「お疲れさん」
宮田栄子が、エレベーターの前ですれ違いながら、敦子に声をかけた。「そうだわ、ねえ」
「はい」
と、敦子は振り向いた。
ロッカールームへ行くところである。宮田栄子は、何か用事があるのだろう、もう帰り仕度も終えて出て来たのだ。
「今度の旅行、やっぱり無理?」
その話か。敦子は、申し訳なさそうに目を伏せて、
「ちょっと、今、妹のことで、ごたごたしてて……。もしかすると、一度帰らなきゃいけないかもしれないんです。すみませんけど」
「そう。いいのよ。——もし行けるようだったら、前の日でもいいから私に言って。どうせバス貸し切りだし、旅館の部屋は一人ぐらい、どうにでもなるしね」
「分かりました。今日は、学校ですか」
「そうなの。結構面白いもんよ。あなたもどう?」
「私の頭じゃとても。——行ってらっしゃい」
宮田栄子は、英会話の教室に通っている。
マンツーマンの、かなり月謝の高いクラスらしい。そのことを訊《き》いてやると気を良くするのを、敦子は承知していた。
「——疲れる」
ロッカールームのドアを開けて、敦子は呟《つぶや》いた。
十一月には、たいてい、休日の土曜日と日曜日を使って、課の旅行がある。紅葉を見に行って、温泉に入って……。もちろん、宴会のお酒やカラオケの騒ぎもかなりのものだ。
敦子は、温泉が好きだが、そんな所まで、気をつかう相手と行きたくない。しかし今回は宮田栄子が幹事というので、〈欠席〉に〇印をつけるのは、かなり度胸が必要だった。
今はもう入社七年もたち、課の中でも新人とは見られなくなったが、入って二、三年のころまでは、こういう旅行に参加しないと、昼休みなどに、会議室へ呼ばれて、先輩たちからやっつけられたものだ。
休みの日ぐらい、家で寝ていたい、と思うのが、どうしていけないんですか?——正面切ってそう言えば、今度は何と言われるか……。敦子はじっと口をつぐんでいた。
しかし、父が倒れて、仕送りを増やさなくてはならなくなってから、敦子は何と言われても、参加しないようになった。安いとはいっても、何万円かの出費は痛い。自分の中で、ちゃんと理由づけができるので、拒むのも平気だった。
それを何度もくり返すと、やがて、誰も敦子を無理に誘おうとしなくなる。——それでも、宮田栄子が相手では、断る時、つい胃のあたりがキュッと痛むのだった。
正に——疲れる、のである。
ロッカールームを出ると、敦子は、有田が上《うわ》衣《ぎ》を手に、廊下に立っているのを見て、
「どうしたの?」
と、声をかけた。
「やあ」
有田の笑顔は少しぎこちなかった。「待ってたんだ」
「私のこと? でも、仕事があるんでしょ?」
「うん、そりゃそうなんだけど……」
と、照れるように頭をかいて、「どうせ帰りは夜中になるし、晩飯は食べなきゃいけないからな。近くで一緒に、と思ってさ」
「そんなの、聞いたことないわ」
と、敦子は面食らって言った。「課長さんに怒られるわよ」
「いや、課長にそう言われたんだ」
「大西さんに?」
さっき、いつ、有田と式を挙げるのか、とか訊《き》いていたが……。しかし、大西がどうしてそんなに有田と敦子のことを気にするのか、不思議ではあった。
「君のいい所へ行こう。——どこがいい?」
「どこでも……。お金、あるの?」
「何だよ。君におごるくらいの金は持ってるさ」
「ごめん。傷ついた?」
と、敦子は笑った。
もちろん、有田におごってもらえば、夕食代も浮くし、それに敦子としても、有田といて、楽しくないわけではないのだ。
「じゃあ……。あの角の日本料理屋に行きましょ。丼《どんぶり》ものがおいしいわ」
値段と、有田のプライドのバランスを考えて出した結論だった。有田も心なしか(?)ホッとした様子で、手にしていた上衣に腕を通した。
エレベーターで一階へ降りると、平山が地下の駐車場へ行くところで、互いに声をかけ合った。
「——平山さん、少し具合が悪いみたい」
と、ビルの出口へ歩きながら、敦子は言った。「検査してもらったら、って言ってるんだけど」
「うん。そうだな。まあ、年《と》齢《し》も行ってるからね」
「でも、洋子ちゃん、まだ九つよ。当分はお父さん、頑張らないと」
正面の出入り口は、六時で閉まり、その後、退社する者は通用口になる。まだ五時半なので、二人は正面玄関から外へ出た。
「大分日が短くなったわね」
と、敦子は、黄《たそ》昏《がれ》かけたビルの隙《すき》間《ま》に目をやった。
ついこの間までは、ここを出る時も、青空だったのだ。——お父さん、頑張らないと。お父さん……。
そう。あの少女——竹永智恵子は、どうしたんだろう? 敦子は、つい左右へ目をやっていた。
「どうしたんだい?」
と、有田が言った。
「ちょっと——待って」
敦子は、地下鉄の駅へ向かって流れる人波と逆の方向へ、少し行って止まった。やはり、そうか。
「何だい?」
と、有田がついて来る。
「あそこに座ってる女の子——」
