バスを終点で降りて、徒歩五分……。
簡単にしかメモして来なかったことを、敦子は悔やむことになった。終点の、バス発着所へ降り立って、途方に暮れてしまったのだ。
「団地って……」
団地を捜せばいい、と軽い気持ちでやって来た敦子は、グルッと四方を見回してみて、全部が団地だということを発見したのだった。
「困ったな」
右へ行くのか左へ行くのかも、さっぱり分からない。——ともかく、誰かに訊《き》くしかないが、お店とか交番といったものも、見当たらないのである。
ともかく、バスを降りた他の人たちが、ゾロゾロと同じ階段を上って行くので、差し当たり敦子もそれについて行くことにした。
——完全に車道と歩道が別になっている。
少し高くなった歩道へ上がって、改めて、敦子はその団地の広さに目をみはった。山脈のように、高層、低層、色とりどりの棟が重なり合って視界の限り、連なっている。
「凄《すご》い」
と、思わず呟《つぶや》いてしまった。
何から何まで人工の世界ではあるが、これはこれなりに、一つの秩序を形造っている。目に快適で、魅力的でもあった。
でも、感心しちゃいられないんだわ。
敦子は、歩道を行き交う人たちを眺めた。
今日は土曜日だ。有田は課の旅行。
あの、アパートの外での、クシャミつきの甚だロマンに欠けるラブシーンで、有田は、すっかり落ちついて、自信を取り戻した様子だった。今夜も、旅行先の宴会で張り切って歌って来る、と宣言していた。
有田に張り切って歌われると、他の人は迷惑するかもしれないが。まあ、有田が明るいのは結構なことだし、あのキスも予定外だっただけに、却《かえ》って無理がなくて、良かった……。
すばらしい青空だった。
ここまで来ると、都心では見られない、思い切り広がる空が見られる。こんな所に住むのも、悪くないな、と敦子は思ったりした。
もちろん、都心には多少遠くなるとしても。
「電話してみよう」
と、敦子は呟《つぶや》いた。
さて、電話は? 見回すと、大分先に、ボックスが見えた。
ともかく、差し当たりの目的地が決まって敦子はホッとしたのだった。
この団地に、平山が住んでいる。敦子は、その家を訪ねようと思って、やって来たのだ。
ともかく、竹永喜市がどうなったのか、知りたかった。妹の結婚式が近付けば、ますます忙しくなるだろう。
直接平山に、疑問をぶつけてみるしかない、と敦子は心を決めたのである。
SF映画に出て来そうな、透明なカプセルみたいな電話ボックスに入って、敦子は、平山の家にかけてみた。
呼び出し音が、二度、三度、と鳴り続けた。
——しかし、誰も出ない。
出かけているのだろうか? 敦子は、一《いつ》旦《たん》諦《あきら》めて受話器を戻した。
昨夜、ちゃんと電話を入れてから来るべきだった。それはよく分かっている。しかし、前もって訪ねることを知らせたら、平山は敦子の用件を察してしまうだろう。
平山は正直な男だ。実直で、ごまかしたり、うまく言い抜けたりできる人間ではない。敦子としては、そこが狙《ねら》いでもあった。
電話ボックスを出ると、敦子は、ちょうど通りがかった主婦に、
「すみません。ここから一番近いスーパーってどこでしょう?」
と、訊《き》いてみた。
「スーパーなら、あの陸橋の向こう側ですね。五分ぐらいですよ」
「どうも」
——家族揃《そろ》って買い物に出ているかもしれない、という、思い付きである。
言われた通り、歩道を辿《たど》って、そのまま陸橋を渡ると、急に人出の多い広場が目に入った。スーパーマーケットと、商店が十軒余り、広場を囲んでいる。
広場は子供で一杯だ。親が買い物している間、子供たちは広場で遊んでいる、というわけだろう。車も来ないし、安全でもある。
しかし——敦子は、その広場を見渡す陸橋の上で、思わず足を止めてしまった。
圧倒されてしまったのである。母と子、という取り合わせの群れ。子供たちの歓声、泣き声、叫び声のそのエネルギー……。
もちろん、敦子の住むアパートの近くだって、子供は大勢いるし、スーパーもある。しかし、同じような年代の母親と子供たちが、これだけ集まるということは、考えられない。しかも、ここでは、これが日常の光景なのだ。
BGMに流しているのも、どうやらTVアニメの主題歌らしい。
カラフルなタイルで形造った、パンダやライオンの絵が、広場を遊園地のように見せている。
平山を捜そうと思ったことを、一瞬、敦子は忘れてしまった。それほど、暖かい陽光の下での、目の前の光景は、敦子を釘《くぎ》づけにし、たじろがせたのだった。
もちろん——これが「幸福」だ、と言ったら、いくらでも反発は返って来るだろう。しかし、この華やかな絵の中に、一点景として加わって、子をあやし、ショッピングカーを引いて、見知った奥さんと立ち話に時を忘れる……。そうしてみたい、という気持ちに、敦子は呑《の》み込まれてしまいそうだった。
ちょっとの間、敦子は軽いめまいすら覚えて、陸橋の手すりにつかまった。
思ってもみないことだった。自分はこんなにも「家庭」とか、「親子の休日」とかをほしがっていたのだろうか?
