「参《まい》った!」
と、塚原は頭をかかえた。
「どうしたらいいと思う?」
「私におっしゃられても……」
と、浦田京子は言《こと》葉《ば》を濁《にご》した。
「まさかこんなことになるとは思わなかったんだ」
塚原は、深々とため息をついた。
もちろん、南千代子とのことを、京子に話したのである。
「どうして、きっぱりと別れようっておっしゃらなかったんですか?」
「うん……。そのつ《ヽ》も《ヽ》り《ヽ》ではいたんだけどね……」
塚原にしてみれば、辛《つら》い立場である。
——昼休みだった。
塚原と京子は、昼《ちゆう》食《しよく》の後、二人《ふたり》で喫《きつ》茶《さ》店《てん》に入っていた。よく晴れた日で、塚原の心《しん》境《きよう》とは裏《うら》腹《はら》に、澄《す》み渡《わた》った空が、店の中から見上げても、目にまぶしい。
京子は、ふと、このお天気なら、浅倉の飛行機も予定通り成田へ着くだろう、と思った。もちろん、迎《むか》えになんか行かない。
そう。行かないのだ。
「今日、千代子さん、お休みしてますね」
と、京子は言った。
「うん。それも気になってるんだ。まさか、思い詰《つ》めて……」
「あの人のことだから、自殺したりはしないでしょうけど。——でも、人間って、表面の華《はな》やかさだけじゃ分らないものですから」
「全《まつた》くだね」
と、塚原は肯《うなず》いた。「もし、浮《うわ》気《き》が本気になることがあるとしても、それは僕《ぼく》の方で、彼女《かのじよ》じゃないと思ってた。そうだろう? 常《じよう》識《しき》的《てき》に考えりゃ」
「そうですね」
「だから、こっちさえ本気にならなきゃ、その内、向うが飽《あ》きるだろう、と……。それならそれでいい、と思ってたんだ」
「千代子さん、奥《おく》さんから塚原さんを奪《うば》ってみせる、って、そう言ったんですね?」
「うん」
「じゃ、本気なんだわ。そこまでは、なかなか言えないもんです」
「困ったよ!」
塚原は、またため息をついた。
何てだらしがない。だから、言ったじゃありませんか。——以前の京子なら、そう叱《しか》りつけたかもしれない。
しかし、京子自身、浅倉とのキスを経《けい》験《けん》してから、人間、好きとか嫌《きら》いという感情は、どうにもならないものだと知ったのである。それを、不《ふ》道《どう》徳《とく》と言って責《せ》めることはできない……。
もちろん「感情」は抑《おさ》えられなくても、「行動」は抑えられる。それが大人《おとな》の理《り》性《せい》というものだ。——京子は言った。
「奥《おく》様《さま》に打ち明けられた方がいいですね」
「女《によう》房《ぼう》に?」
塚原は思わずギョッとして訊《き》き返した。
「そうです。こうなった以上、千代子さんのことが、奥様の耳にも入ると思わなくては」
「本当に——入るかね」
「千代子さん自身が、直接、奥様に会いに行くことだって考えられます」
と京子は言った。「そうなってからでは、手《て》遅《おく》れですわ」
「なるほど……」
塚原は、そんなことまで考えていなかったのである。
「もしかして——」
と、京子は、ふと思い付いて、言った。
「何だね?」
「今《ヽ》日《ヽ》、千代子さんが休んだのは……」
塚原は青くなった。
「まさか!——彼女《かのじよ》がうちへ行ってると?」
「最《さい》悪《あく》の場合には、考えられますわ」
「——電話してみよう」
塚原は立ち上って、あわててレジのわきの公《こう》衆《しゆう》電話へと走って行った。
京子は、また、青空へ目を向けた。
今日、浅倉が帰って来る。——もちろん、私《わたし》には何の関《かん》係《けい》もないことなんだわ。
京子は、病《びよう》院《いん》で父親の来るのを待ちこがれているエミのことを考えようとした。——そう、私なんかどうでもいいんだわ。大切なのはあの子なんだもの……。
