え? もう終わったの?
本当に、そんな感じだった。——敦子は、人のいなくなった宴会場を見回して、何だかまだ夢から覚めていないような気分でいたのである。
まぶしいくらいに明るい照明の下で、コーヒーカップが白く光っている。妹の学校時代の友人たちのコーラスや、新郎の仕事仲間の送ったエールの声が、まだその辺を漂っているようでさえあった。
「敦子」
と、呼ばれて、我に返る。
母の千枝が、あんまりおめでたくもなさそうな顔で立っていた。
「どうしたの?」
「おじさんたち、もうお帰りだって。ご挨《あい》拶《さつ》しなさいよ」
「はいはい」
こういう席では、何年も顔を合わせていなかった親類が集まるので、大変である。ついでに縁談を持って来たり、商売の話をして帰ろうとか、金を借りたいとか……。
何だか、肝心の結婚式の方が「ついで」みたいで……。
しかし、周囲はともかく当人たちにとっては、「人生最良の一日」となったろう。それならそれで結構なことだ。
「——寿子は?」
母と一緒に式場を出ると、敦子はエレベーターでロビーに下りて行った。
「お友だちとワイワイやってるわ」
と、母は諦《あきら》め顔。「散々、人に心配かけといて」
「仕方ないわよ」
「あんたはやめてよね、こんなこと」
「さあね」
と、敦子はとぼけて見せた。
ホテルのロビーは、若い女の子たちでにぎわっている。この辺は、東京と少しも変わりがない。
「やあ、どうも」
と、やって来たのは、寿子の旦那、山下輝男である。「色々、ご迷惑をかけて」
「いいえ」
と、敦子は言った。「これから妹がご迷惑をかけると思いますけど」
人当たりのいい、なかなかよくできた男である。弁護士というから、妙にいばっていたり、インテリくさかったらいやだな、と思っていたのだが、そういう心配はなさそうだ。
敦子も寿子の性格は分かっているし、この山下という男性にひかれたのは、分かるような気がした。
もう中年ではあるが、疲れた感じはない。といって、妙に脂ぎった印象も与えない。
少々照れくさそうに、タキシードの胸に花などつけているのが、微《ほほ》笑《え》ましく見えた。
「お姉ちゃん」
と、寿子がやってくる。
ピンクのカクテルドレスで、頬《ほお》が上気しているのはワインのせいか。
「苦しくないか、そんなに細いドレスで」
と、山下が言うと、
「失礼ね。そんなに太ってないわよ」
と、口を尖《とが》らす。
「明日、発《た》つんでしょ? 気を付けてね」
「あれ、お姉ちゃん、見送りに来てくれないの?」
「おみやげしだいだね」
と、敦子は言ってやった。「お友だちの方はいいの?」
「うん。このまま恋人とデートって子もいるし」
「楽しそうで結構ね」
と、敦子は笑った。
「——敦子」
と、母の千枝が何やら駆けて来た。
「お母さん、転ぶわよ、走ったりして。どうしたの?」
「あの——ほら、何だか上で捜してたって。受付頼んだ人……。何てったかね」
「ああ、分かったわ。行くから」
こういう細かいことにかけては、母は全然だめである。
「すみませんね」
と、山下が恐縮した様子で、「本当なら、僕の方で全部やるところですが」
「いいえ。うちの関係の方がずっと多いんですもの。ご心配なく。じゃ、ちょっと失礼します」
行きかけると、
「お姉ちゃん!」
寿子が追いかけて来て、「今夜、私たち、ここに泊まるんだけど」
「知ってるわよ」
「彼が、お姉ちゃんと話したこともないし、って。夕ご飯でも少し遅めに一緒にどうですかって」
「あんたたち二人と?」