しっかりしてよ、全く!
敦子は、気を取り直して、広場へと、ゆるい階段を下って行った。——平山を捜す、というよりは、好奇心一杯の野次馬の気分で、一軒ずつの店を覗《のぞ》いて歩く。
店の人間が、みんな少し不思議そうに敦子を見ている。たぶん、この辺の店には、全く見たこともない客は、めったに来ないのだろう。
店の人は何と思ってるのかしら、私のことを? 越して来たばかりの主婦? でも、そんな格好じゃないわね。
この団地に入ろうか、と見物に来た人というところだろうか。いずれにしても、独り者とは思わないだろう。
妙なもので、いつもなら、主婦と思われたら腹が立つだろうに、こんな場所では、主婦と思われなくては立場がない感じである。
「——大したもんね」
と、敦子は、思わず呟《つぶや》いていた。
とても、この人出では、平山を見付けるのは無理だろう。大体、ここに来ているかどうかも分からないのに。
せっかく来たんだから……。敦子は、ここのスーパーで買い物をして行くことにした。
何しに来たんだろう、全く。
スーパーの袋を下げて、あのバスの発着所へ向かって歩きながら、敦子は笑い出したくなった。妙に気分が高揚して、歌でも歌い出しそうだ。
今日はもう帰ろう。——平山が留守だったのは、却《かえ》って良かった。こんな日に、平山に辛い思いを強いる必要もないだろう。
智恵子のことを忘れたわけではないが……。
階段を下りかけて、敦子は足を止めた。上って来る平山を見たからである。
「やあ」
平山が、敦子に気付いた。「——どうしてここに?」
平山は、両手に、ふくらんだ紙の手さげ袋を四つも下げて持っていた。二、三段遅れて、女の子の手を引いた奥さん……。
仕方ない、会ってしまったからには。
「ちょっと話があって」
と、敦子は言った。
「そうか」
平山も、分かったらしい。妻と娘を、敦子に紹介すると、
「この人とちょっと話がある。先に帰っててくれ」
と、妻へ言った。
平山の妻は、敦子へ無言で会《え》釈《しやく》して、行ってしまった。
「——ごめんなさいね」
敦子は、木のベンチに腰をおろした。
「いや。遠くのスーパーへね。バスで行ってたんだ。まとめて買うと、いくらか安いんだよ」
平山は、紙袋を足下に置くと、倒れないように、何とか支えていた。
「スーパーがいくつもあるの?」
と、敦子は訊《き》いた。
「ブロックごとにある。まあ、どこも似たようなもんだし、普段は近くですませてるがね。たまの休みは、荷物持ちがいるから、遠くても安い所へ行く」
「じゃ、混雑してる?」
「そうだね。しかし、安いといったって、一つ一つは何百円も違うわけじゃない。せいぜい、二、三十円、ものによっちゃ、何円って単位だ。くたびれたからって、冷たいもんでも飲みゃ、たちまち得した分なんか消えちゃうよ」
平山は、ちょっと笑って、「しかし、それでも嬉《うれ》しいのさ。ささやかなもんだ」
「でも、分かるわ」
と、敦子は肯《うなず》いた。
「ここは、初めてだったね」
「ええ」
「大きいだろう」
「でも、すてきな所ね。一度住んでみたくなるわ」
「結婚したら、住んだらいい。まあ、いつまでもいる所じゃないかもしれないが、子供が小さい内は、何かと便利にはできてるよ」
「本当ね」
敦子は微《ほほ》笑《え》んだ。
話が途切れて、しばらく二人は黙っていた。
「ごめんなさいね、しつこく」
と、敦子は、両手を組み合わせて、「私、今アパートに、あの女の子を置いてるの」
「女の子?」
「会社へ訪ねて来た、竹永って人の娘さん。行く所がない、っていうし、それに、私も責任を感じて」
「そうか……」
「妙だわ。あの時、一緒に来た人たちのことを調べてたら、課長からやめろと言われるし、それに——」
