「係長、お電話です」
朝、まだ九時早々である。
出《しゆつ》勤《きん》して来たものの、どうも眠《ねむ》気《け》が残って頭がスッキリしないので、塚《つか》原《はら》はトイレで顔を洗って来たのだった。といって、別に体調が悪いわけではない。
今朝《けさ》は妻《つま》の啓《けい》子《こ》の方も寝《ね》不《ぶ》足《そく》で——要するに昨夜、少々頑《がん》張《ば》った挙《あげ》句《く》の寝不足なのである。二人《ふたり》して朝、欠伸《あくび》ばかりしているので娘《むすめ》の明《あけ》美《み》に、
「ギックリ腰《ごし》なんかにならないでよ」
と冷やかされてしまった。
「——電話? 誰《だれ》から?」
と、席の方へ戻《もど》りながら、塚原は訊《き》いた。
「浦《うら》田《た》さんです」
「おお、そうか」
塚原は急いで受話器を取った。「——やあどうだね、具合は?」
「ご迷《めい》惑《わく》をかけて申し訳《わけ》ありません」
いつもながらの几《き》帳《ちよう》面《めん》な浦田京子の声が聞こえて来た。
「いや、そんなことは心配しなくていいよ。それで、どんな様子?」
「ええ、もう大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》です。——今日《きよう》から出社するつもりでいたんですが……」
「無《む》理《り》をするなよ」
「はい。ちょっと色々、整理したいこともありまして、明日《あした》から、出社させていただきます」
「そうか。分った。まあ、ともかく完全に治すことを考えてくれ」
「ありがとうございます」
浦田京子は、少し間を置いて、「会社の方で、何か変ったことはありませんか」
と訊《き》いて来た。
「うん。別に、これといってないね」
「そうですか。では、明日」
浦田京子からの電話が切れて、塚原は少し考え込《こ》んだ。
何もない、か。——果《はた》してそうだろうか?
津村は早々とマンションを買い込んでしまうし、自分だって、このところ、高いレストランばかり昼食に利用している。
こんなことだって、はた目には、自分で考えているより、ずっと目立つものかもしれない。
また、少しその辺のそば屋にでも行って、ザルソバの昼食にしておこうか。いや、そうすると、却《かえ》って、珍《めずら》しいので目につくことも考えられる……。
塚原は少々考えすぎる傾《けい》向《こう》があるのだ。
ちょうど外出する用事があったので、塚原には、ありがたかった。頭を悩《なや》ませていても仕方ない。
「戻《もど》りは午後だよ」
と、言っておいて、塚原はエレベーターホールの方へ歩いて行った。
「おい、塚原君」
と、呼《よ》ぶ声に振《ふ》り返ると、同期の野《の》田《だ》がやって来る。
その後からついて来るのは、南千代子だった。
「おい、塚原君、特《とつ》許《きよ》庁《ちよう》へ行くんだって?」
と野田が言った。
「うん。何か用かい?」
「悪いけどな、この子、連れてってやってくれないか」
と、南千代子の肩《かた》を軽く叩《たた》く。「ちょくちょく行ってもらうことになりそうなんだが、まだ連れてってないんだよ」
「そうか。構《かま》わんよ。一度行きゃすぐ分る」
と、塚原は肯《うなず》いた。
「よろしくお願いします」
南千代子が、ピョコンと頭を下げた。
——爽《さわ》やかな晴天で、仕事で出歩くのが、もったいないような陽気だ。
塚原は、地下鉄の乗り口を教えたり、どの辺に乗れば、乗り換《か》えのときに便利かを説明しながら、アッという間に目的地に着いた。
塚原の用事も、意外に簡《かん》単《たん》に済《す》んだ。もちろん、小一時間はかかったのだが、何といっても向うはお役所である。ひどいときは二時間も待つことがあった。
「——やあ、待たせたね」
ホールをぶらついている南千代子へ声をかける。
「あ、もう終ったんですか」
「うん。——まだ昼前だな。どうしようか」
「私、どうでも……」
