「どうしても?」
と、有田は訊《き》いた。
こんな所で訊かれてもね。——敦子は、もうアパートが見えて来るかと、前方に目をこらしていたのだ。
有田が、車のスピードを落とした。敦子が有田の方を向くと、車は道の端へ寄って停まった。
夜中、もう三時近くになっているはずだ。エンジンを切ると、何の音も聞こえなくなった。
「何なの?」
と、敦子は、息を吐き出して、有田から目をそらした。
「黙ってて、悪かった」
と、有田は言った。
大西と別れて、ホテルのラウンジで有田と会い、アパートへ帰る、と告げてから、二人は全然、言葉を交わしていなかった。ついさっきの、「どうしても?」が、何十分かの沈黙を、初めて破った一言だったのだ。それも、よく意味の分からない一言だった。
有田が謝ったのも、何に対してなのか。
竹永が死んだと知っていて、黙っていたことを言っているのか、それとも大西をあの部屋へ呼んだことを、か。たぶん、何もかも、ひっくるめて、敦子に謝っているのだろう。
「今は、何も考えられないわ」
と、敦子はヘッドレストに頭を押し付けるようにして、言った。
「だろうね……」
有田は、ハンドルに手をかけたまま、肯《うなず》いた。
もちろん、敦子としては、訊《き》きたいことが、いや訊かねばならないことが、いくつもあった。竹永が死んだと分かって、それから、どうしたのか。その事実を他に知っているのは、誰《だれ》なのか。
だが、ともかく今は一人になりたかったのだ。
初めて有田と寝て、その直後に、竹永のことを聞いた。とても一度に消化し切れない出来事である。
「ともかく、アパートで降ろして」
と、敦子は、話を切り上げるように、言った。
有田は、何も言わずに、再び車を走らせて、三分とたたない内に、アパートの近くまで来た。
「ここでいいわ」
敦子は、車が停まるより早く、ロックを外していた。有田が言った。
「明日、休んだら。——僕から、言っとくよ、課長に」
「休むなら、自分で電話するわよ」
車を出て、敦子は、「おやすみなさい」
と言って、ドアを閉めた。
夜気の冷たさが、まず頬《ほお》をこごえさせた。
有田は、「おやすみ」と言ったようだが、車の外にいる敦子には、口の動きしか、見えなかった。
車の赤い灯が見えなくなると、敦子はアパートの中に入って行った。
——部屋へ入ると、ひどく寒い。
何日か留守にしていたのだから、当然のことだ。敦子は、まずストーブの火を入れ、それから、ボストンバッグの中身を整理し始めた。
クリーニングに出す物、自分で洗う物。化粧品は鏡台の引き出しに戻して……。
ともかく、何かしていたかったのだ。
風《ふ》呂《ろ》には入ってしまったから、明日出勤するにしても、寝てしまっていいのだが、とても眠れまい、と分かっていた。
竹永は死んだ……。分かってるだろう。
大西の声が、まだ耳の奥で響いている。あの口調には、敦子を、「仲間」として認めているのだ、という気持ちが感じられた。
おそらく、そうなのだ。——敦子が有田と寝たから、もう余計なことはしゃべらないだろう、と思ったのだ。
もちろん、有田の方に、そんな下心があったのでないことは、敦子にも分かっている。誘ったのは敦子の方なのだ。
しかし——結局、有田は大西にそれを話し、大西はそれを利用した……。利用、と言うのは当たらないかもしれないが、やはり、利用したには違いないのだ。
「こうしてたって、仕方ないわ」
と、敦子は呟《つぶや》いた。
時間は過ぎて行くばかりだ。明日、会社へ出るのなら、もう休まなくては。
少し部屋があたたまって来ると、敦子は、布団を敷こうとした。タオルケットと毛布が、押し入れから落ちて来た。智恵子が買って、置いて行ったものだ。
敦子は、その場に、座り込んでしまった。
智恵子が、もしまだここにいたとしたら、自分はどんな顔でここへ帰って来ただろうか。何くわぬ顔で、
「ただいま」
と、九州のおみやげなど、手渡していただろうか……。
だめだ。——だめだ。
とても、黙っていることなんかできない。人一人、死んだのだ。智恵子に会った時、何と言えばいいのだろう?
