その女は、正《まさ》に「つむじ風」の如《ごと》く、病室へと襲《ヽ》来《ヽ》して来た。
病院の夕食は早い。——専《もつぱ》ら、人手の関係なのだろうが、ともかく外の明るい内から夕食では、なかなか食《しよく》欲《よく》も出ないというものである。
「そう。エミちゃんは、ずっと学校に行ってないの」
浦《うら》田《た》京子は、肯《うなず》きながら言った。
「今《こ》年《とし》になってからね」
エミが念を押《お》す。「去年は結《けつ》構《こう》行ってたんだけどなあ」
浅《あさ》倉《くら》エミ。——浦田京子の、隣《となり》のベッドの少女である。
「つまんないわね、それじゃ」
「学校に行ける子は、行きたくないって言うし、行けない子は行きたがるし、面白いね」
「そうね」
と、京子は笑った。
大分、痛《いた》みもおさまっていた。それに、この女の子と話をしていると、何だか気持が軽くなる。そういう天《てん》性《せい》のものを、少女は持っているようだった。
もちろん、京子も、エミの詳《くわ》しいことは聞いていない。
京子が入院してから、エミの所には誰《だれ》も家族がやって来ないので、何か事《じ》情《じよう》があるのだろうとは思っていたが、そこまで踏《ふ》み込《こ》むべきではない、という気持が京子にはあったのである。
どうせ、京子の方はそう長い入院ではないのだ。
「お姉《ねえ》ちゃんは、おつとめしてるんでしょ」
と、エミが訊《き》く。
京子は、この年齢《とし》で、「お姉ちゃん」と呼ばれて、くすぐったい思いだった。
「そうよ。ごく普《ふ》通《つう》の会社にね」
「お休みすると叱《しか》られる?」
「お病気のときは仕方ないわね」
「そうだね」
エミがちょっと肯《うなず》いて、「きちんと治した方がいいもんね」
と言った。
入《にゆう》退《たい》院《いん》をくり返しているらしい、この少女としては、そう言いたくなるのだろう。
「ええ、ちゃんと治るまではここに入ってるわ」
と、京子が笑《え》顔《がお》を見せる。
そのとき——病室のドアが、いやにけたたましい音を立てて開いた。
京子がそっちを振《ふ》り向いたときには、もうその女は、エミのベッドの方へと歩いて来ていた。
何とも場《ば》違《ちが》いな、毛皮のコートをはおり、ニワトリのトサカみたいな、珍《ちん》妙《みよう》な帽《ぼう》子《し》を頭にのせている。いかにも顔立ちからして派《は》手《で》な女《じよ》性《せい》だった。
年齢《とし》は三十そこそこ。もしかすると三十前かもしれない。京子は少々呆《あき》れて、その女性を眺《なが》めていた。
「どう?」
といきなりその女は言った。
「うん」
エミの方は、ただちょっと肯《うなず》いただけだった。
十歳《さい》の子にただ「どう?」と訊《き》いたって、返事ができるはずはない。見ていて、浦田京子の方が、ムッとしてしまった。
「色々忙《いそが》しくってね。来ようと思うんだけど、ついつい——」
毛皮のコートのその若《わか》い女は、ちょっと言い訳《わけ》がましく言って、「何か欲《ほ》しいものある? 何でも言いなさいよ」
「別にいいや」
エミの方は、あまり気のない様子だった。
「そんなこと言わないで、お菓《か》子《し》とかオモチャとか本とか言ったら? そういう風だから、可愛《かわい》げがないなんて言われるのよ」
女は病室中に響《ひび》きわたるような、甲《かん》高《だか》い声で言った。他の患《かん》者《じや》がいることなど、忘《わす》れてしまっているようだ。
エミの方が、よほど気にしているらしく、チラッと京子の方へ目を向けた。それから、エミは女の方へ向いて、
「パパは?」
と訊《き》いた。
「今日《きよう》、アメリカから帰るわ。でも明日《あした》、九州に行くとか言ってたからね。ここへ来られるかどうか分んないわよ」
「うん。いいけど……」
「いい子にして、早く良くなることね」
女はブレスレット型の腕《うで》時《ど》計《けい》を見ると、「あ、もう行かなきゃ。ちょっとお約《やく》束《そく》があるの。——何か、食べたいもんでも思い付いたら、電話しなさい。分った?」
