たった一日。——そう、一日だけのことなのだ。
京子は、自分へそう言いきかせていた。
浅倉の帰りが、一日遅《おそ》かったと思えば……。そんなのは、珍《めずら》しくも何ともないことだ。
「——何を考えてるんです?」
と、浅倉が訊《き》いた。
京子はふっと我《われ》に返った。
「あ、いえ——別に」
レストランの中は、静かだった。ピアノのメロディーが、かすかに流れている。
少し薄《うす》暗《ぐら》い照明が、余《よ》計《けい》に静けさを感じさせた。
来てしまった。——京子は、心の中で呟《つぶや》いた。もう何十回目かの呟《つぶや》きだった。
どうして来てしまったのだろう?
決して会わないと、言ったのに。明美にもそう言ったのに。
明美は、気が付いているだろうか?
そう。——たぶん分っている。あの子は、ドライなようで、勘《かん》は鋭《するど》いのだ。
傷《きず》つきやすい若《わか》さを、ドライなポーズで守っている。
後ろめたい思いは、消えなかった。明美に対しても、エミに対しても。そして、自分自身に対しても。
しかし、ここまで来た以上、引き返すわけにいかないということも、よく分っていた……。
「エミのことですね」
と、浅倉が言った。
「ええ」
京子は肯《うなず》いた。「明日《あした》、すぐに行ってあげて下さいね」
「もちろんです。一《いつ》緒《しよ》に行ってやって下さい。エミも喜びます」
京子は、答えずに微《ほほ》笑《え》んだ。
今夜、浅倉と一夜を過《すご》して、明日、エミの前に顔を出せるだろうか?
京子にも、それは分らなかった。
浅倉の乗った飛行機が事《じ》故《こ》にあったかもしれない。——あのニュースが、京子の心を決めさせた。
自分でも意外なほど、京子は動《どう》揺《よう》したのである。
それだけ、寂《さび》しかったのだろうか? そうかもしれない。
長い間、たった独《ひと》りで生活して来て、孤《こ》独《どく》にはすっかり慣れたつもりでいたが、そうでもなかったようだ。
——二人は、時間をかけて食事を終えた。
心はせいているのに、わざわざゆっくりと食事をしていたような気がする。
「行きましょうか」
「ええ」
「落ちつける所を捜《さが》してあります」
と、浅倉は、立ち上って、京子を促《うなが》した。
もう、ここまで来て、ためらうわけにはいかない。京子は、エミのことも、明美のことも、心の奥《おく》へしまい込《こ》んで、蓋《ふた》を閉《と》じた。
浅倉は、郊《こう》外《がい》まで車を飛ばして、閑《かん》静《せい》な林の中の日本旅館へと京子を連れて行った。
京子としては、浅倉のその気のつかいようが嬉《うれ》しかった。もし、都心のラブホテルにでも連れて行かれたら、惨《みじ》めな気持になったろう。
若《わか》い恋《こい》人《びと》たちというならともかく、人目を忍《しの》んでの、道ならぬ恋なのだ。都会の喧《けん》噪《そう》から離《はな》れて、別世界のような静けさの中で、やっと心も体も休まるというものである。
——清《せい》潔《けつ》で広い和室で落ちつくと、二人は順番に風《ふ》呂《ろ》へ入って、浴衣《ゆかた》に替《か》えた。
ほんの少し、ビールなど飲んで、隣《となり》の部屋には、もう床《とこ》が敷《し》かれている……。
まるで、映画か小説の中のようだわ、と京子は思った。——大人《おとな》の恋。
大人の恋、か……。
そう、私《わたし》たちは二人とも大人なんだ。見っともなく、すがりついたり、喚《わめ》いたりはしない。
少し落ちつくと、もう夜、十二時に近くなっていた。
「——時差のせいかな。変なときに眠《ねむ》くなりますよ」
と、浅倉は笑《わら》った。
「じゃ、今は?」
「あなたが目の前にいては、眠くなるわけがありません」
「まあ、お上《じよう》手《ず》ね」
と、京子は笑った。
浅倉は、ビールのコップを置いた。
「行きますか」
「はい」
京子は肯《うなず》いた。
二人は、立ち上ると、隣《となり》の部屋へ行った。浅倉が京子を抱《だ》きしめると、そのまま京子は体中の力を抜《ぬ》いて、身を委《ゆだ》ねた……。
塚《つか》原《はら》は、ぼんやりと家の中に座《すわ》っていた。
どれくらい時間がたったのだろう?
