塚原が会社に着いたときは、九時を十分ほど回っていた。
もちろん、もう仕事は始まっている。
「あら、係長、遅《ち》刻《こく》ですか。珍《めずら》しいわ」
と、入口の所で会った女子社員が言った。
「いや……。ちょっとね。ねえ、浦田君は来てるか?」
「浦田さんですか? いいえ。お休みって連《れん》絡《らく》もないから、どうしたのかなって思ってたんです」
「そうか」
やはり、浦田京子の身に何かあったのだろうか?
塚原は、気が気ではなかった。
「それと、津村さんもみえてないんですけど係長、何か聞いてます?」
「え?——ああ、津村君か。いや、彼《かれ》はいいんだ。分ってる」
「そうですか」
そうだ、津村も、傷《きず》が治《なお》るまで、何日か休むことになるだろう。届《とどけ》を出しておいてやらなくては。
塚原は、一《いつ》旦《たん》、机《つくえ》に向うと、津村の分の休《きゆう》暇《か》届《とどけ》を書いた。それから、ちょっと考えて、自分の分——今日の休暇届を書く。
すぐに浦田京子のアパートへ行ってみようと思っていたのである。
念のため、もう一度、浦田京子のアパートへ電話を入れてみたが、やはり誰《だれ》も出ない。行ってみるしかなさそうだ。塚原は、休暇届を課長の所へ出しに行こうとして、腰《こし》を浮《う》かした。
「失礼します」
と、声をかけて来たのは——南千代子だった。
「な、何か用事かね?」
そうだった! 千代子とも話をつけなくては。
「ちょっとお願いしたいことがありまして」
と、千代子は、真《ま》面《じ》目《め》そのものの、捉《とら》えどころのない表《ひよう》情《じよう》で言った。
「僕《ぼく》に?」
「はい」
「分った。じゃ……」
塚原は休暇届を机《つくえ》の上に置いて、さっさと歩いて行く千代子の後を追った。
廊《ろう》下《か》に出ると、千代子は、足を止めて、振《ふ》り返《かえ》った。
「私《わたし》、奥《おく》様《さま》にお目にかかりました」
と、千代子は言った。
「うん。——聞いたよ」
「どうおっしゃってました?」
「泣《な》かれたよ。そして、家を出て行っちまった」
「そうですか」
「でも、戻《もど》って来てくれたがね」
千代子は、それを聞くと、何だか不《ふ》思《し》議《ぎ》な微《び》笑《しよう》を浮《う》かべた。塚原は戸《と》惑《まど》った。そして、
「ねえ、君。その話は改めて——」
と言いかけたとき、どこかで悲鳴が上った。
塚原は目をパチクリさせた。
何だあれは?——悲鳴。確《たし》かに悲鳴みたいだったが。
「悲鳴だわ」
と、南千代子が言った。
「何だろう?」
「上の方みたいだったけど……」
千代子も不思議そうに、階《かい》段《だん》の方へ目をやった。
そのとき、階段を転《ころが》るようにして、女子社員の一人が駆《か》け降《お》りて来た。
「助けて! 大変よ!」
と、真《ま》っ青《さお》になって、叫《さけ》んでいる。
「おい! どうしたんだ?」
塚原がびっくりして声をかけると、その女子社員は、床《ゆか》へ座《すわ》り込《こ》んでしまった。
「社長室で……社長が……久野さんが……」
言葉が途《と》切《ぎ》れ途切れに出て来るばかりで、意味が通じない。ともかく、何かとんでもないことが起ったには違《ちが》いないようだ。
塚原は、階《かい》段《だん》を駆《か》け上った。社長室は、一つ上の五階である。
社長室のドアが、半開きになっていた。
塚原が、恐《おそ》る恐る近付いて行くと、いきなり、ヒョイと久野の顔が覗《のぞ》いて、飛び上りそうになる。
「塚原さんか。——お入りなさい」
久野は、穏《おだ》やかな口調で言った。
「あの——何だか、今、女の子が叫《さけ》んでたんで——」
「大したことじゃないんですよ」
久野は、ドアを大きく開けた。「入って。——さあ」
お邪《じや》魔《ま》します、と口の中で呟《つぶや》いて社長室へ入った塚原は、その場で足を止めた。
社長の脇《わき》元《もと》が、床《ゆか》に体をねじるようにして倒《たお》れている。——ワイシャツを染《そ》めているのは、血だった。下のカーペットにも、しみ込《こ》んでいる。
「死んでる、と思いますがね」
と、久野は言って、社長の椅《い》子《す》に、腰《こし》をおろし、何やら机《つくえ》の上にポンと投げ出した。