「うん」
「じゃあね」
女は、毛皮のコートが旗のようにひるがえるかという勢いで、病室から出て行ってしまった。バタン、と音をたててドアが閉《しま》る。
何と無《む》神《しん》経《けい》な! 京子は腹《はら》が立った。
その女がいなくなると、急に病室が静まり返った。いや、元に戻《もど》っただけなのだが、いやに静かになったように思えたのである。
いかにあの女の声がやかましかったか、ということだ。
エミの方を見ると、向うもこっちを見ていた。——二人は何となく笑《え》顔《がお》になった。
「うるさくてごめんね」
と、エミが言った。
「いいわよ」
京子は首を振《ふ》って、「あの人は?」
「ママ」
「そう!——お若いのね」
「二度目のママ。まだ三十くらいだよ」
「そうなの。若《わか》いから元気がいいのね」
「もう少し元気がなくなるといいんだけど……」
エミがため息をついた。それがいかにも大人《おとな》みたいで、京子はちょっとドキリとした。
まだ少し痛《いた》みはあったが、京子は、あまりじっとしているのも却《かえ》って苦《く》痛《つう》だったので、屋上に出てみることにした。
誘《さそ》ってみると、エミも喜んでついて来た。
屋上は、よく陽《ひ》が当って、暖《あたた》かい。風も、ほとんどなかった。シーツや寝衣《ねまき》が、所狭《せま》しと干《ほ》してある。
古ぼけたベンチに腰《こし》をおろして京子は息をついた。——こんなにのんびりした気分を味わうのは、何年ぶりのことだろう。
病気になって、やっとのんびりできるなんて、何だか惨《みじ》めな感じだが、それが普《ふ》通《つう》の勤《つと》め人というものなのかもしれない。
エミは、洗《せん》濯《たく》物《もの》の間を、一人で隠《かく》れんぼでもしているように、歩き回っている。
あれは、どういう子なのだろう。——家自体は金持らしい。たぶん母親が亡《な》くなって、父親が若《わか》い女と再《さい》婚《こん》した、というところか。
あの毛皮のコートにしても、ブレスレットの宝《ほう》石《せき》にしても、安いまがい物でないのは京子にも分った。
父親は、多《た》忙《ぼう》なビジネスマンか、でなければ何か事業をしているか……。
京子は頭を振《ふ》った。いけない、いけない。人のことに、関《かかわ》り合ってはいけないのだ。私は私。一人で生きて来たのだから、誰《だれ》とも、距《きよ》離《り》を置かなくては……。
それは京子の人生哲《てつ》学《がく》でもあった。だからこそ、危《き》険《けん》を犯《おか》しても、お金を手に入れたかったのだ。
ぜいたくをするためではなく、誰にも頼《たよ》らずに生きて行くために。
「あら、エミちゃん、珍《めずら》しい」
と声がした。
エプロンをかけた、四十がらみの女《じよ》性《せい》で、もう八十近いかという老人ののった車椅《い》子《す》を押《お》して、京子のそばに来ていた。
老人は、居《い》眠《ねむ》りをしている。京子は声をかけてみた。
「あの女の子、ご存《ぞん》知《じ》ですか」
「ええ。もうずいぶん長いんですよ」
と、その女《じよ》性《せい》は肯《うなず》いて、「うちの父も長いけど、あの子はその前からだから」
「そうですか……」
京子は、少し離《はな》れた所にいるエミの方へ目をやった。「今、同じ病室にいるものですから」
「じゃ、あのスピッツみたいなお母《かあ》さんもご覧《らん》になった?」
「スピッツ?」
「ええ、キャンキャンほえるでしょ」
京子は、思わず笑《わら》い出していた。
「ええ、さっき。——本当に、『ほえる』って感じでしたね」
「名物なんですよ。でもあの子もねえ……可哀《かわい》そうに」
と、エミの方へ目をやって、その女性は、「もう助からないってことだから」
と言った。
京子は、愕《がく》然《ぜん》とした。
そのマンションに着いたとき、津《つ》村《むら》はもうヘトヘトだった。
