まど》に近い方の患者は、津村の方を見はしたものの、別に落《らく》胆《たん》した様子もなく、彼《かれ》のことを観察しているようだったのだ。
それは見たところ十歳《さい》そこそこの女の子だった。何の病気なのか分らないが、結《けつ》構《こう》丸《まる》々《まる》として元気そうに見える。
ベッドに起き上って、マンガ雑《ざつ》誌《し》を開いていた。
「津村さん……」
もう一つ、右手の手前のベッドから、浦田京子の声がした。
「やあ、どうです」
津村は笑《え》顔《がお》になって、ベッドのわきにあった小さな椅《い》子《す》に腰《こし》をかけた。
「わざわざ、すみません」
浦田京子は、髪《かみ》が乱れているせいもあってか、少し青ざめて見えたが、声はいつもの通りだった。「おいでいただいて良かったわ。気になっていたんですの」
そう言って、枕《まくら》の下から、小さな財《さい》布《ふ》を取り出した。
「びっくりしましたよ」
と、津村は言って、「あ、これ、そこで買って来たんですけど……」
花《はな》束《たば》をどこかへ、と思って見回したが、花びんがない。
「お気持だけで充《じゆう》分《ぶん》。お宅《たく》へ持って行って下さいな」
と、浦田京子は微《ほほ》笑《え》んだ。
「いや、そういうわけには——。畜《ちく》生《しよう》、花びんも買って来るんだった。全く、僕《ぼく》はどこか抜《ぬ》けてるんだから!」
津村がため息をついていると、
「ここの、使って」
と、声がした。
奥《おく》の方のベッドでマンガ雑《ざつ》誌《し》を読んでいる女の子である。
「ここに空《あ》いたのがあるから、使って」
「ああ。でも——いいの?」
「うん、構《かま》わない」
と、女の子は言った。「どうせ、私のとこ、お花なんか来ないもの」
別に、すねてもひねくれてもいない。アッサリした言い方だったが、それだけに津村はその言葉にギョッとした。
「じゃ、その花びんにさしてその窓の所に置きましょう」
と、浦田京子が言った。「それなら、ここからも良く見えるし、陽《ひ》も当るし」
「そうか。それがいいな」
津村は、その花びんを持って廊《ろう》下《か》へ出ると、洗面所で水を入れて来た。
誰《だれ》も花を持って来ない、か……。あんな子《こ》供《ども》が入院しているのに、見《み》舞《ま》いに来ないのだろうか?
「——まあ、きれい」
窓《まど》辺《べ》に置いた花は、もちろん夜のことでもあり、大して見《み》映《ば》えがしなかったが、浦田京子は、
「本当にすみません」
と、戻《もど》って来た津村にくり返した。
「具合はどうです?」
「ええ。ただの盲《もう》腸《ちよう》で、大したことは……。会社の方、どんな様子です?」
「別に、これといって動きはありません」
「そうですか」
浦田京子は、軽く息をついた。「本当に私って、ドジな女なんだわ」
「浦田さんなしじゃ、僕《ぼく》も塚《つか》原《はら》さんも、どうにもなりませんでしたよ」
「これを——」
と、浦田京子は、小さな財《さい》布《ふ》を、津村の手に預《あず》けた。「部《へ》屋《や》の鍵《かぎ》と、メモが入っています。あ《ヽ》れ《ヽ》の入れてある場所と、それから、印《いん》鑑《かん》、貸《かし》金《きん》庫《こ》の鍵のある所」
「分りました。責《せき》任《にん》を持って、お預《あずか》りします」
「——ゆうべは、何度も夢《ゆめ》を見て……。アパートに戻《もど》ったら、何もかも無《な》くなっている……」
「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》ですよ」
と、津村は笑《え》顔《がお》で言った。
浦田京子も、ちょっと微《ほほ》笑《え》んで、
「そうですね。でも——一人でこうして寝《ね》たきりでいると、人間って、悪いことばっかり考えるんです」
「盲《もう》腸《ちよう》なんて、一週間ぐらいで退《たい》院《いん》でしょう?」
「そうだと思います。でも、あ《ヽ》れ《ヽ》は、明日《あした》にでも——」
「もちろん、予定通りにやります。心配しないで任《まか》せて下さい」
津村は、浦田京子から預かった財布を、内ポケットに入れた。「じゃ——あの——ちょっとこれから女《によう》房《ぼう》と待ち合せているもので」
「まあ。どうぞ、早くいらして。待たせちゃお気の毒ですわ」
「いや、待たせてもいいんですけどね、あんなのは」
華《はな》子《こ》の目の前では到《とう》底《てい》言えないセリフである。
——津村がそそくさと帰って行くと、浦田京子は、もう一度大きく息をついて、天《てん》井《じよう》を見上げた。
手《しゆ》術《じゆつ》の跡《あと》が痛《いた》む。しかし、彼女《かのじよ》は、じっとこらえて、表《ひよう》情《じよう》には出さなかった。
