「こんなことが……」
久野はそう呟《つぶや》きながら、社長室へと急いでいた。「俺《おれ》としたことが、何てざまだ!」
いまいましげな言《こと》葉《ば》が、つい口に出る。
社長室のドアを開け、
「失礼します——」
と言って、久野は足を止めた。
社長の椅《い》子《す》からあわてて立ち上ったのは、秘《ひ》書《しよ》室《しつ》の若い女の子だった。
「何をしてるんだ?」
久野は不《ふ》機《き》嫌《げん》な顔で言った。
「すみません。お留《る》守《す》だったんで、ちょっと——座《すわ》り心《ごこ》地《ち》はどうなのかしら、と思って——」
「社長に知られたら大変だぞ」
「でも——言いつけたりしないでしょ?」
と、甘《あま》えたような声を出して、久野の肩《かた》に手をかけて来る。「ね、久野さん?」
ちょっと男心をくすぐるようなタイプなのである。久野は苦《にが》笑《わら》いして、
「黙《だま》っててやるよ」
と言った。
「わあ、優《やさ》しいのね、久野さん」
と、いきなり久野の頬《ほお》にキスした。
「おい、何するんだよ」
久野は急いでハンカチを取り出して、口《くち》紅《べに》のあとを拭《ぬぐ》うと、「社長はどこなんだろう? 知らないか?」
と訊《き》いた。
「お出かけですよ。十分ぐらい前に」
「お出かけ?——外出かい?」
「ええ。車を用意してくれって、私《わたし》、言われて……」
では俺《おれ》の間《ま》違《ちが》いではなかったのだ。それにしても……。
久野は、首をかしげた。どうもおかしい。
「どうかしたんですか?」
と、女の子が不《ふ》思《し》議《ぎ》そうに言った。
「いや、何でもないよ」
久野がぶっきらぼうに答えると、女の子はちょっと肩《かた》をすくめて、社長室を出て行った。
久野は、一人で残ると、脇元社長の机の前に立った。
手帳を取り出し、今日のページを開く。
久野は脇元の秘《ひ》書《しよ》として、脇元の二十四時間をつかんでいる。何時に起き、何時に眠《ねむ》るかまで久野は分っていた。
どの女の所で、どれくらい過しているか、どの女に飽《あ》きかけているまで、久野にはつかめているのだ。いや、もしかしたら、脇元当人よりも、よく分っているかもしれない。
びっしりと隙《すき》間《ま》なくスケジュールを埋《う》めたはずの手帳を、さっき眺《なが》めていて、久野は、ポッカリと、この一時間が空《くう》白《はく》になっているのに気付いたのだった。
こんなことはありえない!
てっきり、自分が脇元の指示を聞き落としたか、でなければ、時間か日《ひ》取《ど》りを勘《かん》違《ちが》いしているのだと思った。そして青くなって、社長室へと飛んで来たのであった。
どう考えても、妙《みよう》だ。
久野は苛《いら》々《いら》していた。——脇元社長が、自分に黙《だま》って、車で出かけている。なぜだろう?
久野は、脇元の私《し》生《せい》活《かつ》の、どんな細《こま》かい点までも承《しよう》知《ち》している。何の用で出かけるにしても、久野には必《かなら》ず行《ゆき》先《さき》を告げているのだ。たとえ久野を同行しないときでも。
海外から入る刻《こく》々《こく》の市《し》況《きよう》などによっては、たとえ脇元が女のベッドの中にいるとしても、大至急連《れん》絡《らく》を取らなくてはならないこともある。それが一時間も、久野に行先も教えずに出かけるとは……。
久野は、今は空《あ》いたままの社長の椅《い》子《す》を、じっと見つめていた。
脇元は何を考えているのだろう? 理《り》由《ゆう》もなしに何かをする男ではない。その点は、久野もよく分っていた。
久野の苛《いら》立《だ》ちは、微《び》妙《みよう》なものだった。
秘《ひ》書《しよ》としてのプライドが傷《きず》つけられたこともある。それだけ久野が神《しん》経《けい》質《しつ》になっているのは、もちろん、あのお金を盗《ぬす》まれたことが、大きな失点になっていると分っているせいでもあった。
——社長は、秘《ひ》書《しよ》としての俺《おれ》を見限ったのだろうか? 久野は自分にそう問いかけて、ゾッとした。そんなことが——そんなことがあるもんか!
