ドタドタと足音がドアの外に響《ひび》いたと思うと、
「明美! お父《とう》さんだ!」
塚原の声がした。
明美はあわててドアを開けると、
「そんな大声出して! 何時だと思ってるのよ!」
と、父親をにらみつけた。
「そ、そうか、すまん」
塚原は息をついた。何だか今夜は謝《あやま》ってばかりいるみたいだ。
「入ってよ、ともかく。——あら、津村さんも一《いつ》緒《しよ》?」
明美は、父の肩《かた》越《ご》しに、津村の顔を見て、びっくりした。
「ちょうどお邪《じや》魔《ま》してたんで」
と、津村が言った。「まあ、塚原さんよりは力もありますしね」
「わざわざすみません」
と、明美は笑《わら》った。「ともかく上って——といったって私《わたし》の部《へ》屋《や》じゃないんだけど」
もちろん、浦田京子のアパートへ、塚原と津村が駆《か》けつけて来たのである。
「浦田君はまだ帰らないのかい?」
塚原は、座《すわ》り込《こ》むと、言った。
「今夜は帰らないみたいよ」
「そうか。——いや、一言礼を言っていこうと思ったんだが」
「恋《こい》人《びと》とどこかに泊《とま》ってるみたい」
塚原と津村は顔を見合わせた。
「恋人?——浦田君に恋人がいるんだって?」
「あら、いちゃ悪いの? お父さん、失礼よそんな」
「いや、そういうわけじゃないんだ。しかし——初耳だったから」
「そりゃ、お父さんに秘《ひ》密《みつ》を打ちあける物《もの》好《ず》きなんていやしないわよ」
と、明美もなかなか手《て》厳《きび》しい。
「へえ、僕《ぼく》にも意外だったなあ」
津村も目をパチクリさせている。「じゃ、浦田さん、近々辞《や》めるつもりかな」
「そうはいかないみたい」
と明美は言った。「相手は妻《さい》子《し》ある男《だん》性《せい》だと言ってたわ」
塚原と津村、二人《ふたり》ながら、ギョッとした。——それぞれに立場は違《ちが》うにせよ、少々古風に言えば「不《ふ》倫《りん》の恋《こい》」に悩《なや》んでいるわけだ。
偶《ぐう》然《ぜん》とはいえ、妙《みよう》な暗合に思えたのだった……。
「それにしても、明美、お前どうして浦田君の所へ来たんだ?」
と、塚原は訊《き》いた。
「何となく信《しん》頼《らい》できる人だと思って。この間、うちに電話があったでしょ。それで思い出したのよ」
「電話……」
そうか。——二億《おく》円《えん》を盗《ぬす》み出す、あの決行の前日、うちへ電話がかかった。遠い昔《むかし》のような気がする、と塚原は思った。
塚原は、ちょっと時《と》計《けい》を見ると、
「こうしてても仕方ないな。じゃ、明美、家へ戻《もど》るか」
と言った。
「待って」
明美は、父と津村を交《こう》互《ご》に見ながら、「その前に何か言うことがあるんじゃない?」
「言うこと? そりゃまあ……啓子の奴《やつ》には申《もう》し訳《わけ》ないことをしたと思ってるが」
「そうじゃないの。お金のことよ」
「お金?」
「お父さんが盗《ぬす》んだお金のこと」
こうもズバリと言われては、塚原ばかりか津村だって顔色を変えざるを得《え》なかった。
「お前……知ってたのか!」
「私《わたし》にはお見通しよ」
明美にだって、何も分っちゃいないのだが、ハッタリは大の得《とく》意《い》である。
「こりゃ参った!」
津村も、ため息をついて、「塚原さん、ここはもう——」
「うん」
塚原は額《ひたい》の汗《あせ》を拭《ぬぐ》った。「いや、お前の言う通りだ。我《われ》々《われ》三人で、会社の金を盗んだ」
「三人……。じゃ、浦田さんも?」
今度は明美が驚《おどろ》いた。「でも、それなら分るわ。お父さんじゃ、そんな計画、立てられっこないものね」
「変な納《なつ》得《とく》をするなよ」
と、塚原が渋《しぶ》い顔をした。
