それとも、もう向こうへ着いているのだろうか? 敦子には、よく分からなかった。
まあ、そんなことはどうでもいい。ともかく、山下と寿子の二人は、無事にハネムーンに発《た》っていったのだ。
「もうすぐ着くのね」
と、敦子は呟《つぶや》いた。
これはこっちの話である。今、敦子は東京へ向かう飛行機の中にいた。
少し揺れるようになって、高度が下がって来たのが分かる。——敦子は、何度乗っても、飛行機というのが好きになれない。
いつも、足下をおびやかされているみたいで、不安なのだ。それでも、列車で半日もかけて帰るよりは、と飛行機にしているが。
一人で乗るのでなければ、飛行機も悪くないかもしれない。誰か、頼れる男性が隣に座っていてくれたら……。
結局、寿子たちの式の翌日にはどうしても発てず、もう一日ずらすことになった。
今日は休日。羽田空港からの道はいつもより空いているかもしれない。
シートベルトをしめるように、というアナウンスがあった。敦子は、至って真《ま》面《じ》目《め》に、座席にいる間は必ずシートベルトをしている。アナウンスを聞いて、また確かめてみた。
——発つのも気が重かったが、東京へ戻れば、また気の重いことが待っている。有田には、この便で帰ると連絡しておいたので、迎えに来ているはずだ。
母の愚痴、見合いをしてから東京へ戻れ、としつこく言うのを、半ば喧《けん》嘩《か》するように振り切って帰って来た。——敦子は、心底疲れてしまった。
父は父で、酔って眠りこけ、昨日一日、ほとんど布団から出て来なかった。今日は起きていたが、頭痛がすると言ってゴロゴロしているし、寿子の結婚のことでも、まだ不平を言っていた。
病気のせいもあるし、自分が働けないという苛《いら》立《だ》ちが、敦子への負い目と、その裏返しの強がりになるのだ。そう分かっていて、父の気持ちを理解しているつもりでも、くどくどとこぼされると、苛々して、怒鳴りたくなって来る。
母には、経済的な不安もあった。寿子の結婚で、寿子の分の給料は入らなくなる。もちろん、その分、山下が出してくれることにはなっていたが、何といっても、娘からもらうのとは違う。何かの都合で、山下が金に困りでもしたら……。
もうよそう。敦子は、強く頭を振った。
——間もなく、羽田だった。
ともかく、今日は何もないだろう。TV局も、大西も。——何かあるとすれば、明日だ。
それまでは、忘れていたい。敦子は切実にそう願った。
何か楽しいことを考えよう。いいことだけを……。
高度を下げ、確かな大地へと近付いて行く飛行機の中で、敦子は目を閉じて、考えた。ハネムーンに旅発って行く、山下と寿子の笑顔を。照れている山下と、得意げな寿子の、腕を組んだ後ろ姿。
そして——そうだ。山下の、中学生の男の子。
本当に愉快な子だった。あれなら寿子が手こずることはあるまい。むしろ、寿子と一緒になってはしゃぎ回りそうである。
ハネムーンの間は、親類の家に厄介になるということだったが、父親の背中をポンと叩《たた》いて、
「ゆっくり行って来てね」
と、言ったものだ。「毎日、別の子とデートが詰まってんだ」
ちょっとませていて、でも根は至って真《ま》面《じ》目《め》そうな、面白い少年だった。
いや、敦子にとっては、甥《おい》ということになる。敦子のことを、しっかり、「おばさん」と呼んでいたっけ……。
そう呼ばれても、腹は立たない。事実その通りなのだし、それに少年の言い方が、いかにも親しみをこめたものだったからである。
寿子のことは、ひとまず心配ないとして、さて、今度は自分のことを心配しなくてはならないわけだ。
飛行機が少し傾いた。滑走路へ入るのに、旋回しているのだろう。——敦子は、こみ上げて来る不安を迎えて、ギュッと両手を握り合わせた。
早く、有田に会いたいと思った。有田の、少し頼りなげな、屈託のない笑顔を見たい……。
窓の外に、空港の灯がせり上がって来る。車輪が大地に触れるショックが、体を揺さぶると、敦子は大きく息を吐き出した。
もし……。有田が迎えに来ていて、そして彼がいやだと言わなければ、そのままどこかへ行ってしまってもいい、と敦子は思った。
母からの電話も、TV局の人間も追いかけて来ない所で、ゆっくりと眠りたい。
そう。——有田が誘えば、今ならどこヘでもついて行ってしまうだろう……。
飛行機は急速に速度を落とし、機内では、せっかちな乗客が早くも立ち上がって、荷物を下ろし始めていた。
「——お帰り」
と、有田は言った。
休日なので、背広にネクタイという格好ではない。それにしても、スポーツシャツと上衣の色の合わないこと。
敦子は、そのちぐはぐさに、何となく安心していた。そして自分から、有田の腕に、自分の腕を絡ませたのだった。
「色々大変ね」
と、敦子は言った。
「君も、疲れたろ」
有田は、一緒に歩き出しながら、「車、駐車場に置いてあるんだ」
「良かった。これから電車に乗って帰る気、しないわ」
「どうする? まだ晩飯にはちょっと早いだろ」
「そうね。——どこかで休みたい」
「じゃ……。喫茶店にでも入る?」
何てまあ、気のきかない人!