それに引きかえ、華《はな》子《こ》の方は、歩き回る度《たび》に、それだけ元気になるみたいだ。生物学的にそんなことがあるのだろうかと津村は疑《ぎ》問《もん》に思った。
もちろん、体力だって足の丈《じよう》夫《ぶ》さだって、華子に負けないだけの自信はある。いや、かなり上回っているつもりだった。
それでいて——マンションのロビーへ入って行く華子の、颯《さつ》爽《そう》とした足取りに比《くら》べて、津村の方は、ほとんど、よろけていると言ってもいいくらいだった。
「ここ、素《す》敵《てき》じゃないの! ねえ、あなた、どう?」
「うん……」
津村としては、どうでもいいという気分だった。「ともかく、どこかに座《すわ》りたい!」
「いやねえ、まだたった三つ見て回っただけじゃないの」
これまでの所、華子の気に入った物《ぶつ》件《けん》はなかった。建売にしても、マンションにしても、確《たし》かに津村の目から見ても、安っぽい印象だったのである。
それに比べると、ここはなかなかしっかりした造《つく》りのように見える。
「これは、津村様で」
と、見るからに営《えい》業《ぎよう》マンという様子の男が軽やかな足取りでやって来る。
も《ヽ》み《ヽ》手《ヽ》でもしかねない感じである。
「ちょっと遅《おそ》くなってしまって——」
「いえいえ、とんでもありませんです。お疲《つか》れでございましょう。ともかく、一息お入れ下さい」
ありがたい! 津村はホッと息をついた。
「いえ、早くお部《へ》屋《や》の方を見せていただきたいわ」
華子は、夫のバテ気《ぎ》味《み》な様子には一向頓《とん》着《ちやく》せずに言った。「休むのはその後で。ねえ、あなた?」
「う、うん……」
目が回りそうなのを、津村は何とかこらえて、言った。
——津村が、管理人室のソファにドカッと身を沈《しず》めたのは、その四十五分後のことだった。もう二度と立ち上れないんじゃないかという気がした。
「お疲《つか》れさまでございました」
と、マンション会社の男は、愛想がいい。「こういうものを見て歩くのは、本当に疲れるものでございますからね。——お腹《なか》の方はいかがでございますか? 何でしたら、うな重でもお取りしましょう」
「お願いします!」
津村が思わず悲《ひ》痛《つう》な(?)叫《さけ》びを上げると、同時にお腹がググーッと鳴った。
「——ここは、本当にお買得《どく》でございますよ」
と、マンション会社の男は言った。
「私もそう思うわ!」
華子が目を輝《かがや》かせて肯《うなず》いた。
このマンションは新《しん》築《ちく》ではない。
しかし、まだ古いというほどでもなく、特に、売りに出ている部《へ》屋《や》は、もともと他にいくつも家を持っている金持のもので、ろくに住んでもいなかったというだけに、至《いた》ってきれいなものだったのである。
しかも、その割《わり》には値《ね》段《だん》も安い。——華子が気に入るのも、当然といえば当然だった。
団《だん》地《ち》住いに慣《な》れた身には、一戸建ての家というのは、何かと煩《わずらわ》しいことも多いのだ。
「いや、実はもう何人もの方が、ご覧《らん》になっておりましてね」
と、マンション会社の男は言った。「まあ、これは正直なところですが、今日《きよう》、明《あ》日《す》にも売れておかしくない物《ぶつ》件《けん》なんです。ですから、もし、心が動かれたようでしたら、早目にご検《けん》討《とう》いただいて、ご返事下さるとありがたいのですが……」
これは、営《えい》業《ぎよう》マンの得《とく》意《い》な手である。それぐらいのことは、聞かされる方だって分っている。しかし、分っていても、それが絶《ぜつ》対《たい》にでたらめだとは言い切れないのが、弱いところなのだ。
「私、気に入ったわ!」
と、華子は断《だん》言《げん》した。「こういうものって、タイミングがあるのよ」
「その通りでございます。奥《おく》様《さま》のおっしゃるように、こういうことには、縁《えん》というものがありまして——」
