その日、敦子は珍しく仕事で外出した。
年に三度もあるかないかのことだが、一日中外を回って、いい加減くたびれて戻って来ると、久美江が、
「ね、これ、人事の人が」
と、メモを渡して来た。
「ありがとう」
開いて、チラッと目をやって、あ、そうだったわ、と思い出した。
智恵子から聞いた、六人の組合員たちのことを、人事の人に、調べてくれと頼んでおいたのだ。
もう一週間以上たつので、敦子も忘れかけていた。何しろ、このところ、寿子の結婚式のことで忙しい。
式の前後、休みを取らなくてはならないのだし……。
「足が棒だわ」
と、敦子は久美江に言った。「ちょっとお化粧直して来る」
「はい、ごゆっくり」
久美江は相変わらず呑《のん》気《き》にしている。
どこからどう伝わったのやら、有田が敦子を誘っておいて、飲み過ぎて引っくり返ったという話が、結構女の子の間では広まっている。
おかげで、このところ有田は、昼休みになると、ぎりぎりまで外に逃げているのである。
敦子が別に怒っていないと知って、有田はホッとしてはいたらしいが、さすがに、すぐまたホテルに泊まろうと誘うだけの度胸はなかったようだった。
——敦子は、トイレで化粧を直し、それから、制服のポケットに入れたメモを取り出して、広げた。
あの時やって来た七人の内、竹永を除いた六人。——今、その内の三人は、長野工場にもういない。
智恵子が町を出て来てから、もう一人、工場を去ったらしいが……。
「——まさか」
思わず、敦子は呟《つぶや》いていた。
智恵子が言った二人も、その後に辞めた一人も、三人とも、同じ会社へ就職している。しかも、そこは名前こそ違うが、このK化学工業の系列会社である。
一人は課長、二人は係長になった、とメモには書かれていた。
これはどういうことだろう?
智恵子は、父親が一人だけ特別扱いされたと、かげ口を叩《たた》かれたと悔しがっていたが、とんでもない話である。むしろ、やめて行った人たちの方が、異例の出世をしているように、この人事からは思えた。
そんなことがあり得るだろうか?
残り三人は?——まだ長野工場に在職している。敦子は、六人の内の誰かに会ってみよう、と思った。
あの時、専務の国崎が、彼らと話をしている。
もし国崎が彼らに、おとなしく引き上げるなら、別のポストを約束する、と言っていたとしたら……。それはあり得ることのように、敦子には思えた。
そう。——おそらくそうだったのだ。
では、竹永はどうなったのか? そこは、まだ分からない。
しかし、六人の内の誰かが、何か知っているだろう。敦子には、そう思えてならなかった。
「——ごめんなさい」
と、敦子は席に戻って、久美江に言った。「お昼は大変だった?」
「別に」
と、久美江は肩をすくめて、「ね、課長がお呼び」
「私を?」
「うん。何だか知らないけど、第三会議室って」
「分かったわ」
敦子は、足早に会議室へと向かった。
「——失礼します」
ドアを開けると、大西が一人、ポツンと隅の席に座っていた。
「やあ、外回りは疲れるだろう」
と、大西は笑顔で言った。「ま、かけてくれ」
「はい」
椅《い》子《す》を引いて、座ると、「何かご用とか……」
「うん」
大西は、しばらく、どう切り出したものかと迷っている様子だった。
「あの……何かまずいことでも」
と、敦子は言った。
「まずい、というほどのことでもないんだがね」
大西は、ボールペンを手の中でクルクルと回していた。「君、人事に問い合わせをしたそうだね」
敦子は、一瞬言葉が出なかった。——もちろん極秘で調べるというわけにいかないのは分かっている。しかし——。
「はい」
と、肯《うなず》いた。
「どうして今ごろになって、そんなことを調べるんだね」
「あの……」
仕方ない。妙な言い逃れをしても、つじつまが合わないことになりそうだ。
「竹永さんの娘さんのためです」
「いつかの子か」
「ええ。調べてあげる、と約束しましたので」
「しかし、竹永の行方を調べるのに、なぜあの六人のことを?」
「直接話を聞こうかと思ったんです。いけませんでしたか」
大西の沈黙が、その問いの答えだった。
「まあ、確かにね」
と、大西が、息をついて言った。「君があの女の子に同情する気持ちはよく分かる。君の目の前で、あんなことがあったんだしね」
「私はただ……」
と、敦子は言いかけて、やめた。
大西と言い合いをしても仕方ない。
「しかし——君にも分かるだろう。あの出来事は外へ洩《も》れては困る類《たぐ》いのことだ。その点は、国崎専務も君に念を押したはずだよ」
