休《きゆう》憩《けい》。——そうだとも、俺《おれ》は休憩に入っただけなんだ。
ホテルの入口にだって〈ご休憩〉とあったし。そうなんだ。ここはただの休憩所だ。
いや、もちろん「ただ」じゃなくて、金は前《まえ》払《ばら》いで取られたが。
塚原は、あたかも遊《ゆう》園《えん》地《ち》に初めてやって来た子供みたいに、部《へ》屋《や》の中を、キョロキョロ見回していた。
「フフ」
と、南千代子がちょっと笑《わら》って、「塚原さん、本当にこういう所って初めてなんですねえ。私《わたし》、半《はん》信《しん》半《はん》疑《ぎ》だったのに」
「うん。——何だか落ちつかない所だねえ」
塚原は、特《とく》大《だい》サイズのベッドの端《はし》に、ちょこんと腰《こし》をかけている。
「あんまり落ちついちゃっても困るでしょ、こんな所で」
と、南千代子が、塚原と並《なら》んで腰《こし》かける。
塚原はあわてて横に体をずらして、三十センチの空間を確《ヽ》保《ヽ》した。
「女の子に興味ないんですかあ?」
と、少々呆《あき》れたように南千代子が言った。
「そ、そんなことはないけどね」
と、塚原は口ごもって、「ただ——今のところ女《によう》房《ぼう》一人で手一《いつ》杯《ぱい》というか……間《ま》に合ってる、というか……」
「私《わたし》、何だか押《お》し売りみたい」
と、南千代子はふき出した。「——あとでゴタゴタするのがいやだとか心配してるんだったら、大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》ですよ。私だって恋《こい》人《びと》いるんですもん」
「君に?」
「あら、私《わたし》に恋《こい》人《びと》がいちゃおかしいですかあ?」
と、南千代子が、心《しん》外《がい》という表情になる。
「いや、そうじゃなくて——その彼《かれ》氏《し》にばれたらまずいんじゃないかね?」
「だから、お互いに安全でしょ? 私が塚原さんにおこづかいをせびったりしたら、私とのことを恋人に知らせるぞ、って言ってやりゃいいんですもの」
「なるほど」
と、塚原は素《す》直《なお》に感心した。「でも、僕《ぼく》は君の恋人を知らないよ」
「今《いま》井《い》さんです」
「今井君?——そうか」
若手の独《どく》身《しん》社員の中では、なかなか女の子に人気のある男だ。塚原は肯《うなず》いて、
「君と今井君ね。お似《に》合《あ》いだな」
「どうも」
「君と僕《ぼく》じゃ、その点、まるでつり合わないよ。やっぱりやめとこう」
「あら、もったいない。お金払《はら》ったんですもの、楽しまなくちゃ」
南千代子はアッケラカンとしたもので、「私、お先にシャワー浴《あ》びて来ますから」
と、バスルームへさっさと入ってしまう。
塚原は青くなった。
バスルームからは、南千代子がシャワーを浴びている音が聞こえている。
塚原の方は、ベッドから立ったり座《すわ》ったりをくり返していた。——男の方が青くなるというのも、少々情ない話だが、何といっても、塚原は、妻《つま》以外の女性とこういう状《ヽ》況《ヽ》になったことがないのだ。その点、南千代子の方がよほど慣《な》れている感じだった。
「参《まい》ったな、しかし……」
と、塚原は呟《つぶや》いた。
大《だい》体《たい》、これまで、若い女の子にもてた、なんてことがないのである。嬉《うれ》しいよりは恐《おそ》ろしい。いや、当《とう》惑《わく》している、というのが正《しよう》直《じき》なところだった。
これもあの七千万円のご利《り》益《やく》だろうか? 気持の上でも余《よ》裕《ゆう》が出て、それが中年男らしい落ちつきのように、若い南千代子の目には映《うつ》ったのだろうか?
「いい気になるな!」と、塚原は自分を叱《しか》りつけた。
向うは、ただ、ちょいとした気まぐれなのだ。たまにこういう中年をからかってみようというぐらいの、遊びのつもりなのだ。
そうさ。俺《おれ》の魅《み》力《りよく》とは関《かん》係《けい》ない。
塚原は、強く頭を振《ふ》った。——向うの気持なんかどうでもいい! 問題は、今《ヽ》、どうするか、だ。
もうすぐ、あの子はバスルームから出て来る。そしたら……どうするんだ?