確《たし》かに、津村も、ここは悪くないと思っていた。少なくとも、駅からの距《きよ》離《り》にしても、せいぜい歩いて七、八分だし、通《つう》勤《きん》時間もいくらか短くなる。
商店街《がい》もすぐ近くだし、その割《わり》には、周囲も静かだった。条《じよう》件《けん》的《てき》には、まず申し分ない。しかし、何といっても、安い買物ではないのだ。やはり、よく考えてからでないと……。
「ねえ、あなた」
と、華子が言った。「今、決めちゃいましょうよ」
「決めるって、何を?」
「ここを買うことよ」
「おい——」
津村が仰《ぎよう》天《てん》して華子を見る。
正にタイミングよく、うな重が届《とど》いた。
人間、気が大きくなるときが二つある。
一つは、やけになって、どうにでもなれ、という気分のとき。もう一つは満ち足りて、何だか偉《えら》くなったような気になったときである。
津村の場合、「やけ気《ぎ》味《み》」から「満足感」へと、途《と》中《ちゆう》の段《だん》階《かい》を経《へ》ずに、いきなり移《い》行《こう》したのだった。
どっちにしても「どうにでもなれ」という気分なのである。その二乗で、正に、いつになく気が大きくなっていた。
「ねえ、あなた……」
華子がちょっと甘《あま》えた声を出す。
「まあいいだろう」
津村はちょっと胸《むね》をそらして言った。
もう、夜も九時ごろとなると、病院の中はひっそりと静かになって来る。
もちろん、みんながみんなというわけではなくて、TVを見ている人もいるし、ラジオの野球中《ちゆう》継《けい》などを聞いている患《かん》者《じや》もいた。
しかし、何となく病院全体が、眠《ねむ》りにつくという雰《ふん》囲《い》気《き》になって来るのである。——それだけに、却《かえ》って、ちょっとした物音も耳につくということもあるのだが……。
浦《うら》田《た》京子は、もちろん眠る気にもなれなかったが、といって、週《しゆう》刊《かん》誌《し》や雑《ざつ》誌《し》をめくる気にもなれなかった。
隣《となり》のベッドでは、浅倉エミが、静かな寝《ね》息《いき》をたてている。京子は、視《し》線《せん》でエミが目を覚《さ》ますかもしれないと心配でもしているように、そっと目をそっちへ向けた。
確《たし》かに、エミの顔色は良くない。しかし、それは当り前のことで、入院するくらいなのだから、どこか具合が悪いに決っているのだ。
しかし——まさか、命にかかわるような病気だとは、思ってもみなかった。
この子が、もう助からない? 死んでしまうなんて、本当だろうか?
信じられない! 京子は、大きく息をついた。これが夢《ゆめ》でありますように……。
病室のドアが、そっと開いた。京子が目を向けると、四十代の半ばくらいと思える男《だん》性《せい》が、顔を覗《のぞ》かせ、それから静かに中へ入って来た。
会社帰りらしい、スーツ姿《すがた》で、手にコートをかけて持っている。
その男《だん》性《せい》は、京子の方へちょっと、目を向けて、会《え》釈《しやく》すると、エミのベッドの方へと歩み寄って行った。
京子は、その紳《しん》士《し》が、眠《ねむ》っているエミの顔にじっと見入っているのを、あまり気付かれないように、そっと横目で見ていた。
五、六分もそうしていただろうか、その紳士は、ちょっと息をつくと、足音を立てないように気を付けながら、病室を出て行った。
京子は、ベッドから出ると、スリッパをはいて、病室を出た。廊《ろう》下《か》を歩いて行く、紳士の後ろ姿《すがた》が見える。
早足に追いつくと、
「失礼ですけど——」
と、京子は声をかけた。
その紳士が振《ふ》り向く。
「浅倉エミちゃんのお父《とう》様でいらっしゃいますね」
と、京子は言った。
「ええ。そうです」
「エミちゃんを起こしてでも、お話しして行かれた方がいいと思います。——他人の私が、さしでがましい言い方ですけど」
「しかし——」
「後で、エミちゃんがおいでになったと知ったら、可哀《かわい》そうですわ」
京子の言葉に、エミの父親は、ふと目を伏《ふ》せた。