「まだ残ってるよ。どう?」
と、有田が、ワインを敦子のグラスへ注《つ》ごうとする。
「もう充分」
敦子はあわててグラスを手でふさいだ。今だって、少し飲み過ぎているくらいである。もともとアルコールには強くない。
「だって、大して飲んでないよ、君」
と、有田は言った。
「これ以上飲むと、頭痛がして来るから。本当に」
「そうか。じゃ、僕が飲んじまおう」
有田は自分のグラスに、ボトルの残ったワインを、全部注いだ。
「大丈夫なの?」
敦子は心配して、「車があるのよ。捕まったら大変じゃないの」
と、言いながら、鴨《かも》の肉にナイフを入れていた。
ホテルの最上階のフランス料理のレストラン。——年中こんな所へ来ているわけではないにしても、別に生涯これがただ一度の晴れの舞台、というわけでもない。
一応、有田とデートすると、この程度の店に入るのは珍しくなかった。それなのに、どうしてこうも「あがって」いるんだろう?
いや、敦子の方ではなく、有田が、である。
食べるのも早いし、飲むのも凄《すご》いピッチだ。
有田は、体が大きな割には——というのは、大柄だとアルコールに強い、という通説に従えば、のことだが——そう飲める口ではないのである。今夜の飲み方は、何だか「やけ酒」みたいだ。
「——味はどう?」
と、有田は言った。
「うん。おいしいわ。この甘いソースが好きなの」
正直言うと、ちょっと甘過ぎるきらい、なきにしもあらずである。しかし、そんなこと言っちゃ、支払いをしてくれる人に対して気の毒だ。
「そう。良かった。でも、量が少ないな」
「私に合わせて鴨取らなくても良かったのに」
「もっと大きな塊が出て来るかと思った」
「まさか」
敦子は笑ってしまった。
アルコールはともかく、食欲の方は、体格から連想される通り、人並み以上の有田である。
きれいに飾りつけた鴨のローストでは物足りなくて当然だろう。
「ま、いいや。——ね、ちょっと。パンをくれる?」
「かしこまりました」
ウエイターも、つい微《ほほ》笑《え》んでいる。何しろパンの追加が三回めである。
「居眠り運転、しないでよね」
と、敦子は苦笑しながら、言ってやったのだった。
「やっと満腹だ」
デザートを終わって、有田は大きく息をついた。
ワインが効いて、顔が赤くほてったようになってしまっている。
「しばらくは無理よ、車の運転」
敦子は本気で心配していた。事故や取り締まりに引っかかるのまで、仲良く一緒じゃ、かなわない。
「うん……」
有田は、水をガブガブ飲んで、「いっそ——ねえ、泊まって行かないか、今夜」
「泊まる?」
「このホテルに。——どう?」
敦子には、やっと分かった。どうして有田があんなにワインを早いペースで飲んだのか。
いや、泊まる口実、というだけではなかったろう。実際、これを言い出すのに、「景気づけ」が必要だったのだ。
しかし、敦子にとっては、思ってもみない話だった。
「まあ……急にこんなこと言って、怒らないでくれよ。でも——社内でも、僕らのことは公認みたいなもんだろ? そろそろ、週末を一緒に過ごすっていうのも……。いや、君がどうしても、その……。だけど、僕としてはね……」
本人も何を言っているのか、よく分かっていないらしい。敦子は、腹が立つより、おかしくなって笑ってしまった。
「良かった! ひっぱたかれるかと思ってたんだ」
「声が大きいわよ」
と、敦子はあわてて言った。
タイミングよく、
「コーヒーかお紅茶はいかがでしょう」
ウエイターが真《ま》面《じ》目《め》くさった顔で、そばに立っていた。
「あの——紅茶を。ミルクティーで」
「僕もコーヒー」
ろくに耳に入っていないのである。
敦子は、しかし返事に困った。
「最初から、そのつもりだったのね」
「ごめん」
「部屋も、取ってあるの?」
「ごめん」
「そんなこと……思ってもいなかったわ」
「ごめん」
「お宅、帰らなくてもいいの?」
有田は両親と一緒に住んでいるし、母親からは子供扱いされていることも、敦子は知っていた。
「ちゃんと言って来た」
と、有田は胸を張った。
「いばらないでよ」
「ごめん……」
有田は肩をすぼめた。
敦子は、しかし、席をけって帰る、という気にもなれなかった。
考えてみれば、これぐらいの付き合い、しかも一応結婚を前提にして付き合っているのだから、たまには一緒にホテルへ泊まっても、不自然ということはないかもしれない。
ただ、あまりに突然という点が、引っかかっているのだった。
