「——敦子さん、帰らない?」
と、久美江に声をかけられて、敦子は目を開けた。
眠っていたわけではない。五時の、終業のチャイムが鳴るのも聞こえていたのだが、何となく体が動かないのだ。
「まだ気分が?」
「少しね。——若くないのよ、もう」
と、敦子は笑顔を作って見せた。
社内はザワザワと帰り仕度の物音でにぎやかだ。女性はたいてい五時で帰るし、男の社員も、好んで残業するというのは、まあ四十代後半以上。
決算のころとか、特別な時期を除けば、深夜までの残業や徹夜といったことはめったにない。
敦子は、ふと気付いて、
「まだアメリカのお客さん、いらっしゃるんでしょ。いいのかしら、残っていなくて」
と、会議室の方へ目をやった。
「宮田さんが張り切ってるわよ。任せときましょ」
「そうか」
敦子は肯《うなず》いた。
宮田栄子が、下の受付で話しかけて来た時、敦子は、信じられない思いだった。敦子に同情してくれているようなことを言いながら、その口調にははっきり、嫉《しつ》妬《と》の気持ちがこめられていたからである。
そんな大事な場面に、自分が居合わせなかったことが、悔しいらしい。でも実際にあの乱闘騒ぎを見ていたら……。
いや、宮田栄子なら、眉《まゆ》一つ動かさずに、それこそ「空気のように」じっと座っていられたかもしれない。「受付は空気みたいに」とは、敦子が入社したてのころ、当の宮田栄子から言われた言葉である。
なければ困るが、気付かれないくらいに控え目に、そして、何もしないのも仕事の内、というわけだ。
「喜んで代わってあげたのに」
つい、口をついて言葉が出た。
「え?」
久美江が面食らっている。敦子は笑って、
「何でもないの、独り言。——じゃ、帰りましょうか」
敦子は、結局、管理主任の平山へ連絡していなかったことを思い出した。帰りがけに、もう一度寄ってみよう。
女子トイレは、もう混雑のピークをやや過ぎていた。女子社員の終業は四時五十五分。もちろんこれは「慣例」であって、管理職も諦《あきら》めているのだ。
敦子のように受付にいると、そういうわけにもいかない。五時間際に、電話もよくかかって来るし、駆け込んで来る営業マンもいる。伝言の受け渡し、外出伝票の整理、といったことも、敦子たちの仕事に含まれているのだ。
ロッカールームへと歩いて行く途中、給湯室の前を通ると、宮田栄子がお茶出しの用意をしていた。
敦子は、ちょっとためらった。もちろん宮田栄子は一人でやるつもりだろう。しかし、見ていて声もかけないと、またあとで何か言われそうである。
「宮田さん。——何かお手伝いしましょうか?」
「あら。いいわよ。大した人数でもないし、一人でやれるわ」
「そうですか。じゃ——」
ここは素直に引っ込むことだ。行きかけると、
「おい、俺《おれ》にもお茶いれてよ」
と、経理の若い男性が自分の茶《ちや》碗《わん》を持ってやって来た。「何だ、いつものお茶と違うんじゃない?」
「高級品よ。大事なお客様ですからね」
と、宮田栄子が言った。「そっちのポットのを飲んで」
「ちぇっ、差別だな」
と、笑いながら、「俺だって功労者なんだぜ。永瀬君も見ただろ、ほら、パッと足払いしてさ」
ロビーで、あの長野工場の組合員相手に乱闘をやった一人である。まだ二十四歳ぐらいだが、体型だけは立派な「中年」になっている。
宴会の席などでは、座を盛り上げる役目だが、敦子はどうにもこういうタイプの男が好きでない。
「俺ね、ほら中学生のころ柔道習ってたんだよ。あの時のこと思い出してね。しかし、あんなにみごとにかかるなんて思わなかったなあ」
と、誰かが、凄《すご》いわねえ、と言ってくれるのを期待しているらしい。
「私、いれてあげるわ」
と、敦子が言った。
「やあ、悪いね」
「お茶《ちや》碗《わん》貸して」
簡単に水でゆすいで、チラッと見ると、彼の方は、通りかかった女の子にまた何やら話しかけている。
敦子は、戸棚を開けて、食卓塩を取り出した。お弁当を食べたりする時に使うので、置いてあるのだ。その塩を、茶碗の中へガンガン入れてやった。その上から、熱いお茶を注《つ》いで、
「はい、どうぞ」
「や、サンキュー。今日は十時まで残業なんだよ」
「ご苦労さま。少しさめてから飲んで。凄《すご》く熱いわよ」
