「本当に手数かけて、ごめんなさいね」
と、浦田京子は言った。
「いいえ、とんでもない」
明美はご飯をよそいながら、「こっちが勝《かつ》手《て》に転《ころが》り込んだんですもの。せめて少しはお役に立たなくちゃ」
「それにしても、こんな風《ふう》に食事をさせていただくなんて、初めてだわ」
と、京子は笑《わら》った。
「それほどの食事じゃないですけどね」
明美は、ちょっと照れたように、「これが私《わたし》のお料《りよう》理《り》の全レパートリーなんですから」
と言った。
「十六歳《さい》でこれだけ作れりゃ立派なもんよ」
京子は、少々のお世《せ》辞《じ》を混《まじ》えて言った。
まあ、実《じつ》際《さい》のところ、明美が「作った」と言えるのは、ミソ汁《しる》ぐらいで、後は冷《れい》凍《とう》食品とか、ただ温《あたた》めるだけ、といったものがほとんどだったのである。
しかし、京子は楽しかった。外で食べるにしろ、アパートで食べるにしろ、ほとんどが一人なのだ。こうして、おしゃべりをしながら女同士——年齢《とし》は親子ほども違《ちが》うとしても——でワイワイと食べることは、まずめったにない。
「——おいしいわ、凄《すご》く」
「そうですか? 私、自信持っちゃうな」
と、明美も楽しげである。「——今日、父の様《よう》子《す》、どうでした?」
「塚原さん? ずっと仕事が手につかないみたいだったわよ」
「いい傾《けい》向《こう》ですね。少しは勝《かつ》手《て》なことをした報《むく》いを受けるべきだわ」
と、明美は至《いた》ってクールである。
「でも、あんまりいじめると可哀《かわい》そうよ」
「浦田さんって寛《かん》大《だい》なんですね」
「そうでもないけど……」
京子は、それ以上、何も言わなかった。これは塚原の家庭の問題であって、他《た》人《にん》があまり口を挟《はさ》むべきことではない、と思ったのである。
「——あ、そうだ」
明美は、ご飯を口に頬《ほお》ばったまま、「忘れてたわ……」
と、電話の方へ立って行った。
「何か電話でもあったの?」
「——これです」
明美は、京子にメモを渡《わた》した。
明日の夕方、成田へ着くという、浅倉からの電話である。受け取った京子は、それを読んで、一《いつ》瞬《しゆん》はしを取り落としそうになった。
「——この人の電話……いつかかって来たの?」
「昼間。午後です」
「で、あなたが出たのね」
と、京子は分り切ったことを言った。
「あちら、私《わたし》のこと、浦田さんだと思ったみたいで……」
明美は、ちょっといたずらっぽく言って、「この人、浦田さんの恋《こい》人《びと》なんでしょ?」
恋人?
明美からそう言われると、何だか奇《き》妙《みよう》な気持だった。
「恋《こい》人《びと》、ね……。そうかもしれないわ」
と、京子は、メモを見直しながら言った。
「私、いつでもここを出て行きますよ、お邪《じや》魔《ま》なら」
明美は、ごく当り前の口《く》調《ちよう》で言った。
「そんな仲じゃないの」
と言って、京子は微《ほほ》笑《え》んだ。「残《ざん》念《ねん》ながらね」
「だけど——」
「そんな仲になってもいい、と思ったことはあるわ」
京子は、じっとメモを見つめて、「でも、この人には奥《おく》さんがあるのよ」
「だから諦《あきら》めるんですか」
「いいえ。——私《わたし》だって、そんな道《どう》徳《とく》家《か》じゃないもの。好きな人がいたら、奥さんがいようといまいと、駆《か》け寄って行くかもしれないわ。でもね、この人には、帰国を待ちこがれてる、もう一人の人間がいるのよ」
明美は、京子を見つめながら、
「話して下さい」
と言った。「もし——良かったら」
「ええ、いいわ」
京子はメモを傍《そば》へ置いて、
「食べながら話しましょ。冷《さ》めてしまうわ」
と、はしを取った……。
——入院している浅倉エミのこと、その父親のこと、そして後《ご》妻《さい》の郁《いく》江《え》のことを、明美は聞いた。
「——分るでしょう」
京子は、ちょっと寂《さび》しげに笑《わら》って、「私もあなたのお父さんを非《ひ》難《なん》できる立場じゃないの。偶《ぐう》然《ぜん》の成り行きで、ことによったら、同じことをしていたかもしれないんですもの」
明美は黙《だま》って肯《うなず》くだけだった。
いくら明美がませていても、こういう大人《おとな》の話には、口を出すことができない。
