昼休みのチャイムが鳴ると、塚《つか》原《はら》は、大きく伸《の》びをして、ゆっくりと席を立った。
物《ぶつ》価《か》高で、昼食代も馬《ば》鹿《か》にならない。この二、三年、中年の男性社員たちにも、弁《べん》当《とう》持参組が増《ふ》えた。
一向に値《ね》上《あ》げされない小づかいの目《め》減《べ》りを少しでも食い止めようという、ささやかな抵《てい》抗《こう》である。中には、いつも前の晩《ばん》のおかずがお弁当になるので、
「ゆうべ、今朝《けさ》、昼、と三食、同じものを食うんだぜ、全く!」
とこぼす者もある。
しかし、それに堪《た》えて、小づかいをあまらしておかないと、一《いつ》杯《ぱい》やって帰る回数を減《へ》らすことになるのだ。
こういう中年組を除《のぞ》くと、弁当持参なのは若《わか》い女の子たちである。チャッカリ親に作ってもらって、月給をまるまる小づかいにしよう、というわけだ。
エレベーターの前に立っていると、給湯室から、お茶を運んで来る女の子がいた。
ごく最近、入社した子だ。——課が違《ちが》うので、塚原は名前を憶《おぼ》えていなかった。それでも、何となく視《し》線《せん》が合って微《ほほ》笑《え》みを交わす。
「課長さん、いつもどこで食事されるんですか?」
と言われて、塚原は、つい笑《わら》ってしまった。
「あら、何か変なこと言いました、私?」
と、大きなクリッとした目をますます大きくする。
「いや、申し訳《わけ》ないけどね、僕《ぼく》は係長なんだよ」
と塚原が言うと、
「えっ?——すみません!」
ペロッと舌《した》を出して、「でも、とっても落ちついてらっしゃるから……。すみません、失礼なこと言っちゃって」
「いいんだ。これが、下に見られちゃガックリだけどね」
塚原はそう言って、「君、何ていったっけ?」
「南《みなみ》千《ち》代《よ》子《こ》です」
ペコンと頭を下げる。——可愛《かわい》い娘《むすめ》である。小《こ》柄《がら》で、ちょっと小太りな印象だが、丸《まる》顔《がお》なので、バランスが取れていた。笑うと、両《りよう》頬《ほお》に、きれいに、針《はり》でつついたようなえ《ヽ》く《ヽ》ぼ《ヽ》ができる。
そこへエレベーターが来た。——別に言うこともないので、塚原はちょっと肯《うなず》いて見せただけで、エレベーターに乗り込んだ。
南千代子は、会《え》釈《しやく》して、オフィスの方へ歩いて行く。エレベーターの扉《とびら》が閉《しま》る。
塚原の顔に、また、笑《え》みが浮《うか》んだ。なかなかいい娘《むすめ》だな。
今の若《わか》い子にしては、言葉づかいもきちんとしている方だし、それに、服《ふく》装《そう》なども、至《いた》って地味である。
地味なワンピースなども、ああいう子が着ると、若さを際《きわ》立《だ》たせる効《こう》果《か》があるんだな、と塚原はエレベーターの中で考えていた。
塚原は、静かなレストランで昼食をとった。もちろん、以前なら、めったに——月給日くらいしか、入ることのない店だった。
それが、このところ毎日のように利用している。
あの金が手に入って、十日たつ。——塚原も、大分気分が落ちついて来ていた。
「コーヒーをお持ちしましょうか」
店のマスターらしい男が、声をかけて来る。
「ああ、頼《たの》むよ」
と、塚原は肯《うなず》いた。
店の方でも、塚原の顔を憶《おぼ》えてくれているのである。それは、なかなかの快《かい》感《かん》だった。
塚原は、のんびりと、椅《い》子《す》に座《すわ》り直した。
——まず、危《き》険《けん》は去った、と思っていいかもしれない。
といっても、たった十日だ。もちろん安全というわけではない。しかし、犯《はん》行《こう》が、直後にばれる、ということは、なかったのである。
手がかりを残したり、目につく行動はなかった、ということだ。つまり、犯《はん》人《にん》を探《さが》す側から見れば、これは長期戦になったのである。
あまり派《は》手《で》に金をつかいまくったりしなければ、まず大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》だろう。怪《あや》しまれている気配もない。
