「あら、お風《か》邪《ぜ》?」
と、受付の看護婦が敦子の顔を見て、微《ほほ》笑《え》んだ。
「そうじゃないの。ちょっと仕事で」
「お仕事?」
「今、忙しそうね」
実際、オフィス街のビルの中に開設されているクリニックは、一日中、客の絶えることがない。敦子も、風邪などで、何度かここへ来ていたが、待合室はいつも、立って待つ人がいるくらいの盛況ぶりだ。
重役タイプの人、これはおそらく、高血圧とか糖尿病といったところだろう。姿勢が悪くて、しかめっつらで週刊誌など眺めている中間管理職タイプは、胃《い》潰《かい》瘍《よう》か。かと思うと、ただ健康診断を受けに来た、やたら元気な若い社員もいて、目立っている。
ここの待合室では、上司も部下もない。いや、もちろん、同じ会社の人間ではないからだが、ちょっと不思議な光景ではあった。
「別にいいわよ。何か?」
と、看護婦は、気軽に言った。
「ひと月くらい前なんだけど……。打ち身とか、すり傷で、十人近い人が、一度にここへ診てもらいに来たでしょ」
と、敦子は言った。
「ああ、憶《おぼ》えてるわ。あの管理人のおじさんがついてね」
「そう。あの時の治療費のことでね。ちょっと訊《き》いて来い、って言われて」
「へえ。受付の人がそんなことまでするの? 大変ね」
「雑用に時々かり出されるのよ」
と、敦子はごまかした。「何か——特別な治療をした人はいたかしら?」
「さあ……」
看護婦は首をひねって、「あの時は私もいたからね。——でも、傷を消毒したり、湿布したり……。そんなもんじゃなかったかしらね。何か高くついてた?」
「いえ、そうじゃないんだけど……。レントゲンとか撮った人、いなかったかしら」
「レントゲン? そんな大げさなこと、しなかったと思うわ」
と、看護婦は目を丸くして言って、「ね、あれ、どう見ても、喧《けん》嘩《か》のけがでしょ。何があったの? 誰かに訊いてみようと思ってたんだ」
「え、まあね」
敦子は、ちょっと肩をすくめて、「そうなの。会議が荒れてね」
「へえ……凄《すご》いのね」
少しは、打ちあけ話もしてやらなくては、話を引き出すこともできない。
「それでね——」
と、敦子が言いかけると、電話がかかって来た。
話が中断されて、敦子は、じりじりしながら、待っていた。
「ごめんなさい、待たせて」
看護婦は、電話を終えると、「こういう約束に平気で遅れて来る人ってのがいるのよね。困っちゃう」
「大変ね」
と敦子は同情して、「それで——」
「やあ、永瀬君」
と、声をかけて来たのは、経理の課長だった。「どこか具合悪いの?」
何ともタイミングが悪い。敦子は、がっかりした様子を、表情に出さないようにして、
「風邪気味なんです」
と、言った。「課長さんは飲みすぎ?」
「おいおい、はっきり言わないでくれよ」
と、苦笑する。
仕方ない。これ以上は話していられない、と敦子は判断して、受付の看護婦に、
「お邪魔して、ごめんなさい」
と、声をかけた。
「いいえ、お大事に」
看護婦は、敦子にちょっとウインクして見せた。三十代半ばの、かなりベテランという感じ。なかなか面白い人なのである。
敦子は、クリニックの入ったビルを出ると、急いで会社へ戻った。時間中に抜け出して来たのだ。
取りあえず、あの時、けが人を連れて行ったのが、あのクリニックだったというのは分かった。——K化学工業が、社員の健康診断などで使っているので、おそらく、とっさの場合、他へは行かないだろうと思ったのである。
「——ごめんなさい、久美江さん」
三階の受付へ戻って、敦子は息を弾ませた。
「どうかしたの?」
と、久美江は、また色々と想像をめぐらせているらしい。
「うん、ちょっとね」
敦子は、メモを見て、会議室用のコーヒーを注文した。
久美江が隣でちょいちょい、とつつく。
「何?」
「クリニックに何の用?」
と、久美江が声をひそめる。
「ええ?」
「ちょうど入れ違いに戻って来た人がいて。敦子さんが、こっそり入って行ったわよ、って」
「こっそり、だなんて」
「もしかして、有田さんと——。そういえばこのところすっぱいものをよく食べてるわ、とか話してたの」
「やめてよ、変な噂《うわさ》流すの」
敦子は、ちょっと焦った。「少し頭痛がしただけ。本当なんだから!」
「私はね、そんなことないんじゃない、って言ったのよ」
と、久美江は言ったが、怪しいものだ。
敦子は、どこで誰が見てるか、分からないものね、とため息をついた。
午後になると、やたら来客が多くて、久美江とおしゃべりする余裕もなくなった。
よく、他の課の課長が、
「暇そうだね」
とか、声をかけて通る度に、敦子は微《ほほ》笑《え》みながら、心の中で舌を出してやる。
何も分からないくせして! 座ってるだけで楽だなんて、思わないでほしいわね、全く!