ビルと、歩道の間に、幅は狭いが植え込みがある。その陰に隠れるようにして、一段高くなったレンガの上に、竹永智恵子が腰をおろしていた。古ぼけたボストンをわきに置いて、膝《ひざ》をかかえるようにしながら、目は、足早に通り過ぎて行く勤め帰りの人々の、せわしげな足の動きを見ているようだ。
時々、チラッと少女の方を見て行く人もいるが、声をかけようとする者はない。——みんな忙しいのだ。
そして、他人のことには係《かか》わり合いたくない。自分のことだけで、手一杯だからね……。
「あれが、何とかいう、長野工場の?」
「聞いたの?」
「課長が言ってた。行こう。どうしようもないじゃないか」
「そりゃそうだけど……」
敦子はためらったが、ではどうしたらいいのか、ということになると、考えがあるわけでもない。結局、竹永智恵子に背を向けて、有田と一緒に歩き出したのだった……。
「——ね、お茶もう一杯」
と、有田が声をかける。
「おいしかった」
敦子は割りばしを置くと、「ねえ、有田さん」
「何だい?」
「あなた——課長さんに仲人まで頼んだ、って、本当?」
「ああ。一緒に飲んでる時に、そんな話が出てね。まずかったかい?」
有田が、ちょっと上目づかいに敦子を見る。その様子はなかなか「可《か》愛《わい》い」。もちろん、可愛い、なんて言ったら、有田はふくれるだろうが。
「だって……。そりゃあ、あなたとは結婚を意識したお付き合いをしてるし、軽い気持ちでいるわけじゃないわ。でも、私、そうすぐには結婚できない立場なのよ。分かってるでしょう?」
「うん。いや、僕だって別にせかせるつもりはない。ただね……」
と、言いかけてためらう。
「私が二十八だから?」
「まあ……それもある」
「私だって、できることなら、今すぐにでも、と思わないこともないわ。でも、今の仕事をやめるわけにはいかないし」
と、敦子は穏やかに言った。
「君の事情は良く分かってる」
有田はそう言って、お茶をガブガブ飲んだ。——よくお茶を飲むのである。
「今は妹のことが落ちつかないとね。もし妹が家を出ることになったら、父と母がどうするか……」
このひと月、妹の寿子と、問題の弁護士の間は、かなり進んでいるらしい。母は半ばあきらめているようだが、父は怒って寿子と口もきかないという。
手紙と電話のやりとりだけだが、妹が、四十八歳の弁護士の後妻になる覚悟は、かなりのものと見えた。
寿子が結婚したとなると、敦子としては、経済的にどうやりくりして、父母に送金すればいいか、頭をひねらなくてはならないが、その弁護士が、父母の面倒はみる、と寿子に約束しているらしい。ただ、父の方が今のところは、それを絶対に拒むに決まっているのが問題だった。
いずれにしろ、年の暮れまでに、何か結論が出るだろう。一度は敦子も向こうへ帰らなくてはならないかもしれない。
「ともかく」
と、敦子は微《ほほ》笑《え》んで言った。「今年一杯は返事を待ってよ。ね?」
「約束だよ」
と、少し情けない声を出す。
そんな有田を見ると、敦子は、この人と結婚して、「姉さん女房」でいばってるのも、結構楽しいかもしれないな、と思う。しかし、今、敦子はまだ有田との付き合いに、のめり込まないようにしていた。
万が一、妹と父母の間がこじれたりしたら、敦子一人で、両親をみることになりかねない。——そうなれば結婚どころではないし、有田に、いつになるかもしれない日まで待て、とは言えない。
だから、意識的に敦子は有田に頼り切ることがないようにしていたのだ。
「——今度の旅行、あなた初めてでしょ」
敦子は話題を変えた。「うちの課は、絶対に歌わされるのよ。覚悟してる?」
「歌はなあ……。勘弁してほしい」
まれに見る音痴の有田は、頭をかかえて、悲しげな声を出した。敦子は、思わず笑い出してしまった……。
外へ出ると、もちろんもう真っ暗で、一時間もかけて食事していたことになる。
「——大西さんに、私がおしゃべりしてたから、遅くなった、って言うのよ」
「平気さ。課長が言い出したんだから。じゃ気を付けて」
「また明日」
有田は歩き出して、振り向くと、
「明日は金曜日だね」
と、敦子に訊《き》いた。
「金曜日よ。どうして?」
「明後日《あさつて》は土曜日! デートだよ! 忘れないでくれよ」
敦子は笑って、
「忘れやしないわよ」
と、手を振った。
有田が弾む足取りで会社の方へ戻って行くのを見送って、敦子はちょっと息をついた。
——有田は年齢の割にも、若い。生活の苦労というものを、ほとんど知らないのである。
その無邪気さ(?)が、敦子には羨《うらや》ましくもあり、いささか頼りなくもあった。
さて。——帰るか。
だが、何となく、「真っ直《す》ぐ帰らない夜」というのは、もう少し、もう少し、と足が向くもので、敦子も、
「辛いものを食べたから」
と、理屈をつけて、ケーキの店に寄って小さな甘味を抑えたケーキを食べて行こう、と思った。
まるで高校生ぐらいの女の子みたいね、と自分でもおかしくなる。
明るいケーキの店の中へ入ろうと扉の前まで来て、敦子は思い出した。
あの女の子——竹永智恵子は、どうしただろう?