やっぱり、そういうことはいけないよ、とさとしてここを出るか。だらしがない、と思われるかもしれないが、それだって構《かま》わない。
しかし——と、塚原は考えた——たとえ何もしないでここを出たとしたって、一《いつ》旦《たん》、二人《ふたり》でホテルへ入った以上、何か「あった」と見られて当然である。その点は、いくら否《ひ》定《てい》したって、誰《だれ》にも分りゃしないのだから。
つまり、実《じつ》際《さい》にあろうがなかろうが、はた目には 「あった」ことになる。
それじゃ、何もしないで出るのは丸《まる》損《ぞん》じゃないか……。
塚原は、我《われ》知《し》らず、男が浮《うわ》気《き》するときに共通の、都《つ》合《ごう》のいい理《り》屈《くつ》を組み立てていた。
「——お先に」
と、バスルームのドアが開いて、南千代子が出て来る。
バスタオル一つを体に巻《ま》きつけただけだ。
「早く塚原さんも浴《あ》びてらっしゃいよ。のんびりしてると時間なくなっちゃうわ」
「う、うん……」
「ほら、上《うわ》衣《ぎ》脱《ぬ》いで。私《わたし》、ハンガーにかけておいてあげる」
「そ、そうかい……」
何だか、ためらっている間《ま》もなく、上衣を脱ぎ、ネクタイを外《はず》している。そうなると後はもうやけ気味で——どうにでもなれ、という気分で、塚原はワイシャツのボタンを外して行った……。
そのころ、塚原の家では、妻《つま》の啓子が派《は》手《で》なクシャミをしていた。
「変だわ。風邪《かぜ》ひいたのかしら」
グスン、と鼻《はな》をすすって、啓子は呟《つぶや》いた。
まさか、夫《おつと》の塚原が今しも浮《うわ》気《き》をしようとホテルでシャワーを浴《あ》びているなどとは、思いもしないのである。
「——買物にでも出ようかしら」
啓子は、時計を見ながら、独《ひと》り言《ごと》を言った。天気もいいし、少しぶらぶらと歩いてみるのもいい。
大《だい》体《たい》が出《で》無《ぶ》精《しよう》の啓子にしては、珍《めずら》しい気分だった。いや、それほど快《かい》適《てき》な天候だったと言った方がいいかもしれない。
「あら、塚原さん」
声をかけられて、啓子は顔を上げた。——よくこのスーパーで会う、近所の主婦である。しかし、啓子は名前が思い出せなかった。
「どうも」
と、曖《あい》昧《まい》に微《ほほ》笑《え》む。
「珍《めずら》しいじゃないの、こんな所に」
相《あい》手《て》の方は、やたら親しい仲のつもりらしく、断《ことわ》りもせずに、さっさと同じテーブルについてしまった。
スーパーでの買物が一段落して、啓子はスーパーの上にある食堂街《がい》の、喫《きつ》茶《さ》店《てん》に入っていたのである。
「もう買物、済《す》んだの?」
と、相《あい》手《て》が訊《き》く。
「ええ……」
「私《わたし》、これから。一《いつ》服《ぷく》してからでなきゃ、足を棒《ぼう》にして安いものを捜《さが》し回る長旅になんて出られないわよねえ」
この人、何て名だっけ。啓子は必《ひつ》死《し》で考えていたが、大《だい》体《たい》、人の名や顔を憶《おぼ》えるのが苦《にが》手《て》な啓子である。焦《あせ》ると、ますます思い出せなくなる。
同じくらいの年《ねん》輩《ぱい》だが、啓子よりは大分派《は》手《で》な感じで、髪《かみ》も染《そ》め、きれいにマニキュアした爪《つめ》、タバコを取り出して、いかにも慣《な》れた様子で煙《けむり》を吐《は》き出す。
「お宅、このところ景気良さそうねえ」
と、その奥《おく》さんが言い出したので啓子はびっくりした。
「うちがですか?——普《ふ》通《つう》のサラリーマンですもの、いつもと変りありませんわ」
「あら、そんなことないわよ。ご主人も、この間、お帰りのところをお見かけしたけど、前よりずっとパリッとして、私、重役にでもなったのかと思っちゃった!」
「まさか」
と、啓子は笑《わら》った。「相《あい》変《かわ》らずの係長ですわ」
「あら、そう? でも、風《ふう》格《かく》が出て来たわ」