京子は、自分の気持を殺すことに、慣《な》れて来ていた。感《かん》情《じよう》を制《せい》御《ぎよ》することにも。
時々、京子は怖《こわ》くなる。抑《おさ》えることに慣れ過《す》ぎて、その内「感情」というものを持てなくなるのではないか、と思うことがあるのだ……。
あのお金を使って、人間らしい歓《よろこ》びのある生活を取り戻《もど》したい! それが京子の願いだったのだ……。
「痛《いた》くない?」
その声に顔を向けると、あの少女が、京子の方を見ているのだった。
「どうして?」
と、京子は微《ほほ》笑《え》みながら訊《き》き返した。
「盲《もう》腸《ちよう》の手術した人って、たいてい一日ぐらいは凄《すご》く痛がるもん」
「そう?——そうね。私も痛いわ、正直言うとね」
「我《が》慢《まん》してんの?」
「ええ、そう」
「王子様のこと、考える?」
と、女の子が訊《き》いた。
「王子様って?」
「白い馬に乗った王子様が会いに来る、って、私、痛《いた》くて泣《な》きたいときとか、考えるの」
「まあ、そうなの」
「王子様が会いに来たとき、泣いてたり、顔しかめてたりしてたら、がっかりさせちゃうでしょ。だから、一《いつ》生《しよう》懸《けん》命《めい》こらえるの」
「偉《えら》いのねえ。おばちゃんも真《ま》似《ね》しようかしら」
「うん、やってみるといいよ」
と、女の子は嬉《うれ》しそうに肯《うなず》いて、言った。
そして、ふと気付いたように、
「まだ『おばちゃん』に見えないよ。『お姉《ねえ》ちゃん』でいいんじゃない?」
と言った。
「お父《とう》さん、宝《たから》くじにでも当ったの?」
と明美が言ったので、塚《つか》原《はら》は目をパチクリさせた。
「何を言い出すんだよ、おい」
「だって、急にこんな所に来ちゃってさ」
と、明美が店の中を見回す。
ほの暗い照明——といっても、電気代をケチっているわけではない。もちろん、ムード作りのためである。
都心のホテルの最上階、フランス料理のレストランだった。
明美は、それでも結《けつ》構《こう》シラッと落ちついているが、母親の啓《けい》子《こ》の方は、すっかり緊《きん》張《ちよう》して、オードブルも喉《のど》に通らない様子だ。
「たまにはいいじゃないか、一流の店に入るのも」
と、塚《つか》原《はら》は、馴《な》れている風を装《よそお》っている。
内心は塚原だって妻《つま》と似《に》たり寄《よ》ったりで、かなり「あがって」いるのだ。もちろん、接《せつ》待《たい》などで、こういう店に来たことはあるが、営《えい》業《ぎよう》にいるのでもなければ、そう度《たび》々《たび》は来られない。
たぶん、一番リラックスしていたのは明美だろう。
「結構イケル味だね」
とやって、塚原を面くらわせた。
「まあ、お前ももう十六だ。少しはこういう雰《ふん》囲《い》気《き》に慣《な》れておくのもいい」
「でも、私は一番下の、コーヒーハウスぐらいで良かったわ」
と、啓子が言った。「ハンバーグやトンカツはないんですもの、ここ」
「そりゃそうだ。フランス料理だからな」
「フランス人って、ハンバーグを食べないのかしら?」
啓子は、ちょっと情《なさけ》なさそうな顔で言った。
「お母《かあ》さんも、少し出歩いて、いいもの食べりゃいいのよ」
と、明美が笑《え》顔《がお》で言った。
「メニューを見たって、何だかさっぱり分らない店なんて、困《こま》っちゃうじゃないの」
「お前も、本当に、少し趣《しゆ》味《み》を持った方がいいぞ」
と塚原が言った。「——うん、なかなかいいワインだ」
「そうよ、お母さん。私がお嫁《よめ》に行ったら、することなくなって、困っちゃうわよ。早く老《ふ》け込《こ》んだりして」
「変なこと言わないでよ」
と、啓子は苦《にが》笑《わら》いした。
「——明美、今のピアノの先生、どうなんだ?」
と、塚原が言い出した。
「どうって?」
「いや——もっといい先生に変りたい、とか——」
「そんな必要ないわ」
明美は首を振《ふ》った。「替《か》えたいのは、むしろピアノの方よ」
そこへスープが出て来て、塚原一家三人は、しばし熱いスープを飲むことに専《せん》念《ねん》した。
「スープはおいしいわ!」
料理の方は、名前から「実物」のイメージが湧《わ》かなくて、まだ不安が残っていた啓子も、スープには大いに満足した。
「あんまり大きな声で言わないのよ」
と、明美がたしなめる。
「だって、賞《ほ》めたんだから、いいじゃないの」
「まあ、向うだって、賞められりゃ悪い気はせんさ」
塚原も、少々「通」ぶって、分ったようなことを言っている。「——おい、明美」
「ん? なあに?」
「ピアノを買い替《か》えたいのか?」
明美はちょっと戸《と》惑《まど》って、