敦子は、言葉を切った。あまり時間を取らせるわけにはいかない。
「平山さん」
敦子は、平山の方へ体を向けた。「あの人——竹永って人、死んだんじゃないの?」
平山は、敦子の方を見ずに、
「どうして」
と、言った。
「色々考えてみて、それしか考えられない。もしそうなら……。私も知らん顔はできないわ。有田さんがやったんですもの。それを訊《き》きたくて……」
敦子の言葉は、低くなって消えた。
「確かに」
と、平山は目を足下に落として、「一人、意識を失っている人がいたね。それは憶《おぼ》えてるよ」
前に訊いた時は、憶えていない、と言ったのに。しかし、敦子は平山を責める気持ちにはなれなかった。
「その人はどうなったの?」
「有田君が背負って、運んで来た。他にもけが人が大勢いて、大西さんが私に、クリニックへ連れてってやれ、と言ったんだ」
平山は、足の間に置いた紙袋が倒れそうになるのを、引き戻した。「私は、『その人はどうするんですか』と訊いた。大西さんは、『気絶してるようだから、少し様子をみる』と言って……。『必要なら俺《おれ》が救急車を呼ぶから』とも言ったよ」
「それで平山さんは、他の人たちを——」
「クリニックへ連れて行った。何しろ人数も多かったしね、大分時間がかかった。戻ってから、後は大西さんがみんなをどこかへ連れて行ったよ」
「その気絶した人は?」
「分からない」
平山は首を振って、「訊いてみたよ、大西さんにね。『病院へ運んだんですか』と。大西さんは、『いや、大したことなかったんだ。もう忘れろ』と言っただけだ」
「——それきり?」
「うん」
「おかしいわ。どう見たって、あの竹永さんが柱に頭をぶつけた勢い……。何でもなかった、なんてはずないわ」
「しかしね」
平山は、ため息と共に言った。「何ができたんだね、私に? 大西さんを、嘘《うそ》つきと問い詰めるわけにもいかない。確かに、本当に大丈夫だったんだろうか、と首をかしげはしたよ。だけど、それを口に出せる立場じゃない」
「ええ、それは分かっているの。無理を言うつもりはないんだけど、つい……。ごめんなさいね」
敦子は、これ以上、平山から訊き出すことはない、と思った。おそらく、本当に、平山はこれ以上のことは知らないのだろう。
「ただ——」
「え?」
「警備員室へ入ろうとしたら、鍵《かぎ》がかかってたんだ」
そう。——それは、敦子も憶《おぼ》えている。
上で休んで、落ちついてから、気になって一階へ下りて行った時、やはり警備員室の鍵がかかっているので、戸惑った。
「でも、平山さんは、鍵を持ってるんでしょう?」
「もちろん」
「開けてみなかったの」
と、敦子は平山の顔を覗《のぞ》き込むようにして、言った。
「開けようとしたよ」
と、平山は肯《うなず》いて言った。「そしたら、大西さんが、飛んで来たんだ。『開けるな!』と怒鳴られてね」
「どうして?」
「何だか……はっきりは言わなかった。まだ外にTV局の連中がいるし、色々隠しとかなきゃならん、とか……。ともかく、今日はそこへ入るな、と強く言われた。そう言われりゃ、はい、と答えるしかないからね」
「竹永さんは、あの部屋へ運ばれたんじゃなかったの?」
「ああ。中に古いソファがあるだろう、色の変わっちまった。あそこへ有田君が寝かせてたのを見たよ」
「それきり……目を覚まさなかったんじゃないの?」
平山は、黙って首を振った。もちろん、平山には答えられないのだ。
しかし、その状況から考えて、竹永がそこで死んだという可能性はある。いや——かなり可能性は大きい、と言わざるを得ない。
「その日は、あの部屋へ全然入らなかったの?」
