もちろん、〈K化学工業〉の受付にも、出入りの業者とか関連会社の客以外にも、色々な人がやって来る。
特に一階の受付に座っていると、結構面白い経験をすることがあった。表の道でお財布を拾った、と、届けて来たおばあさん。交番じゃないのだ。まさか受付で預かっておく、というわけにはいかない。
小学生の女の子が、トコトコとやって来て、
「パパがお弁当忘れたの」
と、受付に置いて行ったこともあるが、呆《あつ》気《け》に取られた久美江が、その子の名前を訊《き》かなかったので、結局、ビル全館に、
「お嬢さんがお弁当を届けて来る心当たりのある方は……」
と、放送するはめになった。
敦子も、入社して間もないころ、どう見てもヤクザ、という白スーツにサングラスの男たちが、四、五人も大挙してビルへ駆け込んで来るのを見て、真っ青になり、逃げ出しかけたことがある。そのヤクザの一人は、受付のカウンターをバン、と叩《たた》いて、
「姉ちゃん! トイレはどこや!」
と、大声で言ったのだった。
何か食べたものが悪くて、全員、ひどく腹を下していて、我慢し切れずに、通りかかったこのビルへと駆け込んで来たというわけだった。
——まあ、実際、世の中、色々な人がいるものなのである。
「やあ」
サンダルの音をたてながら、一階のロビーに入って来たのは、有田だった。
「もう一時十分よ」
と、受付に座った敦子は言った。
「あれ? 僕の時計じゃ十二時五十九分だよ」
「電池を換えたの?」
「面倒くさくてさ」
「時計ごと買い替えた方が安いわよ」
と、敦子は笑って言った。「今度、安売りを見付けて買っといてあげる。ほら、早く行きなさいよ」
「今夜は暇?」
「土曜日って約束したでしょ」
「その前はだめ、ってこともないだろ」
「忙しいんじゃなかったの?」
手もとの電話が鳴り出して、「ほら、行って、行って」
「じゃ明日は?」
相手にしないで、敦子は笑いながら受話器を取った。
夜中の三時に、有田が電話で、結婚してくれと言って来てから、一か月が過ぎた。
ということは、このロビーで、あの乱闘騒ぎがあってから、同じだけの日が過ぎた、ということでもある。
今でも、敦子は目の前のこのロビーで、あんなことがあったとは信じられないような気持ちになる。でも、事実、起こったのだ。
あの出来事も、今は社内で話題になることはなくなった。長野工場は、予定通り、年内一杯で閉鎖される。
組合員たちと、会社側との話し合いが、どんな結論になったのか、敦子は知らないし、組合の会合でも、そんな話は出ない。
ともかく——もう済んでしまったことなのだ。敦子は毎日、受付に座り、宮田栄子はあれ以来、腰が痛いと時々訴えているが、だからといって引退するつもりもないらしい。
そして、敦子に話しかけて来たTV局の男も、あれきり姿を見せなかった。結局、大した事件にもならずに終わってしまったので、企画そのものが立ち消えになったのだろう。
課長の大西は、また以前の通り、女子社員をからかっていたし、原久美江は恋人と突然約束を作っては、敦子に、
「一生のお願い!」
をくり返して、休みを代わったりしている。
一人だけ様子が変わった人間がいる。他ならぬ有田吉男だ。別に、敦子にプロポーズしたから、というわけでなく、配属変えになったのである。
今、有田は、大西の下にいる。つまり、組織上は敦子と同じ、総務一課である。
庶務から総務じゃ、あまり変わり映えしないが、しかし、このところ有田はかなり張り切って仕事に精を出しているし、大西も、目をかけていた。
有田が大西に気に入られたのが、あの出来事のせい、とは敦子は思いたくなかったが、事実はおそらくそうだったろう。でも——一生懸命働いてくれるのは、悪いことじゃないんだし……。
「やあ」
と、やって来たのは、管理主任の平山だ。
この男も、別に変わりなかった一人である。ただ、ほんの少し——。
「検査に行った?」
と敦子は訊《き》いた。
「ああ、いや……。つい、忙しくてね」
と、平山は、いたずらっ子のように肩をすぼめた。
「一度診てもらった方が……。疲れてるみたいよ」
実際、平山はこのところ時々休むようになっていた。
「まあ、そりゃいいんだけどね」
と、平山は咳《せき》払《ばら》いして、「ね、気が付いたかい? 表にいる女の子」
「女の子って?」
「さっきもこっちを覗《のぞ》いてただろう」
敦子も、平山にそう言われて、表の明るい通りをゆっくりと通り過ぎて行く少女に気付いた。そういえば確かに、十分ほど前にも通ったような気がする。
「平山さん知ってる子?」
「いや、全然」