——三時を回って、やっと少し息をつけるようになった。
有田が、外出先から戻って来た。大西が一緒だ。
「俺《おれ》のも、〈帰社〉としておいてくれ」
と、大西は有田へ言って、敦子の方へ、
「やあ、明日はどこへ出かけるんだい?」
と、冷やかすような声をかけて行く。
「さあ……」
敦子は、有田の方をちょっとにらんだ。
大西は、席の方へ行きかけたが、ふと足を止めて、
「永瀬君。——昨日下の受付に来てた、女の子だけどね」
と、言った。
「はい、竹永さんって子ですね」
「うん、そうそう。あの後、何か言って来たかい?」
敦子は、何となく、ごく自然に、
「いえ、何とも」
と、首を振って答えていた。
「そうか。それならいいんだ」
「でも——あの子の父親のこと、何か分からないでしょうか。可《か》哀《わい》そうで」
「そうだねえ、ま、僕も何か耳にしたらとは思うけど。あんまり気にするなよ」
大西が、自分から竹永智恵子のことを訊《き》いて来るというのは、おそらく、それだけ心配の種が何かあるからだろう。本当に度胸のいい人間なら、すっかり忘れたようなふりをしているはずだ。
その辺が、大西の小心なところなのだ。
大西が席へ戻って行くと、
「課長さんのおとも?」
と、敦子は有田に声をかけた。
「うん。課長の代理で、これから行くかもしれない所へ、挨《あい》拶《さつ》にね」
「へえ。凄《すご》いじゃないの」
と、割り込んで来たのは、久美江である。「有田さん、すっかり有望株ね」
そう。——有田は、背広も新調して、前に比べると、ずいぶんすっきりした。有能、という印象を与えるようになって来たのである。
背広、ネクタイ、どれも敦子が有田をデパートへ引っ張って行って選んだものだから、敦子の趣味に合うのは当然のことだ。
しかし、本当に妙な話だが、敦子は、有田にこのスタイルがあまりに良く似合うので、却《かえ》ってつまらなかった。
「明日、楽しみにしてるよ」
有田が、笑顔で言った。昔ながらの笑顔で。
「明日はデートか」
と、久美江がおどけて、「結構でございますわね」
自分の方が週末も何もなしに外泊してしまうくせに、と敦子は言いかけたが、やめておいた。何を言われても、あまり腹も立たないのが、久美江の得なところである。
「——ね、明日はどこへ行くつもり?」
久美江が離れて行ったので、敦子は有田に訊《き》いた。
「ドライブでもしようかと思って——何か用事かい?」
「ううん。そういうわけじゃないけど」
「今夜、ゆっくり検討するからさ。じゃ、明日——」
「ええ」
敦子は、ちょっと肩をすくめた。
別に、どうってことはないのだが……。ただ、竹永智恵子のことが、気になったのである。
久美江が戻って来た。
「悪いけど、ちょっとお願い」
一階へ下りて行くと、ロビーを見回した。平山は、ちょうど、大理石の床にかがみ込んで、何かやっているところだった。
「——何してるの?」
と、歩いて行って声をかけると、
「やあ」
顔を上げた平山は、少し額に汗さえ浮かべて、「傷がついてね。困ったもんだ。何とかならないかと思って」
「どうしたのかしら?」
「何か荷物を運び込む時に、こすったんだと思うよ」
「じゃ、どこの業者か分からないわね」
「うん……。何しろ訊《き》いてみたくてもね」
と、平山はチラッと受付の方を見る。
もちろん、そこに端然と座っているのは、宮田栄子。確かに、相手が敦子や久美江なら、気軽に、