少しして、塚原は席に戻《もど》って来た。
「いや、大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》だった!」
と、額《ひたい》の汗《あせ》を拭《ぬぐ》って、言った。
「奥《おく》様《さま》、いらしたんですか?」
「うん。いつもとちっとも変らない様《よう》子《す》だったよ」
京子は、吹《ふ》き出しそうになってしまった。ろくに用もないのに、夫《おつと》が外から電話して来る。それが却《かえ》って妻《つま》には妙《みよう》な気がするだろうに、そこまでは頭が回らないのだ。
「——ところで、津村さんのことなんですけど」
と、京子は話を変えた。「何だかこのところ元気がありませんね」
「うん? そうかい?」
塚原は自分のことに手一《いつ》杯《ぱい》で、津村のことまで手が回らないのである。
「今《ヽ》日《ヽ》も、お昼を一《いつ》緒《しよ》に、と思ったんですけど、逃《に》げるようにいなくなっちゃって」
「そうかな……」
京子はふっと息をついた。
「——あれで良かったんでしょうか」
「何が?」
「私たちのしたことです。——みんなお金を手に入れて……。でも、あんまり幸《しあわ》せそうでもないんですもの」
塚原は、ハッとした。
そんなことを、今まで考えてもみなかったのだ……。
塚原が自宅へ電話するのが、あと十分遅《おそ》かったら、事《じ》情《じよう》は変っていただろう。
というのは、夫からの、わけのわからない電話に、少々首をひねりながら、啓子が台所の方へと戻《もど》りかけたとき、玄《げん》関《かん》のチャイムが、鳴ったからである。
「明美かしら?」
やはり親としては、娘《むすめ》の安《あん》否《ぴ》が第一に気にかかる。
急いで玄関へ出て、ドアを開けたが——。
「こんにちは」
立っていたのは、若い女性——といっても、明美ほど若くはない。
「はあ」
何かのセールスかしら、と啓子は思った。いや、そんな感じでもないのだが。
「塚原さんの奥《おく》様《さま》ですね」
と、その女性は言った。
「そうですが……」
「私《わたし》、会社でいつもご主人にお世《せ》話《わ》になっている南千代子と申します」
「どうも。あの——主人は会社に」
「はい。実《じつ》は奥様にお願いがあって、参りました」
至《いた》って礼《れい》儀《ぎ》正しい、好《こう》感《かん》の持てる子だわ、と啓子は思った。ともかく、立ち話では仕方ない。
「どうぞ、上って下さい」
——南千代子を居《い》間《ま》へ通して、啓子はお茶など出してやると、ソファに腰《こし》をおろして、
「で、私にどういうご用ですの?」
と訊《き》いた。
「はあ。実《じつ》は——」
南千代子は、ちょっと言《こと》葉《ば》を切ったが、それは、ためらっているというよりは、相《あい》手《て》の注意をひきつける効《こう》果《か》を狙《ねら》っているという感じだった。
「奥様に、塚原さんと別れていただきたいんです」
と、千代子は言った。
「は?」
思わず啓子は訊《き》き返していた。「——別れる、とおっしゃったんですか?」
「はい、そうです」
啓子は目をパチクリさせて、
「おっしゃる意味が……」
「つまり、離《り》婚《こん》していただきたいんです」
「私と主人が、ですか」
「そうです」
「でも——なぜ?」
「私、塚原さんと結《けつ》婚《こん》したいんです。いえ、そう決心したんです」
啓子は、大《だい》体《たい》が呑《の》み込《こ》みのいい方ではないので、こんな突《とつ》飛《ぴ》な話には、とてもついて行けない。
「あの——あなたが主人と?」
「そうです。私、塚原さんを愛しているんです」
これは決《けつ》定《てい》的《てき》だった。——いや、啓子は怒《おこ》り出したのでなく、笑《わら》い出してしまったのである。
啓子は、自分でも、笑い出したことにびっくりして、
「あら、ごめんなさい。でも——」
