午後一番の来客が数人あって、却《かえ》って気が紛れた。
ちょっと息をつくと、
「やあ」
と、わきの方からやって来たのは、このビルの管理主任、平《ひら》山《やま》だった。
ガードマン風の制服を着ているが、仕事はごく普通の管理人で、実際、もとは小学校の先生だったという、五十がらみの、温厚な人柄の男だった。
「平山さん。——どう、洋《よう》子《こ》ちゃん、風《か》邪《ぜ》の具合は?」
と、敦子は訊《き》いた。
「やっと昨日から熱が下がってね。念のために今日も学校は休ませたよ」
と、平山は笑顔で言った。「本人は、もう大丈夫だから行きたい、と言ったんだがね。またぶり返すといけないと思ってね」
「そうね。無理しない方がいいわ」
「全く、子供の病気ってのは応《こた》えるね。こっちまで具合が悪くなりそうだったよ」
平山の所は、結婚十五年目で、やっと娘が生まれたのだ。今、九つ。平山が可《か》愛《わい》がるのも当然のことだろう。
「お父さんが寝込まないでよ」
と、敦子は微《ほほ》笑《え》んだ。
「——なあ、聞いたかい」
平山が真顔になる。
「これから来るお客さんのこと? ええ、聞いてるわ」
と、敦子は肯《うなず》いて、「もうそろそろじゃないかしら」
「たぶんね」
平山はため息をついた。「しかし、会社も冷たいもんだ。散々働かせといて、景気が悪くなりゃポイ、だものな」
「そうね、私も同情するけど……。でも、どうしようもないし」
「全くね」
平山は玄関のガラス扉の方を見て、「あれを閉めちまえ、とさ」
「私も、ここでニコニコしながら座ってなきゃいけないのよ。何があっても」
「それも辛いね」
と、平山は細い目をちょっとまたたかせて言った。
エレベーターホールの方から、足音がして、大西課長が若い男子社員を五、六人連れてやって来た。有田の顔もある。
「ご苦労さん」
と、大西は敦子へ声をかけてから、平山の方へ、
「表の戸は?」
「今、ロックするところです」
平山が、玄関の方へ歩き出した。
「早くしろ! もうすぐ着くぞ」
大西は、見た目にもはっきり分かるほど苛《いら》立《だ》っている。敦子は、有田とそっと目を見交わした。
敦子は、平山が、まず外のガラス扉の上下の鍵《かぎ》をかけて、それから内側の自動扉の中へ入って来ると、作動を停止させるのを見ていた。
「——よし」
と、大西は言った。「永瀬君、いいね、君は何が起こっても、知らん顔で、ここに座ってるんだよ」
「やってみます」
と、敦子は言った。
「頼む。——おい、みんな裏口だ。分かってるな、仕事は」
はい、とか分かってます、と口の中でボソボソ返事をしながら、みんな、通用口の方へと姿を消した。平山もその後について行く。
大西は一人で残ったが、とても敦子を相手におしゃべりなどする余裕はなさそうだった。
「もう来るころだがな」
と、大西は腕時計を見た。
もちろん、敦子の背にした壁に、大きなデジタル時計がかかっているのだが、自分の時計でなければ信用できない、という風だ。
「でも、課長さん」
と、敦子は言った。「ロビーへ入れなくても、あの表の通りで座り込まれたら、みっともないのは同じじゃありませんか」
「いや、表は公道だ。警察に排除してくれと頼むこともできる。しかし、ロビーへ入られると、そうはいかないからね。それは向こうも承知してるさ。何とか中へ入ろうとするはずだ」
大西の口調には、抗議にやって来る人々への同情や共感が、全く感じられない。敦子は少しがっかりした。
もちろん、大西の立場としては、同情などしている余裕はないのかもしれない。しかし、大西とて家族をかかえて、突然職を失ったら、同じようにするのではないか。
「もし——」
と、敦子は言った。「その人たちが入って来て、重役に取り次いでくれ、と言われたらどうします?」
「そんなことにはならないさ」
と、大西は即座に答えたが、少しして、「もしそうなったら、君は、取り次がないように言われております、の一点張りで頑張ればいいんだ」
そんなことができるだろうか? 敦子は不安だった……。
「アメリカのお客様は、もう——」
「成田に着いているはずだ。社長が出迎えてる」
「連絡は入らないんですか?」
「途中から電話があることになってる。車がこんでて、遅れてくると——」
大西が言葉を切った。
表の通りに、TVカメラをかかえた男が現れたのだ。
「来たな」
大西は、こわばった声を出した。「頼むよ。僕は目につくとまずい」
「はい」
敦子は座り直した。
いかにも重そうなカメラを肩にのせた男が一人、それにマイクを持った男と、もう一人は肩からいくつも金属の箱をぶらさげていた。
組合員たちの姿は、まだ見えなかった。
TVカメラで、その面々が抗議しにビルへ入って行くところを撮ろうというのだろう。どこから撮るか、あれこれ打ち合わせている様子だった。