浦《うら》田《た》京子も、もう退《たい》院《いん》していた。経《けい》過《か》は良《りよう》好《こう》ということで、数日中には出社して来るだろう。
塚原も、徐《じよ》々《じよ》に自分が変わりつつあるのを、感じていた。疲《つか》れることが少なくなったのである。
余《よ》裕《ゆう》というか、自信というか、ともかく、少々のいやなことには寛《かん》大《だい》に目をつぶることができるし、腹《はら》が立つばかりだった上司も、憐《あわれ》みの目で見ることができるようになった。
妻《つま》の啓《けい》子《こ》にも、この前の日曜日には、
「何だかあなた、顔のツヤが良くなったみたいよ」
と言われたばかりだ。
金も多少、つかっている。もちろん、小づかいに少々加えるくらいだが、その何枚《まい》かの一万円札が塚原の気持を、ぐっと落ちつかせるのだ。
——コーヒーを飲んでいると、津《つ》村《むら》が入って来た。
まだ一時の始業には十五分ある。塚原は声をかけようとして、やめた。津村は一人ではなかったのだ。
一《いつ》緒《しよ》にいる男は、どこかの営《えい》業《ぎよう》マンという感じだった。至《いた》って愛想がいいし、しゃべり方も、そういう印象を与《あた》える。
塚原は、少し奥《おく》まった席にいたので、津村の方では気付かなかった。その男と二人してテーブルにつくと、飲物だけを取って、それから何やら書類を広げて話を始めた。
いや、あれは図面だ。——何だろう?
塚原の席からは、二人の話は聞き取れなかったが、どうやらそれは、家の見取図のようだった。
塚原はいささか当《とう》惑《わく》していた。
津村が家の図面を?——何のために?
いくら塚原でも、まさか津村がもうマンションを買い込むと決めてしまったなどとは、思いもしないのである。
しかし、津村と話している男は、どう見ても、客に接《せつ》している態《たい》度《ど》だった。売り込んでいるのだろうか?
いや……そうではない。津村が、図面を指して、あれこれ言っている。相手が、
「できますよ、それなら」
と言っているのが聞こえて来た。
営業の人間の声はよく通るのだ。
あれはどうやら、家の改《かい》造《ぞう》を指示しているところらしい。
話は、ほんの五、六分で済《す》んだ。相手の男は忙《いそが》しそうで、先に伝票を持って、出て行ってしまった。津村は、腕《うで》時《ど》計《けい》を見て、あと五分ぐらいは大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》と見たのか、コーヒーをゆっくり飲み始めた。
塚原は、席を立って、津村のテーブルの方へ歩いて行った。
「津村君」
津村が顔を上げて、ギョッとしたように目を見張る。——白《はく》状《じよう》したようなものだった。
「——申し訳《わけ》ありません」
と、津村は頭をかいた。「そんなわけで、ついフラフラと……」
「そうか」
塚原はため息をついた。——まあ、津村の気持も分らないではない。
特に、奥《おく》さんに見付かってしまったのでは、そう言い抜《ぬ》けるしかなかっただろう。
「浦《うら》田《た》さんに知れたら、大目玉ですね」
と、津村が言った。
「いや、問題はそんなことじゃない」
と塚原は首を振《ふ》った。「我々三人の間なら、別に知ってたってどうってことはない。ただもし社長の方に知れたら——君の財《ざい》力《りよく》で、マンションを即《そつ》金《きん》で買えるわけはないからな」
「その辺は、何とか言い訳《わけ》を考えとくつもりです」
「うん。二、三日の内に、浦田君も出て来る。そしたら、一度三人で集まって相談しよう」
塚原は息をついて、「やれやれ、もう一時十五分だ。早いとこ会社へ戻《もど》ろう」
——二人はレストランを出た。
「会社の近くで、マンション会社の人間と会ったりしない方がいいぞ」
と、急ぎ足で歩きながら、塚原は言った。
「分ってます。今日は急に電話して来て……。ちょっと部《へ》屋《や》を手直しするので、そのことでどうしても、と……」
