「知らなかった?」
と、華《はな》子《こ》が言った。「私、悪女なの」
「へえ、そうかい……」
と、津《つ》村《むら》は答えたつもりだったが、実《じつ》際《さい》には「ワアワア」という音《ヽ》を発したに過《す》ぎなかった。
華子の方は、もう午前二時だというのに、ますます目が冴《さ》えて——いや、目がギラギラ輝《かがや》いている。
一方の津村の方は半分、いや八割《わり》方眠《ねむ》りかけていて、瞼《まぶた》をトロンと閉《と》じかけていた。ともかく、「七千万円、拾った記念」というわけで、二人《ふたり》して、ハネムーン以来泊《とま》ったことのない高いホテルの一室にチェック・イン。明日《あした》は休《きゆう》暇《か》を取る、と津村が口を滑《すべ》らせたせいもあるのだが、華子の方がすっかり張り切って……。
かくて津村はクタクタ、華子は絶《ぜつ》好《こう》調《ちよう》、という次第だった。
「もう……寝《ね》ようよ」
津村は辛《かろ》うじて、瞼《まぶた》を開いて言った。
「あら、もったいない! こんな高い部《へ》屋《や》に泊《とま》って、もう寝《ね》ちゃうの?」
華子は不服そうに言った。
「しかし……もう俺《おれ》はだめだよ」
「馬《ば》鹿《か》ね」
華子はクスクス笑《わら》って、「誰《だれ》も、そんなこと言ってないでしょ。他《ほか》に色々考えることがあるじゃないの」
「考えること?」
「そう。——あのお金の使いみち」
津村は、頭を振《ふ》って、少しスッキリさせた。
二人は大きなダブルベッドに入っていた。華子はあまり寝《ね》相《ぞう》のいい方ではないのだが、この特大のベッドなら、まず津村も、けとばされる心配はなかった。
「使いみち、ったってなあ……」
「私、今日《きよう》の新聞、全部見たわ。どこにも、お金を落としたなんて記事なかった。大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》よ。あれ、きっと、いわくのあるお金なんだわ」
華子は自信たっぷりに言った。
まあ、確《たし》かにその点では、華子の言うことも、当っていないでもない。しかし、まさか夫が盗《ぬす》んだのだとは、思ってもみないのである。
「だけどな——」
「あら、あなた、あのお金を交番へ、はいどうぞ、って届《とど》ける気?」
「いや、しかし——」
「私、いやよ。もう、ちゃんと決めてあるんだから」
「決めて? 何を?」
「いくら貯金して、何を買うか、よ」
「気が早いんだな!」
「あら、計画性《せい》があるって言ってよ。いくら大金でも、何となく使ってたら、どんどん無《な》くなって行くもんなのよ」
津村は苦《く》笑《しよう》した。——大体が華子は経《けい》済《ざい》観念の乏《とぼ》しい女なのである。
「しかし、よく考えた方がいいぞ」
津村はベッドに起き上って言った。「あの七千万が、もしいわくのある金だったとして、そりゃあ落し主は届け出て来ないかもしれない。しかし、誰《だれ》かが拾ったってことは分るだろう。もし俺《おれ》が拾ったんだと知ったら——」
「心配性《しよう》ねえ」
と、華子は笑《わら》った。「タクシーのお客が誰《だれ》だったなんてこと、分るわけないじゃないの」
「そりゃまあ……」
「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》よ。心配しないで私に任《まか》せて」
津村は、初めて不安になった。
その場逃《のが》れに、タクシーで見付けたと嘘《うそ》をついたのだが、今さら、実はそうじゃないとも言えない。
といって、もちろん自分が盗《ぬす》んだなどと言えるわけもない。浦田京子が、充《じゆう》分《ぶん》に用心しないといけない、と言っていたのを思い出して、津村はため息をついた。
華子の方は、もうすっかり七千万が我《わ》がものになったつもりで喜んでいる。こうなると、華子を止めることはできないのだ。——その点、津村もよく承《しよう》知《ち》していた。
「明日《あした》、お休み取ったのなら、ちょうどいいわ」
と華子は言った。「一《いつ》緒《しよ》に見に行けるわね。私、一人で行こうかなと思ってたんだけど」
「どこへ?」
「マンションを三つと建売住《じゆう》宅《たく》二つ。ちゃんと短時間で回れるように、スケジュールも組んであるのよ」