「昼食でも食べてから戻《もど》るか。君、誰《だれ》かと約《やく》束《そく》でも?」
「いいえ」
と、南千代子は首を振《ふ》った。「いつも何人かで一《いつ》緒《しよ》に食べに行くんですけど、今日《きよう》は午後にならないと帰らない、って言って来ましたから」
「そうか。じゃ、どこかに入ろう」
といって、塚原もこの辺《あた》りには詳《くわ》しくない。
迷《まよ》ったって、いい考えが浮《うか》ぶほど、店を知らないのだ。塚原は、この前、啓《けい》子《こ》と明《あけ》美《み》を連れて行った、ホテルのレストランを思い出した。
「じゃ、ホテルにでも行こうか」
と、塚原は歩きながら言った。
「え?」
南千代子が、足を止めて、塚原をキョトンとした顔で、見つめている。
「おい、どうしたんだ?」
「だって——そんなこと——いきなりホテルなんて言うから……」
塚原の方が、今度は面《めん》食《く》らった。
「おい、冗《じよう》談《だん》じゃないよ! 僕《ぼく》はただ、食事しようと言ってるだけだぜ」
「え?——なあんだ!」
南千代子は、キャッキャ、と、けたたましい声を上げて、笑《わら》い転げた。そばを通って行く人たちが、目をパチクリさせて眺《なが》めて行くので、塚原はきまりが悪くて仕方なかった。
「ああ、おかしい!」
やっと笑いが途《と》切《ぎ》れると、南千代子はニッコリ笑った。
ホテルのレストランに入ると、そろそろ昼食時とはいえ、さすがに空《す》いている。
「へえ、塚原さん、素《す》敵《てき》な所、知ってるんですねえ」
と、南千代子は、店の中を見回しながら言った。「意外だったなあ」
「そんなに貧《びん》乏《ぼう》くさく見えるかい?」
「あら、そんなつもりで言ったんじゃないんです。気を悪くしました?」
「いや、そんなことはないよ」
と、塚原は笑《わら》った。
実《じつ》際《さい》、何を言われたって、本気で怒《おこ》る気にはなれない。どっちかといえば、南千代子は塚原自身よりも、娘《むすめ》の明美の方に近い年代なのだ。
「塚原さんって、もてるんでしょうね」
食事をしながら、南千代子がそんなことを言い出した。
「あんまり年《とし》寄《よ》りをからかうなよ」
「あら、そんなこと!」
「僕《ぼく》は出世の見《み》込《こ》みもない中間管《かん》理《り》職《しよく》だぜ。エリートでもないし、カッコ良くもないし、生活に疲《つか》れて……」
何だか、自分でも、しゃべっている内に、惨《みじ》めな気分になって来た。
「今は、世界を飛び回るエリートなんて、はやらないんですよ」
「そうかね」
「だって、いくら英語ペラペラのエリート商社員だって、サラリーマンには違《ちが》いないじゃありませんか。お給料もらって、安いランチを食べて。——カラオケバーに行けば、上役の下《へ》手《た》な歌にだって、拍《はく》手《しゆ》しなきゃいけないのは、同じでしょ。だったら、最初から出世なんて狙《ねら》わないで、そこそこに働いて、人生を楽しむ人の方が勝ちですよ」
「へえ」
今の若い子の考え方は、変って来てるのかな、と塚原は思った。
「それに、エリートなんかと結《けつ》婚《こん》したら、不幸だわ。ろくにうちにはいない、帰りは夜《よ》中《なか》、朝は早くて、日曜日はゴルフ……。奥《おく》さんのことなんか、ちっとも構《かま》ってやらない」
「まるで経《けい》験《けん》者《しや》みたいだね」
と、塚原が微《ほほ》笑《え》みながら言うと、南千代子は、ちょっといたずらっぽい顔で、
「塚原さんにだけ、言っちゃおかな」
と言った。
「何だい?」
「私ね、年《とし》上《うえ》の人と同《どう》棲《せい》してたこと、あるんです」
塚原は唖《あ》然《ぜん》とした。とてもそんな風《ふう》には見えない。——いや、「そんな風」と言ったって別にそれが 「どんな風」だか、はっきりしたイメージがあるわけでもないのだが。
「それこそエリートビジネスマンとね。でも、結《けつ》局《きよく》はグチの聞き役。馬《ば》鹿《か》らしくなっちゃって。——三か月で別れちゃった」