「それから、奥《おく》さんだ。絶《ぜつ》対《たい》に口外しないように言い含《ふく》めておかないと」
「それはもう。——僕《ぼく》の話通り、拾ったものだとしても、使っちまうのは違《い》法《ほう》ですからね」
「それならいいが」
初めて、塚原の胸《むね》に、不安が芽《め》生《ば》えて来ていた。
もう、明日《あした》からは出社しなくては。
タクシーの中で、浦田京子はそう考えていた。——こんな風に出歩いたりしているのだから。
「すっかり怠《なま》けぐせがついちゃったわ」
と、京子は呟《つぶや》いた。
手《しゆ》術《じゆつ》のあとも、もうほとんど痛《いた》まない。倒《たお》れたときは大《おお》騒《さわ》ぎだったが、その割《わり》に、後は順調だった。
退《たい》院《いん》してから、アパートの人たちには、一通りお菓《か》子《し》を持って回った。もちろん、救急車を呼《よ》んでくれた人には別にお礼をした。
その辺、京子はきっちりしているのだ。
昨日《きのう》は、久しぶりに部《へ》屋《や》の片《かた》づけまでやってしまった。もちろん、体にさわるといけないので、ほどほどにはしておいたのだが。
「あ、その先を右へ行って下さい」
と、京子は運転手へ声をかけた。
ヒヤリとした。うっかり、曲るべき角を通り過《す》ぎてしまうところだった。
「——その病院の前で。——どうも」
料金を払《はら》って、降《お》りる。反《はん》射《しや》的《てき》に腕《うで》時《ど》計《けい》を見た。四時か。もちろん、まだ面会時間だ。
五時になると、夕食が出る。ちょうどいい時間だろう。
病院の玄《げん》関《かん》へと歩いて行くと、中から出て来た男と顔を見合わせた。
「あ——」
京子の方は、すぐに気付いた。浅倉エミの父親だ。しかし、向うは一《いつ》瞬《しゆん》考えている様子だった。
「——あ、エミと同じ病室にいらした方ですね」
やっと気付いて、照れたように頭をかいた。「失礼しました。もう退院された、とエミから聞きましたが」
「ええ。——ちょっとエミちゃんのお顔を、と思って」
「そうですか。じゃ、わざわざ——」
「退《たい》院《いん》のとき、あわただしかったものですから、気になって」
「それはどうも。ただ……今、エミはちょうど検《けん》査《さ》で病室にいないんです」
「まあ。そうですか」
京子は、ちょっとためらって、「すぐ、戻《もど》られるんでしょうか?」
「一時間ぐらいはかかると思います。私はそれが済《す》むまではいられないものですから、出て来たところなんです」
「分りました。じゃ、どこか近くで待っています」
と、京子は微《ほほ》笑《え》んで言った。
「そうしていただけると、きっとエミも喜びます」
浅倉は、ホッとしたように言った。「三十分ほどでしたら、ご一《いつ》緒《しよ》にお茶でも——いや——もしよろしければですが」
「私は別に……」
京子にしては珍《めずら》しく、曖《あい》昧《まい》な口調になっていた。
病院の周囲には、薄《うす》汚《よご》れて、入る気のしないスナックしかなく、京子は、浅倉の車で、少し離《はな》れた店に行った。
「——ちゃんと病院までお送りしますから」
ちょっと洒落《しやれ》た喫《きつ》茶《さ》店《てん》に入って、浅倉はやっと少しのんびりした様子になった。
「お忙《いそが》しいんでしょう?」
と、京子は訊《き》いた。
「いつものことです。予定ばかりが詰《つま》っていて」
と、浅倉は微《ほほ》笑《え》んだ。
京子は、エミの様子を訊いてから、少し間を置いて、言った。
「——この間は、申し訳《わけ》ありませんでした。出しゃばったことをしまして」
「いや、とんでもない!」
浅倉は強い調子で言った。「あなたには感《かん》謝《しや》しています。本当ですとも。エミのあの嬉《うれ》しそうな顔を見たら……。あのまま、起こさずに帰っていたら、本当に恨《うら》まれるところでした」
「そうおっしゃっていただけると、私も気持が……」
京子は、ちょっと表の方へ目をやった。
「——ともかく、ほとんど東京にいない身ですので」
