だめ! だめよ。寝ちゃだめ!
ちゃんと着替えて、スーツをハンガーにかけて、お化粧を落とし、お風《ふ》呂《ろ》にお湯を入れて——いえ、その前に朝食のお皿とかコーヒーカップが流しに転がってるのを洗って、それから洗濯物をたたんで……。
やるべきことをきちんと片付けてから、のんびりと寝転がれば、後が楽なんだから。一人暮らしでも、いえ、一人暮らしだからこそ、手順とか原則にこだわる。これが、「一人で強く生きて行く方法」なのである。
まあね、分かっちゃいるんだけど……。
で、結局のところは、というと、敦子、帰った時のままの格好で、畳の上に引っくり返っているのだった。——理想と現実は、かくもかけ離れているものなのである。
おまけに、苦しいからとて、ブラウスのボタンを二つ三つ外したり、スカートのファスナーをおろしたまま……。恋人(もしいたらだが)にはとても見せられないスタイル。
こういう時間は、何て早く過ぎて行くんだろう! あれもしなきゃ、これもしなきゃと思っている内に、三十分たってしまった。
すると、階段を上って来る足音。——誰だろう?
もしかして、水町の奥さんか、それともご主人の方が、やっぱり出てもらおう、ということになって呼びに来たのだろうか?
冗談じゃない! もう寝てます! 疲れ果てて、死んだように眠ってますよ。
敦子は、あわてて飛び起きると、部屋の明かりを消した。その拍子にスカートが落っこちて、足にからまり、みごとに転んでしまった……。
誰か分からない足音は、確かにこの部屋の前まで来て止まった。敦子は、じっと息を殺していた。チャイムが鳴っても、出るもんか、と決めていた。
——その誰かは、結局、チャイムも鳴らさずに、引き上げて行く。
「やれやれだわ」
と、呟《つぶや》いて、何だかおかしくなった敦子は一人で笑い出していた……。
しかし、それがきっかけになって、敦子はやっと行動を開始することができた。
低血圧の体質で、お風《ふ》呂《ろ》——それもかなり熱いお湯に、長くつかって目をさますのが第一。すべてはその後だ。
敦子は、お風呂が好きで、温泉にもよく行く。もちろん近場で、安上がりに行ける範囲ではあるけれど。
「いつまでもこうしていたい……」
熱いお湯に、顎《あご》までつかって、敦子は呟く。狭い浴室は湯気で真っ白だった。
同じセリフを、恋人の胸に頭をもたせかけるか何かして言ってみたいもんね、などと考えて、敦子は微《ほほ》笑《え》んだ。
いつのことやら……。
「リンス、リンス、リンス……」
別に、リンスのコマーシャルをやっているわけじゃない。
リンスが切れそうになっているのを、また忘れて、買って来なかったのである。
お風呂に入ると思い出すんだけど……。会社のお昼休み、誰かとお昼を食べて、おしゃべりなんかしていると、リンスのことなど忘れてしまうのである。
明日は買わなきゃ、というので、おまじないみたいに、鏡の前で、リンス、リンス、ととなえていたのだった。小さなホワイトボードを買って来て、なくなりそうな物を書いておくといいのだが、デパートへ行く度に、そのホワイトボードを買うのを忘れてしまうのである。それを忘れないように、どこへ書いときゃいいのだろう?