こうもアッケラカンと言われると、塚原としても、説《せつ》教《きよう》じみたことを言う気には、なれない。
塚原はちょっと咳《せき》払《ばら》いして、
「結《けつ》構《こう》、君も——苦《く》労《ろう》したんだね」
と言った。
南千代子は吹《ふ》き出してしまった。
「苦《く》労《ろう》なんてしてません。だって、好きで同《どう》棲《せい》して好きで別れたんですもの。——好きで別れた、って何かおかしいですね」
「ふむ……」
もはや、塚原の理解力の範《はん》囲《い》を越《こ》えている。男女が別れるときは、お互《たが》い辛《つら》いものだというのが、塚原の感覚なのである。
「でも、塚原さんだって、浮《うわ》気《き》の一度や二度はしたことあるんでしょ?」
気《き》軽《がる》に訊《き》かれて、塚原は戸《と》惑《まど》った。
「僕《ぼく》は——ないよ。全《ぜん》然《ぜん》、ない」
「え? ウソ!——本当に? へえー! そんな人っているんですね!」
やたらと「?」や「!」のつく文章になってしまったが、大《だい》体《たい》、南千代子の話し方そのものが、少々けたたましいのだ。
「——僕はどうやら大分時代遅《おく》れらしいね」
食後のコーヒーを飲みながら、塚原は苦《く》笑《しよう》した。
「あら、でもやたら若い人に合わせようとしてる中年って、却《かえ》って見っともないですよ。素《す》直《なお》なのが一番」
「素直、ね……」
「私、素直に言うと——」
と、南千代子は、ちょっと腕《うで》時《ど》計《けい》を見た。
「何だい?」
「塚原さんと一時間ばかりホテルの部《へ》屋《や》で休《きゆう》憩《けい》したいな」
塚原は、コーヒーカップを危《あや》うく取り落とすところだった。
津村華子は、正《まさ》に「この世の春」という気分である。
大《だい》体《たい》が、インテリアの雑誌とか、モデル住宅の写真集とかを眺《なが》めるのが大好きで、通りすがりにちょっと洒落《しやれ》たマンションのモデルルームなんかが目につくと、買う気もないのに入ってみたりするたちなのだ。
それが今や「現《げん》実《じつ》に」マンションを買い込《こ》もうというのだから! その熱中ぶりは推《お》して知るべしである。
連《れん》日《じつ》、デパートの家具や小《こ》物《もの》の売場に出向いて、あれがいいか、これにしようかと頭を悩《なや》ませていた。こんな楽しい悩《なや》みなら、いつまでだって悩んでいたいようなものだが、そうもいかない。
「いらっしゃいませ」
と、家具売場の女店員が、ソファを眺めていた華子に声をかけて来る。
何度も来ているので、すっかり顔なじみなのである。
「あの、この間見せていただいたテーブルなんだけど、ちょっとソファの色とのバランスが悪くないかな、って気がして来てね……」
と、華子は言った。
「今日、新しい品が二、三入りましたから、よろしければどうぞご覧《らん》下さい」
若いのに、なかなか有《ゆう》能《のう》そうな女店員である。
「いつも悪いわね」
さすがに華子も少々気がねしていた。
「いいえ、とんでもない。どうぞこちらへ」
と、割《わり》合《あい》に高級な家具の並《なら》ぶ、静かな一《いつ》角《かく》へ案内してくれる。
もちろん、いくらお金が入ったといっても、とんでもなく高いものは買えないけれど、やはり、今使っている家具では、何となくバランスが取れないものもある。
いくつか、主《おも》なものは買い直さなくては……。
「いいわねえ!——この色、すてき!」
と、声を上げて、「でも——一桁《けた》高過ぎるわ」
と笑《わら》った。
「あの……奥《おく》様《さま》」
女店員が、ちょっと声を低くして言った。
「え? 何か?」
「ちょっとお話し申し上げたいことが……」
「ええ。——何でしょう?」
「どうぞ、おかけになって下さい」
売り物のソファに座《すわ》ると、女店員は、「こんなことをお訊《き》きして、気を悪くなさると困るんですけど……」