と、浅倉は軽く息をついた。「家内が、いつもエミの所へ行ってやっているとばかり思っていました。当人もそう言っていたし」
紅《こう》茶《ちや》が運ばれて来た。京子は、小さじに半分くらいの砂《さ》糖《とう》を入れて、静かにかき混《ま》ぜた。
「奥《おく》様《さま》を責《せ》めてはお気の毒ですわ」
と、京子は言った。「ご自分の生活もおありですし、それに、エミちゃんも、充《じゆう》分《ぶん》になついていないようですもの」
「ええ。それは仕方のないところもありますが……」
「エミちゃんは、奥《おく》様《さま》のことはそう気にしていないみたいです。ただ、パパに会いたいんだなということだけ、とても強く感じます」
「ずっと一《いつ》緒《しよ》にいてやれたら、と思いますが——そうも行きません」
浅倉は、沈《しず》んだ口調で言った。それから、京子を見つめて、
「優《やさ》しい方ですね、浦田さんは」
「とんでもない。ただ——エミちゃんに、色々とお世話になったので」
「エミの話では、お一人でお住いとか」
「はい。勤《つと》めてますの。今は休んでいますけど」
「そうですか」
——何となく、話が途《と》切《ぎ》れた。
京子は、なぜか真直《まつす》ぐに浅倉の顔を見ることができなかった。いつになく「あがって」いる自分を感じた。
しっかりして! 女学生じゃあるまいし。
「あの——」
「僕《ぼく》は——」
二人は同時に話し始めて、言葉を切ると、一《いつ》緒《しよ》に笑《わら》い出してしまった。
「僕は、明日《あした》の夜から、またアメリカへ発《た》たなくてはなりません」
と、浅倉は言った。
「まあ、そうですか」
「一週間ほどで戻《もど》るんですが……」
浅倉は、少しためらってから、コーヒーカップを両手で包むように持ちながら言った。「明日《あした》は、どこかへいらっしゃいますか」
「明日——ですか」
京子は、当《とう》惑《わく》して、「もう、出社しませんと。あまり会社に迷《めい》惑《わく》もかけられません」
「そうですか。いや、よく分ります」
浅倉は急いで言って、「実は——もしお時間があれば、お昼の食事でもご一《いつ》緒《しよ》に、と思って」
「私と? まあ、そんな……」
「いや、エミがとても喜んでいまして。せめてお礼の気持だけでもと思ったものですから。もちろん、お勤《つと》めがおありでは、仕方ありません」
京子は、頬《ほお》が熱くほてっているのを感じた。
「奥《おく》様《さま》がおられるんですから、奥様と——」
「あいつはどこかの仲《なか》間《ま》と旅行に出ています」
浅倉はちょっと苦《く》笑《しよう》した。「もう少し家庭的な女かと思っていたんですが、大分当てが外れまして」
「まあ、そんなことおっしゃってはいけませんわ」
と、京子は少し強い口調で言った。「私は赤の他人です。相手をお考えにならないと」
浅倉は、ハッとしたように京子を見た。
「——全くです。申し訳《わけ》ありませんでした」
京子は、なぜあんなに、むきになって言ったのだろう、と自分でも不思議だった。
「ご自分でお選びになった奥《おく》様《さま》なんですから」
「郁《いく》江《え》は——ああ、家内の名前ですが、悪い奴《やつ》ではないんです。ただ、子《こ》供《ども》っぽいといいますか、すぐ調子に乗ってしまう性《せい》格《かく》でしてね」
「まだお若《わか》いんですもの」
「そうですね」
——それから、話は浅倉の仕事のことに移《うつ》った。
二十分ほど話をして、二人はその店を出た。浅倉の車で、また病院へと向う。
ほんの五分の道が、いやに長く、京子には感じられた。——いいじゃないの、と心の中で声が聞こえた。
たまには、男の人と食事するぐらいのことしたって。せっかく思い切って、大金をつかんだのに。いつまでも、そう引《ひつ》込《こ》み思案じゃ仕方ないわよ。
でも、いい。私はこういう女なのだから。京子は自分にそう言い聞かせた。
病院の前で、京子は車を降《お》りた。浅倉の車が遠ざかって行くのを見送って、京子の胸《むね》が、ちょっとしめつけられるように痛《いた》んだ。