ペーパーナイフらしい。汚《よご》れていた。
「君が……刺《さ》したのか」
と、塚原は言った。
「津村から聞きましたか」
と久野は訊《き》いた。
「うん……」
「全く、お話にならない」
久野は、声を立てずに笑《わら》った。「この男のために、人生を棒《ぼう》に振《ふ》っちまった。これまでも。これからもね」
「——とんでもないことになったなあ」
と、塚原は首を振った。「もし……」
「もし? 何です」
「僕《ぼく》らが——あの金を盗《ぬす》んでいなかったら、君もこんなことをしなくて済《す》んだんだ。そうだろう。——本当に、済まない」
塚原は久野に向って頭を下げた。
「そう言われてみりゃ、そうかもしれませんね」
久野は、大して気にもしていない様子で、「しかし、今度のことがなくても、脇元は心の中じゃ、私《わたし》を信用してなかったわけだから、何かのきっかけがあれば同じことになりましたよ」
「しかしね……」
「人がいいんだな、あなた方は」
久野は息をついて、「よくあの金が盗めましたね。全く不《ふ》思《し》議《ぎ》だな」
「運が良かっただけさ」
と言ってから、塚原は、付け加えた。「本当に運がいいってのはどういうことなのか、僕《ぼく》には分らないけどね」
久野は、塚原の言葉に、ちょっと笑《わら》って、
「色々苦労したようですな」
と言った。「まあ、あの金は政《せい》治《じ》資《し》金《きん》として、さる大《おお》物《もの》代《だい》議《ぎ》士《し》の手に渡《わた》るはずだった、いわゆる裏《うら》金《がね》ですからね。心おきなく使っちまって構《かま》いませんよ」
「そういえば、あのときのガードマンがどうしたか、知ってるかい?」
と塚原が、ふと思い出して訊《き》いた。
「どうしてそんなことを?」
「いや——あの事《じ》件《けん》のせいで、クビにでもなっていたら申《もう》し訳《わけ》ないと思ってね。気になってたんだ」
「全く、お人《ひと》好《よ》しですな」
久野は呆《あき》れたように言った。「ご心配には及《およ》びません。あの盗《とう》難《なん》は、表《おもて》沙《ざ》汰《た》にできないものですからね。あのガードマンは、確《たし》か他の持場へ回っただけですよ」
「そうか。——それを聞いて安心した」
と、塚原は息をついた。
「ちゃんと一一〇番してくれてるんだろうな」
と、久野は心配そうに、「自分で通《つう》報《ほう》した方が早いかもしれませんね」
「していると思うがね。ちょっと訊《き》いてみよう」
何ともお節《せつ》介《かい》な話だが、塚原は、社長室を出て、歩いて行った。
「塚原さん——」
と、階《かい》段《だん》の下の方から、南千代子が顔を覗《のぞ》かせている。
「上はどう?」
「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》だ。いや——社長は亡《な》くなったようだけど、久野君は落ちついている。警《けい》察《さつ》へ知らせた?」
「はい。すぐ来ると思いますけど」
「そうか」
塚原は、社長室の方へ戻《もど》りかけた。
「待って!」
千代子が階段を駆《か》け上って来る。「危《あぶな》いわ! 行っちゃだめ!」
と、塚原にすがるようにしがみつく。
「おい。大丈夫だよ、僕《ぼく》は。——どうしたんだ?」
塚原はびっくりした。——千代子が、泣《な》いているのだ。
「だって、私《わたし》——」
千代子が涙《なみだ》で声を詰《つ》まらせながら、「塚原さんのことが——心配で」
「ありがとう」
塚原は、感《かん》激《げき》していた。「僕みたいな男のことを、そんなに心配してくれるなんてね。君はいい子だな」
「そんな……優《やさ》しいこと言わないで」
千代子は、泣《な》き笑《わら》いの顔になって、「私、あなたの家庭をぶち壊《こわ》そうとしたのに……」
「そりゃ、僕にとっては自《じ》業《ごう》自《じ》得《とく》さ。君を恨《うら》んだりはしないよ」
塚原は、そう言って、ふと社長室の方を見た。「——変だな」
「どうしたの?」
「風が吹いて来る。社長室から。どうしてだろう?」
塚原は、歩いて行った。千代子が急いでついて来る。