津村は唖《あ》然《ぜん》として、声もなかった……。
その朝、社長秘《ひ》書《しよ》の久《く》野《の》は、入社以来初めて、遅《ち》刻《こく》して行くことにした。
もちろん、寝《ね》坊《ぼう》したわけではない。久野は目《め》覚《ざま》し時《ど》計《けい》などなくても、必ず同じ時間に目を覚《さ》ますという才《ヽ》能《ヽ》を持っていた。
久野は何よりも秩《ちつ》序《じよ》を重んじる男である。物事が手順通りに運ばないと苛《いら》々《いら》して来るのだ。
脇《わき》元《もと》の金、二億円が盗《ぬす》まれたことは、もちろん久野にとって、大きなショックだった。直《ちよく》接《せつ》ではないにしても、間接的には久野にも責《せき》任《にん》があったし、これまで脇元の秘書として公《こう》私《し》共に、完《かん》璧《ぺき》にその役《やく》割《わり》をつとめて来たという自負を、打ち砕《くだ》かれてしまった、その屈《くつ》辱《じよく》感《かん》が大きかった。
脇元は、それについて、久野を責《せ》めるようなことを一切口にしないが、それでいて、ある日突《とつ》然《ぜん》、
「もう君は不要になった」
と言いかねない。
——脇元はそういう男である。
久野は、タクシーを降《お》りると、ポケットから地図のコピーを出して、周囲を見回した。
「確《たし》か、この辺だがな……」
久野は呟《つぶや》いた。——浦《うら》田《た》京子のアパートを捜《さが》して、やって来たのである。
浦田京子が本当に入院していることは、久野も承《しよう》知《ち》していた。
もちろん、実《じつ》際《さい》に病院まで行って、確《かく》認《にん》したのだ。その限《かぎ》りでは、浦田京子を疑《うたが》う理由はない。
しかし——どうも久野は気になっていたのである。
理由のない行動を取ることが滅《めつ》多《た》にない久野としては珍《めずら》しく、直感に頼《たよ》ってここへやって来たのだった。
もちろん、いくらかの根《こん》拠《きよ》はある。浦田京子が入院したのは、二億円が盗《ぬす》まれた、その夜のことで、つまり盗まれた後だった、ということだ。だから入院したことで浦田京子を容《よう》疑《ぎ》者《しや》のリストから外《はず》すわけにはいかない。
もう一つは——これは単なる先入観かもしれないが——脇元も言ったように、浦田京子が、とてもそんなことをやりそうもない女《じよ》性《せい》だ、ということだった。
ああいう、常《つね》に冷静沈《ちん》着《ちやく》で、感《かん》情《じよう》を露《あら》わにしない女性は、心の中では、時として、とんでもないことを考えているものである。
久野には、多少の焦《あせ》りもあった。早く、二億円を盗《ぬす》んだ人間を見付けないと自分の足下に火がつきかねないのだ。
それに、時間がたてばたつほど、二億円を取り戻《もど》せなくなる可《か》能《のう》性《せい》が強まる。もちろん、使われてしまうからだ。
脇元は、金よりも犯《はん》人《にん》を見付ける方が大切だと言ったが、金が戻《もど》ればそれに越《こ》したことはないのだ。何といっても、二億円といえば大金である!
浦田京子を疑《うたが》うほどの、具体的な理由は久野にもなかったのだが、それでも一《いち》応《おう》、こうしてアパートまでやって来なくては、胸《むね》の中のモヤモヤが消えないのだった。
十分ほど歩き回って、久野は、やっと浦田京子の住むアパートを見付けた。
誰《だれ》かに訊《き》けば、もっとスンナリ見付けられたのだろうが、性《せい》格《かく》上、人に道を訊《き》いたりするのはいやなのである。
「やれやれ……」
と、久野は、パッとしない、そのアパートを見上げて息をついた。
後は、何とかして浦田京子の部《へ》屋《や》へ入ることだ。——もちろん、この程《てい》度《ど》のアパートでも、管理を任《まか》されている人間はいるだろう。
それさえ分れば、後は金次第でどうにでもなる。
たいていは一〇一号室の家が、そういう仕事をしているものだが……。
アパートの方へ歩いて行こうとして久野は足を止めた。
ドアの一つが開いて、思いがけない人間が出て来たのである。
久野は、ほとんど反《はん》射《しや》的《てき》に、わきの電柱の陰《かげ》に身を隠《かく》した。——あいつ、こんな所で、何をしてるんだ?