「見なかったかね」
と、声もかけられるが、宮田栄子となると、下《へ》手《た》にそんなことを訊いても、
「そんなのは受付の仕事じゃありませんよ」
と、やられるのがおちだろう。
敦子は、ちょっと笑って、
「分かるわ」
と、言った。「ね、少し訊きたいことがあるんだけど」
「ああ、何だね?」
と、平山は体を起こして、顔をしかめた。「もう腰が……。仕方ないもんだね」
「しっかりしてよ」
と、敦子は平山の肩を叩《たた》いた。
警備員室へ入ると、敦子は、
「お茶でもいれましょうか」
と、言った。
「やあ、そりゃありがたい」
平山はホッとしたように、「自分でいれるお茶は味気ないよ」
と、椅《い》子《す》に腰をおろした。
「私がいれても、大して変わんないわよ」
敦子は、妹の結婚が決まったことを、平山へ話してやった。
「そりゃ良かった。心配してたもんね。——や、ありがとう」
「私もいただくわ。お休みを取らなきゃいけないわ」
「おめでたいことならいいじゃないか」
「うん」
敦子も、熱いお茶を、ゆっくりと飲んだ。
「ね、平山さん」
「うん?」
「憶《おぼ》えてる? 一か月くらい前の……。あそこでの乱闘騒ぎ」
平山の顔が、不意に曇った。敦子がハッとするほどの変わりようだった。
「忘れられやしないよ」
と、平山は、重苦しい調子で言った。「しかし、忘れたいと思ってる」
「そうでしょうね。——ごめんなさい」
「あれがどうかしたのかね」
「あの時、一人、ひどく頭を打った人がいたでしょう。有田さんが放り投げて、完全に気絶しちゃった人……」
平山は、ひどく落ちつかない様子になった。
「そう……だったかね」
と、首をかしげて、「よく憶えていないがね」
「そう、ここへ訪ねて来たの、あの人の娘さんが」
「娘——」
平山は、肯《うなず》いて、「そうか。昨日、表を行ったり来たりしていた子か」
「ええ。お父さんが、あれきり戻らないんですって。私、気になって」
と、敦子は言った。「何か、憶えていない? どこへ行くと言ってたとか、病院はどこだった、とか……」
「いや、悪いけど、さっぱり」
と、平山は首を振った。
「そう」
敦子は、やや失望した。
本当なら、有田に訊《き》けばいいことなのだ、と思うのだが、何となく、有田がその話をしたがらないだろう、という気がしたのだ。
それに、今、有田は大西とひどく親しくしている。
敦子が、こんなことを調べていると知ったら、大西の耳に入れるかもしれない、と、思った。
妙なものだ。恋人なのに。——恋人? 本当にそうだろうか。
「それで——」
と、平山は言った。「その女の子、母親と二人で来たのかい?」
「一人。もともと父親と二人だったんですって。それで社宅も出されて……」
敦子が、竹永智恵子のことを詳しく話すと、平山はため息をついて、
「運の悪い子だね」
と、首を振った。「じゃ——また元の町へ帰ったのかね」
敦子は、ちょっとためらった。何も、平山にまで隠すことはない、と思ったが、どんな時に大西の耳にでも入らないとも限らない。
内緒にしてくれ、と頼むのも妙なものだろう。
「何だか——友だちの所へ泊まるとか言ってたみたい。どこだか聞いてないけど」
と、曖《あい》昧《まい》に言っておくことにした。「でも、私も、できるだけ調べてあげる、と約束しちゃったものだから。平山さん、何か知ってるかな、と思ったの。ごめんなさいね。お仕事の邪魔して」
「いや、一向に構わないよ」