社長室の中は、脇元の死体だけだった。そして、広い窓《まど》が、大きく開け放たれていた。——久野の姿《すがた》は、どこにもなかった。
京子は、洗面所に入って、顔を洗った。
別に、意味はない。ともかく、何かしないではいられなかったのである。
エミの容《よう》態《たい》は、変らなかった。意《い》識《しき》不《ふ》明《めい》のまま、もう何時間かが過《す》ぎている。
浅倉は、会社へ電話をしに行っていた。もちろん、エミのことより仕事が大事というわけではない。
やはり、仕事のことでも考えていなくては、やり切れないのだろう。
京子は、鏡の中の顔を、じっと見つめた。——昨夜、浅倉に抱《だ》かれていたとき、どんな顔をしていたのだろう。
ともかく、今はまた、京子は孤《こ》独《どく》な顔に戻《もど》っていた。
「馬《ば》鹿《か》だわ、あんたは……」
と、京子は呟《つぶや》いた。
もちろん、エミの容《よう》態《たい》が急に悪化したことと、京子と浅倉が一夜を共にしたこととは、何の関係もない。偶《ぐう》然《ぜん》に過《す》ぎないのだ。
しかし、頭で分っていても、そう割《わ》り切《き》れるものではない。
もし——もし、エミに万一のことがあったら……。エミは父親が帰国したことを知らないまま、ということになる。
昨夜、浅倉が真《ま》っ直《す》ぐこの病院へ来ていれば、エミが意《い》識《しき》不《ふ》明《めい》になる前に、会えたはずなのだ。そう思うと、京子はたまらなかった。
——鏡の中に、もう一つの顔が入って来た。
京子は目を見《み》張《は》った。浅倉の妻《つま》、郁《いく》江《え》である。
「まあ……」
と、京子は呟《つぶや》くように言った。
郁江は、いつもの通りの、派《は》手《で》なスタイルだった。しかし、その顔は、不《ふ》思《し》議《ぎ》な緊《きん》張《ちよう》感《かん》にこわばっていた。
京子はゆっくりと振《ふ》り向《む》いた。
「主人は?」
と、郁江が言った。
「今——電話をかけに行っておられます」
と、京子は答えた。
「そう。あの子……具合はどうなの?」
「意《い》識《しき》不《ふ》明《めい》で、夕方までがや《ヽ》ま《ヽ》だとか……」
郁江は、黙《だま》って肯《うなず》くと、洗面所を出て行く。京子も、それについて廊《ろう》下《か》へ出た。
「——主人とあなたのことは知ってたわ」
郁江は、京子に背《せ》を向けたまま、言った。
「申《もう》し訳《わけ》ありません」
と、京子はうつ向いた。
「いいのよ」
郁江は投げ出すような口調で言った。「あの人は、私《わたし》が勝手に遊び回ってる、とそう思ってるんだから」
「奥《おく》さん——」
「そりゃね。今《ヽ》は《ヽ》その通りよ。でも、私だって、初めからそうだったわけじゃない。あの人は忙《いそが》しくて、ほとんど家にもいないし、黙《だま》って外国へ出《しゆつ》張《ちよう》して、いきなり夜中にニューヨークから電話して来たり……。たまらなかったのよ」
郁江は、京子の方を向いた。——涙《なみだ》が、郁江の頬《ほお》を伝い落ちている。京子は、ハッとした。
「私《わたし》を——車でひこうとしたのは、奥《おく》さんでしたのね」
「そうよ。しくじったから、今度は、人を雇《やと》ってあなたを痛《いた》い目にあわせてくれ、と頼《たの》んだわ。昔《むかし》、そういう世界と付き合いがあったから。でも——あなた、うまく逃《に》げたようね」
もちろん、郁江が言っているのは、間《ま》違《ちが》って明美を襲《おそ》った連中のことである。
「そんなことまでして……。そんなにご主人を愛してらしたんですか」
「愛して?——そうね。これも愛してるってことなのかしら」
郁江は、ちょっと引きつったような笑《え》みを浮《う》かべた。「エミのことだって、嫌《きら》いじゃないのよ。でも、たまに帰って来れば、あの人はエミのことばっかり。——たまにはどこかへ行きましょうと誘《さそ》っても、エミのことを考えろ、って……。あの子が病気なのは、私のせいじゃないわ!」
郁江は、声を震《ふる》わせた。
京子は、じっと立ち尽《つ》くしていた。——遊び好《ず》きな後《ご》妻《さい》。意地悪なま《ヽ》ま《ヽ》母《ヽ》。
表《ひよう》面《めん》ばかりを見ていた自分が、恥《は》ずかしかった。この年齢《とし》まで、一体何を学んで来たのだろう?