浦田京子のアパートから、風《ふ》呂《ろ》敷《しき》包《づつ》みをかかえて出て来たのは津《つ》村《むら》だったのである。
津村が、久野に気付かなかったのは——久野にとっては——幸運だった。
電柱の陰に隠れるといっても、完全に身が隠せるわけでもないので、ちょうど通りかかった津村が、カバそこのけの大《おお》欠伸《あくび》をしなかったら、きっと久野に気付いていたに違《ちが》いないのだ。
——うまくやり過《すご》して、久野はホッと息をついた。しかしあいつ……。ここへ何しに来たのだろう? 久野は、少し間を置いて、津村の後を尾《つ》けて行った。
風《ふ》呂《ろ》敷《しき》包《づつ》みを両手でかかえている。——それに、なぜ津村が浦田京子の部《へ》屋《や》の鍵《かぎ》を持っているのか?
「そうか」
と、久野は呟《つぶや》いた。
ごく当り前の説明も、つけられないわけではない。
津村は昨日《きのう》、浦田京子の見《み》舞《ま》いに行っている。急な入院だったから、色々足らないものもあろう。それを持って来てくれるように、浦田京子が津村に頼《たの》んだのかもしれない。
しかし、それなら、持って来る物は、着《き》替《が》えとか、寝衣《ねまき》といった類の物だろう。そんなことを、浦田京子が男性である津村に頼むだろうか。
どうも変だぞ。久野は、「手《て》応《ごた》え」を感じた。
「——畜《ちく》生《しよう》!」
久野は、津村がタクシーを停《と》めるのを見て舌《した》打《う》ちした。自分も、と思ったが、そう都合良くタクシーが通りかかるわけもなく、久野の尾《び》行《こう》もここまでだった。
しかし、久野には、「目標」ができた。差し当っては、それも一つの収《しゆう》穫《かく》ではあったのだ……。
塚《つか》原《はら》は電話を取った。そろそろ津村からかかって来るころだったのだ。
「津村です」
「やあ、どうだった?」
「問題ありませんでしたよ。浦田さんの分も、ちゃんと貸《かし》金《きん》庫《こ》へ納《おさ》めました」
「そうか。まあ取り敢《あ》えずは安心だ」
「そうですね。で——すみませんが、今日は——」
「うん、分ってる。休《きゆう》暇《か》の届《とどけ》は明日《あした》出してくれ」
「はあ、よろしく……」
電話の向うで、津村は大《おお》欠伸《あくび》しているらしかった。
「疲《つか》れてるようだな」
「いえ、別に……。では、失礼します」
塚原は、ホッとした気分で、受話器を戻《もど》した。今朝《けさ》、津村に、金を渡《わた》して、貸金庫へ預《あず》けてもらった。
ともかく、手もとに置かなくていいと思うと、肩《かた》の荷が下りた思いだった。
もちろん、塚原ならずとも、大金を家に置いておくというのは、気が重いことに違《ちが》いない。
特に、家族に知られないように、というのだから、なおさらだ。塚原がホッとしたのも当然だが、娘《むすめ》の明《あけ》美《み》が、七千万円のことを、ちゃんと承《しよう》知《ち》しているとは、もちろん思ってもいないのである……。
ところで、その明美は、学校の昼休み——
「何か変だよ、明美」
校庭をぶらつきながら、そう言ったのは、明美とは小学校からの親友という、大《おお》友《とも》由《ゆ》佳《か》である。
明美よりは大《だい》分《ぶ》大《おお》柄《がら》で少々太目でもあるが、メガネをかけた丸《まる》顔《がお》は、いかにも人が良さそうで、人気者だった。
「うん……」
明美の方は、確《たし》かに、いつになく元気がない。
「どうしたのよ?」
と由佳は、明美の肩《かた》を軽く叩《たた》いた。「明美らしくないよ。昨日《きのう》言ってた、『面白いこと』って何なの?」
「それがね」
と、明美はため息をついて、「あんまり面白くなかったの」
