「久野ですって?」
津村はベッドから体を起こした。
「だめだよ、動いちゃ!」
塚原は、あわてて言った。
「久野の奴《やつ》が、華子と?——畜《ちく》生《しよう》!」
津村の方は、話を聞いて、すっかり興《こう》奮《ふん》している。
「寝《ね》てなきゃだめだよ。傷《きず》口《ぐち》が開いちまうじゃないか」
塚原の言葉など、まるで津村の耳には入らないようだ。
「畜《ちく》生《しよう》! 殺してやる! 久野の奴、このままじゃおくもんか……」
津村は、熱に浮《う》かされたように震《ふる》える声で呟《つぶや》いている。
「——ともかく、静かにして。寝てなきゃだめだよ。さあ!」
塚原は必死でなだめている。
——明美は、そんな二人の様子を、ドアの隙《すき》間《ま》から覗《のぞ》いていたが、やがて、そっとドアを閉じた。
やがて朝になる。
病院の朝は早い。そろそろ、看《かん》護《ご》婦《ふ》たちが忙《いそが》しく動き回り始めていた。
「お父さんったら……」
明美はそう呟《つぶや》いて、首を振《ふ》った。
まるで分ってないんだから。何も、こんなときに、津村さんに話さなくたっていいのに。
気が回らない、というのか、よく言えば正直で、隠《かく》しておけないのだ。
これで津村さんが熱でも出さなきゃいいんだけど……。
ドアが開いて、塚原が廊《ろう》下《か》へ出て来た。
「やれやれ」
と、額《ひたい》の汗《あせ》を拭《ぬぐ》って、「もっと落ちついてから話してやるんだったな」
分ったときは遅《おそ》すぎる。お父さんは、いつもそうなんだ。——明美は、しかし、それを口に出しては言わなかった。
「お父さん、これからどうするの?」
と、明美が訊《き》く。
「うん……。千代子とは手を切って、母さんに謝《あやま》って、許《ゆる》してもらうしかない」
「そんなこと訊いてんじゃないわよ。今日、これからのことよ」
「あ、そうか。——どうしよう?」
頼《たよ》りない二億《おく》円《えん》泥《どろ》棒《ぼう》である。
「お父さん、津村さんのそばについててあげた方がいいわ。私《わたし》、お母さんが戻《もど》ってるかもしれないから、一《いつ》旦《たん》家へ帰る」
「そうしてくれ。学校はどうする?」
「一日ぐらい、どうってことないわよ」
明美は、父親の肩《かた》をポンと叩《たた》いて、「お父さんも元気出して。この世の終りってわけじゃないわ」
これじゃどっちが親だか分らない。
塚原は、複《ふく》雑《ざつ》な微《び》笑《しよう》を浮《う》かべて、肯《うなず》いて見せた……。
明美は、病院を出ると、大分明るくなって来た空を見上げた。
少し、空気がひんやりと冷たい。——まだバスなんか走っていない時間だ。タクシーでも拾って行こう。ちゃんと、父からタクシー代ももらって来てある。
病院の門を出て歩き出した明美は、少し行った所で、足を止めた。
病院の塀《へい》にもたれて、じっとうつ向いて立っているのは——津村華子ではないか。
明美が歩いて行くと、足音に気付いたのか、華子は顔を上げた。
「——あなたなの」
と、華子は言った。
その声にも、眼《まな》差《ざ》しにも、と《ヽ》げ《ヽ》はなかった。明美は、足を止めて、
「中でお待ちになればいいのに」
と、言った。
「あんなこと言った後じゃね……」
華子は、ちょっと肩《かた》をすくめた。
「そんなこと……。津村さんが喜びますよ。行ってあげて下さい」
華子は、ちょっと笑《え》顔《がお》になって、