敦子だって子供ではないから、一緒に泊まったからといって、絶対に結婚しなきゃいけなくなるとは思っていない。しかし、これが何となく習慣のようになって、けじめもなく結婚へつながって行くのではないか、という気がした。
それは敦子の性質というものだった。まずけじめをきちんと。——まあ、それは敦子がしっかりしていれば済むことではあるが。
何となく、沈黙が続いて、コーヒーと紅茶が来ると、二人ともホッとした。
「——ねえ」
と、敦子は言った。
「うん」
有田が身を乗り出す。
「そのミルク、紅茶の。コーヒーのクリームはこっち」
「あ、ごめん」
間違えて、あたためたミルクをコーヒーへ入れていたのである。
純情といえば純情なのだろうが……。ちょっと頼りない気もする。
しかし、実のところ、有田が頼りなく思えた方が、敦子はホッとしていられる。最近、いやにエリート然としている有田に、いくらか失望めいたものを感じていただけに、この有田のあわてぶりは、安心できる光景だった。
そう。——ここで有田を振ることもない、と敦子は思った。
悪い人じゃないし、一緒にいても疲れないし。大恋愛の相手には少々不足でも、夢は夢だからいいので、現実に一緒に暮らすとなれば……。
「いいわ」
と、敦子は肯《うなず》いた。
「え?」
有田が口を開けて、敦子を見つめる。
「口を閉めないと、何か放り込むぞ」
と、敦子は言ってやった。
「へ、部屋のキー……もらって来る」
フラッと立ち上がり、何だかよろめくような足取りで……。
「ちょっと、そっちじゃないわよ、出口」
敦子はあわてて、有田の上衣の裾《すそ》をつかんだのだった……。
「——返事しちゃったか」
ま、多少はアルコールのせいもある。しかし、こんなことでもなければ、いつまでたっても、中学生あたりのお付き合いと大差ないことになりそうだし……。
こんな週末もいいかもしれないな、たまには……。
初めからそんな気でもなかったのに、と敦子は思ったが、でもこんなことは、あんまり前もって考えておくことでもないのかもしれない。
こんな風に、何となくその気になった時にそうなればいいのかも……。
「失礼いたします」
と、ウエイターが、コードレスの電話を手にやって来た。「永瀬敦子様でいらっしゃいますか」
「ええ」
「お電話が入っております」
びっくりした。ここにいることを誰が知っているんだろう?
「どうも。——もしもし」
何だか、テーブルについたまま電話をするというのも、妙な気分である。
「お姉ちゃん! いたのか」
「寿子? あんたどうして——」
思わず大きな声を出して、あわてて口を押さえる。「——何なのよ、一体?」
「アパートにかけたら、何か変な女の子が出て……。びっくりしてさ」
そうか、智恵子に、このホテルへ来ることは話したような気がする。
「よくこのレストランだって分かったね」
「デートだって、その子が言ったから、たぶんその辺だと思って。——ね、あの子、誰なの?」
「うん……。会社の人の娘さん」
と、言うしかなかった。「ちょっと預かってるの」
「へえ。いつからお姉ちゃんとこ、お手伝いさん置いたのかと思った」
「あんな狭いアパートにお手伝いさんがいるわけないでしょ」
と、敦子は笑って言った。「何か用事だったの」
少し間があって、
「そうだ。何の用でアパートへかけたのか、忘れるとこだった」
「呑《のん》気《き》ねえ」
「披露宴のお客のこと。お母さんが、お姉ちゃんにも訊《き》いてみろって言うから」
「私の式じゃないわよ」
「でも、落ちてる人がいないか、って。後でかけてくれる?」
「待ってよ、今夜は——」
敦子は、少しためらって、「遅くなるのよ。明日でいいんでしょ?」
「うん……。例の有田焼と一緒?」
「有田焼ってことないでしょ」
「そう憶《おぼ》えることにしたの。ま、頑張って」
「どうも、ご親切に」
と、敦子は言ってやった。
——電話を返して、一息つくと、敦子は智恵子のことを思い出した。一人でアパートにいるわけだが……。
でも、小さな子供じゃないし、大丈夫だろう。
智恵子にも、今夜はデート、と言って来てある。
もちろん、その相手が、当の智恵子の父親と喧《けん》嘩《か》した男だとは、知るわけもないが。
「でも……遅いな」
と、敦子は呟《つぶや》いた。
有田が予約しておいた部屋のキーをもらって来るのに、ずいぶん手間取っている。時間が遅くなってキャンセルになっていたのだろうか?