「いいじゃない。面白い人よ」
「お邪魔じゃないの?」
「邪魔なら、よばない」
「そうか」
敦子は笑って、「じゃ、時間があれば、ってことにしましょ。ともかく、一《いつ》旦《たん》、後のことを片付けないと。——部屋へ入るんでしょ? 電話ちょうだい」
「うん」
敦子は、エレベーターの方へ歩いて行った。忙しく、あわただしい一日だったが、敦子は楽しんでいた。
自分が頼られ、忙しく駆け回る、という生活は、敦子には合っているのである。長女だから、というだけではあるまい。OLとしてのキャリアが、ものを言うのである。
ホテルの宴会係の人と、最終的な精算をして、話がすむと、もう家族もみんな帰ってしまった後で、敦子は、
「全く、みんな人任せで」
と、愚痴を言いながら、結構充実感を味わっていた。
一人になって——さて、家へ帰るか、と思ったが、今日帰る家は、いつものアパートではない。寿子は、もう家を出てしまった人間なのだし、帰れば待っているのは両親と親《しん》戚《せき》の人たち……。
敦子の顔を見れば、きっと、
「敦子ちゃん、まだ嫁に行かんのかね」
ということになるに決まっている。
いささかくたびれてもいたし、敦子は、帰る前にラウンジで一休みすることにした。
もちろん、長女という立場もあるし、こんな時、親類に挨《あい》拶《さつ》もしないというわけにはいかないのは承知している。ただ、それだけのエネルギーを一旦蓄えないと、今の状態では、後でどっと疲れが出そうだった。
「コーヒー下さい」
と、オーダーして、寿子が、良かったら夕食を一緒に、と言っていたことを思い出した。
でも……。ここは遠慮しておいた方がよさそうだ。敦子がいないと、母の機嫌も悪くなりそうだし……。
山下と会う機会は、まだいくらもあるだろう。
コーヒーが来て、ゆっくり飲み始めると、
「——あら」
敦子は、当の山下が、ラウンジでウロウロしているのに気が付いた。「山下さん」
山下は、敦子に気付いて、
「やあ、これは」
と、やって来ると、「ここにかけてもいいですか」
「ええ、どうぞ。寿子は?」
「ホテルの部屋で、何だか学校の時の友だちと騒いでます」
と、山下は笑って言った。「とても、中年男の出る幕じゃないので、逃げ出して来ました」
「すみません、あの子も甘えん坊だから」
「いやいや、そこに惚《ほ》れたんですからね」
「独身の女性の前で、そんなにのろけないで下さい」
と、敦子は言ってやった。
山下もコーヒーを頼んで、やれやれ、というように息をついた。——もう若くはないのだ。くたびれただろう。
「そうだ、寿子がお話ししたと思いますが、今夜、よろしければ——」
「ええ、でも、家に大勢親《しん》戚《せき》が来ていますし、その相手をしなくちゃいけませんから」
「そうか。——大変ですね。僕の方はあまり親類という奴《やつ》が多くなくて。気楽と言えば、気が楽です」
と、山下は微《ほほ》笑《え》んで言った。
では、一緒の夕食は、ハネムーンから戻って、改めて……。
一応、山下との間で、そういう話にはなったものの、考えてみれば、敦子はそんなにいつまでも休みを取れるわけではない。結局、何年も(!)先の話になってしまうことだろう。寿子だって、出産が近付けば、姉のことなんか頭から消し飛んじゃうことだろうし……。
「——お客様の、ナガセ様、ナガセ様」
と、ラウンジを、ウエイターが呼んで回っている。「ナガセアツコ様……」
どうやら、私のことみたい、と敦子は思った。でも、どうしてこんな所で呼び出されるんだろう?