お風《ふ》呂《ろ》上がりで、バスタオル一つ、体に巻きつけて鏡台の前に座って、ドライヤーで髪を乾かしていると——ルルル、と電話が鳴り出した。
こんな時間にかけて来るのは、たいてい母親である。あとからかける、と言って、切ろう。
「——はい」
名前は名乗らないのが、一人暮らしの女性のマナーである。いたずら電話も多いからだ。
「永瀬君か」
母親でないのは確かだった。男だ。
「はい」
「大西だよ」
「あ——どうも。あの——こんな格好で」
つい言ってしまって、あわてて口をつぐむ。幸い、向こうがうるさい所にいて、聞こえなかったようだ。
「今日は大変だったね」
と、大西が少し大きな声で言った。「おかげで無事に終わったよ。社長や専務も喜んでいた。ご苦労様」
大分ご機嫌である。酔っているらしい。
「私は座ってただけですから」
「長野工場の連中もね、専務と話し合って、納得して帰った」
「そうですか。良かったですね」
敦子は、あのTV局の男に声をかけられたことを、話そうか、と迷った。しかし、大西の方が、
「ま、ともかくありがとう。じゃ、おやすみ!」
と、電話を切ってしまった。
敦子は肩をすくめた。——大西に報告するほどのことでもあるまい。それに敦子は大西の名前を出さなかったのだし。
あんな騒ぎになって、それでも丸くおさまったのなら、良かった。もちろん、あの組合員たちが、どんな形で「納得」したのかは分からないが……。
敦子は、派手に一つ、クシャミをした。
初めは十一時半ごろだった。
——敦子は、いつもならまだTVか何か見ながら、起きている時間だったが、今夜はやはり疲れていた。十一時ごろになると、眠くてたまらなくなり、布団ももう敷いてあるので、さっさと潜り込んで寝ることにしたのである。
スッと、引きずり込まれるように眠って、一番深い眠りに落ちたあたりに、電話が鳴り出したのだった。——敦子は、目をこじあけるようにして、布団から這《は》いずり出すと、明かりをつけて、受話器を取った。
「はい。——もしもし」
と、言ったつもりだが、果たして言葉になっていたかどうか。
「敦子?」
と、どことなく湿った感じの声が聞こえて来る。
「お母さん。どうしたの?」
母の千《ち》枝《え》である。
「どこかに出かけてたの?」
と、敦子の問いには答えずに訊いて来る。
「出かけてた、って……。私が?」
「さっきもかけたのよ。三十分くらい前」
「そう。眠ったばっかりで起きなかったんでしょ、電話の音ぐらいじゃ」
「今もずっと鳴らしてたのよ。どうかしたのかと思って心配になって——」
「眠ってたのよ。そう言ったでしょ」
と、敦子はため息をついた。
「じゃ、具合悪いわけじゃないんだね」
「今日はちょっと仕事が忙しくてね。疲れたから早く寝たの。でも、病気してるわけじゃないわ」
「それならいいけど……」
母とは生まれた時からの付き合いで(当然のことながら)、何か言いたいことがあるのは、すぐに分かった。しかし、肝心のことは、なかなか言い出さない人なのだ。
「どうしたの? お金は土曜日に送るわよ。今月、二十五日が日曜日だからね」
「そうね。そうしてくれると助かるわ。悪いね、いつも」
「そんなこといいけど……。何か用事なんじゃないの?」
「うん……。あのね——ちょっと帰って来れないかい?」
敦子は面食らった。
「帰って、って……。いつ?」
「すぐに。——無理かね」
敦子は、頭を振った。長くなりそうだ。
「待って。こっちからかけるわ。電話代もかかるし。一《いつ》旦《たん》切るから」
「すぐかけてくれる?」
「すぐかけるわよ。じゃあね」
受話器を置いて、敦子は頭をかきながら、
「全く、もう……」
と呟《つぶや》いていた。
母と長話をするには——大方は、愚痴を聞くことなのだが——心の準備が必要だった。
特に、こんなくたびれている夜には。
敦子は、ポットにまだ熱いお湯が残っているのを確かめて、ティーバッグでお茶をいれた。少し濃く出して、
「一杯で捨てちゃもったいない!」
と、アルミの包み紙の上にそっとティーバッグをのせておいた。
苦いお茶を、何口か飲むと、やっと、頭がはっきりして来る。もちろん、それでも母の愚痴に付き合うのに骨が折れることには変わりがない……。
敦子は、十八歳で高校を出ると同時に、九州、福岡から東京へやって来た。父の弟に当たる人が、小さな会社をやっていて、短大を出たら、そこで働かないか、と誘ってくれたのである。
叔父の家に下宿して、短大へ通い、卒業して、予定通りに勤め始めた。ところが一年もたたない内に、叔父が脳《のう》溢《いつ》血《けつ》で急死、会社はちょうど不況の折で、人手に渡ることになってしまった。
敦子は、アパートへ移り、短大の教授のつてで、今の受付の仕事に就いたのだった。アパートはそれから二回変わったが、ここにはもう四年以上、落ちついている。
本当なら、叔父の会社をやめた時、福岡へ戻っても良かったのだが、敦子としては、帰れば母がうるさく見合いをすすめるので、しばらくは一人でいたかったのだ。
ただ——敦子も、こんなに長いこと、一人で東京にいることになろうとは、思っていなかった。
「——さて、かけるか」
あんまり時間が空くと、また母がブツブツ言うだろう。あんなに愚痴っぽい人ではなかったのだが……。
飲みかけのお茶を傍《そば》に置いて、受話器を取る。
いきなり帰って来い、とは、何事なのだろう?