俺は、二十四時間、自分の生活の総《すべ》てを、脇元に捧《ささ》げて来たのだ。俺以外の誰《だれ》に、こんなことができるというんだ?
久野は自分を安心させようとして、却《かえ》って不安に駆《か》り立てられるのだった。
早く——こうなったら一《いつ》刻《こく》も早く、あの金を盗《ぬす》んだ奴《やつ》を、この手で見付け出して、脇元の前に突《つ》き出してやることだ。
久野は元《がん》来《らい》、乱《らん》暴《ぼう》なことの嫌《きら》いな男だった。しかし、自分のクビにかかわるとなれば、話は別だ。
津村の奴をしめ上げてみるか。——他《ほか》に仲間がいるかどうかはともかく、あいつが現金強《ごう》奪《だつ》に一枚かんでいるのはまず間《ま》違《ちが》いのないところだ。
久野は、社長室を出た。
エレベーターで一階へ降りる。会社の電話では、そんな用件の話はできない。
「待てよ……」
エレベーターを降りながら、久野は考え直した。
津村の奴《やつ》はなかなか頑《がん》丈《じよう》そうだ。あいつにしゃべらせるには、少々痛めつける必要があるかもしれない。痛めつけるのが、少々やり過ぎて殺してしまうことにでもなると、いくら何でもやばい。
警察の手が脇元に伸《の》びて来ることは、何としても避《さ》けなくてはならないのだ。
「そうだ」
久野は、受付のわきの赤電話の前に立って、肯《うなず》いた。
久野は、赤電話のダイアルを回した。
「——もしもし。久野だ。——うん、どうなってる?——そうか。一つ、やってほしいことがあるんだ」
久野は、周《しゆう》囲《い》にチラリと目をやった。誰《だれ》もそばにはいない。それでも声を低めて、
「津村の女《によう》房《ぼう》を、尾《び》行《こう》してるな?——よし。ちょいとおどかしてやるんだ。——そうだ。どこかへ誘《さそ》い出して、監《かん》禁《きん》しろ」
向うが、びっくりして声を上げたらしい。
「——落ちつけよ。誘《ゆう》拐《かい》じゃない。——そうだ。心配するな。それに向うには、届け出るわけにいかない事《じ》情《じよう》があるんだからな」
久野は穏《おだ》やかに言った。
「——分ったな?——うん、明日ということにしよう。うまい場所を捜《さが》しておいてくれ。——ああ、よろしく頼《たの》む」
久野は、受話器を置いて、軽《かる》く息をついた。
これでよし、と。女《によう》房《ぼう》を人《ひと》質《じち》にすれば、津村の奴《やつ》、何だってしゃべるだろう。
これが一番手っ取り早い方法だ。
久野は、エレベーターの方へ歩いて行ったが……。ふとビルの正《しよう》面《めん》に大きな外《がい》車《しや》が停《とま》るのが目に入った。脇元だ。
久野は、小走りに車の方へと急いだ。そして、足を止めた。
車から降りて来たのは、脇元一人ではなかったのだ。もう一人、三十そこそこの男が、久野と同様、ピシリと決った三つ揃《ぞろい》に身を包《つつ》んで、車から降り立った。
久野は、ほとんど無《む》意《い》識《しき》の内に、手近な柱の陰《かげ》に、身を隠《かく》していた。ガラス戸越《ご》しなので、脇元の方は、まだ久野に気付いていなかった。
ビルの中へ入って来ると、脇元は、若い男の方を振《ふ》り返って、
「君はもうここでいいよ」
と言った。
「はい」
「会社の人間に見られるとうまくない。もう引き取ってくれ」
「かしこまりました」
「用があるときは、また私の方から連《れん》絡《らく》する」
と、脇元は言って、「少しずつ秘《ひ》書《しよ》の仕事の中身も、憶《おぼ》えてもらわんといかんしな。しかし、まあ焦《あせ》ることはない。君ならすぐに呑《の》み込《こ》めるさ」
「ご期《き》待《たい》に沿《そ》うよう、努力いたします」
「頼《たの》むよ」
脇元は、軽《かる》く、若い男の肩《かた》を叩《たた》くと、ちょっと微《ほほ》笑《え》んで見せ、それから、エレベーターの方へ、いつも通りの足取りで歩いて行った。
若い男の方は、脇元がエレベーターに乗るまでその場で立って見送っていた。そして、軽《かろ》やかな足取りでビルから出て行く。
——久野は、柱の陰《かげ》から出て来て、あの若い男が、タクシーを停《と》めて、乗って行くのを、じっと見つめていた。
顔からは血の気がひいていた。「秘書の仕事」だって?