「あなたって、不《ふ》思《し》議《ぎ》な子ね」
と言った。
「気にさわったらすみません。生《なま》意《い》気《き》なんです、この年《とし》頃《ごろ》は」
「いいえ、そんなことないわよ」
と、華子は首を振《ふ》った。「あなたの言葉、胸《むね》に痛《いた》かったわ」
明美は、黙《だま》って、微《ほほ》笑《え》んだ。華子は、大きく息をついて、
「——あの人、具合はどう?」
と訊《き》いた。
「そんなにひどい傷《きず》ってわけじゃないんですもの。奥《おく》さんが行かれれば、安心すると思います」
「そうねえ……。でも却《かえ》って悪くするかもよ。久野とのことも知ってるんでしょう?」
「父が話したみたいです。でも——」
「無理に、だったのよ、最初はね」
と、華子は言った。「でも、二度、三度と重なる内に、どうでも良くなって来て……。その内、主人だって私《わたし》に嘘《うそ》ついてたんだから、って言い訳《わけ》を捜《さが》して……」
明美は、ちょっと言いにくそうに、
「あの……私、まだそういうこと、分らないんですけど」
と言った。
分らないわけではない。頭では理《り》解《かい》できる。でも、今、自分が聞くべき話じゃない、と思ったのだ。
「ごめんなさい」
華子は、ちょっと笑《わら》って、「つい、あなたのこと、大人《おとな》扱《あつか》いしちゃって」
「嬉《うれ》しいんですけど。でも、何しろ口が軽いですから、私」
明美は真《ま》面《じ》目《め》な顔で言った。
「じゃ、私、主人の所へ行ってみるわ」
と、華子が言った。
「ええ、そうしてあげて下さい」
明美はホッとした。「父がついてると思いますけど——」
そのとき、タタッ、と駆《か》けて来る足音があった。振《ふ》り向くと、明美は目を丸くした。
「お父さん! どうしたの?」
塚原が、あわてふためいた様子で、走って来る。
「おい! 津村が来なかったか!」
「津村さん?」
「主人がどうしたんですか?」
と、華子が進み出た。
「あ、ここにいたんですか。いや——津村君、姿《すがた》が見えなくなっちまったんだ」
「お父さん、ついていなかったの?」
「ちょっとトイレに行ってる間に、いなくなったんだ。今、看《かん》護《ご》婦《ふ》に捜《さが》してもらってる」
塚原は息を弾《はず》ませて、「参ったな! 服もなくなってるんだ。病院から出て行ったらしい」
「でも、どこへ行ったんでしょう?」
華子の言葉に、明美がハッとした。
「もしかしたら——」
「え?」
「久野って人のことを、殺してやる、って口走ってたけど……」
「そんな!——大変だわ! どうしましょう」
華子は青ざめた。
「いくら何でも、そんな無茶はしないと思うが……」
塚原は、ため息をついた。「やれやれ。俺《おれ》が余計なことをしゃべらなきゃ良かったんだ!」
「今さら、そんなこと言っても仕方ないわ」
明美は、ちょっと考えて、「久野って人の家を、津村さん、知ってるのかしら?」
「自《じ》宅《たく》までは知るまい」
「じゃ、出社のときが危《あぶな》いわね。お父さん、会社へ行って、津村さんが来ないかどうか、見てなさいよ。奥《おく》さんはお家へ帰られた方がいいわ。津村さん、戻《もど》ってるかもしれない」
明美が指《し》揮《き》官《かん》みたいになってしまった。
「よし、分った」
塚原は肯《うなず》いた。
——頼《たの》むぞ。馬《ば》鹿《か》な真《ま》似《ね》はしないでくれよ!