「はい」
「君はまさか……」
と、大西は言いかけて、少しためらった。
そのためらいが何を意味するのか、敦子にはよく分からなかった。
「あの女の子に話したんじゃないだろうね」
「——あのことですか。何も話していません」
「本当だね」
敦子の頬《ほお》が赤く染まった。嘘《うそ》をついていると疑われるのはたまらなかった。嘘をついたのは、大西の方ではないか。竹永のことを、全く知らない人間であるかのように言って……。
しかし、まさか課長に向かってそうは言えない。
「本当です」
敦子の声が少し震えた。大西は敏感にそれに気付いたらしい。
「いや、君を責めてるわけじゃないんだよ」
と、言いわけがましく言って、「ただね、会社という奴《やつ》は生きものだ。あまり人前にさらしたくない面も持っている。女の君には分からないだろうが」
「はい」
と、敦子は表情を固く引き締めて、「すみませんでした」
「あの女の子は今、どこにいるんだね」
大西が、少し穏やかな調子で言った。
「よく知りません。知り合いを頼って行くと言ってました」
敦子はためらわずにそう言った。
「じゃ、連絡はどうやって?」
「あの子の方から電話が入ることになっています。まだあの後は話していないんです」
「だが——」
「あの日の帰りに、まだビルの近くを歩いているのを見かけたんです。それで声をかけて話をしました」
「そうか。何を言ってた?」
「別に……。課長さんもお聞きになった通りのことです」
敦子の淀《よど》みない話し方に、大西も信用する気になったようだった。
「——いや、不愉快な思いをさせて悪かったね」
大西は微《ほほ》笑《え》んだが、目は笑っていなかった。「この話は、これきりにしよう」
と、大西は立ち上がって言った。
これきりに?
とんでもないことだ。敦子の方から訊《き》きたいことはいくつもあった。
しかし、大西が答えてくれるはずのないことを、はっきりと敦子は悟っていた。
大西が立った時、敦子も席を立つべきだったかもしれない。しかし、敦子は立たなかった。
「いいかい」
と、大西は言った。「もし、あの女の子から連絡が入ったら、どこにいるのか訊いといてくれ。そして僕に報告するんだ」
敦子は顔を上げた。
「いや、困っているようなら、何か力になってやれるかもしれんからね」
と、大西は付け加えた。
「分かりました」
「君なら、分かってくれると思っていた」
大西の手が、敦子の肩に置かれた。「ベテランの受付を、失いたくないからね」
——大西が出て行くドアの音を、敦子は背中で聞いた。
会議室が、急に寒々とした空間のように感じられる。知らない内に、固く両手を握り合わせていて、じっとりと汗をつかんでいた。
あの午後の出来事——ロビーで乱闘騒ぎの時のショックとは違った意味でのショックを、敦子は受けていたのだった。
違った? いや、違ってはいない。大西の今の言葉は、要するに、「これ以上、あの事件について調べたりすれば、クビだ」という意味である。
それは暴力を伴いはしないが、しかし、「会社」という「大人の世界」で、存在するはずのないものだと敦子には思えた……。
敦子が受付の席に戻ったのは、十分ほどたってからだった。
「——何のお話だったの?」
と、久美江が訊《き》いた。
「大したことじゃないわ。来月、休みを取らなきゃいけないから、そのことで、ちょっとね」
やっと思い付いた口実である。久美江にこう訊かれることは、分かっていたのだから。
「あ、そうだ。コーヒー余ったのよ」
と、久美江が言った。「私、もらって来るわ」
「会議なんかあったっけ?」
「お客さんにとったら、その人、コーヒー嫌いだったんだって」
久美江が、ポンポンと弾むような足取りで、給湯室へと急ぐ。それを見送って、敦子は息を吐き出した。
あの会議室に、まるで一時間もいたような気がする。
久美江が持って来てくれたコーヒーを、敦子はゆっくりと味わった。
しかし……。落ちついて考えてみると、ますます奇妙な印象が深くなる。
大西が、いくらあの乱闘騒ぎのことを隠しておきたいからといって、ああも神経を尖《とが》らせているのは、なぜだろう? 幹部に知られたくない、と言っても、専務の国崎は現実に知っているではないか。
少なくとも、あのアメリカからの客を無事に迎える、という仕事に関しては、大西はうまくやりとげたのだ。そして、乱闘騒ぎについては、工場閉鎖後の別のポストを約束することで、口もふさいだ。
それなのに、なぜ敦子をクビにすると脅しまでするのだろう?