「何ですの?」
華子は、見《けん》当《とう》もつかずに訊《き》き返した。
「このお買物のこと、ご主人はご承《しよう》知《ち》でいらっしゃいますね?」
「主人が? ええ、もちろん!」
「それでしたら、よろしいんですけど……」
「私《わたし》が主人に黙《だま》って、買物をしてる、とでも?」
「いえ、そういうわけでは……。ただ、ちょっと妙《みよう》なことがありましてね」
「妙なこと?」
「ええ。先日、おいでいただいたときです。お帰りになってすぐ、私、男の人に声をかけられたんです」
「どんなことでしたの?」
「今しがた買物をしていた女性は、どれくらいのものを買ったのかとか、何か大《たい》金《きん》が入ったようなことを言ってなかったかとか……」
「まあ」
華子は、ちょっと目を見開いた。「それで……」
「もちろん、私《わたし》の方は、お客様のことをあれこれしゃべるわけにいきません、と言いました。でも、向うはかなりしつこくて、君がしゃべったことは秘《ひ》密《みつ》にするからとか、ちゃんと礼はするとか……。私、気味が悪くなって、忙《いそが》しいから、って逃《に》げちゃったんです」
「その人——男の人、どんな人でした?」
「さあ。ごく当り前の勤《つと》め人に見えましたけど」
と、女店員は首を振《ふ》った。「ともかく、お知らせしておいた方がいいと思いまして」
「教えてくれて、ありがとう」
と、華子は礼を言った。
「いいえ。世の中には色んな人がいますからお気を付けになった方がよろしいですよ」
と、女店員は微《ほほ》笑《え》んだ。
「そうするわ。心当りはさっぱりないけどね」
——華子は、その後、一人《ひとり》でソファを見て回りながら、考え込《こ》んでいた。
華子のことを訊《き》いていたという、その男は、何者なのだろう?
少なくとも、華子の所に大《たい》金《きん》が入ったことを承《しよう》知《ち》している男に違《ちが》いない。でなければ、パッとしない平《へい》凡《ぼん》なサラリーマン家庭のことを、調べたりしないだろう。
しかし、七千万円を拾《ひろ》ったことは、津村と華子の他《ほか》は、誰《だれ》も知らないはずだ。すると……。
可《か》能《のう》性《せい》として一番大きいのは、あの金を落した当人が、津村のことを捜《さが》し出して来たということだ。
夫《おつと》の話を、華子はまともに信じているから、金の落し主が現われるなどとは、思ってもいなかったのである。
どうしたもんかしら……。
華子は、珍《めずら》しく不安げに小首をかしげて、それでもソファを見る目の熱心さには、変りがなかった。
「——お電話をいただいて、嬉《うれ》しかったですよ」
浅倉が微《ほほ》笑《え》みながら言った。
「お忙《いそが》しいんじゃありませんか」
浦田京子は、少し目を伏《ふ》せがちにして、言った。
「構《かま》やしません」
「でも今夜からご出《しゆつ》張《ちよう》なんでしょう?」
二人《ふたり》は、浅倉の会社に近い喫《きつ》茶《さ》店《てん》に入っていた。浦田京子が、近くまで来て電話をかけたのである。
「出発前にやらなきゃいけない仕事は、全部昨日《きのう》片付けておきましたから。今日は大してすることもないんですよ」
と、浅倉は言った。
「奥《おく》様《さま》は——ご旅行でしたわね」
と京子は低い声で言った。
「昨日《きのう》からです。あさって帰るとか……。まあ、どうせこちらも海外出《しゆつ》張《ちよう》は年中ですからね」
「お寂《さび》しいんですわ」
「家《か》内《ない》がですか。いや、そんな……」
と言いかけて、浅倉は京子を見つめながら、「あなたは?」
「私《わたし》、ですか……」
「寂しくありませんか、お一人で」
「自分でそうしているんですもの」
と、京子は言った。「これが一番気《き》楽《らく》なんです」
そうだろうか? それならなぜ浅倉に会いに来たのだろう、と京子は思った。