「ね、あれ。あれ、どう?」
と、敦子が指さす。
「ブルーの? やだあ、老《ふ》けてる」
「何よ、その言い方」
「すみません」
智恵子がペロッと舌を出す。敦子は笑い出してしまった。
「あなたのだから、好きなのを選びなさいよ。でも、私が目を回しそうなのはやめてよね」
「はい。妥協します」
大きな声で話さないと、聞こえない。
それぐらい、休日のデパートの中はやかましかった。もちろん、売り場にもよるのだろうが。
この〈特価品売り場〉は、少なくともBGMが何の意味もなさない——つまり、聞こえない——状態だったのである。
「暑い!」
敦子は汗をかいていた。「じゃ、それに決める?」
「ウーン」
智恵子は、下唇に指を当てて考え込んだ。「もう一つ、可《か》愛《わい》いのないかなあ」
「じゃ、どこか捜して来て。私、待ってるわ、どこかで」
「いいです。あれにしよう」
智恵子は、そのタオルケットを手にして、「これなら、お嫁に行くまで持つ」
「まさか」
——もう、二人とも両手に大きな紙袋を二つずつもさげていた。
竹永智恵子が、敦子のアパートに来てから、そろそろ半月になる。食事の仕度から、掃除、洗濯と、智恵子がすっかり「主婦」をしてくれているので、敦子としては楽なこと、この上もない。
智恵子も、何か仕事を捜すとは言っているが、十七の女の子に、いい仕事なぞそう簡単には見付からないし、智恵子も父親の退職金を持っているので、多少はのんびりしていられたのである。
それにしても、半月もたつと、やはりあれこれ、足りないものも出て来るし、どうやらこのまま「長期滞在」になりそうな気配だし、というわけで、今日の祭日、デパートへ買い出しに来た、というわけだった。
費用は智恵子がちゃんと払うし、まあその代わり、どこかでご飯を食べて帰ろう、ということになっていて、それは敦子のおごり、と前もって決まっていた。
「——凄《すご》い荷物」
敦子は息をついて、「どこかで休む?」
「私は大丈夫ですけど、お疲れですよね」
「ちょっと引っかかるわね、その言い方」
「そうですか?」
とぼけて訊《き》き返したりする。——笑ってなどいられない状況なのに、明るい娘である。敦子は、そこが気に入っていた。
ともかく、息抜きをするといっても、どこも満員。
辛うじて、あまり洒《しや》落《れ》ているとはいえないが、デパートのベビー用品売り場の奥にあるパーラーに入って座ることができた。
真っ赤なプラスチックの椅《い》子《す》、天井から下がっているパンダのぬいぐるみ。
「情けない」
と、智恵子が結構真《ま》面《じ》目《め》くさった顔で言った。「でも、面白い」
「ここが一番空いてるの。うるさいけどね」
場所が場所だけに、赤ちゃんや、よちよち歩きの子供が、ギャーギャー泣くし、騒ぐし、駆け回るし。とても落ちつけるムードではない。
「私、ミルクセーキ」
と、智恵子は注文して、「あ、先に注文しちゃった」
「構わないわよ、そんなこと」
「でも、年上の方は敬わないと」
多少、智恵子もはしゃいでいる。それはそうだろう。東京へやって来て、こんな混《こ》んだデパートへ入るのは、初めてのはずである。
混雑、雑踏、騒音……。敦子にとっては頭痛の種でしかないものも、若い智恵子には刺激的な楽しみになるのだろう。
「妹さんも、おめでたなんですね」
「そう。こっちはおばさんよ」
「いいなあ、私、子供って好き」
「そう?」
「赤ん坊なら。ちょっと大きくなると、うるさくって生意気だからいやだけど。ずっと赤ん坊ならいいんですけどね」
「そういうわけにいかないでしょ」
「——男の人も、大変ですね」
「何が?」
「きっと奥さんが買い物してる間、待ってるんですね」
と、智恵子が、敦子の背後へ目をやって、「男の人、一人で。居心地悪そう」
「あんまりジロジロ見ても悪いわよ」
と言いながら、敦子もチラッと振り返ってみた。
なるほど.若い男が一人、コートを隣の椅《い》子《す》にかけて、セーター姿で、コーヒーを飲んでいる。いかにも場違いである。
「ね、今夜、何を食べたい?」
と、敦子は言った。「あなたの好きなものでいいわ」
「マクドナルド」
「ええ?」
「冗談です」
と、智恵子は笑った。
どこかで……。ふと、敦子は思った。唐突に、何かが記憶を引っかいているようで……。
あの男、どこかで見たことがあるわ、と敦子は思った。
もちろん、他人の空似ということも、ないではない。
しかし、受付という仕事のせいもあるのか、敦子は、人の顔を割合によく憶《おぼ》えている。何しろ久美江などは、入りたてのころ、自分の会社の社長に向かって、
「どちら様でしょうか」
と、やったことがあるくらいで、個人差というのも、もちろんあるのだろう。
敦子はその点、まあ二回やって来た客なら、たいていは名前も顔も頭に浮かんで来る。これからは、記憶力の減退と闘わねばならないかもしれないが。
そして——あの男。誰だったろう?
