「キャッ!」
二、三歩後ろで、甲《かん》高《だか》い声が上がった。
敦《あつ》子《こ》が振り返ると、宮《みや》田《た》栄《えい》子《こ》が足を滑らせて、それもただ転ぶというのではなく、軽いとは言えない体が、一瞬、完全に宙に浮いて、お尻《しり》からみごとに落下するところだったのである。
ドン、と音がして、敦子の足に、床の振動が伝わって来た。それぐらい、凄《すご》い勢いで転んだのだ。
永《なが》瀬《せ》敦子も、その前を歩いていた、同じ受付嬢の制服を着た原《はら》久《く》美《み》江《え》も、ちょっとの間、動けなかった。
「——宮田さん!」
と、初めに駆け寄ったのは、永瀬敦子の方だった。「大丈夫ですか!」
同じ制服の宮田栄子は、三人の受付嬢の中では一番の年長者だ。何かあっても大騒ぎしたりすることはないのだが、今はさすがに痛さで声も出ないらしい。とぎれとぎれに、
「あ……腰……痛い……」
と、かぼそい声を洩《も》らしている。
「立てますか? ちょっと——ほら。久美江さん! 手伝って」
「はいはい」
三人の中では一番若い原久美江は、向こうを向いて、必死で笑いをかみ殺していたのだ。
当人には気の毒だが、確かに、そのあまりの転びっぷりに、敦子だって笑いたいのはやまやまだった。ただ、先輩を怒らせると怖いという、経験から来るブレーキがかかっていたのである。
宮田栄子を、敦子と久美江の二人が両側から支えて、やっと立たせたものの、
「歩けます?——宮田さん、どこかで横になりますか?」
敦子の問いに、ただ肯《うなず》くだけの状態。
「じゃ、久美江さん、応接室のソファに。ほら、しっかり支えて」
原久美江は若いが、体は小柄なので、宮田栄子の体重の三分の二は、敦子が負担しなくてはならなかった。応接室のドアまで、ほんの十メートルほどだったのが幸いだ。
「全く、もう……」
と、宮田栄子が情けない声を出した。「こんなにツルツルにワックスかけて!」
そう。確かに、ゆうべの床磨きの時に、ワックス液を流し過ぎたのかもしれない。
敦子も、朝、出勤して来て滑りそうになったくらいだ。——誰か転ぶわ、きっと。そう思ったのだったが、まさか目の前で……。
もちろん、深い意味があるわけではないにしても、この朝、床にワックスをかけ過ぎていたことが、敦子の人生を大きく変えることになった、とも言える。
それはともかく、敦子と久美江は、宮田栄子を応接室のソファに寝かせてやった。
ソファで少し休むと、宮田栄子もやっと口がきけるようになったらしい。
「ここで横になってれば、良くなると思うわ」
「でも、お医者さんに行った方が——」
と、敦子が言うのを、
「冗談じゃないわ、転んだくらいで」
と、遮って、「さ、二人で行って。課長が待ってるわ」
敦子は、ちょっと迷ってから、
「じゃ、課長さんの話がすんだら、また来ます。——久美江さん、行きましょ」
と、原久美江を促して、応接室を出る。
敦子は、応接室のドアの札を、〈使用中〉にしておいて、会議室の方へと歩き出した。
「それにしても、床が揺れた!」
と、今になって久美江が笑い出す。
「人が痛い思いしてるのに、笑うもんじゃないわ」
敦子はたしなめておいて、「課長さん、何のお話かしらね」
「何でもいいけど、お昼休みを潰《つぶ》してほしくないな」
と、久美江は少し口を尖《とが》らして、言った。
潰すといっても、もう十二時五十分。あと十分で、午後の仕事が始まるのだが、久美江は一分だって、休み時間を仕事に取られるのはいや、という主義だ。
「もしかしたら、あれかな」
と、久美江が歩きながら言った。
「何か聞いてるの?」
「そうじゃないけど。最近、受付に社員を置かない会社がふえて来てるんですって。この間、週刊誌で読んだわ」
「じゃ、どうするの?」
「人材派遣会社から来るんだって。その方が安上がりみたい」
「でも、それじゃ、社内のことなんて、分からないじゃない」
