電話が鳴り出して、敦子はふっと我に返った。
十一時をすこし回っている。誰からだろう?
「はい」
「あ、お姉ちゃん?」
妹の寿子である。敦子は少しホッとした。声の調子で、泣きごとを言って来たのではないと分かる。
「何だ。どうしたの?」
「遅かったのね、今日」
「そう? 三十分くらい前に帰ったのよ」
「そのころも、かけたんだけど。じゃ、ちょっと前くらいだったんだね」
「らしいわね。どうしたのよ、楽しそうな声出して」
「分かる?」
「分からないでどうするの。今にも歌でも歌い出しそうな声よ」
と、敦子はからかってやった。「どうしたの? 今、例の弁護士さんと二人なの?」
「今はちゃんと家から」
「そうか、前にはホテルから平気でかけて来たくせに」
「あれ、知ってたの?」
「私だって、あんたの思ってるほど世間知らずじゃないわよ」
「じゃ、あの人——何だっけ、有田さんとかいう人と、ホテルに行くの?」
「行かないわよ。こっちはね、ともかく忙しいの。何か用事だったんじゃないの?」
「十一月のさあ、二十一日って、お姉ちゃん、暇?」
「十一月二十一日? 何よ、それ?」
「私の結婚式」
寿子がそう言って、照れたように笑った。
「ちょっと——ちょっと待ってよ」
敦子が唖《あ》然《ぜん》としたのも当然だろう。
「ともかく、そういうことになったの」
「寿子、あんた……。今年の十一月?」
「一年も待ってらんないわ」
「だけど……お父さんとお母さんは?」
「渋々、承知してくれた。今夜ね、彼がうちへ来て、話してったの。それで納得してくれて」
これは敦子には驚きだった。あの頑固な父が、よくコロッと気を変えたものだ。
まあ、しかし——考えてみりゃ、寿子の彼氏は弁護士だ! 弁舌巧みなのは当然かもしれない。
「お姉ちゃん、喜んでくれないの?」
と、寿子は心外という声を出す。
「おめでと」
「心がこもってない」
「馬鹿。何よ、散々夜中に長電話で愚痴を聞かせといて。ともかく、良かったね」
「うん」
と、寿子は、弾んだ声で言った。「来年の春には、お姉ちゃん、『おばさん』だからね」
なるほどね。そういうことか。
「何月なの、予定日は?」
「五月の初めくらい。でもね、結婚を許してもらうために、作ったんじゃないのよ。成り行きなの」
「何が成り行きよ」
聞いちゃいらんないわね。——敦子は、メモ用紙を持って来て、
「二十一日? 時間と会場は?」
と、メモを取った。「よく空《あ》いてたわね」
「仏滅だもん、その日」
「そうか、あんたの彼氏って、何ていうんだっけ?」
「手紙に書いたでしょ。山《やま》下《した》輝《てる》男《お》」
「山下さんか。私が帰る飛行機代、持ってくれる?」
「私が出すの?」
「ボーナス前よ。こっちは厳しいんだからね。それくらい出しなさい」
これぐらいのことは言ってやらなきゃね。でも——敦子も嬉《うれ》しかったのだ。
もちろん、年齢の離れた夫、中学生の男の子、という家庭なのだから、色々と苦労もあるだろうが、寿子は、そう個性の強い子ではないので、却《かえ》って昔から、たいていの人には好かれる子である。その点は敦子の方が少し頑固で、父親に似ているのかもしれなかった。
「——ともかくおめでとう」
「うん、詳しいことは手紙に書くわ」
「ハネムーン、行くの?」
「うん。オーストラリア」
敦子は、引っくり返りそうになってしまった……。
電話を切って、何とまあ呑《のん》気《き》なもんだ。——下の子っていいわね。長女としては、ついため息の一つも出るのだった。
「あの——」
と、声がした。
振り向くと、お風《ふ》呂《ろ》を出た竹永智恵子が、パジャマ姿で立っている。
「熱すぎなかった? 私、いつも熱いのに入るから」
「いいえ。うちも、私も父も熱いお風呂が好きでしたから」
ほてって、頬《ほお》が真っ赤だ。見ていて、思わず敦子も微《ほほ》笑《え》んでしまうほどだった。
「ドライヤー、その鏡台の所に——。お布団が、ほとんど出したことないから、冷たいかもしれないけど、我慢してね」