敦子は、しばらく考えて、どうしても思い当たらないので、一《いつ》旦《たん》忘れることにした。何かの弾みで思い出すかもしれない。
「どうかしたんですか」
と、智恵子が訊いた。
「何でもないの。ちょっと考えごと」
「今日……良かったんですか」
「何が?」
「本当は、例の男性とお出かけだったんじゃ——」
「変なことに気を回さないで。その時は、あなたがいくら心配しようと、一週間でも帰らないわよ」
「はい」
と、智恵子は、ちょっと首をすぼめた。
飲み物が来て、敦子は、紅茶にミルクをたっぷり入れた。そうでもしないと、苦くて、飲めたものではない。何度かここへ入っているので、よく分かっていた。
「私……」
と、ミルクセーキを半分くらい飲んで、智恵子が言った。「ずいぶん迷惑かけちゃってるんですよね」
「何を言い出したの?」
「いえ……。何だか居心地がいいもんだから、すっかり……」
「私が、お父さんのこと、調べてあげる、って約束したからじゃないの。あなたは気にすることないわ。家のことやってもらって、楽してるのは、こっちの方で」
「お父さん、生きてないんじゃないかなあ」
智恵子が、突然そう言った。敦子は心臓を見えない手でギュッとわしづかみにされたような気がした。
一瞬、顔から血の気がひく思いだった。
竹永は死んだのかもしれない。——その考えを、敦子はわざと無視して来たのだ。
まさか、まさか、と思いつつ……。
「そんなことないわよ」
敦子の言葉には力がなかった。
「生きてれば、きっと何か……。友だちに昨日も電話したんです。手紙とか、来てないかって。でも、何も……。生きてれば、何か言って来ないわけないし」
と、智恵子はストローを手に、言った。
「でも……色々考えられるでしょ」
と、敦子は言ってみた。
もちろん説得力はない、と自分でも承知の上だ。これまでのいきさつから考えて……。竹永が死んだ、という可能性が一番大きいこと——それは、敦子にも分かっていた。
ただ、それを考えることを、拒んで来たのだ。なぜといって……もし、竹永が死んでいたら、有田が殺したことになる。
まさか、そんなことが! いくら何でも、そんなことになったら、大西だって黙っているわけがない。——そう、そうに決まってる。
「ともかく、くよくよしないで」
と、敦子は言った。
くよくよしてるのは自分の方かもしれないのに。
「そうですね」
と、智恵子も気を取り直すように言った。「あのアパート、連絡先にして、友だちに教えていいですか?」
「ええ、構わないわよ」
大西に、智恵子を住まわせていることが分かってしまうかもしれないが、それは仕方ない。すぐに知れることもないだろうし。
二人は、パーラーを出て、
「次はどこだっけ?」
「ええと……。文房具」
「じゃ、七階か八階ね。エスカレーターで上がりましょ」
ベビー用品の間を歩いて行く。TVが何台か置いてあって、CFのビデオが流れていた。もちろん、赤ちゃんが這《は》い這《は》いしていたり、手を叩《たた》いて笑ったりしている場面である。
そして、もうずいぶんお腹の目立つようになったマタニティ姿の女性が、その画面に目を輝かせて見入っていた……。
敦子は、足を止めた。智恵子が二、三歩行って気付くと、
「どうかしました?」
「いえ……。ちょっと待ってて」
敦子は、急いで、あのパーラーへと戻って行った。まだいるだろうか?