「あの、永瀬ですが」
と、近くへ来たウエイターに声をかけると、
「お電話が入っております」
敦子が腰を浮かしかけると、「今、お持ちしますので」
と、止められる。
待っていると、ワイヤレスの、短いアンテナのついた電話を持って来てくれる。
「どうも」
しかし、人と会ってる時に、聞かれて困るような電話がかかって来たら、これも却《かえ》って不便かもしれない。
「もしもし」
と、呼びかけると、向こうからは何の返事もない。「——もしもし。——永瀬です」
「あ、もしもし!」
と、息をきらして、「僕だよ」
「なんだ、どうしたの?」
有田である。もちろん東京からかけているはずだ。
「いや、ごめん。お宅の方へかけたら、たぶんまだホテルの方にいる、ってことだったから……」
「やっと片付いて、一休みしてたの。何なの?」
「実はね……」
有田は、言いにくそうに、「TV局が来たんだ、今日」
「TV局?」
「会社へ、突然ね」
「どういうこと?」
「例の事件だよ。君がアパートに置いてた、竹永って子……」
「あの子がどうかしたの?」
敦子は一瞬青ざめた。智恵子の身に何かあったのかと思ったのだ。
「いや、そうじゃないんだ。あの子の父親が行方不明になっただろう? そのことをね、TV局の奴《やつ》が、調べてるらしい。課長と、僕に話を聞きたい、って。それと君にも」
敦子は、思いもかけない有田の話に、戸惑った。
TV局の人間が、敦子の所へ来るというのは分かる。しかし、敦子は大西の名前を出してはいないし、ましてや有田のことなど、知るわけもないのだ。
「ともかく、君は故郷へ帰ってる、と言ったら、分かったと言ってたけどね」
と、有田が続けた。
「今、どこからかけてるの?」
と、敦子は訊《き》いた。
「会社だよ。会議室だ」
「他に誰かいる?」
「いや、一人だよ」
「そう」
敦子は、目の前に座った山下の方へ、チラッと目をやった。山下はすぐに察して、席を立つと、自分のコーヒーカップを手に、離れたテーブルに移って行った。
「もしもし。——ごめんなさい。ちょっと他の人と一緒だったものだから。もう大丈夫」
「しかし……。参ったよ」
有田の声だけで、敦子にはおよそ察しがついた。
「大西さん、私がしゃべったと思ってるわね、きっと」
「うん……。まあね」
「話したの? あの子が私のアパートにいたってこと」
「とんでもない。言いやしないよ」
と、有田は強い調子で言った。
「でも、今になってどうして……。向こうは何て言ってるの?」
「よく分からない。ともかく課長がピリピリしててさ、話すことはない、と言って、押し通したんだ。だから、向こうの話も聞けずじまいさ」
「大西さんとあなたの名前を出して、会いたい、と言って来たの?」
「うん。だからきっと君が何かしゃべったんだろうって、課長が……」
「何も言ってないわよ、私」
「分かってるさ。君……いつ帰る?」
敦子は迷った。明日一日休暇にしてあるし、明後日は休日。本当は明後日の夕方辺りの便で東京へ戻るつもりだった。
「一旦は引き上げたの、TV局の人?」
「うん。でも、また来る、と言ってたよ。もしかすると、僕の家にも来るかもしれないな」
「私のアパートにもね」
「一切、返事をするな、っていうのが課長の命令さ。その内には諦《あきら》める、って」
それはそうかもしれない。しかし……これだけの期間を置いて、またTV局がやって来たというのは、何かつかんだからではないだろうか。敦子にはそう思えた。
「——あの女の子のことは、何か言うか訊《き》くか、してた?」
と、敦子は言った。
「いや、話には出なかったよ」
正直なところ、敦子はもう竹永のことは忘れてしまおうと思っていた。
竹永智恵子が突然姿を消してしまったことは、小さからぬショックだった。——別に、敦子としては智恵子をアパートに置いていたことで、恩を売るつもりではない。しかし、一緒に暮らしていて、時には妹のようにすら感じていた智恵子が、一片の置き手紙だけで、わけも言わずに出て行ってしまったのだ。