「取り次ぐだけなんでしょ。でも、うちももしそうするんだったら、私たちクビか」
「いやなこと言わないでよ」
「宮田さんぐらいは、古いからどこかへ回してくれるかもしれないけど。こりゃ、考えた方がいいかもね」
とか言いながら、親もとから通っている久美江は、たとえクビになってもさして困りはしないのである。
それはともかく……。永瀬敦子が勤めている〈K化学工業〉は、ここが本社ビルで、受付は、主任の宮田栄子と、敦子、久美江の三人が受け持っていた。ビルの一階にある受付に一人、三階の本社受付に二人、という分担で、交互にローテーションを組んでいる。他のフロアには、系列の企業が入り、いくつかのフロアは、別の企業に貸していた。
受付、というと、ただじっと座っていればいいようだが、なかなか楽ではない。敦子が入社したころは五人いたのである。
三人で一階と三階の受付を担当するということは、同時に二人は休めない、ということである。
もう在職二十年近い宮田栄子が何かで休みを取る、と言えば、その間は敦子も久美江も絶対に休めない。夏休みにしても、宮田栄子の予定が最優先である。
その次は、在職七年、今年二十八歳の敦子——のはずだが、実際にはまだ去年入ったばかりの原久美江の方が調子良くて、
「ね、一生のお願い!」
とか言われてしまうと、敦子はいやと言えない。
結局、貧乏くじを引くのは、独り暮らしで、実際、あまり予定というもののない敦子なのだった。
「第三会議室って言った?」
「そうだと思う」
と、久美江が肯《うなず》く。
それにしても、こんな風に課長が受付の三人を、それも昼休みに呼ぶというのは、珍しいことだった。
まさか久美江の心配のように、クビ、ってことはないと思うが、敦子としても、あまり楽しい気分ではない。第三会議室のドアをノックして、開けると、
「遅くなりました」
と、入って行く。
課長の大《おお》西《にし》は、窓から表の通りを眺めていたが、振り向いて、
「休み時間に悪いな」
と、椅《い》子《す》を引く。「かけてくれ」
どうやら、いささか深刻な話らしい。大西は女子社員には愛想が良くて、話をする時も、たいてい冗談の一つでも言ってからである。今日はとてもそんな余裕がないと見えて、
「宮田さんは?」
「あの、ちょっと具合が悪くて。休んでるんです」
「会社には出て来ていただろう」
「ええ、今、応接室で横になって……」
「そうか。——まずいな」
大西は、ひどく苛《いら》々《いら》しているように見えた。
敦子と久美江は、椅子にかけて、そっと顔を見合わせた。
「仕方ない。今日、下の受付は?」
敦子は、ちょっと迷った。本当なら、宮田栄子の番だ。しかし、あの様子では、とても無理だろう。
「私です」
と、敦子は言った。
「今日、午後にアメリカからのお客が来る。十人ぐらいだ」
「はあ」
「非常に重要な客なんだ。絶対に失礼があっては困る」
大西の言い方は、普通ではなかった。敦子は、少し戸惑っていた。
「何か、特別なことをするんでしょうか」
と、敦子が訊《き》くと、大西課長は、
「いや、そういうわけじゃないんだ」
と首を振って、息をついた。「すまん、ちょっと心配の種があってね」
「英会話のできる人がいないから?」
と、久美江が言うと、大西はやっと笑顔を見せた。
「そんなことじゃない。ちゃんと通訳はついて来る。問題はその客たちじゃないんだ」
「じゃ、何のことですか?」
大西が口を開きかけると、会議室の電話が鳴った。敦子が反射的に立とうとすると、
「いや、僕が出る」
と、大西が止めた。
大西が電話に出ると、久美江が、敦子の方へ顔を寄せて、
「アメリカ人が来るから、和服を着て座ってろって言われるのかと思った」
敦子は、
「まさか」
と笑った。
「——そうか。じゃ、あと二十分だな。——なに?」
電話に出ている大西の声が、鋭くなった。「——畜生! どこからそんなコネを見付けたんだ」
と、首を振り、