入り口を入って、あの席を見る。
あの男は、もう席にいなかった。——一人でコーヒーを飲んでいた男。
思い出したのだ。あのTVを見ていて。
あれは乱闘騒ぎのあった日、帰りがけの敦子に声をかけて来たTV局の男だ。
絶対にそう、とは言い切れなかったが、しかし、敦子には自信があった。
どこへ行ったんだろう? 二人でここにいた間に出て行ったのか、それとも……。
パーラーを出て、敦子は、近くの階段の辺り、トイレの付近を覗《のぞ》いてみた。
もしあの男が——もちろん偶然ということもないではないが——敦子たちを尾行して来たのだとしたら。敦子は、明るい売り場を、もう一度見回して、歩き出した。
「ごめんなさい、待たせて」
と、敦子は、智恵子が紙袋を下げて待っている所まで、戻って行った。
「いえ——どうしたんですか」
「ちょっと忘れ物したような気がして。でも、思い違いなの。さ、行きましょう」
と、敦子は促した。
買い物の疲れというのは妙なものだ。ただの疲れというより、興奮と疲労の入りまじった、奇妙な高揚感がある。
「——よく買ったわね」
と、デパートを出た時に、二人して笑ってしまったくらい、二人とも両手一杯の荷物。
かさばってはいるが、そう重くないから、持てるのである。
「じゃ、食事にしましょ」
と、敦子は言った。「沢山食べられそうね?」
「ええ!」
智恵子の笑顔は、少しほてっていた……。
その夜、敦子は大分遅くまで起きていた。
妹の結婚式のことで、あれこれ雑用があって……。当人は一向にそういう点、無器用だし、母も実務的能力のない人なので、つい敦子に回って来てしまう。
九州、東京、と離れていてこうなのだ。もし、一緒に住んでいたら、これどころじゃないだろう。
もちろん——一緒に住んでいたら、こんなことにもならなかったろうが。
こんなこと……。敦子は、智恵子の寝顔へ目をやった。
もう、ぐっすり眠り込んでいて、大地震でも来ない限り、目を覚ましそうにない。
——敦子は、心を決めなければならなかった。
いつまでも、智恵子をここへ置くことはできない。といって、智恵子の父親のことを曖《あい》昧《まい》にしたままで、出て行ってくれ、と言えるだろうか?
もちろん、敦子にそこまでの責任はないのだが、同じ社員として、このまま目をつぶって済ませるわけにはいかない。
ため息が出る。——何も、私がこんなことで悩まなくてもいいんだわ、とも思った。
大西からは釘《くぎ》を刺されているし、これ以上深入りすると、有田との仲も、こじれて来そうな気がする。
敦子は時計を見た。もう寝よう。
一時を少し回っていた。敦子は、布団へ入ろうとして……。
ふと耳を澄ました。——空耳?