それじゃ、がっかりだろう。敦子は別にどうってこともないけれど……。
注《つ》いでくれた紅茶を一口飲んだ時、誰かが駆けて来る足音がした。
有田が走って来たのかと思って振り向くと、レストランの入り口に立っていたマネージャーらしい男で、
「失礼いたします」
と、息を切らし、「お連れ様が——」
「はあ?」
「レストランの前で倒れられて」
敦子はびっくりして、ティーカップを引っくり返してしまった……。
「ご心配いりません」
と、診てくれた医師が笑って言った。「あんまりアルコールにお強い方じゃないでしょう」
「ええ」
「急性アルコール中毒。要するに飲み過ぎです。ま、明日一日は二日酔いで辛いでしょうな」
「どうも……」
部屋は、借りてあった。そのキーを握りしめて、有田は引っくり返ってしまったのである。
で、結局、その部屋へ運び込んで、医者を呼んでもらった、というわけだった。
「——何よ、もう」
と、思わず呟《つぶや》く。「こんな週末もあっていい、か……」
まさかこんなことになるとは!
敦子は、ベッドに大の字になって、眠り込んでいる有田を眺めていた。
緊張のあまり、アルコールを取り過ぎて、ぶっ倒れてしまうなんて……。何ともロマンスとは縁のない男なのだ。
といって、放って帰るわけにもいかないし。
敦子は、部屋のソファに腰をおろして、
「TVでも見るか」
と、呟いた。
——かくて、有田が決死の覚悟(?)で用意した「週末の一夜」、敦子はホテルの有料チャンネルの映画を見て過ごすはめになってしまった。
映画を二本見終わると、もう夜中の二時近くで、敦子はそのままソファに横になって、眠ったのである……。
「部屋まで送るよ」
と、有田が青い顔をして言った。
「いいから」
と、敦子は、有田の腕を軽く叩《たた》いて、「ちゃんと帰って寝るのよ」
「うん……」
タクシーの中である。敦子は、
「そこで停めて下さい」
と、運転手に言った。
「ねえ、本当に……」
「怒ってやしないわよ」
と、敦子は笑って言った。「車を取りに行くの、忘れないで」
「うん」
「——じゃ、ここでね」
敦子は、タクシーを降りて、「気を付けて」
と、手を振った。
有田が情けない顔で、ちょっと手を上げる。
敦子は、吹き出しそうになるのを、必死にこらえなくてはならなかった。
「あ、お帰りなさい」
気が付くと、ちょうど智恵子がスーパーの袋を下げてやって来るところだった。
有田の目に止まっただろうか? しかし、今の有田じゃ、智恵子が誰なのか、とても分かるまい。
「ご苦労様、ゆうべはごめんね」
「いいえ」
と、智恵子は楽しそうに、「一人でのんびり寝ました」
「言ったな」
と、敦子は、智恵子の鼻を、ちょっと指でつついてやった。
「だって、そっちはお二人でしょ」
「二人は二人だったんだけどね」
敦子は、智恵子の肩を軽く抱いて、「あとで、ゆっくり話してあげるわ」
と言った。
アパートの部屋へ入ると、
「ゆうべ妹さんからお電話が」
と、智恵子が言った。
「うん、知ってる。ホテルへかけて来たわ。びっくりしてた」
「でしょうね。でも、羨《うらや》ましいな」
「何が?」
「姉妹がいるって。私、一人っ子だから」
「そうか。でも、いればいたで、何かと大変よ」
と、敦子は言った……。
——何だか妙な週末だったわ。
有田のハプニングがなければ、すばらしい、思い出に残る週末だったかもしれない。
しかし、ある意味で、敦子はホッとしてもいたのである。あの失敗こそ、いかにも有田らしい、という気がして。
却《かえ》って、敦子は有田と結婚してもいい、という気になっていた。