一口飲んで目を白黒させるに違いない。
「お先に失礼します」
敦子が会釈すると、宮田栄子は笑いながら、肯《うなず》いた。
一階へ降りた敦子は、エレベーターを出て、すぐ有田と出くわして、びっくりした。
「有田さん、何してるの?」
「いや……。ちょっと大西課長に頼まれて」
と、有田は目をそらして、「じゃ、急ぐんだ」
と、エレベーターに乗ってしまう。
「さよなら……」
という敦子の言葉も、有田の耳には入っていないようだった。
平山が、ビルの正面玄関の自動扉の所にしゃがみ込んで何かやっているのが目に入った。
「——平山さん」
「やあ……。気分が悪かったって?」
「もう何ともないわ。何してるの?」
「いや、ちょっと捜し物さ。あの騒ぎでね」
と、立ち上がる。「もういいんだ」
「大変だったわね」
と、敦子は言った。「あの人たち、大丈夫だったのかしら?」
「うん。まあ、大したことはなかったよ」
と、平山は肯いた。
「でも、クリニックへついて行ったんでしょう?」
「え? ああ、そう……。一応ね。そうだ、さっき、専務の国崎さんが一人でみえて、みんなと話してたよ」
「国崎さんが?」
敦子には、ちょっと意外な話だった。——あの組合員の話を聞いてやってくれ、と頼みはしたが、国崎が本当にその通りにしてくれるとは、期待していなかったからである。
「まあ、難しいだろうな。今さら、工場の閉鎖を取り消すことはできないし……」
「そうね。でも、まあ、国崎さんに会えただけでもね」
返事はゼロかもしれないが、そこまでは敦子が心配しても仕方のないことだ。
「じゃ、ちょっとまだ仕事があるんでね」
と、平山は言った。
「ええ、邪魔してごめんなさい」
敦子は、ゾロゾロとビルを出る人の流れの中に加わった。
夏の盛りに比べると、もうずいぶん日が短くなった。——敦子は、ちょっと空の色を確かめるように上を見てから、歩き出した……。
週に一度は寄って行く洋食屋の前で、敦子は、立ち止まって、
「今日は何日だっけ……」
と、呟《つぶや》いた。
二〇日?——二一日か。それなら、あと月給日まで四日……。いや、九月は二三日が休みで、確か二四日は土曜日……。じゃ、お給料は二四日の午前中だ。
敦子は安心して、堂々と店の中へ入って行った。
一人暮らしは、どうしても外食が多くなる。敦子も、体に良くない、と思うのだが、一人分の食事を作る手間を考えると、つい面倒になってしまうのだ。
できるだけ野菜をとって、脂っこいものは避けて、と気を付けてはいるのである。
席について、熱いお茶をもらうと、敦子は定食と、それに野菜の煮つけを頼んだ。
お茶をゆっくり飲むと、何か体の隅々のネジが一気にゆるんだようで、急に体が重くなったような気がした。——大変な一日だったのだ。
今でも、あの出来事が現実に起こったことなのかどうか、敦子には確信が持てない。頭で分かっていても、それを否定したいと心が思ってしまうのだろう。
しかし、ともかく、あれはあれで何とかおさまりそうな気配だし……。
有田も平山も、何だかいやにソワソワしていたのが気になったが、あまりあれこれと想像ばかりしていても、仕方のないことだ。
そうだ。——土曜日が月給日ということは……。
敦子は、ハンドバッグを開けた。有名ブランドの、香港製の模造品。久美江が、夏に香港へ行った時、買って来てくれたのである。もちろん、もらったわけじゃなくて、ちゃんと代金は払ってある。
手帳を取り出し、土曜日の欄に、〈通帳、カード、封筒〉と書き込む。月給から、決まった額を家へ送らなくてはならない。月曜日に送ったら、向こうへ着くのが水曜日くらいになってしまうだろう。
土曜日は……。でも、銀行は休みじゃないわね、確か。あれ? どうだったっけ。確かめとこう。
お金を引き出して、現金書留で送るのだから、午前中、久美江に頼んで、ちょっと抜け出さなくては。向こうへ着くのが三日も遅れたら、また電話がかかって来るだろう。
敦子は、手帳を戻してバッグを閉じ、頬《ほお》づえをついて、ぼんやりと店の中を見回した。
まだ時間が早いので、そうこんではいないけれど——。
ふと、誰かと目が合った。
ジャンパー姿の、若い男だ。目が合って、パッと向こうは目をそらしたが、どうも、それが偶然ではない感じだった。