敦子は、少し深く息をついた。——言いようのない不安が、胸を圧迫していた。
もちろん、どうってことはないのだ。ただじっと座っているだけでいいんだから……。
カメラを構えるのが見えて、すぐに、「その連中」が、歩いて来た。
あらかた頭の禿《は》げた、かなりの年輩の男たちである。
背広にネクタイという格好が、見るからに窮屈そうだ。カメラを向けられているせいか、妙に胸を張って歩いている様子は、何だかユーモラスでさえあった。
肩からはタスキをかけ、一人は組合の旗、一人は〈閉鎖断固反対!〉と書いたプラカードを持って……。他の男たちも何やら手に手に持ってはいたが、敦子の席からでは、読み取れなかった。
先頭の男が、外のガラス扉を開けようとする。
開かないことを、まるで予期していなかったらしい。面食らっている。
二、三人が集まって、扉をガタガタさせていたが——。
「おい! 開けてくれ!」
と、怒《ど》鳴《な》る声が聞こえて来た。
ガラス扉といっても、左右の扉の間は細く開いているから、声は聞こえて来る。
「ここを開けろ!——おい、開けろ!」
大声が二つ、三つと重なる。道を行く人が好奇の目で、その様子を眺めて行く。
扉を拳《こぶし》でドンドン叩《たた》いて、
「中へ入れろ! ここの社員だぞ! どうして入れないんだ!」
ポーズとか、カメラの前の演技ではなく、本気で怒っているのだ。
TVカメラは、その様子を撮っていたが……。
敦子は、カメラが自分の方へ真っ直《す》ぐに向いているのに気付いて、ギクリとした。
カメラをかかえた男が、そばの男に何か言っている。そして、一人が何か丸いものを高くかかげたと思うと、強い明かりが、敦子の方を照らした。
外が明るいので、あのままではよく撮れないのだろう。敦子にはカメラが自分を撮っているのだと、はっきり分かった。
敦子は、思わず左右へ目をやった。
もちろん大西は姿を隠してしまっている。他のフロアの会社にも、ロビーへ出ないでくれと連絡が行っているのだろう。ロビーには誰もいない。
何があっても、じっといつもの通りに座っていれば……。
しかし、敦子は、いたたまれなかった。カメラの目が真っ直ぐに自分を見ている。哀れな組合員たちをしめ出した全責任がこの女にある、とでも言わんばかりに。
やめて! と叫び出したかった。やめて下さい! 私はただ言われた通りにしているだけなんですよ。
「開けろ!」
「上の奴《やつ》を呼んで来い!」
怒鳴る声。ガラス扉を叩いたり蹴《け》ったりする音。——敦子は思わず目をつぶった。
確かに、固く閉じた扉の奥でいつものように平然と取り澄ました顔で座っている受付嬢。それは、企業の非情さの象徴みたいにみえるかもしれない。
そう分かっていても——どうして私が?
敦子は、やり切れなかった。何だか裸で人々の前に立たされているような恥ずかしさを覚えた。
目を開けると、ライトは消えて、カメラももう敦子を撮ってはいなかった。
男たちは、何やら話し合っている。とても開けてもらえそうにない、と分かったのだろう。
しかし、このまま黙って引き上げるだろうか。
「どうした?」
音が途絶えたので、大西がそっと顔を出した。
「何か相談してます」
「そうか。——諦《あきら》めないだろうな、まだ」
すると、表の通りから、男たちの姿が見えなくなった。TV局の人間たちもそれに続いて、急ぎ足で行ってしまった。
「どこかへ行きましたよ」
「そうか。通用口へ来るな、きっと。君は、ここにいるんだ、いいね」
大西が行ってしまうと、敦子は、ホッと息をついた。どうか、このまま何も起きませんように、と祈るような気持ちだ。
手もとの内線電話が鳴った。
「一階受付です」
「私。どう、下の様子」
原久美江だ。上の受付からかけているのだろう。
「今のところ、静かよ」
「TVの人、来た?」
「ええ」
敦子は、久美江の好奇心に付き合っていられるほどの余裕がまだなかった。「後でゆっくり——」
何か、物音がする。敦子は言葉を切った。
「どうしたの? もしもし」
久美江が訊《き》いて来る。
「いえ——何だか人の声が……。でもどこからだろう?」
受話器を持ったまま、敦子はロビーを見回した。通用口で騒ぎになっているとしても、ここまでは聞こえないはずだ。
今の物音や声は、どこかもっと近くで聞こえたようだった。
「また後でね」
と、敦子が久美江からの電話を切ろうとした時だった。
突然——本当に手品か何かのように、ロビーに、組合旗やプラカードを持った男たちが現れたのである。
敦子にも分かった。駐車場から入って来たのだ。地下二階まで、歩いてわきの階段を下り、駐車場の中を抜けて、非常階段を上って来たのに違いない。
「久美江さん! 通用口へ連絡して。駐車場から入って来たって」
早口に言って、受話器を置く。久美江に分かっただろうか?