「ね、どこか電話してみてよ」
「電話って、どこへ?」
「ちょっといいホテルでも。いいんでしょ、遅くなっても?」
有田は、ポカンとして敦子を見ていたが、
「うん。——うん、構やしないよ」
と、何度も肯《うなず》いた。「明日、休もうか、会社」
「そういうわけにはいかないわ」
と、敦子は笑って、「宮田さんに何言われるか。でも、ホテルから出勤したっていいじゃない」
「——電話して来る」
有田が、せかせかと人をかき分けて歩いて行った。
敦子は、ボストンバッグを足下に置いて、立っていた。忙しげな人の流れの中で、一人突っ立ってるのは、妙な気持ちだった。
何だか家出少女みたいだわ、と思って、笑ってしまう。
ふと、智恵子のことが頭に浮かんだ。——今は考えまい。せっかく、有田が電話をかけに行ってるんだから……。
「いやだ、あの人」
どこまで電話をかけに行ったのか。ちょっと振り向くと、すぐ後ろに、公衆電話があったのだ。
有田が、息を弾ませながら、戻って来るのが見えた。
「——取った!」
と、やけに元気そうに言って、敦子のボストンバッグを持つ。「さ、行こう」
「どこのホテル?」
「この前の所。大丈夫。今度は飲まないからさ」
「介抱してあげるわよ」
「もう言わないでくれよ、それは」
有田の言い方がおかしくて、敦子は笑ってしまった。
ターミナルから出ると、冷たい風が吹いて来て、敦子はびっくりした。
レンタカーも、なかなか乗り心地のいい新車で、ホテルへ着くまでの三十分ほど、敦子は眠ってしまった。
もう、迷うことも、苛《いら》立《だ》つこともない。少なくとも、これから何時間かの間だけは。そう思うだけで、敦子は幸せな気持ちだった。
敦子は、寝返りを打った。
目の所に、ちょうどドアの隙《すき》間《ま》から漏れた光が当たって、目を開ける。——何だろう?