誰だろう? 敦子は考えたが、全く思い当たらない。
そう柄の悪い男という感じではなかった。まだ二十四、五歳といったところだろう。丼《どんぶり》ものを頼んでいる。
一《いつ》旦《たん》目が合ってからは、全く敦子の方を見ない。それもどこか、わざとらしかった。
「お待たせしました」
定食の盆が置かれて、はしを割ると、敦子はもうその男のことなど、すっかり忘れてしまった。
食堂に置いてある女性週刊誌などをめくりながら、熱いみそ汁をすする。
こんな時、敦子は一人暮らしの気楽さを大いに楽しんでいる。もちろん、日によっては「気楽さ」が「寂しさ」にも「つまらなさ」にも「味気なさ」にも「侘《わ》びしさ」にも……。いや、もうやめよう。
いいことよりも、よくないことの方がずっと表現は豊かなんだな、と敦子は思う。それだけ世の中ってのは、切ないことが多い、ということなのだろう。
今日の出来事にしても、あの組合員たちはもちろん気の毒だが、大西課長のことも、心から軽《けい》蔑《べつ》する、という気持ちにはなれない。
もし、自分が大西の立場だったら、と考えたら、同じようにしなかったとは言えない。
家のローンが何十年も残っていて、子供の学費、車の月賦……。今の地位の、今の収入で、やっとやって行ける生活なのだろう。
でも——理解はできても、やはり敦子の中には引っかかるものがあった。
何か、何か他にやり方があったはずだ。
——敦子は頭を振った。もう忘れようと思っていたのに。
「ご飯のおかわりは?」
店の奥さんが、声をかけて来た。
「すみません、じゃ」
半分くらい食べて、残りのご飯にお茶をかける。——これが、まあ敦子流のフルコースなのである。
「あ、そうだ」
急に思い出した。——今夜、敦子の入っているアパートの、住人たちの集まりがある。月に一度、さして用事もないのに、どこかの部屋に集まって、アパートの補修だの、管理上の問題など、話し合うのだ。
敦子は、あまりそういう付き合いが得意ではないが、出ないとあれこれ言われるし……。何より、出席しないと、次の会合をその欠席者の部屋でやろう、と決められてしまうことが多い。
腕時計を見た。確か、会合は八時から。今から帰れば充分間に合うが……。
少し遅れて行こう、と思った。勤めているのだから、理由はつく。
二杯目のご飯の半分を予定通り、お茶漬けにして食べて——さて、あと三十分くらい、どこかで時間を潰《つぶ》すか、それともここで新聞でも見て行くか。そろそろ店がこんで来るので、長居は気の毒なのだが……。
迷っていると、咳《せき》払《ばら》いが聞こえて、敦子は顔を上げた。さっき敦子と目が合った、ジャンパー姿の若い男が、テーブルのすぐわきに立っている。
「何ですか?」
と、敦子が訊《き》くと、男は向かい合った椅《い》子《す》に、腰をかけて、
「人違いだったら、すみません」
と、早口に言った。
「人違い、って……」
当惑して、敦子はその男を眺めた。
「K化学工業の受付の方じゃありませんか」
「私?——そうです」
「今日、TVカメラであなたを撮っていたんです」
「じゃ……」
敦子は、お茶を一口飲んだ。
「あの時、受付に座ってましたよね」
と、男は念を押した。
仕方ない。嘘《うそ》はつけなかった。
「ええ、私です」
「良かった! 出て来る人たちをじっと見てたんです。ともかくあの受付の女性を見付けろ、と言われてましてね」
と、屈託のない笑顔を見せる。「制服じゃないと、よく分からないんですよ、印象が全然違って。——さっきから、もしかしたら人違いかな、と迷ってたんです」
「何のご用ですか」
と、敦子は素っ気なく言った。
「ロビーを布で隠したでしょう。あの後、何だか怒鳴り合ってる声がして……。何があったんですか?」
「私——存じません」
と、敦子は言った。
「だって、あそこに座ってたんでしょ」
「座り込まれては困るって……。会社の人と言い合いになって……。それだけです」
「それだけ? でも、組合員の人たち、出て来ませんでしたよ」
「後のことは分かりません。会社の人が、どこかへ案内して行きましたけど」
「どこへ?」
「知りません」
「応対したのは誰です?」
敦子は、ためらった。——大西の名を出したら、まずいことになるだろうか?