「へえ。どんな風に?」
「正《せい》確《かく》に言うと、面白いどころじゃない、ってことかな」
「かなり深《しん》刻《こく》?」
「まあね」
「お父さんの浮《うわ》気《き》、とか?」
「やめてよ」
明美は笑《わら》い出した。「そういう方面の心配は、まるでないんだ、うちは」
「じゃ、何なのよ?」
「うん……」
明美は、しばらく迷《まよ》っていたが、やがて足を止めると、由佳の方を向いて、「ね、絶《ぜつ》対《たい》秘《ひ》密《みつ》を守ってくれる?」
と言った。
「私を疑《うたぐ》ってんの?」
「そうじゃないの。でもね、これは少々やばいことかもしれないのよ」
「話して」
由佳は即《そく》座《ざ》に言った。「秘密ってのは、知ってる人が多くなればなるほど、危《き》険《けん》は減《へ》るのよ」
「サンキュー。そう言ってもらえると、気が楽だ」
「誰《だれ》もいない所へ行こう」
と、由佳が促《うなが》した。
——雑《ざつ》草《そう》が伸《の》び放題の裏《うら》庭《にわ》で、明美は由佳に事《じ》情《じよう》を説明した。
「じゃ、明美のお父《とう》さんが?」
「とっても信じられないわ」
と、明美は首を振《ふ》った。「お金って、その辺に放り出してあるわけじゃないでしょ? 盗《ぬす》み出すなんて器用な真《ま》似《ね》、父にできるはずないのよね」
由佳は、明美の言葉に肯《うなず》いて、
「じゃ、どういうことになるの?」
と、訊《き》いた。
「だから、あのお金を、もし盗《ぬす》んだんだとしても、父一人《ひとり》じゃないと思うの。きっと何人かでやったのよ」
「だけど……お父《とう》さんが、どうしてお金を盗むの? お宅《たく》、そんなに困《こま》ってるの?」
「そんなことない——と思うけど」
と、明美は、ちょっと自信なげに言った。「そりゃ、私だって、いつも家《か》計《けい》簿《ぼ》覗《のぞ》いてるわけじゃないけどね、そんなに苦しけりゃ、家の雰《ふん》囲《い》気《き》で分るもんじゃない?」
「そりゃそうね」
と、由佳は肯いた。「どこかから盗んだとしても、お父さんが落ちつき払《はら》ってるってのが不思議ね」
「そうなの。大体、そんなに度《ど》胸《きよう》のある方じゃないし、そんなことやったら、夜もうなされるタイプだもん」
明美も、父親の性《せい》格《かく》をよく呑《の》み込《こ》んでいるのである。
「会社のお金を横《おう》領《りよう》したとしても、盗んだのと変らないわよね」
「そうよ。それに横領って、たいていは、少しずつ、分らないようにやるもんでしょ? あんなにまとめてドカッと横領すりゃ、ばれないわけがないわ」
と明美は言って、大げさに首を振《ふ》った。「あーあ、親の非《ヽ》行《ヽ》化《ヽ》の心配しなきゃいけないなんて、子《こ》供《ども》稼《か》業《ぎよう》も疲《つか》れるわね」
由佳が吹《ふ》き出した。明美も一《いつ》緒《しよ》になって笑《わら》ってしまう。
「——でも、笑いごとじゃないわよ、明美。宝《たから》くじにでも当ったんならともかく、そんな大金、ろくなことにならないわ」
「私もそう思うの。でも、父に正面切ってそんなこと、訊《き》けないわ」
「そうねえ……」
由佳は考え込《こ》んで、「何かわけがあって、預《あず》かってるんだとしたら——」
「だったら、ホテルで食事したり、ピアノを買い替《か》えるとか言わないでしょ」
「そうか……。やっぱり怪《あや》しいわね」
「そう。そう思いたくはないけど、怪しいわよ」
と明美はため息をついた。
「もし、お父さん捕《つか》まったら、明美、どうする?」
「知らないわよ」
明美は肩《かた》をすくめた。「ともかく、人生、一番大切なのはお金じゃないってことを、父に教えてやらなきゃね!」