もう七時近い。いくら何でも、まだあそこに座ってるってことはないだろうが……。
気にしたって仕方ない。何をしてやれるわけじゃないんだから。——放っておくしかない。
自動扉が開く。
「いらっしゃいませ」
ウエイトレスの女の子の声がした。
敦子は、回れ右をして、会社のビルへと歩き出していた。
——正面の入り口は、もうシャッターが下りている。道を行く人の数も、ずっと少なくなっていた。
竹永智恵子は、まだあのレンガの上に、腰をおろしていた。
ずっと手前で足を止めて見ている敦子のことには、全く気付いていない。いや、もう暗いから、よほどそばに行っても、それとは分からないだろう。
すると——智恵子が立ち上がった。
スカートを手で払うと、ボストンバッグを手に、まるでたった今、眠りからさめた、とでもいう様子で、左右へ目をやる。
そして、敦子が立っている方へ向かって、ゆっくり歩き出した。——そう。もちろん、敦子は制服も着ていないし、暗いのだから、たとえすれ違っても、向こうには分かるまい。
それでも、智恵子が近付いて来ると、敦子は我知らず歩き出していた。目を伏せて、智恵子がこっちに気付くかどうか、うかがいながら。
智恵子は、敦子の方に目も向けず、すれ違って行った。
敦子は、歩いて行く智恵子の後ろ姿を、じっと見送っていた。
もちろん、どこかに親《しん》戚《せき》とか、知り合いの人ぐらいはいるのだろうし……。敦子には、どうしてやることもできないのだ。
智恵子の足取りは、ゆっくりしていた。道が良く分からないというだけではなく、どこへ行ったらいいか、迷っている様子だ。
敦子は、しばらくためらっていたが、ボストンバッグを重そうにさげた少女の黒い影が、見えなくなりかけると、ほとんど無意識の内に、その後を追って、駆け出していた……。
「——じゃ、東京に知ってる人って、全然いないの?」
呆《あき》れて訊《き》くと、竹永智恵子は黙って肯《うなず》いた。口の中は、ピラフで一杯だったのである。
「そう……」
近くの食堂へ、ともかくも少女を連れて行って、何か食べさせることにしたのだった。
——その食ベっぷりからすると、今日一日、ほとんど何も食べていなかったようだ。
水をがぶ飲みして、息をつくと、
「お腹《なか》が痛い」
と、顔をしかめる。
「急に食べるからよ」
と、敦子は笑ってしまった。「お昼も抜きだったの?」
「はい」
と、素直に肯いて、「列車の中で、あられを食べただけです」
「それじゃ、お腹も空くわよね。ゆっくり食べて。私は別に急いで帰る必要もないから」
と、敦子は言った。
「——父は、広島の出です」
と、智恵子は言った。「被爆で、親《しん》戚《せき》のほとんどが亡くなって……。父だけは、何か用事で広島を離れていたんです。それで、うちは、ほとんど親類とかいないんです」
「そうなの」
敦子は肯《うなず》いた。「お母さんは亡くなったんだっけ?」
「五年前です。母の方もあんまり身寄りのない人で……。いつも父は、私に、『長生きしなきゃな』って言ってました」
「家のことは、あなたが?」
「ええ。小さな社宅だから、そうやることってないんですけど——」
と、言いかけて、「もう出ちゃったんだから、なかった、って言わなきゃいけないんですね」
と、言い直した。
五年前から、といえば、この少女はまだ十二、三だろう。敦子は、自分のような一人暮らしでも、いい加減くたびれるのに、とため息をついたのだった。
竹永智恵子が、ともかくピラフを食べ終わるのを待って、敦子は紅茶を頼むと、
「じゃ、あなたどこへ行って泊まるつもりだったの?」
と、訊《き》いてみた。
智恵子は戸惑い顔で、
「どこか——安いホテルでも。東京なら、何かあるだろうと思ってたんです。出て来たの初めてだから……。こんなにややこしい所だなんて!」
いかにも、その言い方には実感がこもっていた。
「そりゃ、安く泊めてくれる所はあるでしょうけど、あなたのような女の子一人じゃ、断られるわ、きっと」