と、平山は首を振った。
その少女が、このビルに用事があるのは、どうやら確かなようだった。
表を通り過ぎながら、その足取りはためらいがちで、よく見えない奥の方を、覗き込むようにしている。
「誰かを訪ねて来たって感じでもないわね」
と、敦子は言った。
「ここをホテルと間違えてるってこともないだろうしな」
平山が珍しく笑って言った。「おっと、電話が入るんだった。——じゃ、また」
「ええ。——あ、平山さん!」
「検査だろ! 分かってるよ」
と、手を振りながら、逃げるように行ってしまう。
「ちっとも分かってないじゃないの」
と、敦子は苦笑した。
まあ、自分がいざ、検査の必要あり、と言われたら、と考えると、逃げたくなる気持ちも分からないではないが。
客が入って来た。——それにくっついて、という感じで、表にいた少女が、ロビーに入って来る。
「——お待ち下さいませ」
敦子は、来客の用件を社内の相手に取り次いで、「ただいま参りますので、そちらの椅《い》子《す》でお待ちいただけますでしょうか」
と、言った。
そして、例の少女……。受付のカウンターからずっと離れた所で、声をかけられたらどうしよう、という様子。といって、かけてもらえなかったら、じっと立っていなくちゃいけないし……。そんな思いが見ていてよく分かる。
平山が、ホテルと間違えて、と言ったのは、その少女が、両手で大きなバッグを下げていたからだ。もとの色が何だったのか、もう分からなくなった、古いボストンバッグ。
見たところ、十六、七というところだろうか。背丈は敦子よりありそうだが、少しきゃしゃな感じ。
今学校へ行く途中、と言ってもいいような紺のスカート、白のブラウス、そしてはおったカーデガンも、黄ばんではいるが、白だろう。高校生には違いないと思ったが、ここに何の用事かは、一向に見当がつかない。
「ねえ」
敦子は、できるだけ優しい声で、呼びかけてみた。「何かご用かしら?」
少女が、逃げ出してしまいそうにした。こんなに優しく言ってるのに、と敦子は不満だったが、少女が、思い直した様子で、カウンターの方へ近付いて来るのを見て、ホッとした。
「すみません」
と、少女は、ちょっと頭を下げた。
「このビルの、どこにご用?」
と、敦子はその少女に訊《き》いた。
少女は、しばらく迷っていたが、
「——よく分からないんです」
と、言った。
ちょっとおかしいのかな、と思ったが、そうではない。本当に、どう話していいものやら見当がつかない、という様子だ。
「じゃ、ともかく、ここへ来たわけを話してちょうだい」
敦子が、少しリラックスして、カウンターに両《りよう》肘《ひじ》をつくと、少女の方も少し気が楽になったようだ。
「あの……」
と、カウンターに近寄って来て、バッグを足下へ置く。「竹《たけ》永《なが》といいます。竹永智《ち》恵《え》子《こ》。〈松竹〉の〈竹〉と、〈永久〉の〈永〉をかきます。あと、〈智《とも》〉と、〈恵む〉で……」
「竹永さんね。それで、ご用は?」
「あの……」
竹永智恵子は、ちょっと上目づかいに敦子を見て、思いがけないことを言った。「父を捜しているんです」
「——お父さん?」
「ここへ来たはずなんですけど、帰って来ないんです。みんな、知らないって——」
「ちょっと待って」
敦子は、竹永智恵子の言葉を遮った。「お父さんは、どういう人なの?」
「ここの社員です」
「社員——〈K化学工業〉の?」
「はい、本社じゃありません。長野工場で働いてます」
敦子は一瞬、胸をつかれた思いがした。
「そう……。お父さん、竹永……」
「竹永喜《き》市《いち》です。〈喜ぶ〉と、〈市場〉の〈市〉の字で——」
敦子は手もとのメモ用紙に、名前を書いた。
「お父さんは、いつここへ来たの?」
「もうひと月ぐらい前です——ひと月よりたったかもしれません」
「ここへ何のご用で?」
「父の勤めてる工場、今年で閉まるんです」
「ええ、聞いてるわ」
「みんな、他の仕事といっても、簡単に見付からないし……。組合の代表の人が、七人で抗議して来るからといって」
「その中にお父さんもいたの」
「はい。その日の内に、帰れないかもしれないけど、その時は電話するからといって……。でも、連絡はなかったんです」
「それで?」
「翌日の夕方、組合の人たちが帰って来たんですけど——父だけが戻らなかったんです」
と、竹永智恵子は言った。
「戻らなかった?」
敦子は、そう訊《き》き返していた。
竹永智恵子の話から考えて、父親の竹永喜市が、あの時ロビーに座り込んだ七人の中の一人だったことは確かなようだ。