敦子としては、どうしても裏切られた、という気持ちになるのも、無理からぬことだろう。もちろん、それはそれとして、智恵子の父親の消息を知りたいという思いはあったが、事実上、敦子には、これ以上踏み込むことは不可能な状態だったのである。
「分かったわ」
と、敦子は言った。「何とか明日の便で帰るようにする」
「でも、無理して——」
「大丈夫。こっちに長くいたら、お見合いでもさせられそう」
「じゃ、すぐ帰って来いよ」
と、有田があわてて言ったので、敦子は思わず笑ってしまった。
「——だけど、尾を引くわね」
と、敦子は言った。
「そうだね。でも、仕方ないさ、これ以上」
「そうね。——私のこと、クビにするとか、言ってなかった?」
「まさか。そしたら、ちょうどいいじゃないか。僕と結婚する口実ができる」
「それはそうね」
と、敦子は有田に合わせた。「じゃ、帰ったら電話するわ」
「うん。——悪かったね、せっかくのんびりしてる所へ」
「声が聞けて良かったわ」
敦子はそう言って、電話を終えた。
山下が、席に戻って来ると、
「何か厄介事でも?」
と、訊《き》いた。
「会社で、ちょっと。大したことじゃないんですけど」
「もし、必要ならいつでも東京の親しい弁護士を紹介しますよ」
そうだった。山下は専門家である。
「そんなことにはならないと思いますけど……。その節はよろしく」
と、敦子は微《ほほ》笑《え》んだ。
むしろ、今気が重いのは、明日東京へ戻ることを、母にどう言うか、であった。きっと、ブツブツ言うことだろう。
寿子が勝手に結婚したと思ったら、お前も何だかんだと言って、また行っちゃうし。少しは親の気持ちも考えてみたら?
——母のセリフは大体想像がつく。
「山下さん」
と、敦子は言った。「親の叱《こ》言《ごと》をうまくかわす方法、教えていただけません?」
山下と別れて、敦子は家へ帰った。
想像した通り、家には、まだ親《しん》戚《せき》たちが四人上がり込んでいて、父と飲んでいた。
「——お父さん」
と、敦子は、真っ赤な顔の父をにらんで、「お酒は控えて、って言われてるんじゃないの?」
「敦子か。いつ帰ったんだ?」
もう完全に「出来上がった」様子の父は、トロンとした目で娘を眺めて、「ちゃんと寿子の式に出てやらなきゃいかんぞ。お前は長女なんだぞ」
「何言ってんのよ」
と、敦子はため息をついて、「もうお酒はそれだけよ。——すみません、もう父は寝かさないと」
急いで、奥へ行って着替えていると、
「敦子」
と、母の千枝が入って来た。
「何であんなに飲ませるのよ。倒れたって知らないよ」
「しょうがないでしょ。こんな時だもの」
「もう寝かせないと。——みんな、帰ってくれないかなあ」
「大きな声で……」
と、千枝は顔をしかめた。「聞こえるじゃない」
「聞こえたからって、帰るような、おとなしい親戚、うちにはいないでしょ。中《なか》洲《す》のおじさんなんて、何か持ってくかもしれないわよ。気を付けた方がいいわ」
敦子も、ものの言い方ははっきりしている方だ。「中洲のおじさん」というのは、父の従兄《いとこ》である。中洲というのは、もちろん博《はか》多《た》の繁華街の名だ。
バーをやったり、パチンコ屋を開いたり、思い付きで商売を始めては潰《つぶ》して借金を重ねている。こんな時でもなければ、およそ会うことのない人だった。
あらゆる親《しん》戚《せき》から金を借りて、全然返していないから、向こうも会いたくないはずだ。しかし、おめでたい席なら、みんな遠慮して借金の催促はしない、と分かっているから、やって来るのである。
「お茶いれるの、手伝ってよ」
と、千枝が言った。
「もういいじゃない。帰ってもらえば?」
「今、お寿《す》司《し》が来るのよ」
「呆《あき》れた! あのおじさんでしょ、言い出したのは」
「今日はそうケチもできないじゃないか」
と、千枝は愚痴っぽく言って、「お前、いつまで居られるの?」
「明日、帰るわ。急な仕事が入ったの」
と、投げるような調子で言って、「じゃお茶いれるわね」
母に文句を言う隙《すき》も与えずに、敦子は台所へとエプロンをつけながら、入って行った……。