「私、浦田さんって、もっと——こんなこと言っても怒《おこ》らないで下さいね——ガチガチの人かと思ってました。いい人で、しっかりしてるけどしっかりし過ぎていて、あんまり女性としては魅《み》力《りよく》ないなって。——ごめんなさい」
「いいのよ。事《じ》実《じつ》その通りだと思うわ」
「そんなことありません」
明美は、きっぱりとそう言うと、「浦田さん、結《けつ》婚《こん》するべきですよ」
「まあ、この何もできない人に、そう言ってくれるの?」
と、京子は笑った。
「私、断《だん》然《ぜん》、浦田さんの相《あい》手《て》、捜《さが》しちゃおうっと!」
「待ってよ。まずこちらを片付けないと」
と、京子は、メモ用紙を取り上げた。
「放《ほう》っとけば?」
明美はアッサリと言った。
さて、明美が浦田京子のアパートにいるなどとは思いもしない父親の方は、そのころ、南千代子に別れ話を切り出しているはずだった……。
「——いつもより、ずっと元気だったじゃないの」
と、南千代子が言った。
「う、うん……」
塚原は、何とも妙《みよう》な気分だった。
二人《ふたり》は、いつもの場所で落ち合って、結《けつ》局《きよく》、いつもの通りホテルへ入り、いつもの通りベッドへ入ってしまったのである。
塚原としては、待ち合せた喫《きつ》茶《さ》店《てん》でその話をするつもりだったのだが、人《ひと》目《め》の多い場所だし、ここで泣き出されでもしちゃかなわんと思い、一《いつ》旦《たん》ホテルへ行くことにしたのだった。
ホテルの部《へ》屋《や》へ入ると、千代子の方のペースでさっさとシャワーなど浴《あ》び、さっさとベッドへ……。何となく、そんなときに、
「もう別れることにしよう」
とは言い出しにくい。
で、結《けつ》局《きよく》のところ、塚原はいつもよりずっと「頑《がん》張《ば》って」しまったのだった。
娘《むすめ》が駈《か》け落ちしてしまったというのに、俺《おれ》はこんな所で浮《うわ》気《き》をしている。何という父親だろう。
塚原は、深い底なし沼《ぬま》のような自《じ》己《こ》嫌《けん》悪《お》に陥《おちい》っていたのだが、そのくせ、千代子に甘《あま》えられたりすると、つい頬の筋《きん》肉《にく》がたるんでしまうのだった。
「ねえ」
と、千代子が、塚原の方へ体をすり寄せて来て、言った。
「何だい?」
「会社でいやなことでもあったの?」
「どうして?」
「だって、元気なかったじゃない。上《うわ》役《やく》にいじめられたの?」
塚原は苦《にが》笑《わら》いして、
「これだけ勤《つと》めてりゃ、いじめられるベテランさ」
と言った。「ちょっと家の方でね……」
「あら、そうだったの」
今こそ、話をする絶《ぜつ》好《こう》の機《き》会《かい》だ。塚原はエヘン、と咳《せき》払《ばら》いをして、
「あのね——」
「風邪《かぜ》引いたの?」
「どうして?」
「咳《せき》してるじゃない」
「いや、そうじゃないよ。ちょっと——喉《のど》の通りを良くしただけだ」
「あら、そうなの。喉がいがらっぽいのは、でも風邪の引き始めよ。気を付けた方がいいわ」
「ありがとう。でもね——」
「油《ゆ》断《だん》は禁《きん》物《もつ》よ。塚原さんくらいの年《ねん》齢《れい》になると、風邪から成《せい》人《じん》病《びよう》になることが多いんだから。——あ、ちょっと待って」
千代子はベッドから裸《はだか》で飛び出した。
「ねえ、君、ちょっと——」
塚原が肝《かん》心《じん》の話をまるで切り出せずにいる内に、千代子は、自分のバッグから、小さなプラスチックケースを取って来て、
「これ、二、三粒《つぶ》なめると、喉がスッキリするわよ。はい、手を出して」
「別に僕《ぼく》は——」
「いいから! はい、口に入れてあげるわ。アーンして」
赤ん坊《ぼう》みたいなもんである。仕方なく口を開けると、小さな粒が二、三個転《ころが》り込《こ》む。ちょっと苦《にが》いが、すぐに冷ややかな感《かん》触《しよく》が口の中に広がった。
「やあ、こりゃ気持いい」
「でしょ?——私、シャワー浴《あ》びて来ようっと。お先にね」
塚原が口を開く暇《ひま》もない。千代子の姿《すがた》は浴《よく》室《しつ》へ消えてしまった。
「やれやれ……」
塚原はため息をついた。——何をしてるんだ! もう別れよう、と一《ひと》言《こと》言ってやるだけのことが、まるでできないのだから!