「そ、そりゃあね。もう、今のもいい加《か》減《げん》古いし、それに音がよく出ないのよ。でも——どうして? 新しいピアノを買ってくれるの?」
「まあ、考えんでもない」
塚原も、慣《な》れぬワインのせいで、少々酔《よ》っていた。いや、この雰《ふん》囲《い》気《き》に、酔っていたのかもしれない。
あんまり大《おお》風《ぶ》呂《ろ》敷《しき》を広げてはいけないぞ、と思いつつ、つい口から出てしまうのだ。
「本当? わあ、嬉《うれ》しい!」
明美は、ちょっと椅《い》子《す》の上で、体をバウンドさせた。
「椅《い》子《す》を壊《こわ》すなよ」
「でも、あなた——」
びっくりしているのは啓子の方で、「そんなこと言って……。ピアノって高いのよ」
「分ってるさ。何もすぐ買うとは言っとらん。考えておこう、と言っただけだ」
「それにしたって……」
「長期計画を立てて、いい物を揃《そろ》えて行かないと、出費のむだだからな」
「そりゃそうですけどね」
啓子は、わけが分らないという顔だ。
スープ皿《ざら》が下げられて行くと、明美は、立ち上った。
「ちょっと、お友だちの所に電話するのを忘《わす》れてたんだ。——あ、お母《かあ》さん、小《こ》銭《ぜに》持ってない?」
「あるわよ。十円玉?——何枚《まい》?」
「三枚あれば。——サンキュー」
明美は、店の入口の方へと歩いて行った。電話の場所を訊《き》くと、これをどうぞ、と店の電話を出してくれる。
三十円儲《もう》かった、と明美は思った。
「——もしもし。あ、由《ゆ》佳《か》? 私。——うん今ね、ホテルCのフランス料理の店。——え? パパのおごりなの。——そう。ね、明日《あした》、帰りに会える?——うん、ちょっと面白い話がありそうなんだ。——え?——違《ちが》うわよ、男の子のことじゃないの。まあ、まだはっきりしないけど、それをこれから調べるとこなの」
明美の左手の中に、テーブルの上から、巧《たくみ》にかすめて来た荷物の預《あずか》り札《ふだ》があった……。
五、六分して、明美がテーブルに戻《もど》ると、塚原が入れ替《かわ》りにトイレに行くと言って、席を立った。
明美は、気付かれない内に、荷物の札を元の場所に戻《もど》した。啓子は、およそ注意深い方ではないので、たとえ気付いても、何も言わなかったろう。
「お父《とう》さんったら、どうしたのかね」
と、啓子は首を振《ふ》って、「急に気前良くなっちゃって」
「そうねえ……」
「どこか、具合でも悪いのかしら?」
「まさか。それなら、お母さんに黙《だま》ってるってことないし、お金を使わないようにするはずでしょ」
「それはそうねえ」
「きっと、急に家族へのサービス精《せい》神《しん》に目《め》覚《ざ》めたのよ」
「それならいいけど……」
と、啓子は曖《あい》昧《まい》に呟《つぶや》いた。
明美は、父のグラスに手を伸《のば》すと、半分ほど入っていたワインをぐっと一気に飲み干《ほ》してしまった。啓子が目を丸《まる》くして、
「明美、お前——」
「平気よ。これぐらい、友だちの家では飲んでんだもの」
「まあ、呆《あき》れた!」
呆れたのはこっちの方よ、と明美は思った。実《じつ》際《さい》、少しはアルコールでも入れなきゃいられないわよ! あんな札《ヽ》束《ヽ》の《ヽ》山《ヽ》を見た後じゃ。
父が、いやに大事そうに預《あず》けていたのと、急にピアノを買い替《か》えてやるなどと言い出したので、どうもあの荷物が怪《あや》しいと思い、
「ちょっと出したい物があるんですが」
と札《ふだ》を見せて、出してもらったのだ。
しかし——いくら明美の想像力が人《ひと》並《なみ》外れていたとしても、袋《ふくろ》の中身は、それを遥《はる》かに上回るものだった。
あの札《さつ》束《たば》!——もちろん、数えてみるわけには行かなかったのだが、それでも何千万の単位に違《ちが》いないことは分った。
父が、どこで、あんな大金を手に入れたのだろう?
あんな風に、昨日《きのう》から持って歩いているのを見ると、ま《ヽ》と《ヽ》も《ヽ》なお金でないのは確《たし》かなようだ。盗《ぬす》んだのだろうか?
父に盗みができるとは、明美にはとても思えなかった。道《どう》徳《とく》とか良心とは関係なく、そんなに器用じゃないという、「技《ぎ》術《じゆつ》的《てき》」な理由で、そう思ったのである。
それに、盗《ぬす》んだものなら、もっと父がビクついていても良さそうなものだ。いつ発《はつ》覚《かく》するか、いつ刑《けい》事《じ》がやって来るか、と……。
違《ちが》う。——どこか、違っている。
盗んだ金を、レストランのクロークへ預《あず》けるという神《しん》経《けい》も、ちょっと信じられない。
きっと裏《うら》に何か事《じ》情《じよう》があるんだわ。
明美は、運ばれて来た魚料理——ムニエルだった——に、ナイフを入れながら思った。