しかし、あんな騒ぎはあったにせよ、結局は丸くおさまったはずで、全員、無事に帰ったとばかり、敦子は思っていたのだが。
「お父さんだけが戻らなかった、というわけ?」
と、敦子は念を押した。
「そうです」
かなり緊張しているせいか、少女の声は、少し上ずりがちだった。「帰って来た人たちに訊いても、何だか良く分からないんです」
「分からない、って……。一緒だったんでしょ、みんな?」
「泊まるのはバラバラだった、とか。親《しん》戚《せき》とか知り合いの家に泊まる人もいたり——」
「ちょっと待ってね」
敦子は、前の来客の用件を取り次いだ相手がやって来たので、一《いつ》旦《たん》話を止《や》めて、「あちらでお待ちです」
と、ロビーの椅《い》子《す》の方を手で示した。
すぐに電話も鳴る。ゆっくりと、竹永智恵子と話していられる状態ではなかった。
「——待ってね。あの時、お父さんたちに会った人を呼ぶわ」
「お願いします」
竹永智恵子は、ホッとしたように言って、頭を下げた。
「向こうの空いた椅《い》子《す》にかけてて。——あ、課長ですか。一階受付です」
大西がうまい具合に席にいた。
「永瀬君か」
と上機嫌な声。「君のフィアンセが十五分もさぼってたぞ。二人で時間のたつのも忘れてたのか?」
「冷やかさないで下さい」
敦子は少し赤くなった。「ビシビシ叱《しか》ってやって構いません。それより課長、今、受付に——」
敦子が竹永智恵子のことを説明すると、大西はしばらく黙ってしまった。ちょっと敦子が戸惑うほどの長い間だった。
「——課長。もしもし?」
「聞いてるよ」
と、やっと返事があった。「考えてたんだ。思い出したよ。確かあの中にいたな、そんな名前のが」
「娘さんが一人で来ていて……。ちょっと話を聞いてあげていただけませんか」
「うん。——いや、もちろんだ。今、どこにいる?」
「ロビーに座って……。上に行ってもらいますか?」
「いや、こっちが下りて行く」
と、大西は急いで言って、「ちょっと片付けなきゃいけないことがあるんだ。少ししてから行く」
と、付け加えた。
大西は、なかなか下りて来なかった。
敦子は、ビルの地階に入っている喫茶店に電話を入れて、ジュースをロビーへ持って来てもらうことにした。
「受付に寄って下さい。現金で払いますから」
と、敦子は言って、電話を切った。
すぐにウエイトレスの女の子がエプロン姿でジュースを持って来た。敦子は小銭入れから代金を払うと、
「私、持って行くわ」
と、席を立った。「後で下げに来てね」
あの少女、竹永智恵子は、ロビーのモダンなデザインの椅《い》子《す》で、いかにも座り心地悪そうにしていた。
「——待たせてごめんなさいね」
と、敦子はジュースをガラスのテーブルに置いた。「これ飲んでて」
「すみません」
と、竹永智恵子は頭を下げた。
客の来る様子はない。来れば、すぐに目に入るし。——敦子は、隣の椅子に浅く腰をかけて、
「一人で出て来たの?」
と、訊いた。
竹永智恵子が黙って肯《うなず》く。今日が平日だということに、敦子は気付いた。
「学校を休んで? あなた、高校生でしょ」
「二年生でした。——でも、通っていられないから……」
「どうして?」
敦子の問いには答えずに、竹永智恵子はジュースを一口飲んだ。
足音がして、振り向くと大西が小走りにやって来るところだった。
「や、すまん! 思ったより手間取ってね」
大西は、笑顔で、少女に向かった。「ええと——竹永君といったね。智恵子君か。お父さんのことは僕も前に会ったことがあるよ。よく働く人だった」
「あの——父が帰らないんです」
智恵子には、大西の弁舌も効果がないようだった。真っ直《す》ぐに大西を見つめて、
「父はどこに行ったんでしょうか」
と、訊《き》く。
「うん」
大西は、ちょっと言葉を捜している風で、「——聞かなかったのかね、一緒にいた組合の人たちから」
「聞きました。みんな、知人の所とかに泊まったけど、父はそういう知り合いがなかったんで、どこか適当に安い所を捜して泊まる、と言ってた、と……」
「うん。それで?」
「翌朝の時間を決めて、新宿駅で待ち合わせたけど、結局、父だけが来なかったんだ、って」
「で、それきり連絡は——」
「ありません」
と、智恵子は首を振って言った。
「なるほど、そりゃ困ったね」
と、大西は肯《うなず》いて見せたが、あまり同情している様子ではない。
「誰に訊《き》いても、分からないんです。みんないい加減で……。どこかに——女でもいるんじゃないの、なんてことまで……」