「でも、よく今まで、横《おう》領《りよう》がばれなかったわね」
「横領じゃない」
と、塚原は首を振《ふ》った。「あの金は、社長がひそかに政《せい》治《じ》家《か》への献《けん》金《きん》につかっていた隠《かく》し金《がね》なんだ」
「隠し金?」
「そうです」
と、津村が肯《うなず》く。「つまり、まともな金じゃない。だから、盗《ぬす》まれても、届《とど》け出ることができないわけでね」
「さすがに浦田さんだわ! いいところに目をつけたわね」
明美は、すっかり感心していた。「で、どうやったの?」
「なあ、今はともかく——」
「どうせ今帰ったって、お母《かあ》さんはいやしないのよ。ね、話してよ」
こうなると、明美の方もすっかり興《きよう》味《み》をそそられている。
言い出したら後に引かない明美の性《せい》格《かく》をよく知っている塚原は、諦《あきら》めて、盗み出すまでの一部始《し》終《じゆう》を話して聞かせた。
明美は、授《じゆ》業《ぎよう》中《ちゆう》には決して見せたことのない(!)熱心さで、じっと話に聞き入っていたが、「二億《おく》円」という金《きん》額《がく》には、さすがに目をまるくした。
「凄《すご》いわねえ! だったら、お小づかい上げてもらうんだった」
「まあ、ともかく」
と、塚原が言った。「二億円がこうして我《われ》々《われ》の手に入ったわけだ」
「二億円かあ……」
明美はため息をついた。「私《わたし》だったら、投《とう》資《し》して増《ふ》やすわ。変なことにはつかわないで」
「しかしなあ……」
塚原は、肩《かた》を落として、「母さんは出て行っちまうし、お前は家出するし、あの金が入っても、大していいことはなかった」
「誰《だれ》も傷《きず》つけずに盗《ぬす》んだってことは、評《ひよう》価《か》できるわね」
と、明美が偉《えら》そうに言った。「でも一人《ひとり》だけ……」
「一人? 誰《だれ》のことだ?」
「ガードマンよ」
塚原は、ちょっと戸《と》惑《まど》って、
「つまり——金の見《み》張《は》りをしていたガードマンか」
「そう」
「でも、あの男はただ、睡《すい》眠《みん》薬《やく》で眠《ねむ》っちまっただけだから」
と、津村が微《ほほ》笑《え》んだ。「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》。後《こう》遺《い》症《しよう》がのこるようなことはありませんよ」
「そんなこと言ってんじゃないわ」
と、明美が言った。「その人、クビになったんじゃないの、って言ってるのよ」
塚原も津村も、ちょっと言葉が出て来なかった。
確《たし》かに、それは大いにあり得《う》ることだった。何といっても、あんな大金を、目の前で盗《ぬす》まれてしまったのだから。
しかし、塚原も津村も、今の今まで、その男のことなど、考えてもみなかった。
自分たちは、誰《だれ》にも——つまり、社長の脇《わき》元《もと》や久《く》野《の》以外には、という意味だが——迷《めい》惑《わく》をかけずに大金を手に入れたのだ、と信じていた。それが誇《ほこ》りでもあったのだ。
だが、明美に言われて、初めて、「もう一人の人間」のことに気付いたのだった。
「そうだ」
と、津村は肯《うなず》いた。「お嬢《じよう》さんのおっしゃる通りですよ」
「うん。俺《おれ》も見落としていた」
「浦田さんも、でしょう」
「今からじゃ手《て》遅《おく》れかもしれないが……」
「明日《あした》、僕《ぼく》が調べてみますよ。あのガードマンがどうなったか」
「そうしてくれ。もし、クビにでもなっていたら、我《われ》々《われ》で何とかしてやろうじゃないか」
「賛《さん》成《せい》です」
明美は二人の話を聞いて、ちょっと笑《わら》った。