「ええ。どうもすみません」
智恵子は、敦子の前に、きちんと正座すると、「今夜だけ、お世話になります。明日、何とか泊まる所を捜しますから」
「いいから、早く寝て。疲れてるでしょ。私長風呂だから、眠ってていいのよ」
「はい」
智恵子は素直に肯いて、ピョンと頭を下げ、「おやすみなさい」
と、言った。
——敦子は、熱いお風《ふ》呂《ろ》につかって、フーッと息をついた。
こっちが近くの温泉にも行かずに仕送りしてるっていうのに、寿子はオーストラリア、ね……。ま、勝手にやってよ。
しかし、差し当たり、寿子の方の問題はほぼ片付いたわけだ。その代わり、といっては変だが、結局、竹永智恵子をここへ連れて来てしまった。
放り出して来るわけにもいかなかったのだ。何といっても、まだ十七の女の子。夜の町をふらついていたら、補導されるか——いや、妙な連中に捕まらないとも限らない。
まあ、今日一晩だけ、というわけにはいかないだろうが、二、三日の内には、智恵子も学校の先生にでも連絡して、どうするか相談したい、と言っているから……。
あの、智恵子の父親の写真を見た時、敦子は自分の直感が当たっていたことを知ったのだった。
智恵子の父、竹永喜市は、あの時、七人のリーダー格で、敦子につっかかる仲間を抑えてくれた男だったのである。
そして乱闘騒ぎの時、有田は竹永喜市を放り投げ、円柱に頭を打ちつけた竹永は、意識を失ってしまったようだった……。
その竹永が、翌日、帰りの集合場所に現れなかったというのだ。——どういうことなのだろう?
頭を打っていた、というのが、敦子は気になったのだ。あの後、専務の国崎が組合員たちと話した時、竹永はその場にいたのだろうか?
一《いつ》旦《たん》、良くなったように見えて、当人も平然としていても、後になって突然倒れる、ということもある。特に、頭を強く打っているのだから……。
あの夜、七人の組合員が別々に泊まって、竹永は、東京に知人もないらしいから、どこか安いホテルにでも泊まったのかもしれない。そこで、容態が急変したとしたら……。
身《み》許《もと》もよく分からないまま、どこかへ入院してしまったことも考えられる。
——どうしたものだろう?
敦子は、考え込んだ。
大西は、あてにならない。あの時、大西は竹永と話していた。互いに見知っていた様子だったのだ。
それなのに、智恵子が訪ねて来たことを知らせた時、
「そんな名の男もいたな」
と、言っている。
おそらく智恵子の名を聞いて、すぐに思い当たったのだろうが、そうは言いたくなかったのに違いない。ということは、大西に相談してもむだ、ということだ。
でも、放っておくわけにはいかない。
敦子は、あれこれ考えすぎて、さすがにのぼせてしまった。
目覚まし時計が鳴り出した。
敦子は、布団の中から手を伸ばして、時計をうまく捕まえた。全然見なくても、ちゃんと手が時計の場所を憶《おぼ》えている、というのは、大方の勤め人なら同様に持っている「特技」だろう。
ベルを止めて、さて、起きなきゃいけないんだわ、と自分へ言い聞かせる。今は、真冬や真夏に比べれば、ずっといい季節で、起きるのも楽なはずだが……。まあ、理屈通りにはいかないものである。
お隣の家のミソ汁が、ずいぶん匂《にお》って来るわね、と敦子は思った。窓が開いてたのかしら? まさか。
空腹を刺激してくれること。——敦子は欠伸《あくび》しながら、ゆっくりと頭を上げた。
「おはようございます」
突然声がして、敦子はびっくりして起き上がった。まだ部屋はカーテンが引いてあって、薄暗いが、台所だけ明かりが点《つ》いていて、竹永智恵子が敦子のエプロンをつけて、流しに立っている。
敦子は、すっかり目が覚めてしまった。
「あなた……もう起きたの?」
「くせで、いつも目が覚めるんです。——あ、まだ寝てらして下さい。もう少しかかりますから」