鍵《かぎ》はやはり、竹永のことにある。
ただ一人、姿をくらましてしまった竹永。——大西が恐れているのは、竹永がどうなったかを探られることなのだ。
不安が、敦子の胸の中に音もなく、黒い雲のように広がっていた。——竹永はどうなったのだろう。
よほどひどいけがをして……。もしそうだとすると、傷を負わせたのは、有田なのである。
しかし、他のけが人を連れて行ったクリニックには、竹永は運ばれていない。すると、どこへ運んだのだろう?
病院へ入れたのは間違いないとして、いつ、誰が運んだのか。
あの乱闘の後、大西はずっと会社にいたはずだ。有田を始めとして、駆り出された社員たちも。
すると……。平山が?
しかし、平山は、クリニックへ、けが人に付き添って行った、と言っている。
では誰が竹永を病院へ運んだのだろう?
敦子は、コーヒーを飲み干した。
「どうかしたの?」
と、久美江が言った。「何だか怖い顔してる」
「そう?」
「有田さんと行くの?」
「え?」
「今度の結婚式よ、妹さんの。ご両親に紹介するんじゃないの?」
突然何を言い出すのやら。
しかし、敦子は、そんなことをまるで考えていなかったことに気付いた。
「さあ、どうしようかしら」
と、笑ってごまかすことにする。
「もう有田さんのご両親には会ったの?」
「まだよ」
「早く会っとけば? 親の知らない内に、仲が進んじゃうと、後でもめる原因になるわよ」
「ご忠告、感謝します」
と、敦子は苦笑した。
噂《うわさ》をすれば、というのもありきたりだが、有田がサンダルの音をたてながら受付の方へやって来た。
「あら、有田さん」
と、久美江が冷やかすように、「私、席を外しておりましょうか?」
わざと丁寧な口をきく。
「いや、別に——」
「どうせ、カップを持って行くから。一緒に持ってってあげるわ」
久美江が、敦子の分のコーヒーカップも重ねて、持って行く。有田は、何となく照れくさそうだった。
「あなたサンダル、替えなさいよ」
と、敦子は言った。「切れちゃいそうなの、まだはいてるんでしょ」
「うん。でも——ちゃんと歩けるし」
「今度、買っておいてあげる。いつもそう思うんだけど、忘れちゃうのよ」
「頼むよ。ねえ、三日は暇かい?」
「何よ、突然?」
「この前はあんなことになって……。埋め合わせしようと思ってさ」
「無理しないで。怒ってなんかいないわよ」
「うん。でも……」
と、男の方が赤くなったりしているのだから。可《か》愛《わい》いというか……。
敦子も気持ちが和んで、微《ほほ》笑《え》んでいた。
「お誘いは嬉《うれ》しいけど、だめなの。妹の式のことで、ちょっと人と会わなきゃいけないし」
「そうか。じゃ週末は?」
「旅行でしょ」
「そうだった」
とたんに、有田は、宴会で歌わされることを思い出したのか、情けない顔になった。
「妹の式から帰ったら、ゆっくり会いましょうよ」
と、敦子は言った。
「うん。じゃ月末辺り……。ちょっと出張が入るかもしれないけど」
ちょうど仕事の電話が入って、有田はあわてて席へ戻って行った。
サンダルを買ってあげなきゃね。——敦子は手帳を取り出して、忘れないように、メモした。
あさって——十一月の三日は、もちろん祭日だ。本当は、有田に付き合おうと思えば、そうできないわけではなかった。
しかし、今は何となく気が乗らなかったのだ。有田と会っていると、つい、あのいやな出来事を思い出してしまうし……。
もし、有田と結婚するとしたら、仲人は大西に頼むことになるだろう。しかし、それには抵抗があった。
もちろん形だけとは言っても……。少なくとも、今は、とてもそんな気持ちになれない。
有田との仲に、あの出来事が、意外に重い意味を持って、影をさし始めているのを、敦子は認めないわけにいかなかった。