竹永智恵子の唇が細かく震えていた。今にも泣き出してしまいそうだ。敦子は、あの七人の中の、どの人だったのだろう、と思った。
「君の心配は良く分かる」
と、大西は言った。「しかしねえ……確かに、君のお父さんはここへ来た。うちの専務が、会社を代表して話を聞いたんだ。僕も同席してたがね。結局、今の我が社の状態を良く説明して、みんな納得してくれた。もちろん、うちとしても、工場の人たちが他の仕事を見付けられるように、精一杯のことはやる、という話をしてね。それから——僕も付き合って、飲みに出た。二時間ぐらいかな、みんなでビールを飲んで、焼き鳥なんかを食べて……。別れたのが、たぶん九時過ぎだったと思う。その後、またどこかで飲もうという人もいたし、明日は早く帰らなきゃ、という人もいたようだね。君のお父さんがどっちだったかは分からない。——僕はそこで別れてね。その後、どうしたのかは知らないんだ」
大西の話を、智恵子はじっと聞いていたが、両手は白くなるほど固く、ギュッと握り合わせていた。
「まあ……君にこんなことを言うのは、どうも……。しかし、工場を代表してやって来て、結局、何も手みやげなしに帰らなくちゃならなかったんだから、お父さんの気持ちも分かるよ。帰るのがいやで、こっちで何か仕事を見付けて、という気になったのかもしれないね」
大西の言葉は、無茶なものだった。家族に連絡も入れないということの説明にはなっていない。
智恵子の顔も固くこわばって来た。
「まあ、君の心配は分かるが、うちとしても、お父さんがどこへ行ったか捜すというわけにはね……。特に、お父さんはもう、その——」
と、大西が言い淀《よど》んだ。
「工場を辞めたことになってます」
と、智恵子が上ずった声で言った。「無断で三週間も休んだからって、だから——社宅も出なきゃいけなかったんです」
「会社の決まりだからね、それは」
「父に何かあったんです!」
と、甲高い声になって、「うちは、父と私の二人だけです。私に何も言わないで、どこかへ行くなんてこと、絶対にないんです」
大西は、困惑した様子で、首の辺りをさすりながら、言った。
「いいかね。そうだとしても、それは警察とかの仕事でね。そこまでして、君のお父さんを捜してあげるわけにはいかないんだよ」
智恵子が、震えそうになる顎《あご》を両手で挟んで、キュッと身を縮めた。
今にもワッと泣き出すのじゃないかと敦子は気が気ではなかった。
「あの——課長」
と、思わず身を乗り出して、「捜索願を出してあげたらどうですか。もちろん——」
そう言いながら、この東京で、蒸発同然に消えてしまった人間一人を捜すのが、容易でないことも、敦子にはよく分かっていた。
「もういいです」
と、唐突に智恵子が言った。「行ったって、何もしてくれっこないって……。そう言われてたから……」
「もちろん、何かこっちに情報が入ったら、知らせてあげるよ」
大西の言葉など、耳に入らない様子で、智恵子は、涙をためた目で、大西と敦子を、交互ににらんだ。
「お父さんは……あの工場ができた時から、ずっとあそこで働いてたんです。日曜だってほとんど休まないで。——それなのに、何もしてくれないんですね、会社って」
智恵子は、パッと立ち上がると、古ぼけたボストンバッグをつかんだ。そしてロビーを一気に駆け抜けると、自動扉が開くのにぶつかりそうになりながら、外へ出ていってしまった。
「——やれやれ」
と、大西は苦笑いした。「どうも女の子ってのには弱いな。すぐ泣かれる。かなわんよ」
「でも——どうしちゃったんでしょう、その竹永って人」
敦子は、少女の出て行った扉の方へ目をやりながら、言った。
「分かるもんか。世の中、いやになってフラッと姿を消しちゃう奴《やつ》は大勢いるよ」
「でも……」
「さて、出かけなきゃならん」
と、大西は立ち上がった。「永瀬君、有田君とはいつごろ式を挙げるんだ?」
「え?」
敦子は戸惑って、「分かりません。まだ——はっきりそうと決まったわけでも……」
「何だ、そうなのか? 有田君は、ぜひ仲人を、と言ってたぜ」
「まあ。勝手にそんなこと言って」
「二人でじっくり話し合ってくれ」
大西は笑って敦子の肩をポンと叩《たた》くと、エレベーターの方へ歩いて行った。
敦子は、何となく、大西が唐突に有田とのことを持ち出したという印象を受けた。
あの少女——竹永智恵子のことから、敦子の気をそらそうとでもするように。
しかし……あの女の子は、行方不明になった父親と二人だったと言った。社宅を出されて、では、どこへ泊まるつもりなのだろう?
敦子は、ロビーへ客が入って来るのを見て、急いで受付の席へと戻って行った。