低血圧の敦子は、あまり勢いよく起きると、貧血を起こすことがあるので、少し寝床でぐずぐずすることにしていた。しかし、智恵子が起き出しているのに、まさかゴロゴロしてられやしない。
「そんなこと、しなくていいのよ」
「でも……。お世話になったんですから」
「へえ、義理固いのね」
「いつも父のお弁当をこしらえてましたから、慣れてるんです」
めったに使わない電《でん》気《き》釜《がま》が、シューと蒸気を吹き出している。
「ご飯まで炊いたの? お米ってあったかしら? 少し古かったかもしれないわよ」
「表に行って買って来ました」
「買って来た?」
「といでから、時間がなかったんで、少し固めのご飯かもしれませんけど」
「そんなのいいけど……」
「おミソ汁の具はお豆腐とワカメだけですけど。あと、干物を買って来ました。煙が出るけど」
二十四時間開いている店も、確かにこのへんにはある。しかし、どうも敦子としては、立場がない感じである。
じゃ、まあともかく……。顔でも洗いますかね。
顔を洗って、服を着ると、ちょうど、干物も焼き上がって、おいしそうな匂《にお》いが、狭い部屋の中を満たしている。
「今、お茶をいれます」
と、智恵子は微笑して言った。
きっとご近所がびっくりしてるわね、と敦子は熱いご飯を食べながら、思った。
一体どういう心境の変化かと目を丸くするに違いない。
「ねえ、あなたも食べたら?」
と、敦子は言った。「一人じゃ食べ辛いわよ、私」
「はい。ちゃんと干物も焼いてますから」
智恵子は、自分で、小さな茶《ちや》碗《わん》にご飯をよそった。
「何だか、旅館にでも泊まった気分だわ」
と、敦子は笑った。「あなたって、たいしたもんね」
「誰だって、慣れれば」
と、智恵子は、少し照れて言った。
「私にも妹がいるけど、こんなこと、できないんじゃないかしら」
「ゆうべ、お電話してらした……」
「そう。今度結婚するの。でも、どうせ何もできない新妻ね」
「うちだって、母がいるころは、私、何もしませんでした」
と、智恵子は言った。
食べるのが早い。きっと、後の片付けもしなくてはならないので、自然に早く食べるようになるのだろう。
「買い物のお金、どうしたの?」
ふと気付いて、敦子は訊《き》いた。
「父の退職金、持ってますから。大したことないけど、当分は何とか——」
「いけないわ。後でちゃんと払うから」
「泊めていただいたんですから」
「お金を取れるような高級マンションならともかくね」
と、敦子は苦笑した。
「あの」
と、智恵子はおずおずと、「買い物して戻る時に、アパートの人が、出かけるのと会っちゃったんです」
「そう、そんなに早いのは……。長い顔した人?」
「ええ、そうです。髪の半分白い」
「一階の高《たか》瀬《せ》さんだわ。何か言ってた?」
「おはようございますって挨《あい》拶《さつ》して、何だか不思議そうな顔で見るんで、つい、私——」
「何て言ったの?」
「こちらの親《しん》戚《せき》です、って。すみません、勝手なこと」
「いいのよ。それが一番無難でしょ」
と、敦子は言った。「娘です、じゃちょっとショックだけど」
智恵子が、軽く、弾《はじ》けるような声で笑った。それは、敦子が遠い昔によく友だちの間で耳にした声だった。
「今日は、どうするの?」
と、敦子は訊《き》いたが、すぐに付け加えた。「別に、早く出てくれ、って言ってるわけじゃないのよ。疲れていたら、ゆっくりしてればいいし……」
妙なものだ。本当なら、縁もゆかりもない少女である。ここに置くいわれもないのだが……。
あの事件のことは、智恵子も知らない。どうして敦子が、ここにいていい、と言うのか、不思議だろう。
「ともかく、こっちへ来てる友だちとか、捜してみようかと思ってます。学校の先生にも、電話を入れないと」
「そうね。でも、泊めてくれる人って、なかなか」
「分かってます」
と、智恵子はお茶を、残ったご飯にかけながら、「どこか、住み込みで働ける所を捜しますから」
「でもね、あなたまだ十七でしょ? もし、良さそうな仕事があるな、と思っても、勝手に決めちゃだめよ。必ず私に言って。分かった?」