「太っただけじゃないかしら」
「それに、あなたの、そのブラウスも、この間、デパートで見たわ。高いやつでしょう。余《よ》裕《ゆう》なきゃ、そんな物、買えないわよ」
啓子は、ブラウスに値《ね》札《ふだ》でもつけたままだったかと、一《いつ》瞬《しゆん》、思わず目を下へ向けたほどだった。
啓子は、しばらく話してみて、やっと相《あい》手《て》の名前を思い出した。
「ねえ、塚原さん、あなた、手もとにいくらお持ち?」
と増《ます》田《だ》清《きよ》子《こ》は訊《き》いて来た。
それがこの女性の名前だったのである。
「え?」
啓子はちょっと戸《と》惑《まど》って、「今は——大してありませんけど。あの——急に必要なことでも?」
「そうじゃないわよ」
と、増田清子は、タバコを灰《はい》皿《ざら》に押《お》し潰《つぶ》して、笑《わら》った。「手もと、って、自分のお金ってこと」
「自分のお金……」
「要するに、へそくりってことよ」
「へそくり、ですか」
「あるでしょ、もちろん?」
そう訊《き》かれて、啓子は、つい、
「え、ええ、もちろん——」
と答えていた。
そんなもの、ありゃしないのである。
「でも大してありませんわ」
と、気が咎《とが》めたのか、付け加える。
「少しでもいいのよ。まとまったものがありゃね」
「何のお話ですか?」
「いい投《とう》資《し》があるの。これはね、絶《ぜつ》対《たい》に内《ない》緒《しよ》よ」
と、増田清子は身を乗り出して、声をひそめる。「あなただけに教えてあげるんだからね」
名前もなかなか思い出せなかった程《てい》度《ど》の知り合いだけに、こっそり打ちあけてくれる「秘《ひ》密《みつ》」というものに、啓子は大して関《かん》心《しん》も持てなかったが、一《いち》応《おう》、聞いているふりをすることにした。
——車の中で、脇《わき》元《もと》は目を閉じていた。
社長というのは、社長室の椅《い》子《す》でふんぞり返っていればいい、というのは昔《むかし》の話だ。
今はこうして大型の外《がい》車《しや》で移《い》動《どう》する間にも、じっと目を閉じて疲《つか》れを休めなくてはならないほど忙《いそが》しい。
電話が鳴った。脇元は、軽《かる》く息をつくと、受話器を取り上げた。
「脇元だ。——何だ。車にかけて来たりしちゃ、だめじゃないか」
と言いながら、声は笑《わら》っている。
麻《あざ》布《ぶ》のマンションに置いてある愛《あい》人《じん》からだ。
「うむ?——今夜はだめだ。——他《ほか》へ行くんじゃない、仕事なんだ。——本当だよ。——ああ、約束は忘れないさ」
張《は》りつめた毎日である。たまに、こうして、女と話をするのも、気《き》晴《ばら》しになっていい。
五、六分おしゃべりをして切ると、脇元は大分頭がスッキリしたような気がした。
目《もく》的《てき》地《ち》まで、あと十分ぐらいかな、と思ったとき、また電話が鳴った。
脇元は受話器を取った。
何も言わない内に、
「久野です」
という声。
「ああ、何かあったのか?」
「お出かけ前の電話の件は、処《しよ》理《り》しておきました」
「ご苦《く》労《ろう》だった」
「それから、実《じつ》は……」
「何だ?」
「例の一件ですが、一人、怪《あや》しいのが浮《う》かびました」
と、久野は少し声を低くして言った。
「誰《だれ》だ?」
「津村です。あの日、残《ざん》業《ぎよう》していた者の一人です」
「ふむ。何かこれという——」
「マンションを買い込《こ》んでいます。会社の方にはローンの申《しん》請《せい》をしていないんです。今、不《ふ》動《どう》産《さん》会社の方を当っています」
「そうか。しかし、一人とは限らん。すぐにあまり追《つい》及《きゆう》しない方がいいぞ」
「承《しよう》知《ち》しております。津村との関《かん》連《れん》で、二、三人目をつけているのもおりますので」
「分った。しかし、くれぐれも用心しろよ」