決《けつ》断《だん》力《りよく》、実行力に乏《とぼ》しいことは自分でもよく分っているのだが、こうまでだめな男だとは……。
塚原は、何だかガックリ来てしまって、さっさとシャワーで汗《あせ》を落として出て来た千代子に、
「ね、早くシャワー浴《あ》びてらっしゃいよ。気持いいわよ」
と言われて、素《す》直《なお》にバスルームへと歩いて行ったのである……。
——ホテルを出ると、いつもの通り、タクシーを拾《ひろ》って、千代子を送って行く。
「ねえ、お話があるんだけど」
と、タクシーの中で、千代子が言い出した。
「何だい?」
彼女《かのじよ》の方から、別れたい、と言い出すつもりかもしれない、と一《いつ》瞬《しゆん》塚原は期《き》待《たい》したのだが、世の中、そううまく行くわけがない、と思い直した。
「言ってごらん」
「うん。——言いにくいんだけどなあ、ちょっと……」
塚原は、ちょっと青くなった。——まさか子供ができた、とでも……。いや、いくら何でも、こんなに早く分るわけがない。
「あのね。思い切って言っちゃおう」
と、千代子は、何だか楽しげな顔で、「私《わたし》結《けつ》婚《こん》するんです」
塚原も、これにはびっくりした。たった今、ホテルから出て来たばかりで……。
「そ、そりゃおめでとう」
塚原は急いで言った。「もちろん、今井君と、だね」
今井と恋《こい》仲《なか》だというのは、千代子自身から聞いていた。だが千代子はクスッと笑って、
「違《ちが》いますよ。だって、私と今井さん、別に恋人でも何でもないんだもの」
と言ったのである。
「今井君じゃないって?」
塚原は面《めん》食《く》らって、「しかし、君、前にそう言ったじゃないか」
「あれは、ちょっとした嘘《うそ》です」
千代子は、アッサリと言ってのけ、「ああでも言わないと、塚原さん、私のこと相《あい》手《て》にしてくれそうもなかったから」
「——参《まい》ったね」
塚原は正《しよう》直《じき》に言った。「てっきり本当だと思ってたよ」
「ごめんなさい」
と、千代子は、塚原に身をすり寄せるようにして、「怒《おこ》らないでね。——ね?」
これじゃ怒れやしないのである。
ともかく、結《けつ》婚《こん》するというからには、千代子との間もこれきりになる。塚原は、内《ない》心《しん》ホッとしていた。相《あい》手《て》が誰《だれ》だろうと、それは塚原には関《かん》係《けい》ないことだ。
「ともかくおめでとう」
と、塚原は気を取り直して言った。「君はきっといい奥《おく》さんになるよ」
「嬉《うれ》しい! そう言ってもらうと、自信がつくわ」
こうやって喜んでいるところは、何とも無《む》邪《じや》気《き》なものである。
「——で、誰なんだい、結婚の相手は。会社の人?」
と、塚原は訊《き》いた。
「そうよ」
と、千代子は、いたずらっぽく笑《わら》って、「私、塚原さんの奥さんになるって決めたの!」
塚原は、頭をハンマーで殴《なぐ》られたような気がした。
「な、何だって?」
「あら、そんなにびっくりしなくたっていいじゃないの」
「し、しかし……」
塚原はあわてて、運転手に、「ちょっと停《と》めてくれ!」
と言った。
変な所で降りたので、二人は、道《みち》端《ばた》で立ち話をすることになった。