早朝の空気は、爽《さわ》やかさで京子の胸《むね》を満たした。
広い窓《まど》を開けて一《いつ》杯《ぱい》に朝の大気を吸《す》い込《こ》む。——緑の香《かお》りが快《こころよ》く京子を取りまいた。
浴《ゆか》衣《た》姿《すがた》では少し肌《はだ》寒《ざむ》いくらいの気温だが、その冷たさが、却《かえ》って快かった。
京子は、部屋の中を振《ふ》り返った。
浅倉は、まだ眠《ねむ》っている。満ち足りた眠り。
——それは京子にとっても同じだった。
京子は、後《こう》悔《かい》してはいなかった。
もちろん、浅倉には妻《つま》があり、子《こ》供《ども》もいる。妻と別れてまで、京子と一《いつ》緒《しよ》になる気はあるまい。
それを承《しよう》知《ち》の上での一夜だったのだ。
こんなに物静かな、落ちついた気持になったのは、初めてのことだ、と京子は思った。
もちろん、今までだって、自分を不幸だと思っていたわけではない。しかし、いつも一人であり、その孤《こ》独《どく》に、じっと堪《た》えるよう、自分を訓《くん》練《れん》して来なくてはならなかったのだ。
今、京子は一人ではなかった。いや、少なくともこの一夜、一人ではなかったのだ。
「——戻《もど》らなくちゃ」
と、京子は呟《つぶや》いた。
アパートへ戻るのではなく、一人きりの生活に戻る、という意味である。
浅倉との間は、これきりで終らせなくてはならない。
京子はそう決心していた。
「——おはよう」
浅倉が、目を開いていた。
「おはようございます」
と、京子は言った。「起こしてしまったみたいですね」
「いや、自然に覚《さ》めただけさ」
浅倉は、笑《え》顔《がお》で言って、布《ふ》団《とん》に起き上った。
「もっと、おやすみになっていても構《かま》いませんわ。まだ、やっと夜が明けるところですもの……」
浅倉は、布団から出て、京子の方へやって来た。そして、一《いつ》緒《しよ》に、朝もやの漂《ただよ》う庭を眺《なが》めながら、京子の肩《かた》を抱《だ》いた。
「こんなすばらしい朝は初めてだ」
と、浅倉は言った。
「ええ」
浅倉は、京子の方を見て、言った。
「ゆうべは……僕《ぼく》は心から満足した。あなたは?」
「私《わたし》もです」
と京子が答えると、浅倉はホッとしたように、
「良かった。——もうこれきりだと言われるんじゃないかと思って、ハラハラしてたんだ」
「これきりです」
京子の言葉に、浅倉は戸《と》惑《まど》った様子で、
「でも——」
「一度なら、いい思い出になります。二度になれば、三度、四度と続きますわ」
「僕は続けたい」
「いけません」
京子は、きっぱりと言った。「お互《たが》いに、人を傷《きず》つけない内に、やめるべきですわ」
浅倉は、少し間を置いてから、言った。
「——妻《つま》と別れる、と言ったら、あなたはついて来てくれるかな」
「いいえ」
京子は、首を振《ふ》った。
しばらく、二人は黙《だま》っていた。
京子は、せっかくのすばらしい思い出を、気まずい雰《ふん》囲《い》気《き》で終らせたくなかったので、極力明るく、
「さあ、約《やく》束《そく》ですよ。エミちゃんの所へ行かなくちゃ」
と言った。
「分った」
と、浅倉は、息をついて、「——無理に、とは言わない。でも、いつでも僕《ぼく》に会いたいと思ったら……」
「お気持は本当に嬉《うれ》しいですわ」
京子は微《ほほ》笑《え》んだ。
「あなたはいつも冷静なんだな」
「そんなことはありません。ただ——ちょっと先が見えてしまうだけなんです」
哀《かな》しいことだが、その通りなのだ。
我《われ》を忘《わす》れる、ということがない。それは、寂《さび》しいことだった。
二人は、順番に朝《あさ》風《ぶ》呂《ろ》を浴びて、仕《し》度《たく》をした。
——旅館を出たのは、八時を少し回ったころだった。
「会社へは、今日帰国すると言ってあるから、あまり早くは行けないな」