「はい」
「人を騙《だま》すのが商売ってのも沢山いるんだから。もし、何なら、私が仕事を捜してあげる。あなた一人じゃ、危ないわ」
何もそこまでしなくても、と自分では思うのだが、ついこんな言葉が出てしまうのは、長女意識というものなのだろうか。
「——あ、もう行かないと」
敦子は、鏡台の前に行って、ごく簡単に化粧を済ませた。
「悪いわね、片付けが——」
智恵子がいない、と思ったら、玄関で敦子の靴を拭《ふ》いている。
「ちょっと! 安物の靴だから、こすると穴があくわ」
いくら何でも……。しかし、何ともむずがゆいような気分である。
「じゃ、何かあったら、会社へ電話して。電話のそばに書いてあるから」
「はい」
「あ、これ——ここの鍵《かぎ》」
と、引き出しからスペアの鍵を出して来る。
「出かける時はかけてね」
「行ってらっしゃい」
——送り出されるってのは、妙な気持ちである。
考えてみれば、見も知らぬ女の子に、鍵まで預けて。大したお金も置いていないが、通帳も印鑑も引き出しの中。
でも、敦子は、明るい気分だった。足取りも軽く、歌でも歌い出しそうだ。
アパートを出ると、一階の例の水町の奥さんが、表をはいている。
「おはようございます」
と敦子が声をかけると、
「おはよう」
と顔を上げて、「親《しん》戚《せき》の娘さんがみえてるんですって?」
敦子は情報の早さに驚きながら、
「ええ、何日かいると思います」
と答えていた。
本当に——何を考えてるのよ。
敦子は、いつも通りに超満員の地下鉄に揺られて会社へ向かいながら、思っていた。
寿子は結婚するし、両親の面倒だって、まだ当分はみなくてはならないだろうし……。赤の他人をアパートへ置いてやる余裕なんて、どこを捜したってありはしない。それなのに……。
地下鉄の混雑は、相変わらずひどい。これから寒くなると、ますます厚着になって、混雑の度も増すのである。
時には、人の圧力で、窓ガラスが割れることさえある。あの厚さのガラスが。——人間の体って、丈夫にできてるんだ、などと、妙なところで感心したりして……。
誰だって、うんざりして、そして諦《あきら》めている。じっと目を閉じて、無我の境地って人もいる。
実際、立ったまま眠ったって、こうもびっしりと人が詰まっていると、倒れる心配はまずない。敦子も、眠りこそしないが、目をつぶっていることが多かった。
たまには、何かの拍子でガラ空きの電車が来て、座ってのんびり行ける、なんてことはないかしら。——勤めている人間なら、誰だって、そんなことを一度は考えるだろう。
しかし、もし本当にそんなことがあったら……。喜ぶよりも、不安になって、落ちついて座っていられなくなるのではないか。
勤め人は——男も女も関係なく——今日も昨日と同じで、明日が今日と変わりない、ということを前提にして生活しているのだ。
敦子が、あの竹永智恵子のために、何かしてやりたいと思っているのは、一つには、あのロビーでの乱闘事件を自分が目撃していたからなのは、言うまでもない。でも、それだけではなくて、この同じ毎日の中に飛び込んで来た「厄介ごと」に、どこか爽《さわ》やかな驚きを覚えていたからでもあったのだ。
自分自身の十年前は、果たしてどんな風だっただろうか? そんなことを思うのも、智恵子を見たからだ。
敦子は、会ったばかりのあの少女を、昔の寿子に出会ったような、懐かしさで見ていたのである。——新しい妹みたいな、と言ってもいい。
ともかく、できるだけのことをしてやりたい、と敦子は思った。もちろん、敦子の力でやれることなど、限られてはいるとしても……。
地下鉄の駅から階段を足早に上って行くと、
「おはよう!」
と肩を叩《たた》かれる。
「あら、早いのね」
と、原久美江の顔を見て言った。
「へへ、ご近所からの出勤だもん」
どこかのホテルに泊まって来たのだ。それでいて、ちゃんと服を替えているのに、敦子は感心してしまった……。