しかし、その時にはもう、七人の男たちは敦子の方へとやって来ていた。
「長野工場の者だ」
と、一番年長らしい男が言った。「社長に取り次いでくれ」
敦子は、とっさには言葉が出て来なかった。
七人が、カウンターの前に固まって、敦子の方へ怒ったような目を向けている。
「あの……社長はただいま出かけております」
声になっていたかどうか。しかし、向こうもそんなことは承知しているはずだ。
「専務でも誰でもいい。ともかく、責任者にここへ来てもらってくれ」
「恐れ入りますが——」
敦子は、必死で平静さを装おうとした。「お取り次ぎできません」
「おい、そりゃどういうことだ!」
と、他の一人が、大声を上げた。
「表の戸を閉めたり、裏を固めたり、何のつもりだ!」
「こっちは何があっても帰らないぞ!」
口々に怒鳴る。敦子は、顔から血の気がひいているのを感じながら、
「あの……申し訳ありませんが、取り次がないようにと言われて——」
「そこに電話があるんだろう! 取ってかけりゃいいんだ!」
一人がカウンター越しに手をのばして、敦子の手もとの電話をつかもうとする。敦子は反射的に、
「やめて下さい」
と、受話器を手で押さえていた。
「どうしてだ!」
男の声が耳を打った。「俺《おれ》たちはこの会社の社員だぞ! それなのに、押し売りと同じ扱いなのか、ええ?」
敦子は、答えられなかった。
その男たちの気持ちがよく分かるだけに、何とも言いようがなかったのである。
大西は何をしてるんだろう? この騒ぎが聞こえないのだろうか?
「何とか言えよ、おい!」
カウンターを強く叩《たた》く音で、敦子はハッと我に返った。
「取り次ぐなと上司から言われております」
やっとの思いで、それだけ言った。
「待てよ」
と、一人が穏やかな口調で言った。「この人を責めても仕方ない。ともかく、ここに入ったんだ。その内、誰か出て来るよ」
浅黒く陽《ひ》焼《や》けしたその男は、禿《は》げ上がった額を、軽く手で撫《な》でて、「すまんね」
と、苦笑いした。
敦子は、ゆっくり息を吐き出した。
その時、足音がして、大西が若い社員たちと平山を連れて現れた。
「大西さんじゃないか」
一番年長の男が、見知った顔らしく、「ひどいじゃないか、しめ出すなんて」
大西は、苦り切った顔で、
「こっちを困らせるようなことはよしてくれよ」
と、言った。
「工場を閉められたら、こっちはもっと困るんだ」
「ともかく、今日はまずいんだ。出直してくれれば——」
「今日でなきゃ、会ってくれやしないさ。分かってるだろ」
「社長を怒らせたら、却《かえ》ってマイナスだ」
「これ以上のマイナスなんて、ありゃしないよ」
敦子は、ともかく大西が出て来てくれたので、気が楽になった。いつの間にか、じっとりと額に汗がにじんでいる。
ハンカチで、そっと汗を拭《ぬぐ》った。
有田の姿を捜すと、平山と二人で、少し離れて様子を見守っている。敦子の視線に気付いているようではなかった。
「——ここは、俺の顔を立ててくれよ」
と、大西が少し下手に出ている様子だ。「頼む。社長たちが成田から戻って、君らがここで座り込んでたら……。俺はクビだよ」
「あんたに恨《うら》みはないけどな。俺たちは工場の九十人の代表だ。いや、家族を含めりゃ、三百人からの代表だぜ。引きさがるわけにゃいかないんだ」
そして振り向くと、「おい! ここで社長を待つぞ!」
と、両手を上げて見せた。
男たちが、ロビーに次々と座り込んだ。
最悪の事態になってしまった。
敦子は、大西が青ざめた顔で、頬《ほお》を引きつらせながら、ギュッと腕を組んで立っているのを、怖いような思いで見ていた。
ロビーの床にあぐらをかいた七人は、とても説得など、聞き入れそうにもない。どうなるのだろう? 敦子は、そっと息を吐き出した。
大西が、カウンターの方へやって来た。
「どうします?」
と、敦子は低い声で言った。
「参ったな……。駐車場から来るとは思わなかった」
大西は、何とか平静を装っている。