と、あわてて口を押《おさ》えた。「あんまりびっくりしたもんですからね」
「当然だと思います」
千代子の方は、至《いた》って平《へい》静《せい》そのもの。「ご存《ぞん》知《じ》なかったんですか」
「——何を?」
「ご主人が、浮《うわ》気《き》しているのを、です」
「浮気?——あなたと?」
「もちろんです」
やっと、啓子の方も、頭の回《かい》路《ろ》が正《せい》常《じよう》に働くようになった。
夫が浮気? まさか!——しかし、即《そく》座《ざ》にこれを笑《わら》い飛ばせなかったのは、少々(かなり、かもしれない)鈍《にぶ》い啓子にも、何だかおかしいな、と思えることが、このところ何度かあったからである。
前はほとんど時間通りに帰って来ていたのに、このところよく遅《おそ》くなる。そんなときは、やたら言いわけめいた説明をするのだが、啓子はろくに聞いてもいなかった。
それに——そう、何度か、夫が帰って来て着《き》替《が》えるとき、石ケンの匂《にお》いがすることもあった。
要《よう》するに、普《ふ》通《つう》の妻《つま》なら、当然、夫の浮気を疑うところだったのだ。
「まあ——どうでしょ」
と、啓子は言った。
他《ほか》に言いようがない。
「私《わたし》、もう塚原さんから離《はな》れられません」
と、千代子は言った。「何としても、一《いつ》緒《しよ》になるつもりです」
「ちょっと——ちょっと待って下さいな」
と、啓子は言った。「でも、あなたはそうでも、主人の方は? 主人もそのつもりなんですか?」
「いいえ」
と、首を振《ふ》って、「塚原さんは、その気はない、とおっしゃいました」
「そうですか」
啓子は少し安心した。
「でも、私《わたし》、諦《あきら》めません。塚原さんは、気が弱いし、女性に引《ひつ》張《ぱ》られる性《た》質《ち》ですから、私、強《ごう》引《いん》に離《り》婚《こん》させます」
啓子は、腹を立てるべきだと思っていたが、その割《わり》には、この人、なかなか主人のことが分ってるわ、などと感心したりしていたのである。
「私と塚原さんは年齢《とし》が違《ちが》います」
と、千代子は言った。「でも、それは愛の力で乗り越えて見せます」
まるでTVのメロドラマである。
「はあ……」
「もちろん、奥《おく》様《さま》にも、すぐご返事はいただけないと思います」
「そう——ですね」
「またうかがいますので」
と、千代子は立ち上った。
呑《のん》気《き》な話ではあるが、啓子は南千代子を玄《げん》関《かん》まで送って、
「どうもご苦《く》労《ろう》様《さま》」
と挨《あい》拶《さつ》までしていたのである。
夫《おつと》の愛人に、ここまでやるのもどうか、と啓子自身考えはしたのだが、それでも性格というのは変えようがない。
——一人《ひとり》になって、さて、啓子は、しばし呆《ぼう》然《ぜん》として、居《い》間《ま》に座《すわ》り込《こ》んでいた。
ショックでなかった、と言えば嘘《うそ》になる。しかし、明美の駈《か》け落ちをまともに信じ込んでいる啓子としては、それに加えて夫の浮《うわ》気《き》と来ては……。
ともかく、日々が変りなく平《へい》穏《おん》に過ぎて行くに違《ちが》いないと頭から信じ切っている啓子である。
このダブルパンチはあまりに強《きよう》烈《れつ》で、却《かえ》って現《げん》実《じつ》感《かん》がなかった。
「どうなってるの?」
と、啓子は呟《つぶや》いた。
本当に夫は浮気しているのだろうか? しかし、あの女性の話にはリアリティーがあった。
大《だい》体《たい》、あんなことで嘘《うそ》をついたって仕方あるまい。別にお金を出してくれと言うのでもないのだから。
本当に浮気をしているとして……。
啓子は、あまり腹の立たないことが、不《ふ》思《し》議《ぎ》だった。もともとが、怒《おこ》りっぽい性格でないにせよ、こんなときには怒《おこ》るべきではないか!