啓子が、機《き》嫌《げん》を直して戻《もど》って来るかもしれない。——塚原はそう思っていた。
ちょっと考えれば、啓子だって、あれほどの仕《し》度《たく》をして出て行ったのだ。意地でもやすやすとは帰って来ないことぐらい、分りそうなものだが、ともかく、塚原としては、啓子が出て行ったということ自体が、信じられずにいたのだ。
塚原は、若《わか》いころから、一人で暮《くら》したという経《けい》験《けん》がない。こうして取り残されてしまうと、どうしていいのか分らないのである。
「啓子……」
塚原はポツリと呟《つぶや》いた。
今さらのように、自分がどんなに啓子に頼《たよ》り切って生活していたか、思い知らされた。その啓子を、俺《おれ》は裏《うら》切《ぎ》っていたのだ……。
玄《げん》関《かん》のチャイムが鳴って、塚原は飛び上った。
「啓子!」
と大声で叫《さけ》んで、玄関へと駆《か》けつけた。
塚原は、啓子が帰って来たのだとばかり思っていたから、ためらいもせずに、パッとドアを開けた。
「——やあ」
塚原は、目の前に立っている津《つ》村《むら》に、しばらくしてから、声をかけた。
「すみません。突《とつ》然《ぜん》お邪《じや》魔《ま》して」
と、津村は言った。
「いや……構《かま》わないよ。入ってくれ」
塚原は、津村を中へ入れた。
そうか。考えてみれば、これがもし啓子なら、玄《げん》関《かん》は鍵《かぎ》などかかっていなかったのだから、勝手に入って来ただろう。
「——夜分、すみません」
津村はソファに、ちょっと疲《つか》れた様子で腰《こし》をおろした。
「いや、いいんだ。どうした?」
と、塚原は訊《き》いた。
「はあ、実は、——」
と、言いかけて、津村は、「奥《おく》様《さま》はいらっしゃらないんですか?」
「う、うん」
塚原はあわてて、「ちょっとね——その——親類の所へ急な用事で出かけてるんだ」
「そうですか。いえ、その方が、僕《ぼく》はありがたいんです」
津村は、いやにくたびれているように見えた。
「どうした? 元気ないじゃないか」
塚原だって、そんなことを言えた柄《がら》ではないのだが。
「ええ。——参りました」
津村は、深々と息をついた。
「何か——例の件《けん》で、まずいことでもあったのかね」
「いや……。それが関係あるとは思えないんですが」
と、津村は首を振《ふ》る。
「それじゃ……」
「実は、華子に男がいるらしいんです」
「何だって?」
塚原の声が、思わず大きくなったのも当然と言えるだろう。
「本人にはまだ問《と》い詰《つ》めたわけじゃないんです」
と、津村は言った。「訊《き》くのが怖《こわ》くて。——だらしのない話ですがね」
苦《く》笑《しよう》する津村を、塚原はじっと見つめていた。
「相手は分ってるのかい?」
「いいえ。——しかし、誰《だれ》かいるのは確《たし》かなんです。まさか、あいつが浮《うわ》気《き》するなんてね……」
「それは——大変だなあ」
と、塚原は言った。
他《ほか》に言いようがないのだ。
「どうしたもんでしょうね、塚原さん」
と、津村は訊いた。「こんなときは、一気にワッと喧《けん》嘩《か》した方がいいんでしょうか?」
塚原にも答えられない質《しつ》問《もん》だった。
明美は、どうせ京子も帰らないのだし、と、のんびりパーラーで甘《あま》いものなど食べて、アパートへと戻《もど》って行った。