しかし、あの騒ぎになる前、大西はロビーにも顔を出している。
「私にはお答えできません」
と、敦子は言った。「会社の方へいらして下さい」
「いや、正面から訊《き》いたって、追い返されるだけですよ。あなたの目の前で何があったのか、うかがってるだけです」
「ですから、社員として、お答えしかねます、と申し上げてるんです」
「あんなに腹を決めて座り込んでいた人たちが、そう簡単に説得されたとは思えませんけどね」
「そう思われるのならご自由に。私、失礼します」
敦子は立ち上がった。
「お名前をうかがいたいんですが」
と、相手も椅《い》子《す》を動かして立った。
「どうしてあなたにそんなことを教えなきゃいけないんですか」
敦子は、その若い男をにらんでやった。
敦子とTV局の男のやりとりが耳に入ったのか、店の奥さんがやって来た。
「どうかしました?」
「いいんです」
と、敦子は首を振った。「ごちそうさま」
急いでレジへ行き、支払いをすると、敦子は店を出て歩き出した。
走るような勢いでしばらく歩いてから、振り返る。——あの男がついて来る様子はなかった。
むしゃくしゃしていた。せっかく、気持ちが落ち着いたところだったというのに……。
敦子は、嘘《うそ》をついた自分に、苛《いら》立《だ》っていたのだ。あんな言い方をしたかったわけではないのに……。
受付にいるのを撮られた時と同じだ。自分はあの長野から来た人たちに同情して、力になってあげられるものなら、と思っているのに、その逆のことをしなくてはならなかった。
今だって、敦子は何も大西をかばってやりたかったわけではない。それなのに、あの男に本当のことを言ってやるわけにはいかなかったのだ。
仕方ない。——仕方ないじゃないの。肩をちょっとすくめて、敦子は歩き出していた。
地下鉄の階段を上って、敦子は、ちょっと息をついた。
やっと、暑い時期は去って、まだ震え上がるような寒さはやって来ない。駅からアパートまで、十分の道が、長く感じられない、わずかな日々である。
七時を少し過ぎていた。——このまま帰れば、集会に充分間に合うのは分かっている。
しかし……。
今日は疲れていた。後のことなど考えず、ともかく何とかして乗り切りたい一日というものがある。今日は正にそういう日だった。
どこかで——といっても、時間を潰《つぶ》す喫茶店も、この辺りには、あまりない。
どうしようか、と思いつつ、横断歩道で信号の変わるのを待っていると、
「永瀬さん」
と、呼ばれた。
「あ、奥さん、どうも」
挨《あい》拶《さつ》しながら、観念した。アパートの、管理責任者をしている、水《みず》町《まち》の奥さんである。ここで一緒になってしまっては、寄り道して帰るというわけにもいかなかった。
「八時からだわね。お茶の葉がなかったんで、買って来たの」
「ご苦労様です」
「夕方になると、やっと涼しくてね。助かるわよ」
でっぷりと太った水町の奥さんは、言った。
信号は、なかなか変わらない。
何だか、敦子は急に疲れが出てきたようで、ちょっと息をついて、目を閉じ、指で目の間をきつく押さえた。ごく無意識の仕草だったのだが、水町の奥さんが、それに気付いて、
「疲れてるみたいね」
と言い出した。「一人暮らしって大変よね。私も若いころは何年か一人で住んでたから、よく分かるわ」
「そうですか」
敦子にはちょっと意外な話だった。この奥さんに若いころがあったとは——なんて、失礼な言い方だが、とても想像がつかない。
「——青になったわ」
二人は歩き出した。
アパートまであと少し、という所に来て、水町の奥さんが、言った。
「今夜は集まりを休んだら?」
敦子はびっくりした。いつもなら、ドアを叩《たた》いて呼びに来る人だ。
「でも……」
「風《か》邪《ぜ》気味で、って、私が言っとくわよ。あんまり顔色も良くないし。ね、早くお風《ふ》呂《ろ》へ入って寝た方がいいわ」
「ええ……。ちょっと、疲れてるんです。それじゃ——お言葉に甘えて」
「いいのよ。うちの主人も、何しろ他にすることなくて、暇なもんだから。みんな昼間は忙しく働いてくたびれてる、っていうのにね」
アパートへ着いた。
二階建ての、至ってクラシックな(つまり、古いということである)アパート。それでも、古い建物だけに、作りはしっかりしている。敦子の部屋は二階の二〇二である。
「——じゃ、すみませんけど、今夜は」
「はい、おやすみなさい。気を付けてね」
敦子は、トントンと階段を上りかけて、あんまり元気良く上っちゃまずい、と、わざと重い足取りにしたりした。今にも、あの奥さんの気が変わって、
「やっぱり出てよ」
と、呼びかけられるんじゃないか、と——。
なかなかのスリルだった。
部屋へ入っちゃえばこっちのものだ! 二階の廊下で、蛍光灯がチカチカと点滅している。もう一週間もこうだが、一向に取りかえてくれないのだ……。
鍵《かぎ》をあけ、中へ入る。ドアを閉め、ロックして、チェーンもかけて、それから上がると、真っ直《す》ぐに窓の所へ行って、カーテンをシュッと引く。
「やった!」
いやなことがありゃ、いいこともあるもんなんだ。あの奥さん、今日に限って、「働く一人暮らしの女性」に同情する気分になっていたらしい。
でも……。「いいこと」といってもこの程度、というのも、侘《わ》びしい話ではあった。