「そうですか?」
「工場の、お父さんのお友だちの家とか——。どこか、親しくしているお宅に泊めてもらうわけにはいかないの?」
智恵子は、ちょっと目を伏せた。敦子は、
「話したくなければ、無理に言わなくていいのよ」
と、優しく言った。
「いえ……。思い出す度に、悔しくて、泣きたくなっちゃうんです」
と、少し気《け》色《しき》ばんで、「長いこと、本当に仲良く付き合っていた家のおばさんとかが、急に口もきかなくなって……」
「どうして?」
「父がいなくなったのを、初めの内は心配してくれたんです。近所の人たち——同じ社宅の人たちですけど、一緒に地元の警察へ行ってくれたりして」
「当然よね」
「でも——十日くらいたって、急にガラッと雰囲気が変わって」
「何があったの?」
「誰も教えてくれなくて、ずっと分からなかったんです。——学校で仲のいい子が、そっと教えてくれました。噂《うわさ》が広まったんです。父がいなくなったのは、本社で、別の工場のいい仕事に回してもらう約束をしてもらったからだって」
「誰がそんなことを?」
「分かりません。——閉鎖で、みんなが困ってるのに、父一人が、そんな風に優遇されてると分かったら、みんなが怒るでしょう。だから、私も、分かっててお芝居してるんだって……」
「でも、あなたを放っといて、一人でよそへ行っちゃうなんて」
「だから、新しい職場で、私を呼べるように準備してるんだっていうんです。——父は、一人だけ抜けがけして、いい思いをするような人じゃありません」
と、智恵子は強い調子で言った。
妙な話だ、と敦子は思った。七人で本社へ行って、一人だけが、そんな扱いをされるはずがないではないか。
紅茶が来て、敦子は、ゆっくりとそれを飲んだ。
内心、かなり動揺もしていたのである。もう忘れかけていた、一か月前の、あの悪夢のような出来事を、思い出していたからだ。
「一緒に本社へ行った人たちは、何と言ってるの?」
と、敦子は訊《き》いた。「もちろん、その人たちには、お父さん一人が、そんな扱いをされるはずがないってこと、分かってるわけでしょう」
「そうだと思うんだけど……」
と、智恵子は、気が重そうに、「それこそ、その六人の人たちは、全然言ってもくれません」
「どうして?」
「よく分かりません。ともかく、初めに、父一人が帰りの集合場所へ来なかった、ということを教えてくれただけで……。私、父のことで、あんなでたらめを言い出したの、あの人たちじゃないかと思ってます」
智恵子の疑いは、直感的なものだろうが、しかし、敦子にも何となくそう思えた。——いずれにしても、噂《うわさ》というのは、反論する相手が見えないだけに、たちの悪いものなのだ。
「それに」
と、智恵子は、続けて言った。「父と一緒だった六人の内、二人はもう町にいません」
「どこへ行ったの?」
「よく知りませんけど……。ともかく、何か他の仕事を見付けた、とかで、引っ越して行ったんです」
それは別に不思議なこととは言えない。誰だって、自分の家族を養うために、必死であらゆるつてを辿《たど》っているに違いない。
「——あの」
と、智恵子は、少しためらって、「どうして、私のこと、気にしてくれるんですか」
敦子も、どう答えたものか、よく分からなかった。
「そうね……。別に、大したことじゃないわよ。やっぱりあなたみたいな女の子が一人で、どこへ行っていいかも分からずにいるのを、放っておけないじゃないの」
敦子の説明で納得したのかどうか、智恵子は少し冷めた紅茶を、ホッとしたように飲んでいた。
「お父さん、どんな人?」
と、敦子は訊《き》いた。
本当は、それを会った時から訊きたかったのだ。智恵子は、
「写真があります」
と、バッグから、定期入れを出して、「これ……去年撮ったやつです」
父と娘の、スナップ。運動会だろうか。
敦子は、その写真の男を、しばらく見つめていた。