車を運転しながら、浅倉は言った。
「ちゃんと奥《おく》様《さま》にも、連《れん》絡《らく》して下さいね」
「あいつは気にしませんよ。亭《てい》主《しゆ》がいつ帰って来ようが」
そうだろうか?——人は、見かけだけでは分らないものだ。
京子は、窓《まど》の外へ目をやって、
「——病院へ行きましょう」
と言った。
「そうします」
浅倉は肯《うなず》いた。
京子は、なぜかしら不安だった。——朝、目覚めたときは、あんなに平《へい》穏《おん》な気持でいられたのに、今は、理由の分らない不安に、捉《とら》えられていた。
そういえば、明美は一人でアパートにいたわけだ。何もなかっただろうか? もしかしたら、もう家へ帰ったかも……。
塚原や津村が、どんな騒《さわ》ぎに巻《ま》き込《こ》まれているか、もちろん京子は知るはずもなかった……。
病院へ入りながら、京子は、花《はな》束《たば》一つ用意して来なかったことに気付いた。
「先に行っていて下さい。私《わたし》お花を買って来ますから」
と、浅倉へ言った。
「わざわざそんな——」
「いえ、気が済《す》みませんから」
「分りました」
「すぐ行きます」
京子は、急いで病院の外へ出た。病院の近くには必ず花屋がある。
まだ開店前の花屋を、京子は無《む》理《り》に開けてもらって、花束を作ってもらった。
花束を手に、京子はエミの病室へと急いだ。
今日は会社を休んでもいい。後で、エミの喜びそうなものを、何か買って来よう。
いくらかは、浅倉を一《ひと》晩《ばん》、独《ひと》り占《じ》めにしたことへの、後ろめたさがあった。
京子は、病室のドアをそっと開けた。——エミと、浅倉が楽しげに話をしているはずのベッドの方へ……目を向けた。
ベ《ヽ》ッ《ヽ》ド《ヽ》は《ヽ》、空《ヽ》だ《ヽ》っ《ヽ》た《ヽ》。
京子は、しばし、そこに立ち尽《つ》くしていた。一《いつ》瞬《しゆん》、顔から血の気がひいた。——これが、さっきから自分を捉《とら》えていた不安の正体だったのか?
でも——まさか——。
そうだ。ベッドが空だといっても、ちょっと診《しん》察《さつ》があったのかもしれないし、トイレにでも行っているのかもしれない。
そんな、悪いことばかり考えちゃいけない!
「——エミちゃん?」
と、声をかけて来たのは、向い側のベッドの女《じよ》性《せい》だった。
「ええ……」
「ゆうべ、具合が悪くなったみたいでね、集中管理室だかへ入ってるわ」
京子は、一《いつ》瞬《しゆん》ふらつくほどのショックを受けた。
「どうも——」
無《む》意《い》識《しき》に礼を言って、花《はな》束《たば》を手にしたまま、病室を出る。
通りかかった看《かん》護《ご》婦《ふ》に場所を教えてもらい、京子は集中管理室へと急いだ。
浅倉がいた。医《い》師《し》と立ち話をしている。
京子は、駆《か》け寄《よ》りたいのをこらえて、じっと立って、待っていた。いや、話を聞くのが、怖《こわ》くもあったのだ。
話が終って、医師が立《た》ち去《さ》ると、浅倉は、長《なが》椅《い》子《す》に、ゆっくりと腰《こし》をおろした。
京子は、そっと近付いて行くと、
「浅倉さん……」
と、声をかけた。
浅倉は顔を上げた。目が光って見える。
「どうなんですの?」
と、京子は言った。
「意《い》識《しき》不《ふ》明《めい》だそうです」
浅倉の声は、少し震《ふる》えていた。「夕方までがや《ヽ》ま《ヽ》だと……」
京子は、知らない内に、花《はな》束《たば》を取り落としていた。
「いつ……そんな風に……」
「ゆうべの……二時ごろだそうです」
「夜中ですね」
京子は、長《なが》椅《い》子《す》に、並《なら》んで腰《こし》をおろした。
二人とも、口は開かなかったが、思いは同じはずだった。
ゆうべ、二人が愛を交わしていたとき、エミの容《よう》態《たい》は悪化していたのだ。
京子は、自分を呪《のろ》った。時計の針《はり》を戻《もど》したい、と思った……。