畜《ちく》生《しよう》!
久野は、すぐには社へ戻《もど》らず、近くの喫《きつ》茶《さ》店《てん》に入って、気持を鎮《しず》めた。
常《つね》に冷静沈《ちん》着《ちやく》な久野にとっても、今の光景は大きなショックだったのだ。すぐに脇元の前に顔を出せば、動《どう》揺《よう》を見《み》抜《ぬ》かれてしまうかもしれない、と思った。
畜生! 畜生!
コーヒーを飲みながら、久野は何度もそう呟《つぶや》いていた。
俺《おれ》は何もかもを犠《ぎ》牲《せい》にして、脇元につかえて来たのだ。——そう。正に「つかえる」という言い方がふさわしい働きぶりだった。脇元が、ふとその気になれば、女のマンションに寄って「一戦交《まじ》えて」いる間、ぼんやりと表で待っていたこともある。
一《いつ》体《たい》俺は何をしているんだろう? そんなことを自分に問いかけたことも、ないではない。
しかし、それでも、自分が脇元の成功を支《ささ》えているのだという自《じ》負《ふ》があればこそ、ここまでやって来れたのだ。脇元だって、その点はよく分っているはずだった。
それなのに——あんな若《わか》造《ぞう》に、俺の代りをやらせるつもりか!
おそらく、久野だって、即《そく》クビというわけではあるまい。どこか他《ほか》の管《かん》理《り》職《しよく》でも当てがわれるか、それとも多少の金をつけて、系《けい》列《れつ》会社へ出すか……。
久野は、脇元の「裏《うら》の顔」を知っているから、敵《てき》に回すのは得《とく》策《さく》でない、と脇元も分っているはずだ。
しかし、今のポストを外《はず》されたら、久野としては脇元の下にとどまっている気にはなれなかった。潔《いさぎよ》く身を退《ひ》いてもいい。
だが、た《ヽ》だ《ヽ》じゃ引き退《さ》がらないぞ。そうとも。——これまでの仕事に相当する見返りはいただく。
やっと、少し冷静さを取り戻《もど》して、久野はふっとほくそ笑《え》んだ。
そうだ。津村の女《によう》房《ぼう》の件はどうしようか?
脇元のためにそこまで危い橋を渡《わた》る必《ひつ》要《よう》もないだろうが。いや——待てよ。
久野はしばらく考え込《こ》んでいたが、やがてある考えがまとまった様《よう》子《す》で、一人、ゆっくりと肯《うなず》いた……。
「浦田さん、お電話」
と呼ぶ声に、浦田京子は、ちょっとハッとした。
コピー室へ、コピーを取りに来たのだが、もうとっくに終ったのに、ぼんやりと小さな椅《い》子《す》に腰《こし》かけていたのである。
「はい。——ごめんなさい、すぐ戻《もど》るわ」
京子は、取り終えたコピーを束《たば》ねて、揃《そろ》えると、急いでコピー室を出た。
もう、手《しゆ》術《じゆつ》の跡《あと》も、何ともない。以前の通りの日々だった。
席に戻って、受話器を取ると、
「国際電話です」
という交《こう》換《かん》手《しゆ》の声がした。
国際電話と聞いて、浦田京子は素《す》早《ばや》く左《さ》右《ゆう》を見回した。
席を立っている者が多い。聞き耳を立てられることはなさそうだ。
「もしもし」
と、男の声がした。
「浦田です」
「やあ、浅倉ですよ。お仕事中でしょう。すみません」
「いいえ。アメリカからですか」
「そうです。忙《いそが》しく駆《か》け回ってて。やっと一息ついたら——あなたのことを思い出しましてね」
京子は、顔が熱くほてって来るのが分った。浅倉の、穏《おだ》やかで、どこか人を安心させる声《こわ》音《ね》が、遠い距《きよ》離《り》を越えて伝わって来る。
それは思いもかけないほどの懐《なつか》しさで、京子の胸を揺《ゆ》さぶった。
「京子さん」
浅倉は、名の方を呼んだ。「実《じつ》は、うまく仕事がはかどりましてね、二日くらい早く帰れそうなんです」
「まあ、良かったですね。エミちゃんもきっと喜びますわ」
「ええ。確かにそれは……。実《じつ》は、あなたをお誘《さそ》いできないかと思っているんです」
「私《わたし》を、ですか」
「ほんの一日、二日の時間しかありませんが、あなたとどこかへ行ってみたいんです」