平山の口調には、少し無理をしているところが感じられた。もう中腰になって、話を切り上げたがっている。
「でも、憶えてない? あの時一番ひどいけがをした人だと思うんだけど」
「そうだねえ……。もう一か月だ。何しろ、このところ忘れっぽくなったしね」
「そんなこと言って。まだ小さな洋子ちゃんがいるでしょう」
と、敦子は笑った。
「そう。——そうだね」
突然、平山が深く考え込みながら、そう言ったので、敦子は戸惑った。
「じゃ、戻るわ。またね」
「ああ」
「明日はお休み?」
「うん」
「じゃ、洋子ちゃんのお相手ね」
「疲れるがね」
平山に、やっといつもの笑顔が戻った。
「色々、当たってみたんだけど」
と、敦子は言った。「そんな具合で、何も分かってないの。ごめんなさいね」
「そんなに簡単に、父が見付かるなんて思っていません」
と、竹永智恵子は言って、「もう一杯いかがですか」
「え……。そうね。いただこうかしら」
夕ご飯のおかわりをして、「——太りそうだわ。あなたにお料理をやってもらっていると」
夕食の仕度も、帰宅すると、しっかりしてあって、しかも味付けは悪くない。いかに慣れていたとはいえ、いささか敦子も立場がない感じである。
しかし、智恵子も、実に良く食べる。
敦子など、見ていて唖《あ》然《ぜん》としてしまうほどだった。十七歳という年齢を考えれば……。私もこれぐらい食べていたのかもしれないわ、と敦子は何となく、感無量、というところであった。
ただ、当分智恵子がここにいるとすれば、外食しない分、浮く代わりに、材料費やお米代は倍以上になって……。まあ、やはり多少は食費がかさむ、ということになりそうだった。
「——あ、そうだ」
と、智恵子が言った。「さっき、電話がありました」
「電話?」
誰だろう? もし、有田だったら——。
「何だかTV局の人だと言ってましたけど。よく分からなかったんで、私、留守番なので、って言っときました」
TV局。敦子はハッとした。
あの騒ぎの日、食堂で敦子に声をかけて来た男だろうか? でも、どうして今になって……。
電話番号も、一体どうやって調べたのだろう? もちろん、敦子は、ここの番号を、電話帳にも出していない。
「何か言ってた、その人?」
と、敦子は訊《き》いた。
「いいえ。留守です、って言ったら、それじゃ結構ですって」
「そう。大した用事じゃないのよ、きっと」
と、敦子は言った。
智恵子が、あの時、ロビーに座り込んでいた男の娘だ、と、もしあの時の男が知ったとしたら、やはり何かある、と思って、しつこくつきまとって来るだろう。
「——そうそう」
と、敦子は食事を終えて、お茶を飲みながら、「お父さんと一緒に上京して来た人たちの名前、分かる?」
「分かります」
「誰か一人ぐらい、お父さんのことを聞いてる人もいるんじゃないかという気がするの。名前、教えてくれる? 所属とかは、人事部へ行けば分かるから」
「もう、辞めた人も、ですか」
「ええ。どこかへ移った人も、一応、記録があると思うから」
「はい」
智恵子は、急いで、台所のメモ用紙を一枚破いて来て、ボールペンで、名前を並べて行った。そして、ふと顔を上げると、
「あの……。私、いつまでここにいていいんでしょうか」
と、訊いた。
「いいじゃない。差し当たりは、お父さんの行方が分かるまで、っていうことで」
智恵子は、ホッとしたように、微《ほほ》笑《え》んだのだった……。