「うん。ちょっと置いてある物もあったんで、入りたかったがね。大西さんに見付かるとまずいし、その日は入らずじまいだった」
「翌日は?」
「鍵《かぎ》は開いてた。中も別に、いつもと変わりなかったよ」
「そう」
敦子は、肯《うなず》いて「分かったわ。ありがとう。ごめんなさい、いやなことを思い出させて」
と言って立ち上がった。
平山がホッとして立ち上がるかと思ったが、じっと腰をおろして目を伏せたままだ。
「平山さん……」
「気にならないわけじゃないんだよ、私も」
「ええ、それは——」
「しかし、この年《と》齢《し》で、今の仕事を失《な》くしたら、そう簡単にゃ次は見付からない」
「分かるわ」
「洋子はまだ小さいし……」
「気にしないで」
敦子は、平山の肩に、手をかけた。「私、暇なもんだからね、つい……。奥さんによろしく」
「うん」
「じゃあ、また月曜日に会社で」
敦子は、足早に、あのバスの発着所に下りる階段の方へと歩いて行った。平山に、ひどく悪いことをしてしまったようで、早く逃げ出したい気分だったのである。
ちょうどバスが停まっていたので、駆け込んだ。一《いつ》旦《たん》、座席に荷物を置いてから、料金を入れに戻る。
すぐ扉が閉じてバスが動き出した。敦子は、窓の外に、揺らぎながら遠ざかって行く団地の風景を、しばらく見送っていた。
アパートに戻った敦子は、玄関の鍵《かぎ》を開けようとして、戸惑った。鍵がかかっていないのだ。
「——ただいま」
と、声をかけてドアを開けると……。
中は薄暗かった。もう夕方なのに、明かりも点《つ》いていないし、カーテンは開けたまま。
「智恵子さん」
明かりを点けて、敦子はともかく買い物の袋を置いた。そして、玄関に智恵子の靴がないことに気付いた。
「どこに行ったんだろ?」
智恵子がはいていたサンダルは残っている。ということは、どこか、この近所ではない所へ出かけたのだろうが、そのくせ鍵をかけていないのは妙だ。
ともかく、上がってカーテンを引き、何かメモでもないかと捜した。
まあ、たぶん——ただ、鍵をかけ忘れただけのことだろうが。
着替えて、夕食の仕度をしよう。
平山の話も、結局、敦子の抱いていた疑いを、ただ増幅したに過ぎなかった。真相を知っているのは、大西ただ一人で、その大西には、直接訊《き》くことができない。
どうしたものか、敦子は迷っていた。でも今は……差し当たり、夕ご飯の用意。智恵子が出かけているのなら、今日は一人で頑張ってみよう。
脱いだ服を洋服ダンスへしまおうとして、敦子は立ちすくんだ。——智恵子の服が、なくなっている。
この間の休日に買って来た服も、見当たらない。急いで押し入れを開けてみた。
タオルケットや毛布はそのまま置いてあったが、智恵子のボストンバッグが見えない。
——出て行った? どこへ?
どうして突然、何も言わずに……。
胸さわぎがした。智恵子の身に何かあったのではないか。
有田が——。有田は、智恵子がここにいることを知っている。大西へ知らせ、大西が智恵子を連れ出して……。
まさか! 大西も有田も、やくざやギャングじゃないのだ。いくら何でも、そんなことが……。
敦子は、部屋を出て、一階の水町の部屋へ行ってみた。あの奥さんは目ざとい人だ。何か気付いているかもしれない。——しかし、留守らしく、返事はなかった。
諦《あきら》めて、部屋へ戻った敦子は、ドアを閉めて、内側についている新聞受けの中に、白い物が見えているのに気付いた。封筒だ。
急いで開けると、中からこの部屋の鍵《かぎ》が落ちて来た。そして一枚の手紙。智恵子の字だ。——たった一行。
〈お世話になりました。智恵子〉
敦子は、わけが分からず、その手紙を手に、呆《ぼう》然《ぜん》と突っ立っていた。