九州まで帰れば、飛行機代だけでも馬鹿にならないのだから。
「——もしもし、お母さん?」
「ああ。ごめんね、敦子。疲れてるんだったら、また明日でもかけようか?」
それはないでしょ! せっかく目を覚ましてかけてるのに。
「いいわよ。どうしたの? お父さん、具合が悪いの?」
「父さんは相変わらずよ」
と、母の千枝は言った。「暮れにかけて、飲みすぎないといいんだけどね」
「言ったって聞きゃしないわよ。寿《ひさ》子《こ》は元気?」
寿子は、敦子の五つ下の妹である。
「それがねえ……」
母の言葉が、急に重苦しくなった。
寿子のこと? 敦子にも、それは意外だった。
寿子も、高校を出て、福岡の市内で働いている。確か、法律事務所だかどこだかに勤めているはずだ。
堅い職場だし、もともとおっとりして内《うち》弁《べん》慶《けい》の寿子である。外では至っておとなしい。母も、めったに寿子のことで何か言って来たことはないのだが。
「寿子がどうしたの?」
と、敦子が言うと、母の千枝は、しばらくどう言ったものか迷っているようだった。
「困ってるのよ」
と、よく分かったことを言う。
「何なの? ちゃんとお勤めしてるんでしょ?」
「うん、そのお勤めがね……。困ったことになってね。お前、帰って来れない?」
母の口から、はっきり事情を聞くまでに、どれくらい通話料を取られるか、敦子は不安になって来た。
「ともかく話してみてよ。寿子、そこにいるの?」
「まだ帰らないの」
「まだ、って……」
もう十二時近い。——敦子にも、少し分かりかけて来た。
「寿子、恋人ができたのか」
「結婚したい、って言い出してね」
「そう……」
考えてみれば、寿子も二十三である。決して早すぎるという年齢ではない。
ただ——問題は、父がもう四年も、体を悪くして働いていないことで……。敦子が、ずっと東京で勤めを続けているのも、そのせいなのだ。今、敦子と寿子の二人の収入で、両親は生活している。敦子は、月給の中から、部屋代や食費など、かなりぎりぎりの線で抑えて、家に送金していた。
七年も勤めて、今の給料は決して悪くなかったから、敦子も、今の仕事をやめることはできなかったのである。
「それで困ってるのよ」
と、千枝はため息をついた。
確かに、今、寿子が結婚して、その分の収入がなくなってしまったら、敦子の送金分だけでは、とても父と母はやっていけまい。
「まあ、寿子だって年ごろだし。すぐ結婚したい、って言ってるの?」
と、敦子は訊《き》いた。
「うん。何言ったって聞かないの。帰りが夜中の一時二時になってね。ご近所でもすっかり評判で」
「相手の人は? 勤め先の人とか……」
「法律事務所のね」
「じゃ、何とかいう弁護士さんの所で働いてる人なのね」
敦子は、それなら悪くないかも、と思っていた。
「二人で働いて、何とか家にお金を入れるようにできないの?」
と、敦子は言った。
姉として、寿子のことは可《か》愛《わい》い。大分「先を越される」ことにはなるわけだが、いい相手なら、寿子の好きにさせてやりたい、と思った。
「私だってね、いい人なら、仕方ないと思うわよ」
母の千枝が、少し心外、という様子で言った。
「じゃ、知ってる人なの」
「その弁護士さんなのよ」
敦子は、ちょっとの間、母の言ったことが分からなかった。
「弁護士さん、って……。寿子の勤めてる所の?——だって、もう年なんじゃないの?」
「四十八歳よ」
と、千枝が言った。「お前、帰って来て、寿子と話してくれない?」
今度は敦子が、しばらく黙り込んでしまう番だった……。
次の電話が鳴った時、敦子はまだ完全に寝入っていなかった。もう一時を少し回っている。
「——はい。——もしもし。どなた?」
「ごめんね、こんな時間に」
敦子は、布団に起き上がって、息をついた。
「寿子か。いいのよ、まだ起きてたの」
と、できるだけ軽い口調で、「家からかけてるの?」
少し間があって、
「ううん。外から」
「どこ?」
「ちょっと」
静かである。公衆電話というわけではなさそうだ。
ホテルからだな、と敦子は思った。
「さっきかけたけど、お話し中だったから。お姉ちゃん、うちから電話だったの?」
「そうよ、お母さんから」
「じゃ……」
「聞いたわよ。やってくれるじゃないの」
と、敦子は言って笑った。
寿子が、ホッとするのが、気配で分かる。
敦子とて、妹に色々言いたいことはあるが、今、寿子は父と母、両方に責められているはずだ。追い詰めてはいけない。