「TV局の人はどこにいるんですか」
「下で、機材をかかえてもたもたしていたんで、間に合ったよ。何とか押し出してやった」
「社長さんたちに、他へ行っていただくわけにはいかないんですか」
「そんなことはできない。ともかく、到着の時間までに、ここを開けておかなくちゃ」
大西は、汗をかいている。
「TV局の人が——」
「何だって?」
「表です」
押し出されてしまったTV局の男たちが、また表の通りにやって来た。カメラがロビーを向き、ライトが光ると、座り込んでいる組合員も気が付いて、振り向いて手を振っている。
「いい気なもんだ」
大西は吐き捨てるように言った。
手もとの外線用電話が鳴った。
「はい、K化学工業ビルでございます。——はい、ここに。——お待ち下さい」
敦子は、大西へ、「課長さん、専務からです」
「——そうか」
専務の国《くに》崎《さき》も、社長に同行しているはずだ。車の中からかけているのだろう。
「大西です」
低い声で、大西は言った。「——はあ。——分かりました。——いや、何も問題はありません」
敦子は、有田と目が合った。有田が、ちょっと肩をすくめて見せる。
大西は敦子に受話器を渡して、
「あと四十分ほどで着く」
と、言った。
「そうですか」
「今日に限って、道が空《す》いてるそうだ」
大西が引きつったような微笑を浮かべた。
「それで……」
「君は、じっと座ってるんだ。いいね。何があっても」
敦子は、黙って肯《うなず》くしかなかった……。
大西は、有田と平山の方へ歩いて行くと、何やら低い声で話していた。
有田が肯いて、駆け出すようにエレベーターへと急いだ。平山は警備員室の方へ姿を消す。
集められた他の若い社員たちは、どうしたらいいのか、手持ちぶさたのまま、座り込んだ男たちを眺めていた。
「おい、みんなこっちへ来てくれ」
大西が呼ぶと、ホッとした様子で、ゾロゾロとエレベーターホールの方へ歩いて行く。
ロビーはまた、敦子と、座り込んだ男たちだけになった。
どうしようというのだろう? 敦子は、胸苦しいほどの不安を何とか鎮めようとして、手もとの電話をハンカチで拭《ふ》き始めた。
別に汚れているというわけでもないのだが、こうしていると、気分が落ちつくのだ。
大西は追い詰められている。もし、社長たちがやって来て、この状態だったら……。クビはともかく、どこのポストへ回されるか、分かったものではない。
大西の気持ちも分かるが、しかし……。
敦子は、目の前にじっと座っている男たちを見回した。——妻がいて、子供もいる彼らにとっては、これはただの「意地っ張り」などではない。むしろ大西以上に追い詰められた立場にいるのだ。
それでいてどこかのんびりした空気があることに、敦子は感心した。——自分だったら、もっとヒステリックにわめき立てるかもしれない。
大西が、一人で戻って来た。そして、七人の男たちを見渡すと、
「もう一回言うぞ。ここから出て行ってくれ!」
「そいつは無理だね」
と、あの年長の男が、首を振った。
「絶対に会わさんとは言ってない。会議室で待っててくれれば——」
「ここだ! ここから俺たちは動かない」
「そうか」
大西は肯いた。「分かった」
大西が振り向いて、手を上げると——平山と、他に若い社員が二人、大きな布を手に、駆けて来た。
何だろう? 敦子は、三人が、自動扉の方へ駆けていって、大きなその布を広げるのを見ていた。
会社の運動会の時などに使うテントの布だ。それを、平山たち三人が、幅一杯に広げて、手が伸びる限り、高くかかげた。外から、ロビーの様子が見えないように隠しているのだ。
ロビーが、表からの光を遮られて、少し暗くなる。それでも、ガラス扉は高さがあるので上の三分の一ほどは隠れない。しかし、外から中の様子を見えなくするには、充分な高さだった。
座り込んだ男たちが、何事かと顔を見合わせていると、エレベーターホールの方から、男の社員たちが駆け出して来た。
敦子は、目をみはった。さっきとは違う。十人——いや二十人近くもいる!