いや、そうじゃない。ドアを叩《たた》く音がしているのだ。
確かに、この部屋だ。こんな時間に。敦子は、不安を覚えつつ、玄関へと出て行った。
もちろん、黙ってドアを開けるようなことはしない。もう一度ドアをノックする音が聞こえるのを待って、
「どなたですか」
と、押さえた声で言う。
こんな夜中に訪ねて来る知人など、心当たりがないので、いささか緊張していたのも当然だろう。
「有田だけど」
と、ためらいがちな声が聞こえて、敦子はびっくりした。
「ちょっと待って」
有田が、なぜこんな時間に……。チラッと寝入っている智恵子へ目をやったが、まさかドアも開けずに追い返すわけにはいかない。
チェーンを外し、鍵《かぎ》をあける。
「——こんな時間に、ごめん」
開けたドアから覗《のぞ》いた顔は、別に酔っているようではなかった。
「どうしたの?」
と、敦子は、玄関に立ったまま、訊《き》いた。
「寝てたの?」
「まだ。でも——」
「入っても、いいかい?」
有田の言い方は、決して強引ではなかった。
「悪いけど……。急ぎでなかったら、また明日でも」
有田の顔が、少し緊張した。
「一人じゃないのか」
「え?」
「誰かいるんだろ」
決死の覚悟、という顔で訊く。——敦子にも、やっと分かった。
「いるけど……。見ていいわ。起こさないでね。よく寝てるんだから」
と、ドアを開けて、有田を入れる。
玄関からでも、眠っている智恵子の姿はちゃんと目に入る。有田は、まるで宇宙人でも見るような目で、ぐっすり寝入っている智恵子を眺めていたが……。
「あの子……もしかして……」
「いつかの子。長野工場の」
「そうか」
有田は、拍子抜け、という様子だった。
「何だと思ったの? 男がいるとでも?」
「いや……。ごめん」
有田は、目を伏せて、「心配だったんだ。今日も、何度か電話したんだけど、君はいないし……。昼間ね——」
「しっ」
敦子は、智恵子が寝返りを打つのを見て、「外へ出ましょう。——ちょっと待って」
コートをはおった敦子は、有田を先に出して、そっと玄関のドアを閉めた。
「表に。廊下でしゃべってるわけにいかないわ」
サンダルは、階段に響いて、ドキッとするような音をたてる。敦子は、そろそろと下りて行った。
アパートの外へ出ると、夜気は結構冷たかった。
「昼間、来たんだ」
と、有田が言った。
「ここへ?」
「留守だったから、帰ろうとしたら、誰だかが、お二人で買い物ですってよ、って……。ドキッとしてさ。てっきり君が——」
「男と? 呆《あき》れた!」
「ごめん。——散々、迷ってたんだ。どうしようかと思って。でも、よく分からないで、明日会社で顔を合わせるのも、と思ってね。こんな時間で悪かったけど」
「あなた……もしかして、大分前から来てたの?」
図星だったらしい。
「いや……。二、三十分かな」
きっと、それの倍ぐらいは、どうしたものか、とこの前を、行ったり来たりしていたんだろう。動物園の熊みたいに。
「信じてないのね、私のこと」
と、わざと言ってやったが、正直、そう腹を立てているわけでもなかった。
「この前、あんなことがあったしさ……。嫌われてもしようがないもんな」
「心配性ね。禿《は》げるわよ」
と、敦子は笑って言った。
有田はホッとした様子で、
「あの子を、ずっと面倒みてるの?」
「こっちが面倒みてもらってる、って言う方が正確ね。行く所がない、って言うし、放っておけないから……。もちろん、いつまでも置くわけじゃないわ」
「課長、何か言ってたろ?」
「うん。——あの子がここにいること、黙ってて。ね?」
「分かった」
敦子は、切ない目をして、恋人のアパートの前をうろうろする、という、まるで少年みたいな有田を見て、却《かえ》って心が和む気がしていた。
この人が、智恵子の父親を死なせたなんてことが……。そんな! もしそうなら、有田も知っているはずだし。
「ねえ——」
と言いかけて、敦子は、いきなり派手なクシャミをした。
「風《か》邪《ぜ》引くよ」
と、有田があわてて言った。「寒いだろ?」
「大丈夫。——大丈夫よ」
有田の腕が、敦子の肩に回る。
何だか、二人とも黙ってしまった。
「もう……帰った方がいいわよ」
「うん」
「電車、ないわよ。この時間」
「そうだね。タクシー、拾えるかな」
若者雑誌の記事では、こんなセリフからキスに入ることはないだろうが……。ともかく二人は抱き合って唇を合わせていたのだった。