「分かった。ともかく、こっちも何とか考える。よく見張ってろ」
席に戻ると、大西は苛《いら》々《いら》と百円ライターを手の中で回していたが、やがて、
「実はね」
と、口を開いた。「君たちも知ってるだろう。うちもこのところ、輸出が伸びなくて、景気がいいとは言えない。二か月前——八月の初めに、うちの工場を二つ、閉鎖することを決めた」
「聞きました」
と、敦子は肯いた。「長野の方と——」
「高岡だ。どっちも規模は小さいが、一応それぞれ百人ほどの従業員がいる」
と、大西は言った。「長野の工場は今年一杯で閉めることになってるんだが……。その工場の組合員が、閉鎖に抗議して、上京して来たんだ。今、新宿駅に着いたと報告が入った」
「待ってたんですか」
「一人、見張らせといたのさ。情報が入ってたんでね。代表が七人、タスキをかけ、旗やプラカードを持って、こっちへ向かっている」
確かに、閉鎖される工場の従業員にとっては、死活問題である。本社へ談判しに来たくなる気持ちは、敦子にもよく分かった。
「あと二十分もしたら、このビルへ着くだろう。下のロビーにでも座り込まれたら、大変だ。一時間もすれば、アメリカからの客が着くんだからな」
敦子には、大西の心配が、やっと分かった。
「その組合の人たちに、説明して、出直してもらえばいいじゃありませんか」
と、久美江がのんびりと言った。
大西は苦笑して、
「いいか、連中は、重要な客があると知っているからこそ、今日を選んだんだ。こっちが少しは譲歩するだろう、と読んでるんだ」
「じゃあ……」
「ビルの入り口を閉める。中へ入られたら厄介だからな。その上で、どこかへ引っ張って行くしかない」
大西は舌打ちした。「全く、面倒をかけてくれるよ」
でも、同じK化学工業の社員なんじゃありませんか、と敦子は言いたかったが、やめておいた。
「私は何をすればいいんですか?」
「何もしなくていい」
と、大西は言った。「いつもの通り、にこやかに座っていてくれ。ただ、表で連中が騒ぐかもしれないが、君は一切無視するんだ。いいね」
「はい……」
「もう一つ厄介なことがある」
と、大西は椅《い》子《す》に座り直した。「TV局が、一緒にやって来るらしいんだ」
「TV局?」
「報道番組だか、ドキュメントだか……。ともかく、連中の側に立って、取材に来るだろう」
「やっぱり締め出すんですか」
「当然だ。そっちは、また後で手を打てばいい。ともかく、そんなわけなんだ。下の受付、よろしく頼むよ」
大西が立ち上がると、つられて敦子たちも立ち上がったが、
「課長さん——でも、入り口を閉めちゃって、他のお客さんや社員の出入りはどうするんですか?」
と、敦子は言った。
「通用口を使う。あそこは狭いし、裏側だから、少々もめても人目にはつかない。若いのを何人か立たせて、連中が中に入れないようにするんだ」
「分かりました」
「まあ、大して問題はないよ。大丈夫だ」
大西は、敦子の肩をポンと叩《たた》いた。その言葉は、自分自身に言い聞かせているように、敦子には聞こえた。
「——いやねえ、喧《けん》嘩《か》にでもなったら」
と、廊下へ出ると、久美江が言った。
「そんなことないでしょ」
と、敦子は言ったが、気は重かった。
「永瀬君」
背後から呼ばれて、振り向くと、庶務の有《あり》田《た》吉《よし》男《お》が大《おお》股《また》に歩いて来る。
「私はお先に」
と、冷やかすように言って、久美江は歩いて行ってしまった。
変に気をきかせて、と敦子は、久美江の後ろ姿を苦笑しながら、見送った。
「どうしたんだい?」
と、有田吉男が言った。
「何でもないの」
敦子は肩をすくめて、「どうしたの? 腕まくりなんかして。荷物運び?」
有田吉男は、別に敦子の恋人というわけではない。確かに、たまに一緒に食事をしたりはするが、デートとも言えないような、ただの「友だち付き合い」なのだ。