それにしても、あの子、可愛《かわい》かったわ、と啓子は思った。夫があの子に夢《む》中《ちゆう》になった、というのならともかく、あの子の方が夫に夢中になっている、というのだから、分らないものだ。
「ともかく——」
と、啓子は呟《つぶや》いた。「あの人が帰ったら、訊《き》いてみましょ」
至《いた》ってのんびりしているのである。
「遅《おそ》いじゃない。どこまで行ってたの?」
「ごめん! ちょっとTVを見てて——」
女子社員同士の会話を耳にして、浦田京子は苦《く》笑《しよう》した。
今の若い女の子たちは、のびのびと働いている。まあ、時として「仕事」と「遊び」のけじめがつかないことがあるにしても、いつ上《うわ》役《やく》に怒《ど》鳴《な》られるかとピリピリしているよりは、ずっといいかもしれない。
「飛行機が——」
という言《こと》葉《ば》を耳にして、京子は、ふと、手を止めた。
飛行機?——どうしたんだろう?
「落ちたらしいわよ。今、TVで大《おお》騒《さわ》ぎしてた」
「へえ。しばらくなかったのにね」
「油《ゆ》断《だん》したころ起るのよ、事《じ》故《こ》っていうやつは」
京子は、振《ふ》り向くと、
「どこの飛行機が落ちたの?」
と訊《き》いた。
飛行機が落ちた、といっても、まさか……。
京子は、何《なに》気《げ》なく、訊いてみたのだった。
「え? ああ、私も途《と》中《ちゆう》から見ただけなんでよく分りませんけど、何だかアメリカからの飛行機みたいですよ」
「アメリカから?」
京子は、ドキッとした。
浅倉も、今日アメリカから帰る。夕方、ということだった。ではもしかしたら……。
京子は、動《どう》揺《よう》を気付かれまいとして、机に向った。
そんなことが! 浅倉の乗った飛行機が落ちるなんて……。そんなはずがない!
しかし、そう自分へ言い聞かせようとしても、京子は仕事に注意を集中することができなかった。
墜《つい》落《らく》する飛行機——救《きゆう》命《めい》ボート——波間に漂《ただよ》う人たち……。
色々なイメージが、頭の中を駆《か》け巡《めぐ》った。もし浅倉の乗った飛行機だったとしたら……。
京子は、席を立った。
——ビルの地下の喫《きつ》茶《さ》室《しつ》へ行くと、TVが点《つ》いていて、そのニュースをやっていた。
京子は席につくと、TVから目を離《はな》さずに、ほとんど無《む》意《い》識《しき》に紅茶を頼《たの》んでいた。
「落ちついて……。冷《れい》静《せい》になって」
と、口の中で呟《つぶや》く。
それくらい、京子はショックを受けていたのだ。
TVで知った限りでは、アメリカから日本へ向った便《びん》が、途《と》中《ちゆう》で消《しよう》息《そく》を絶《た》っているということしか分らなかった。乗客名《めい》簿《ぼ》なども発表されていない。
もちろん、まだ落ちたと決ったわけでもないのだし……。
浅倉が、これに乗っていたかどうか。その、可《か》能《のう》性《せい》はあった。
でも、まさかそんなことがあるわけはない。
そうだわ。あのエミを残して死ぬなんてことがあるはずがない!
——京子は、気が付くと、もう三十分近くもTVを見ていたので、びっくりした。
もう戻《もど》らなくては。そんなに状《じよう》況《きよう》がすぐ分るわけでもないのだし。
京子は、紅茶には結《けつ》局《きよく》口をつけず、出てしまった。
机の前に戻ると、電話が鳴った。
「はい、浦田です」
と言うと、少しザワついた音がして、
「もしもし?」
京子はハッとした。
「あの——浅倉さんですね」
「やあ、すみません、また会社へかけてしまって」
浅倉の声は至《いた》って屈《くつ》託《たく》がなかった。「今成田へ着きましてね」
——京子は、ごく自《し》然《ぜん》に胸が熱くなり、目に涙《なみだ》が溢《あふ》れて来るのを感じた。