途《と》中《ちゆう》、もちろん時間は早いので、結《けつ》構《こう》人通りもある。明美は口《くち》笛《ぶえ》など吹《ふ》きながら、歩いていた。
アパートの手前、ちょっと通りから外《はず》れた薄《うす》暗《ぐら》い道へ入る。といっても、ほんの十メートルほどの距《きよ》離《り》なのだ。
その細い道に、ライトバンが一台停《とま》っていた。
「邪《じや》魔《ま》だなあ」
と、明美は呟《つぶや》いた。
車の中は、暗くて、人もいないらしい。
仕方なく、明美はライトバンのわきを、すり抜《ぬ》けるようにして歩いて行った。
突《とつ》然《ぜん》、前に人《ひと》影《かげ》が立った。明美はギョッとして立ちすくんだ。
同時に、背《はい》後《ご》から、抱《だ》きつかれる。
「キャッ!」
と、明美は声を上げた。
口を、布《ぬの》でふさがれた。前にいた男が、明美の両足をかかえ上げた。
恐《きよう》怖《ふ》を覚えて、明美は身をよじった。暴《あば》れようとした。
しかし、ガッチリと押《おさ》え込《こ》まれた手足は、動くに動かせない。
「急げ!」
と、声がした。
どうやら、もう一人いるらしい。ライトバンの後ろの扉《とびら》が開いた。
「中へかつぎ込め!」
明美は、そのまま、車の中へとかかえ込まれた。
「おとなしくしろ!」
男の声がして、同時に、明美の目の前に、銀色に光るナイフが突《つ》きつけられる。
明美も、さすがに血の気がひいた。
「——いいか。騒《さわ》ぐと、ただじゃ済《す》まねえからな」
男はナイフの刃《は》の先を明美の頬《ほお》に軽く当てた。「分ったか?」
明美は、ちょっと肯《うなず》いて見せた。
この男たちは何だろう? どうしようというんだろう?
「OK。しっかり押えとけよ。俺《おれ》が運転するからな」
一人が、運《うん》転《てん》席《せき》へ移る。
残る二人が、しっかりと明美を床《ゆか》へ押《お》しつけるようにしているので、全く身動きはできなかった。
車がブルル、と揺《ゆ》れて動き出した。
「——ここは一方通行なんだな。よし、バックしよう」
車が動き出した。
しかし、運転する方も焦《あせ》っていたらしい。曲り角から後《こう》尾《び》がぐっと出たところへ、自転車がぶつかった。
ガチャン、と派《は》手《で》な音がした。
「畜《ちく》生《しよう》!」
運転していた男が舌《した》打《う》ちした。
「構《かま》わねえ! 行っちまえ!」
と、ナイフを持った男が言った。
だが、天は明美の味方だった。
「おい! 降《お》りろ!」
と、怒《ど》鳴《な》って、運《うん》転《てん》席《せき》の窓《まど》の所へ顔を出したのは——警《けい》官《かん》だったのである。
「逃《に》げろ!」
と、運転席の男が叫《さけ》んだ。
ライトバンの後ろの扉《とびら》を開けて、残る二人が飛び出す。
「待て! おい、待て!」
警官も、突《とつ》然《ぜん》のことで、ちょっと呆《あつ》気《け》に取られていたが、あわてて三人の後を追いかけて行った……。
「塚原さんも……」
津村は、信じられない様子で、「本当に浮《うわ》気《き》してたんですか?」
「うん。お恥《は》ずかしい」
と、塚原は言った。「この年齢《とし》をして、若《わか》い女の子とね」
「南千代子君か。——そうですか」
「君の耳には入ってないか?」
「ええ。女子社員の間だけなんでしょうね、きっと」
「参ったよ!」
塚原は、周囲を見回して、