脇元としては、もちろん金も問題だが、その金のことを、公《おおやけ》にされるのはまずいのである。
犯《はん》人《にん》を見付けたとしても、警察に告《こく》発《はつ》できない。そこが、脇元としてもむずかしいところだった。
電話を切って、脇元は、またゆっくりと目を閉じた。もちろん、眠《ねむ》るほどの時間はないのだ……。
「——匂《にお》わないかい?」
と、塚原は、くり返した。
「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》。外を歩いてれば消えちゃいますよ」
と、南千代子が、クスクス笑《わら》いながら、「本当に塚原さん、初めてだったんだ」
「そう言ったじゃないか」
塚原はネクタイをしめ直した。「ここを出るのを、誰《だれ》かに見られないかな?」
「大丈夫よ。だって、この辺にいる人なんて、みんな同《どう》類《るい》なんだから」
南千代子は、いとも楽しげである。
塚原は、しかし、気が重かった。——浮《うわ》気《き》したのだ。
結《けつ》婚《こん》以来、初めてのことである。いや、浮気したといっても、その気になって、というよりは、相《あい》手《て》に押《お》し切られてしまったようなものだが、それでも浮気には間《ま》違《ちが》いない。
シャワーで汗《あせ》を流した後、石ケンの匂《にお》いが残っていないかと、それを気にしているのである。
「さあ、会社へ戻《もど》りましょ」
と、南千代子が、腕《うで》を絡《から》めて来た。
会社へ向うタクシーの中で、
「塚原さん、そんなに心配?」
と、南千代子が訊《き》いた。
「心配というか……」
「罪《つみ》の意識?」
「まあ、そんなところかな」
「真《ま》面《じ》目《め》なんだから」
と、南千代子は笑《わら》って、「でも、そこがいいとこなのね。私《わたし》のことなら心配しないで。つきまとったりしないから」
「ありがとう」
塚原は、いともまともに礼を言った。——やっぱり俺《おれ》は、浮《うわ》気《き》なんかするようにはできていないんだ。
後になって、こんなに気分が咎《とが》めるようじゃ、浮気しないでいた方がよほどいい。
それに南千代子だって、もうこれにこりて、二度と俺とホテルへ行こうなんて思わないだろうし……。
俺はもう若くないんだ。こんな若い女の子を楽しませるような元気は、もう残っていない。
会社の前でタクシーを降りて、ビルへ入って行くと、もちろん顔見知りの同《どう》僚《りよう》とすれ違《ちが》う。
俺たちが今、ホテルで一《いつ》緒《しよ》だったと察《さつ》する奴《やつ》はいないのだろうか? 案《あん》外《がい》、分らないものなんだな……。
エレベーターの前で、南千代子が、ふっと微《ほほ》笑《え》むと、
「でも、塚原さん、とてもすてきだったわ!」
と言った。
エレベーターの扉《とびら》が開く。塚原は、少ししてから、頬《ほお》が熱くなるのを感じた。
「どうしたの、一《いつ》体《たい》?」
と、明美が目を丸くした。
「そうびっくりしなくたっていいじゃないか」
塚原が照れたように笑《わら》う。
「それにしたって……」
明美としては気に入らなかった。
いや、父親の買って来たケーキが気に入らなかったのではない。なかなかおいしそうだった。
気に入らないのは、父がそんなものを買って来たことの方だった。
「たまには、俺《おれ》だって甘《あま》いものが食べたくなってな」
という父親の言い訳《わけ》も、いかにもわざとらしい。
こいつはどうやら、後《うし》ろめたいことがあるのだ。明美は、慎《しん》重《ちよう》に父親を観《かん》察《さつ》した。
あの大《たい》金《きん》のことも、明美は忘れたわけではない。しかし、学校の勉強が忙《いそが》しくて、そっちの方まで頭が回らないのである。
目《もつ》下《か》のところ、刑《けい》事《じ》が張《は》り込《こ》んでいる様《よう》子《す》もないし、父が高飛びする気《け》配《はい》もない。しかし、今夜のケーキは……。
ちょっと怪《あや》しいぞ、と明美はひそかに考えていた。