「安心したわ。二人とも、そうおかしくなってないって分ってね」
「大人《おとな》をからかうもんじゃない」
と塚原は苦《く》笑《しよう》した。
「じゃ、家へ帰ろうか」
そう言って、明美は立ち上ると、ウーンと伸《の》びをした。
「鍵《かぎ》は後で返せばいいわね」
明美は、浦田京子の部屋のドアを閉め、鍵をかけた。
後で、京子が帰って来て心配するといけないので、一《いち》応《おう》、置き手紙もして来た。そういう点、明美は抜《ぬ》かりがない。
「——さあ、行こうか」
と、塚原が言った。
「うん。あ、私《わたし》が先に行く。ちょっと足《あし》下《もと》が暗くて危《あぶな》いのよ」
明美は二人を止めて、自分が先に立って歩き出した。
これが不運だった。
アパートの手前の暗がりを、明美がまず一人で通り抜《ぬ》けた。後の二人は、まだ見えないままだ。
「——出て来たな!」
と声がした。
さっき明美を襲《おそ》った三人が、明美の前に立ちはだかったのである。
明美が後ずさると、
「痛《いた》い目に合わせてやらあ!」
と、一人がナイフを振《ふ》りかざした。
「待て!」
と、飛び出して来たのは津村だった。「明美さん! 逃《に》げなさい!」
「何だ、この野《や》郎《ろう》!」
狭《せま》い道だった。ナイフが空《くう》を切る。その切っ先をよけるには、あまりに狭《せま》過《す》ぎた。
「アッ!」
と、津村が声を上げた。
「津村君!」
塚原が駆《か》け寄《よ》る。
二人も男がいると分って、三人組の方もひるんだようだった。
「おい、引き上げろ!」
と声がして、三人はドタドタ足音をたてながら逃げて行った。
「——しつこい連中!」
明美もさすがに胸を押《おさ》えて息をついた。「津村さん! 大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》?」
津村は、右《みぎ》腕《うで》に切りつけられたらしく、道にうずくまって、必死で歯を食いしばっている。
「——こりゃ、かなりひどい」
と、塚原が青くなった。「病院だ、救急車だ」
「待って、浦田さんの部屋から一一九番する」
明美は、もう鍵《かぎ》を手にしながら、駆《か》け出《だ》していた。
「——津村君」
塚原は、津村の傷《きず》口《ぐち》にハンカチを押《お》し当てながら、言った。「悪いことをしたな。娘《むすめ》のためにこんな……」
「いいんですよ……」
津村は、ちょっと無理に笑《わら》って見せた。「これで、何日かは会社をさぼれる……」
「そうだな」
塚原は、泣《な》きたくなって来た。
「主人の具合は?」
やって来るなり、津村華子はそう言った。
病院の中は、静かだった。とっくに眠《ねむ》りについているのである。
時《とき》折《おり》、トイレに行く入院患《かん》者《じや》が、珍《めずら》しそうな顔で、塚原や明美を眺《なが》めて行く。
華子へ電話で知らせて、三十分ほどたっていた。あわてて駆けつけて来たとも見えない。
「いや、命にかかわるようなけがじゃないんですよ」
塚原は、まず安心させようとして、そう言った。
「本当に困《こま》ったもんだわ。どうせ酔《よ》ってケンカでもしたんでしょう」
華子は、心配しているというより、こんな時間に呼《よ》び出されて腹《はら》を立てている様子だった。
「いや、とんでもない」
と、塚原はあわてて言った。「ご主人は、うちの娘《むすめ》を救って下さったんですよ」
「そうですか」
華子は、さして感《かん》銘《めい》を受けたようにも見えなかった。「変に正《せい》義《ぎ》漢《かん》ぶるからいけないんだわ」
明美がたまりかねて、口を出した。
「そんなことおっしゃっては、津村さん、お気《き》の毒《どく》ですわ」
華子は明美を見た。
「塚原さんのお嬢《じよう》さんですわね」