「女《によう》房《ぼう》に出て行かれて、途《と》方《ほう》にくれてたところだ」
「驚《おどろ》いたなあ。塚原さんは、そんなことには縁《えん》のない人だと思ってたのに」
「僕《ぼく》は意《い》志《し》の弱い男なのさ」
と、塚原は笑《わら》った。
「でも……どうしたもんでしょうね」
「うん」
二人とも、考え込《こ》んでしまった。
もちろん、塚原も、津村も、こうして考え込んでいるだけでは、何も解《かい》決《けつ》しないのは分っているのだが、といって、どうしていいのか分らないのである。
「——ともかく」
と、塚原は言った。「焦《あせ》って解決しようとしてもだめだ、ってことだ」
「そうですね」
「僕《ぼく》は、まず南千代子と別れる。それから時間をかけて、女《によう》房《ぼう》が戻《もど》って来るように、努力するさ」
「僕の方も……華子の奴《やつ》と、ゆっくり話し合えるように雰《ふん》囲《い》気《き》を作りますよ」
「それもいいな」
——少しして、二人は、ちょっと笑《わら》った。
「どうも男どもはだらしがないな」
と、塚原は言った。
「そうですね。浦《うら》田《た》さんだけかな、しっかりしてるのは」
「うん。——そうだ、浦田君へ電話してみよう」
塚原は、電話の方へと歩いて行った。
塚原は、浦田京子のアパートへ、電話を入れた。
何となく、京子に相談してみたいという気になっていたのである。
しばらく、電話は鳴り続けた。
「——留《る》守《す》かな」
と、塚原が受《じゆ》話《わ》器《き》を置きかけたとき、向うが出た。
「はい、浦田です」
が、京子の声ではない。
「あの——塚原ですが」
「あ、お父さん!」
塚原は、仰《ぎよう》天《てん》した。
「明美! お前——」
「お父さん……」
しばし、沈《ちん》黙《もく》があった。
「明美、そこにいたのか、ずっと?」
「そんなに長くないわよ」
「しかし——浦田君は何も言わなかった」
「私《わたし》が、黙《だま》っててくれって頼《たの》んだのよ」
「そうか……。元気なのか?」
「うん」
「それで——お前、一人か?」
「そうよ」
明美は、ちょっと笑《わら》って、「駈《か》け落ちは嘘《うそ》なのよ」
「何だ、そうか……」
塚原はホッと息をついた。
「ねえ、お母《かあ》さんは?」
「うん、それが——」
「寝《ね》込《こ》んじゃったの?」
「いや。家出した」
明美もさすがに絶《ぜつ》句《く》した。
話を聞いて、明美は、
「自《じ》業《ごう》自《じ》得《とく》よ」
と言った。
「うん、分ってる」
「でも、いいわ。——帰ってあげる」
「本当か?」
「お父さん、飢《う》え死にしちゃうでしょ、一人じゃ」
「すまんな」
「お母さんのことは、明日《あした》にでも心当りを捜《さが》してみましょうよ。きっと、戻《もど》って来ると思うけど」
「そうかな」
「そうよ。——お父さんの後《こう》悔《かい》の度《ど》合《あい》にもよるけど」
「これ以上後悔できないくらいだよ」
明美は笑《わら》って、
「そこがお父さんらしいとこね」
と言った。「でも——ねえ、迎《むか》えに来てくれる。私《わたし》、さっき襲《おそ》われかけたの」
「何だと?」
「私のこと、浦田さんと間《ま》違《ちが》えたのかもね。だから——」
「鍵《かぎ》をかけてじっとしてろ! すぐ行くからな!」
塚原は、受《じゆ》話《わ》器《き》に向って怒《ど》鳴《な》った。