「連れ出せ!」
と、大西が怒鳴った。
白ワイシャツの男性社員たちが、座り込んだ男たちを、引っ張って立たせようとした。
「何だ!」
「離せ!——何するんだ!」
怒鳴る声が交錯した。
一人に三人がかかって、両腕をつかんで、床を引きずって行く。
「やめろ!」
と、あの年長の男が、立ち上がって、つかみかかる手を振り払った。「こんなことをして恥ずかしくないのか!」
「早くしろ!」
大西が叫ぶ。
そのまま、ただ引きずって行くだけだったら、まだ混乱は大きくなかったかもしれない。
どっちが先だったのか——敦子にも分からなかった。
「離せ!」
プラカードを振り回して、一人が叫んだ。
上《うわ》衣《ぎ》が裂ける音。ベキッ、と音がして、プラカードの柄が折れた。
社員の一人が、頭を押さえて、よろけた。メガネが落ちて、サンダルで踏まれて砕ける。
敦子は、息をのんだ。頭から血が流れて、それが白いワイシャツに落ちた。
「この野郎!」
一人が、プラカードを持っていた男の腹をけり上げる。
「馬鹿! やめろ!」
止めようとした男を、誰かが殴りつける。
有田が、つかみ合っている男たちを、
「よせ!」
と、引き離すのが見えた。
しかし、もう、止めようがなく、暴走は始まっていた。
敦子は、これが現実の出来事だとは信じられなかった。目の前で、つかみ合い、ののしり合いながら、争う男たち——。
有田が、組合旗の旗ざおに腹を突かれて、呻《うめ》きながら倒れた。敦子は、思わず腰を浮かしていた。
有田は、顔を真っ赤にして、起き上がった。相手の胸《むな》ぐらをつかむと、振り回すように投げつける。
抑えがきかなくなっている。——やめてと、敦子は叫ぼうとしたが、声にはならなかった。
ガツッと音がして、有田の殴った相手が鼻血を出しながら倒れた。
体が大きく、力もあるだけに、有田が殴ると、相手は大きく吹っ飛んで、もう起き上がれなかった。
敦子は、今まで見たこともない、有田の顔つきに、身震いした。
「やめろ!」
後ろから飛びつくようにして、有田を止めようとしたのは、さっき敦子が問い詰められた時に、「この人を責めても仕方ない」と、他の仲間を抑えてくれた、禿《は》げ上がった額の男だった。
その男も、決して弱々しい体つきではない。しかし、スポーツできたえた有田にはとてもかなわなかった。
有田も、相手がただ止めようとしただけだと思わなかったのだろう。興奮していて、とてもそんな判断ができなかったのに違いない。
すぐに相手の手を振り離すと、ワーッ、と叫び声を上げて、その男を力一杯放り投げた。
大理石の床の上に、その男は凄《すご》い勢いで投げ出された。ロビーの両サイドに、太い円柱がある。そこへ向かって、男の体が、見えない激流に押し流されるように、滑って行った。
男が円柱にぶつかると、ガキッ、という音がした。
「——もういい」
と、大西が言った。「もうよせ」
敦子は、あの投げつけられた男が、ぐったりと床に頭を落としているのを、信じられない思いで見つめていた。
「さあ、連れて行くぞ。——警備員室だ。手当てする必要のある者は、クリニックへ連れて行く」
大西の声が、上ずって震えている。「いいな。——さあ、急げ!」
長野からやって来た組合員たちは、とても立ち上がる力もない様子だった。三倍もの若い社員たちと争ったのだ。
支えられて、やっと歩けるという有り様だった。ワイシャツが裂け、ネクタイは引きむしられ、あちこちに鼻血が点々と散っている。
有田が、あの気を失ったらしい男の方へ歩いて行くと、引っ張り起こして、背中におぶった。
誰も無言で、……ロビーには、ただ、荒い息づかいの音だけが、入り乱れている。
有田が、敦子の方には目も向けずに、半ば放心したように、歩いて行く。おぶわれた男は、完全に意識を失っている様子だった。
「まだ隠してろよ」
大西が、テントの布でロビーを見えないように遮っている平山たちへ声をかけた。「おい、誰か、急いで、モップを持って来い」
磨き上げられた大理石の床は、血が落ちて、筆ではいたように、汚れていた。
「畜生……」
と、大西が、呟《つぶや》くのが聞こえた。