「ええ」
「腕《うで》にけがをするより、ずっと深い傷《きず》を私《わたし》は受けてるんですから」
「——どういう意味ですの?」
「夫《おつと》が泥《どろ》棒《ぼう》だという傷です」
塚原が愕《がく》然《ぜん》とした。
「なぜそれを——」
「教えてくれた親切な人がいましてね」
と、華子は平然と言った。
「誰《だれ》です?」
「誰だっていいでしょ」
と華子は言い返した。「ともかく、あなた方、ご自分で考えてらっしゃるほど、頭がいいわけじゃないんですよ」
明美は、少し考えてから、言った。
「——つまり、父たちの犯《はん》行《こう》だと分ってるってことですね?」
「あなたも聞いたの? ええ、その通り」
塚原は青ざめた。——手《て》錠《じよう》、留《りゆう》置《ち》場《じよう》、刑《けい》務《む》所《しよ》……。
もう啓子も二度と戻《もど》るまい。明美とも会えなくなる……。
「そんなに震《ふる》えることありませんわ」
と、華子はおかしそうに言った。「あちらは警《けい》察《さつ》へ届《とど》け出る気はないようですから。でも、口止めにはお金がいるわ。あなたの手に入れたお金の半分、いただきたい、と言ってますの」
「半分……」
塚原には、やっと分った。「そうか! 久野の奴《やつ》だな」
「名前なんか、どうでもよろしいでしょ」
と、華子は言った。「あなたの分を半分。それから——浦田さんって方も仲《なか》間《ま》なんでしょ? その人も半分。大まけにまけてのことだ、と言ってましたわ」
「待って下さい」
と明美が言った。「あなたはその内、どれだけもらうことになってるんですか?」
華子は明美をちょっと小《こ》馬《ば》鹿《か》にしたように見て、
「そんなの、あなたの知ったことじゃないでしょ」
と言った。
「私《わたし》、ご主人の代りにお訊《き》きしてるんです」
明美はひるまない。
「主人の代り?」
「津村さんが泥《どろ》棒《ぼう》なら、あなたはその泥棒から盗《ぬす》む泥棒だわ。しかも人を助けてけがをしている泥棒から盗むなんて、卑《ひ》劣《れつ》だと思わないんですか」
華子が表《ひよう》情《じよう》をこわばらせた。
「大きなお世話だわ」
「いいえ、そんなことありません」
と明美はきり返した。「人間なんて弱いものです。間《ま》違《ちが》いだって年中やります。今、津村さんも父も、それを後《こう》悔《かい》してるかもしれません。それを笑《わら》って見ているのが奥《おく》さんのすることですか」
「あなたみたいな子《こ》供《ども》に、何が分るのよ」
華子の声が少し震《ふる》えた。
「待ちなさい」
と塚原が間に入った。「僕《ぼく》らのやったことは、確《たし》かにいいことじゃなかったかもしれない。しかし、奥《おく》さん、どうして久野の奴《やつ》なんかと——」
「放っといて!」
そう叫《さけ》ぶように言うなり、華子は、駆《か》け出して行ってしまった。
静かな病《びよう》棟《とう》の中に、彼女《かのじよ》の足音が遠ざかって行った。
「——あの人、や《ヽ》け《ヽ》になってる」
と、明美が言った。
「うん、そうらしいな」
塚原が肯《うなず》いた。「明日になったら、ゆっくり話してみよう」
二人は、廊《ろう》下《か》の長《なが》椅《い》子《す》に並《なら》んで腰《こし》をおろした。
「——お父さん」
「何だ?」
「どうなると思う?」
「うん……、社長秘《ひ》書《しよ》の久野に知られたとなると……。しかし、金を半分よこせとは、妙《みよう》なことを言って来るもんだ」
塚原は首をひねった。
「分ってるのに、社長さんには黙《だま》ってるのかしら?」
「そうらしいな。——何を考えているのか分らん」
塚原は、何となく不安だった。何かが起りそうだ。何かとんでもないことが……。