とても、知らん顔で忘れてしまうことなど、できっこない。たとえ、それで有田を失うことになっても……。
電話が鳴り出して、敦子は心臓が止まるかと思うほど、びっくりした。三時半を過ぎている。
もう今夜は、何も聞きたくない、と思った。たぶん、有田か、大西か。——敦子に口をつぐんでいろ、と、念を押したいのかもしれない。
放っておこうかと思ったが、電話は鳴り続けている。
ホテルのバスルームで電話が鳴った時のことを思い出して、また重苦しい気持ちになりながら、敦子は受話器を上げた。
「もしもし?」
思いがけない声だった。
「お母さん?」
「敦子! ずっとかけてたのよ」
「友だちと会ってて、遅くなったの。どうしたの?」
と、敦子は言いながら、枕《まくら》を布団の上に放り投げた。
「あのね、お父さんが——」
母の声の響きが、いつもと違うことに、気付いた。家からかけているのではない。
「お父さん……。どうしたの?」
「倒れたのよ、夕方。いつまでも起きないから、見に行ったら、ひどい汗で……」
受話器を持つ手が震えた。——気持ちの上では落ちついているのに、妙だった。
「肝臓?」
「いえ……。お医者さんは、たぶん脳《のう》溢《いつ》血《けつ》か何かで……」
最悪の言葉を、敦子は覚悟した。
「で、命は?」
「うん。何とか……。今は少し落ちついてるの。ずいぶん飲んだり、夜遅くまでやってたから」
「だから、あんなに飲ませるな、って言ったじゃないの」
声が震えたのは、腹立たしさのせいかもしれない。「ともかく——入院してるのね」
「うん。今、眠ってるわ」
と、母が言った。「——疲れてるだろ。ごめんね。まさか寿子に連絡するわけにもいかないしね」
「いいわよ。お母さんも疲れたでしょ。少し寝なきゃだめよ」
敦子は、やっと自分を取り戻した。母だって、決して丈夫な人ではないのだ。それに、寿子の結婚で、あれこれ忙しかったから、かなりくたびれているはずである。
「明日、一《いつ》旦《たん》会社へ行って、事情を話してから、そっちへ行くわ」
と、敦子は言った。
「そう? 悪いね。帰ったと思ったら……」
「お母さんにまで倒れられたら、困るものね。たぶん、明日の飛行機、取れると思うから。分かり次第、連絡するわ。病院はどこ?」
「あ、そうね。ちょっと待ってね……」
母は、夜勤の看護婦を引っ張って来たらしい。敦子は、病院の名と電話番号を控えた。前にも父が入院したことがあるので、場所は分かる。
「じゃ、敦子、明日ね」
「うん。寝るのよ、ちゃんと。分かった?」
敦子は、優しく言っていた。
「こんなことになるなんてね……」
と、母は愚痴っぽく言った。
「仕方ないじゃないの」
もう、腹立ちも、おさまっていた。母に怒ってみても始まらない。
「ともかく、一《いつ》旦《たん》家へ帰って、寝た方がいいんじゃない?」
と、敦子は言ったが、母はすぐに、
「今夜は、お父さんのそばについてるわよ」
と、答えた。
それなら、そうさせておこう、と敦子は思った。今は、母も気が張っていて、大丈夫だろう。
むしろ、明日、敦子が向こうに着いてからの方が怖い。
「じゃ、長くなると悪いから」
と、母が言った。「着く時間が分かったら——」
「電話するわ」
まだ、話は済んでいなかった。すぐそんなことに気が回るのは、やはり敦子が長女のせいだろうか。
「お母さん。——お金、あるの?」
「そうねえ……。式で大分、使ってしまったからね」
「でしょうね」
「でも、無理しないでね。差し当たりは何とかするから」
母が、「何とかなる」でなく、「何とかする」と言ったのを、敦子はちゃんと聞いていた。
「少し用意して行くわ。心配しないで。じゃあ——」
「お願いね」
母の声に、ホッとした気分がこもっていた。敦子は、電話を切ると、果たして今の電話は、現実の出来事だったのかしら、と自分へ問いかけていた。
そう。分かってはいるのだが、信じたくないと思った。——何という夜だろう!