「——ねえ、いいかい、僕《ぼく》は女《によう》房《ぼう》も子供もいる。しかも、五十に近いんだよ」
「分ってるわ」
と、千代子はケロリとしている。
「それに——君だって、これは遊びだと……」
「そのつもりだったわ」
と、千代子は肯《うなず》くと、ちょっと目を伏《ふ》せて、「私《わたし》、結《けつ》構《こう》男の人とは遊んで来たし、中には塚原さんぐらいの人もいたわ。だから、もちろん塚原さんとだって、遊びと割《わ》り切るつもりでいたの」
千代子は、真《しん》剣《けん》な目つきになって、塚原を見つめた。塚原の方はゾッとした。
「でも、私、今までに塚原さんくらい、フィーリングのピッタリ来る人って、会ったことなかったの。その内飽《あ》きる。そう思ってた。でも、会う度《たび》に私、好きになって行くのよ!」
千代子は今や真《ま》面《じ》目《め》そのものだった。
塚原は、唖《あ》然《ぜん》として言《こと》葉《ば》もなかった。
南千代子が本《ヽ》気《ヽ》で俺《おれ》を愛してるって? そんな馬《ば》鹿《か》な!
「いいかい、考えてくれよ。僕は今の女房と別れる気もないし、君と結《けつ》婚《こん》することもできないんだ。僕らのことが社内で噂《うわさ》になってる」
「知ってるわ」
「だから、僕《ぼく》はそれが女房の耳に入らない内に、君との仲を——その——きれいにしておこうと思って、今日その話をするつもりだったんだ」
「じゃ、どうして私《わたし》を抱《だ》いたの?」
そう言われると、塚原としても弱い。千代子は、一つ息をついた。
「いいわ、塚原さんがそのつもりなら……」
「どうするんだい?」
塚原が恐《おそ》る恐る訊《き》く。千代子は、ちょうどやってきた空《くう》車《しや》を停《と》めると、
「私一人で帰るから」
と言って、開いたドアに手をかけ、振《ふ》り向くと、「私、あなたを奥《おく》さんから奪《うば》ってみせるから!」
——ドアが閉る。
千代子の乗ったタクシーが走り去るのを、塚原は呆《ぼう》然《ぜん》として見送っていた……。
「そうだ——」
脇元は、ふと呟《つぶや》いて、起き上った。
「どうしたの?」
半《なか》ばまどろみかけていた女が、眠《ねむ》そうな声を出す。
「いいんだ、眠《ねむ》ってろ」
脇元はベッドを出ると、電話の方へ歩いて行った。
「電話するの? 忙《いそが》しいのね、社長さんって」
女がブツブツ言って、寝《ね》返《がえ》りを打つ。
脇元は、女が寝息をたてるのを待って、受話器を取った。
「——もしもし。脇元だよ。——ああ、ご苦《く》労《ろう》さん。どうだったね?」
脇元は、しばらく黙《だま》って相《あい》手《て》の話に耳を傾けていた。そして、軽《かる》く肯《うなず》きながら、
「なるほど。分った。——うん、続けてくれたまえ」
これだけの言《こと》葉《ば》では、たとえ、ベッドの女が聞いていたとしても、何の話だったか分るまい。
脇元は、ガウンをはおって、タバコに火を点《つ》けた。
——久野の奴《やつ》。
津村華子か。津村の女《によう》房《ぼう》とできているのか。してみると、津村は初めから利用されただけだったのかもしれない。
脇元は、ゆっくりと煙《けむり》を吐《は》き出した。