誰が来たのかしら。二人で泊まってる部屋なのに。
少し頭を持ち上げて、やっと気が付いた。開いているのは、部屋のドアではなく、バスルームのドアなのだ。水の出る音が、聞こえている。有田がシャワーでも浴びているのか。
ツインルームとしては広いタイプの部屋で、薄暗がりの中でも、その広さが感じられて、敦子は気分が良かった。いつもいつも、あの狭苦しいアパートで寝ている身には、広いというだけで、解放感がある。
ルームサービスで取った食事のワゴンを、廊下へ出していなかったので、料理の匂《にお》いが残っている。
何時かしら? 頭をめぐらして、ナイトテーブルのデジタル時計を見た。
十一時半を少し過ぎたところ。——では、そう真夜中というわけでもないのだ。
頭の方は覚めても、体は一向に目覚めないようで、敦子はまた目をつぶった。
有田とこういうことになってしまったが……。まあ、後悔はしていない。結婚する気でいたのだし。
有田がバスルームから出て来た。
「あれ、起こしちゃったかな」
敦子が目を開けるのを見て、有田が言った。
「いいのよ。さっきから目は覚めてたの」
「そうか。——何だか、また風《ふ》呂《ろ》に入りたくなって。好きなんだよな、風呂って」
「温泉にでも来たみたいね」
と、敦子は笑って言った。
「眠るかい、このまま?」
敦子は首を振って、
「私もざっと一風呂、ってことにするわ。それからのんびり寝る。でも、あなた、お家《うち》へ帰らないと。あの格好じゃ、会社へ行けないでしょ」
「あ、そうか」
「呑《のん》気《き》ねえ」
敦子はベッドに起き上がって、頭を二、三度強く振った。
何となく、目を合わせると照れてしまう。
「——じゃ、ちょっと入って来るわね」
「うん。何か飲むものでも取っておこうか?」
「アルコールはだめよ、寝坊しちゃいそう。それより、まだどこか下のラウンジが開いてるでしょ。ちょっと行ってみない?」
「うん、それでもいい」
「それじゃ」
敦子は、ホテルの浴衣《ゆかた》をはおって、ベッドから出ると、バスルームへ入って行った。
浴槽にお湯を入れて、体を浸すと、何とも言えず、いい気分である。このまま眠って、溺《おぼ》れちゃいそうだな、と思ったりした。
すると、電話が甲高い音で鳴り出した。
バスルームの中では、電話は、正に爆発でもしそうな勢いで鳴る。敦子はびっくりして、声を上げそうになった。
もちろん、バスルームについている電話は、受信専用である。ベッドのわきの方で、すぐに有田が出たらしく、音はやんだが、敦子はすっかり目が覚めてしまった。
一体何だろう? ここに泊まっていることなど、誰も知らないはずだ。
誰かが、部屋を間違えてかけたのかもしれない。何しろ大きなホテルだ、そんなこと、珍しくもないだろうし……。
ゆっくりと暖まって、お湯から出ると、敦子はバスタオルを体に巻きつけて、ドアを細く開けた。
「何だったの、電話?」
——何の返事もない。
「有田さん。——どうしたの?」
顔を出してみると、有田の姿が見えない。
どこへ行ったんだろう?
テーブルの上に、メモ用紙が置いてある。覗《のぞ》いてみると、走り書きで、〈ちょっと出て来る。すぐ戻る〉とあった。
首をかしげながら、敦子はバスルームへ戻って、体を拭《ふ》き、ドライヤーで髪を乾かした。
お風《ふ》呂《ろ》へ入ったせいか、体のだるさが消えて、すっきりしていた。アパートへ帰ろうか、と思った。
泊まらなくてはもったいないのは確かだが、明日、このまま出勤するというのも……。
まあ、今決めなくてもいいだろう。有田が戻って来たら、ゆっくりお茶でも飲んで、それからどうするか決めればいい。
できることなら、二人で明日一日、休みを取って、ここで昼ごろまで寝ていたい。たまにはそんなことがあっても、と思うが……。
でも、休みを取った後である。出勤しなくてはならない、ということは、敦子にも分かっていた。それでも、ちょっと夢を見ていたいのだ。
服を着て、ソファに腰をおろし、ホテルの案内のパンフレットを眺めていると、ドアをノックする音がした。
敦子は立って行って、ドアを開け、
「どこへ行ってたの?」
と、言ったが——。
「やあ」
と言ったのは、大西だった。
敦子は、言葉も出ないまま、大西を中へ入れていた。
「すまんね、せっかくの楽しい夜を邪魔してしまって」
大西は、部屋を見回して、「いいなあ、広くて。我が家の寝室の三倍はありそうだ」
と言って、笑った。
「あの……」
「有田君は下のラウンジにいるよ。僕の用はすぐにすむ」
大西は、ソファに腰をおろした。