「浅倉さん、それは——」
「もちろん、あなたが承《しよう》知《ち》して下されば、ですが」
京子は、ちょっと間を置いて、
「——ここではご返事ができません」
と言った。
「ああ、そうですね。すみません。つい、そちらがお仕事中だというのを忘れていました。じゃ、アパートの方へかけ直してもいいでしょうか?」
「ええ。そうしていただけると……」
「分りました」
——京子は、国際電話が切れた後、しばらく、受話器を持ったままだった。
どうなってしまったんだろう? 以前の自分なら、
「奥《おく》さんがいらっしゃるのに!」
と、一《いち》言《ごん》ではねつけただろうに。
変ってしまった。私《わたし》は変った。——もちろん、あの大《たい》金《きん》を、盗《ぬす》み出したのは、「変るため」だったのだが、それはこんな風《ふう》な変り方を期《き》待《たい》したわけではなかったのだ。
浅倉の出発の日、京子は成田まで彼を送って行った。
海外出《しゆつ》張《ちよう》といっても、浅倉のような立場では、そう珍《めずら》しいことでもないらしく、会社の人間の見送りもなかったのだ。
成田へ向う途《と》中《ちゆう》、二人で夕食を取り、そして彼の車の中で、京子はキスされたのだった。
それはいかにも自然なことだった……。
妻《さい》子《し》ある男との恋《こい》。
浦田京子としては、自分とは最も縁《えん》遠《どお》いものだと思っていた。しかし、いざ、自分がそうなってみると、少しも不《ふ》自《し》然《ぜん》でなく、もともと予定されてでもいたかのように、そうなったのだった。
もちろん、今のところは、深い関《かん》係《けい》になっているわけではない。しかし、あの浅倉の出発の日、もし、飛行機が出るまでに充《じゆう》分《ぶん》な時間があったとしたら、どうなっていたか……。
京子にも自信はなかった。
今度の浅倉の誘《さそ》いを受け容《い》れたら、それはもう決《けつ》定《てい》的《てき》な一線を踏《ふ》み越えることになる。京子にもよく分っていた。
そうなってはいけない。浅倉には妻《つま》があり、病《びよう》床《しよう》の娘《むすめ》まであるのだ。
そこへ自分が立ち入るのは、不要な混《こん》乱《らん》を巻《ま》き起こすだけだ……。
そんなことは、もちろん京子にも分っている。ただ、京子は、自分の中にふくれ上って来る、何か得《え》体《たい》の知れないもの——自分の意志とは無《む》関《かん》係《けい》に、爆《ばく》発《はつ》してしまいそうな何かに、ほとんど怯《おび》えるような気持だった。
また電話が鳴って、京子はびくっとした。——まさか、浅倉がそう何度もかけて来るわけはない。
「はい、浦田でございます」
と、いつもの、仕事用の声を出す。
「あ、浦田さんですか?」
若い女の子らしい声だ。「私《わたし》、塚原明美といいます。塚原の娘《むすめ》です」
「まあ、係長の……」
京子は、ちょっと塚原の席を見た。「係長、今出かけてらっしゃるんですよ」
「ええ、今朝《けさ》そう言ってたんで、知ってます。あの——私《わたし》、浦田さんのこと、憶《おぼ》えてるんです。一度、うちへおいでになったでしょう」
「ええ、そうでしたわ。明美さんって、あのときはまだ小さくて……。今、おいくつ?」
「十六です」
「まあ! もうそんなに?——私も憶えてますよ、もちろん」
「良かったわ。この間、父へ電話して来られたでしょ? 後で声を思い出して」
「嬉《うれ》しいわ、そう言って下さると」
「あの——実《じつ》はちょっとご相談があるんですけど」
と明美の声が少し変った。
「私に? 何かしら?」
「父に知られたくないんです。父に——ちょっと気になることがあって」
「分りました。じゃ、どこかでお会いしましょうか」
「そうしていただけます?」
「たいてい会社は五時でひけるから、その後なら構《かま》いませんけど」
京子は、待ち合せの場所と時間を決めながら、何となく気分が若返ったようで、ワクワクしていた。