「今、その弁護士さんと二人?」
「ううん。彼はもう帰った。私、一時過ぎないと帰らないの。お父さんと喧《けん》嘩《か》になるから……」
「そうでしょうね」
「お母ちゃん、何て言ってた?」
心細そうな寿子の声は、敦子の胸を熱くした。そこには、遠い「ふるさと」があった。
ここは、姉として、色々説教すべき場面かもしれない。
しかし——母親の千枝もそうなのだが——やはり妹には甘いのである。
「あんまり心配かけないのよ」
と、敦子は言ってやって、「その弁護士さん、まさか妻子もちじゃないんでしょうね」
「奥さんは四年前に亡くなったの。中学生の男の子が一人いる」
大変だ、そりゃ。何もまあ好んでそんな人と恋に落ちなくても、と思うが、世の中、そんなものでもないのだろう。
「帰って来い、って散々言われて、参ったわよ」
と、敦子は言った。
「帰って来る、お姉ちゃん?」
「そんなわけにいかないわ。そう簡単に休みは取れないわよ。飛行機代だって、馬鹿にならないしね。——ともかく、少し放っときなさい、ってお母さんには言っといたから。一時的にポーッとしているだけだったら、その内さめるし」
「そんなんじゃないわ」
と、寿子がムッとしたように言った。
「お母さんにそう言った、ってことよ。あんたも、妙に依《い》怙《こ》地《じ》にならないで。いい? お母さん、それでなくても落ち込みやすい人なんだから」
「うん……」
「ともかく、毎日帰りが夜中ってのは良くないわね。できるだけ早く帰るようにしなさいよ。それだけでもずいぶん違うんだから。顔を合わせたくないのは分かるけど」
「うん。——分かった」
「じゃ、ともかくまた……」
敦子は言いかけて、大《おお》欠伸《あくび》をした。
「ごめんね、夜中に」
「どういたしまして……」
敦子は苦笑した。「ま、ともかく頑張って」
何を頑張るんだかよく分からないが、ともかくそう言って、敦子は電話を切った。
「もう勘弁してよね……」
何があったって起きるもんか!
敦子は、体を丸めるようにして、ギュッと目をつぶった。
中途半端な時間に起こされたので、何だか目が冴《さ》えてしまって、眠れない。困ったなと思っている内に、敦子は寝入っていた。
電話が鳴っている。
また? まさか! いくら何でもそんなに……。空耳よね。きっとそうよ。
しかし、敦子は、それが現実に部屋の中で鳴っているのだということを、認めないわけにはいかなかった。
「誰よ、もう!」
やけ気味に、起き上がって時計を見ると、何と三時だった。敦子はため息をついた。
「もしもし」
敦子は思いっ切り不機嫌な声を出した。
夜中の三時に、一体誰が電話して来るんだ?
「もしもし……」
何となく遠い感じの、男の声だ。いたずらだろうか?
「どなたですか」
と、訊《き》いてから、敦子はふと思い当たった。「有田さん?」
「うん」
向こうがホッとしているようだ。
「びっくりした! どうしたの、こんな時間に?」
「いや、ごめん……。夜中に悪いと思ったんだけど」
「ねえ、どこからかけてるの? いやに声が遠いわよ」
「うん……。ちょっと、出先なんだ」
「こんな時間に? もう三時よ」
「分かってる。すまないと思ったんだけど——今言わないと、また言えなくなりそうな気がして……」
「どうしたの? 何だか変ね」
敦子は目をこすった。今夜は眠れない運命なのだろうか。
「うん。いや——ちょっとお願いがあって」
「私に? 何なの?」
「うん……」
「はっきりしないのね」
「そうじゃないんだ。はっきりしてるんだよ、僕の気持ちは」
「ええ?」
「結婚してくれないか」
——敦子は、コンコンと拳《こぶし》で頭を叩《たた》いてみた。これは現実? どうやらそうらしい。
「結婚て……私とあなた?」
「そりゃそうさ」
まあ、別の女性に結婚を申し込むのに、敦子の所へ電話はかけて来ないだろう。それにしても!
「ねえ、大丈夫なの? 酔ってる?」
「僕は真剣だよ」
と、怒ったような声を出す。
「あ、そう」
「本気だ。考えてみてくれないか」
「でも、突然そんな——」
「分かってる。でも、これからは、それを前提に付き合っていきたいんだ。どう?」
どう、と訊かれても……。
「考えとくわ」
と答えるしかない。
「うん!——言ってすっきりした!」
受話器を戻して、敦子は布団へ入った。それから、やっと頭の中の霧が晴れて来て……。今のはプロポーズだったんだ! どうしよう!
結局、敦子は翌朝寝不足でフラフラになりながら、出勤して行くことになった。