大西は、いつもと変わりなく、愛想が良かった。それが、こんな時には却《かえ》って不自然にも見えた。
「どうしたんですか」
と、敦子は、座るのも忘れて、訊《き》いていた。
「うん。まあ、かけてくれ」
——敦子も、驚きからさめると、やっと事情が呑《の》み込めて来た。
今夜、ここへ泊まろうと言い出したのは、敦子の方だ。有田は、大西に言われて、敦子をどこかへ連れて行くことになっていたのだろう。大西と話をさせるために。
それが、敦子とこういうことになったので、大西の方が出向いて来たのだ。
だったら、そう言っていけばいいのに、と敦子は思ったが、有田としては言い出しにくかったのに違いない。その気持ちも、分からないではなかった。
「しかし、良かった」
と、大西は肯《うなず》いて、「君たちのことは、ぜひうまく行ってほしいと思ってたんだ。いや——君も色々あって、大変だったろうがね」
「大西さん」
と、敦子は、やっと口を開いた。「TV局の人が——」
「うん、そうなんだ。全くしつこい連中さ」
と、大西は肩をすくめた。「有田が君にどう言ったかな。僕も、あの時は苛《いら》々《いら》してね、つい君がしゃべったんじゃないかとか、言ってしまったんだ。まあ勘弁してくれよ。君がそんな子じゃないことは、分かってる」
「私にも、見当がつきません」
と、敦子は言った。
有田は、敦子が竹永智恵子をアパートに置いていたことを、本当に大西に言っていないのだろうか。
「時間だ。時間が解決するさ、何もかも」
と、大西は言った。「みんな忙しいんだ。どんなことも忘れて行くよ」
敦子は、大西がただ、そんなことを言うためにここへ来たのではない、と気付いていた。よほどのことがなければ、こんな時間に出向いては来ないはずである。
「大西さん」
と、敦子は言った。「私に何かお話が」
「ああ」
大西は、ちょっと目を伏せた。
「——辞めろ、ということですか」
大西は、少し間を置いて、
「そうは言えないよ。君にも色々事情があるだろうし。ただ……仕事を続けるのなら、あの一件のことは、もう二度と思い出さないでほしい」
「思い出すって……何を、です? 私はみんなが喧《けん》嘩《か》するのを見てただけです。その後、どうしたかなんて——」
「君にも分かってるだろう」
と、大西は言った。「竹永は、死んだ」
気が付くと、敦子は、両手を固く握り合わせ、力をこめ過ぎてその手は震えていた。
「——思ってもみなかったよ」
と、大西は言った。
平《へい》坦《たん》な声だった。少し疲れてはいるが、穏やかだ。
「あんなことになるとはね。いや責任は僕にある。有田君が悪いわけじゃない。だからこそ、僕も悩んだんだ」
そうだった。竹永を直接投げとばして、あの柱へ叩《たた》きつけたのは、有田である。
有田さんもそのことは知ってるんですか、と、訊《き》こうとしたが、声にならなかった。
「あの後、警備員室へ運び込んだ時には、もう息がなかった。どうにもならなかったんだよ」
大西は、落ちつかない様子で、息をつくと、
「誰のせいでもない。そうだろう? あんなことになるなんて……。全く、運が悪かったんだ」
「有田さんは——」
「彼に知らせたのは、夕方、会社が終わってからだ。——ことの重大さにも、その時は気付かなかったんだよ。本当だ。ただ、みんな呆《ぼう》然《ぜん》としていてね」
言いわけがましくは聞こえなかった。おそらくその通りなのだろう。
今、敦子自身も、混乱していた。
「君に打ちあけたのは、君の有田君への気持ちがはっきりしたからだ。もう君を信用してもいい、と分かったからね」
敦子は、大西の言う意味が、よく分からなかった。
「ともかく、もうすんでしまったことだ」
大西は、いきなり立ち上がった。「今さらあの出来事を掘り返したら、会社の名にも傷がつくし、もちろん僕も有田君も、どうなるか……。君さえ、口をつぐんでいてくれれば、その内、TV局も諦《あきら》める。それが一番だ。誰も傷つかずにすむ。分かるだろう?」
敦子は、はい、とも、いいえ、とも言わなかった。何が言えるだろう?
「君も、楽しい未来のことを考えてりゃいいじゃないか。なあ」
大西はポンと敦子の肩を叩《たた》いて、「有田君と結婚して、子供を産んで。君らの子供なら、きっと二枚目だな」
と、笑った。
「さあ、行こう。ラウンジで有田君が待ってるよ」
敦子は、ほとんど無意識の内に、立ち上がって、部屋を出ていた。
大西が、エレベーターの中でも、あれこれしゃべりまくっているのを、ぼんやりと聞いていた。
こうなったからには、式は早い方がいい……。いつでも仲人は引き受けるからね。
敦子の耳を、そんな言葉が、かすめて通って行った。