特に、有田は敦子より一つ年下で、かつ末っ子でもあるので、体は大きいのだが、どこか頼りない。長女で、妹も一人いる敦子から見ると、有田は、体ばっかり大きな弟みたいなものなのである。
「何だか知らないよ」
と、有田は、ちょっと首をかしげて、「ただ、課長から言われてね。大西課長の所へ行けって」
「うちの課長の所へ?」
敦子には分かった。——有田は、大学時代、アメリカンフットボールの選手だった、というだけあって、体格もいいし、力もある。
さっき大西が言った、押しかけて来た組合員が入れないように、「若いの」を立たせておくという、その「若いの」の一人に選ばれたのだろう。
「そう……。あんまりいい仕事じゃないわよ、それ」
「知ってるの?」
「ええ。今、話があったところ」
敦子は、エレベーターの方へと歩きながら、大西の話を手短に説明してやった。
「やれやれ」
と、有田はちょっとオーバーに、「僕が期待されるのは、腕力だけか。ま、確かに他にはあんまり取り柄がないけどな」
「そんなことないわよ」
と、敦子は笑って言った。
確かに、有田は有能なビジネスマンというにはほど遠い男で、当人もはなから出世など諦《あきら》めている。しかし、おっとりした人の好さは、敦子としても、話していて気が休まるのだ。エリートばかりの職場なんて、息が詰まるだけである。
「他にも何人かかり出されてるんだな、それじゃ」
「だと思うわ。でも——気を付けてね。つかみ合いなんてことにならなきゃいいけど」
「そんなの、みっともないよな」
「工場の人たちにしてみれば、無理もないわよ。いきなり閉鎖の通知で、再就職の口も捜してくれないなんて。——私だって、殴り込むわ」
「君が相手じゃ怖いな」
「何よ」
敦子は笑いながら、有田をにらんでやった。
エレベーターが上がって来て、みんな昼食から戻って来る。
敦子は、下りのエレベーターが来たのを見て、有田の方へ、
「じゃ、頑張って」
と、声をかけておいて、歩き出した。
下りに乗るのは、敦子一人。——頑張って? 何を頑張るのだろう?
「いやな仕事だわ」
と、敦子は呟《つぶや》いた……。
——一階のロビーを、つい見回してしまう。
もちろん、まだ誰もやって来てはいない。
受付のカウンターへと歩いて行くと、昼休みの間だけ、臨時に座っていてくれた、新人の女子社員が欠伸《あくび》を手で隠しているところだった。本当なら、昼休みも、係の三人が交替で昼食を取るのだ。
「ごめんなさい」
と、敦子は声をかけた。「もういいわよ。お昼、食べて来て」
「はい」
ペコン、と頭を下げて、その若い女子社員は、コトコト靴の音をたてながら、公衆電話の方へ駆けて行った。恋人にでも電話することになっていたのだろうか。
敦子は、受付の椅《い》子《す》に腰をおろして、ちょっと高さを調節して直した。
手もとの二つの電話機の位置を、真っ直《す》ぐに直す。——性格なのだ。
内線用の電話が鳴った。
「一階受付です」
「永瀬君か」
大西だった。「何か変わったことは?」
「特にありません」
「よく見ていてくれ。五、六分したら僕も下りて行く」
「分かりました」
まるで敵が攻めて来るって感じだわ、と思った。同じ会社の社員なのに。
敦子は、ビルの正面玄関へと目を上げた。
受付のカウンターは、玄関のガラス扉の真正面に、壁を背にして設けられている。玄関は二重で、外側は手で押して開ける、かなり重いガラス扉。その内側に、左右へ開く自動扉。そこから、今敦子がいる受付カウンターまで、ほぼ十メートル近く、つややかな大理石の床が光っている。
表はまぶしいほど明るくて、忙しく人々が右へ左へと横切って行く。
宮田さんがどうしてるか、様子を見て来なかったわ、と思い付いた。仕方ない。あとで席に電話してみよう。——あれさえなかったら、ここに座っていなくても良かったのに。
文句を言っても始まらないんだわ。
敦子は一つ深呼吸をして、背筋を伸ばし、「受付嬢の顔」を作った。