誰《だれ》もが、自分の涙《なみだ》を流しているのだ。
「あなた——」
と、郁江は、京子に向って言った。「私《わたし》を訴《うつた》える?」
「奥《おく》さんを?」
「殺そうとしたわ」
京子は首を振《ふ》った。
「とんでもありません。私があなたの立場だったら同じことをしたかもしれない。——私こそ、許《ゆる》していただかなくては」
郁江は、じっと京子を見つめて、言った。
「あんた、いい人ね」
京子は、キュッと唇《くちびる》を結んで、背《せ》筋《すじ》を伸《のば》した。
「私、ご主人が戻《もど》られる前に失礼します」
「でも、エミのことが——」
と、郁江が言いかける。
「エミちゃんのお母さんは、あなたです」
京子は、そう言って、エミの入っている集中管理室の方へ目をやった。「エミちゃん、きっと持ち直します。私そう信じています。——では」
京子は、深々と一礼して、歩き出した。
浅倉とは、どこですれ違《ちが》ったのか、会うこともなく、病院を出た。——もう、昼に近い時《じ》刻《こく》になっていた……。
「浦田君!」
アパートの手前まで来て、京子はびっくりした。塚原が走ってきたのだ。
「まあ、塚原さん。どうなさったんです?」
「良かった! 無《ぶ》事《じ》だったのか!」
「無事って……。私《わたし》が、どうして?」
「いや、ともかく、中へ入ろう。色々、話があるんだ」
塚原は、京子の肩《かた》に手をかけた。
——京子の部屋へ上って、塚原は、昨日《きのう》からの一部始《し》終《じゆう》を、話してやった。
「大変な一日でしたのね……」
京子は、正《せい》座《ざ》したまま聞き終えると、言った。
「全くだ。でも、君に何もなくて良かった」
「ご心配かけて、済《す》みません」
「いいんだよ。いや、津村君のけがだって、君が責《せき》任《にん》を感じる必要はない。我《われ》々《われ》三人は、お互《たが》い様ってもんだからな」
と、塚原は微《ほほ》笑《え》んだ。「それに、あのけがのせいで、津村君と奥《おく》さんは、またうまく行くようになったんだしね。——まあ、ともかく何もかも終ったんだ」
「そうですね」
京子は、肯《うなず》いた。「久野さんは——即《そく》死《し》だったんですか」
「五階から飛び降《お》りたんだからね。これで、我々があの金を盗《ぬす》んだことは、もう明るみに出ないだろうが……」
「そのことですけど」
と、京子は言った。「私《わたし》の分は、お二人で分けて下さい」
「僕《ぼく》らで? いや、それは困《こま》るな。僕も津村君もね、やっぱり僕らはお金には縁《えん》がないんだってことで意見が一《いつ》致《ち》したんだ」
「まあ。——お互《たが》い貧《びん》乏《ぼう》が性《しよう》に合うんですね」
「全くだ」
と、塚原は笑《わら》った。「ところで君、ゆうべは?」
「恋《こい》人《びと》と静かな旅館に泊《とま》りましたの」
「やあ、これは……。どうやら君が一人で楽しい思いをしてたんだな!」
「本当ですね」
と、京子は笑《え》顔《がお》で言ったが、目には、小さく涙《なみだ》が浮《う》かんでいた……。