夜? いや、もうすぐ朝になってしまう。
父が、暗い病室のベッドで、声もなく横たわっている姿、その傍らに、何ができるわけでもないのに、いや、それだからこそ、かもしれないが、母が、身じろぎもせず座っている光景が、眼の前に見えているような気がした。
敦子は、もう眠らないことにして、もう一度、ボストンバッグに、必要な物を詰め始めた。
ただ、問題は、「お金」だった。
寿子の式と披露宴のために、かなりの出費をして、敦子も、あまり貯えがあるとは言えなくなっていた。といって、少しのお金では……。父の入院は、ある程度長期にわたるという可能性がある。少なくとも、その前提で考えなくてはなるまい。
敦子は、布団の上に横になると、目を開いて、ほの暗い天井を見上げていた……。
出勤した敦子は、受付で久美江と会って、
「どうしたの?」
と、言われてしまった。「顔色、悪いじゃない!」
「色々大変でね」
と、敦子は言った。「そんなに、私の顔、ひどい?」
「かなりのもんよ」
久美江は、はっきり言ってくれるので、ありがたい。
「父が倒れたの。また少しお休みすることになりそう。——悪いわね」
「そんなこと、いいけど……。妹さんの式は?」
「それは片付いたの。宴会で、飲み過ぎたのよ、父も」
「てんやわんやね」
懐かしい、それでいて、ぴったりの言い回しに、敦子は微《ほほ》笑《え》んでいた。
「大西課長、もうみえてる?」
「たぶんね。そう、さっき見かけたわ」
「ありがとう」
敦子は、久美江の肩に、軽く手をかけた。
——大西は、もう席にいて、新聞を広げていた。まだ始業時間前なのだ。
「やあ」
大西は、いつもの笑顔で、敦子を見上げた。「おはよう。ゆうべは遅かったのか」
「はい」
と、敦子は言った。「お話があるんですけど」
「いいよ。じゃ、会議室へ行こう」
大西は、すぐに立ち上がった。
会議室は、もちろん、まだどこも使っていない。大西は、ドアを開けて中へ入ると、
「何だ、灰皿を換えてないな」
と、顔をしかめた。「まあ、かけて。——有田君とは話し合ったのかね」
「いえ……。実はゆうべ、父が倒れた、という電話が」
大西は、敦子の思いがけない話に、面食らっている様子だった。
「——そりゃ大変だ。すぐ行ってあげなさい」
「申し訳ありません。久美江さんと、仕事については打ち合わせておきます」
「分かった。そうしてくれ」
「それと……。妹の結婚で、大分出費がかさんでしまって……。共済資金を、お借りできないでしょうか」
「うん、そうか。分かった。すぐに当たってもらうよ」
「お願いします」
と、敦子は頭を下げた。
「いくらぐらい必要だ?」
と、大西は立ち上がって、言った。「限度は五十万だろ」
「できれば、限度一杯に……」
と、敦子は言った。「入院費用がどれくらいか、まだ分かりませんけど」
「じゃ、話してみるよ。今日、すぐに必要なんだろ?」
と、大西は、会議室のドアに手をかけながら、言った。「飛行機は取れたのかい?」
「今から電話してみるつもりです」
と、敦子は答えた。「よろしくお願いします」
——正直に言えば、今、大西にものを頼むのは気が重い。しかし、そんなことは言っていられる場合ではないのだ。
受付に戻ると、久美江と宮田栄子がノートを広げて待っていた。
「ご迷惑かけて、すみません」
と、宮田栄子に頭を下げると、
「そんなこと、お互い様じゃないの。どうですって、お父さんの具合?」
「まだ、詳しいことは……」
「結婚式とか法事とかあると、昔の人はよく飲むものね。子供の身にもなってほしいわよね、本当に。——今、久美江さんと話してたんだけど、どうせ一人は手が足りないわけだから、誰かここへ回してもらえば何とかなるわ。心配することないわよ」
「はい、あの……そう長くはならないと思います。たぶん三日ぐらいで戻れると——」
「その辺は、はっきりしたら電話ちょうだい。後のことは気にしないで。少し親孝行してらっしゃいよ」
宮田栄子から皮肉の一つも言われるかと思っていたのに、その暖かい言い方は、どう見ても心からのものだった。
敦子はホッとすると同時に、できるだけ早く戻って来なくては、と思った。
「——今、聞いたよ」
と、有田がやって来て、敦子の顔を見るなり言った。「飛行機の方、今、頼んでみてる。知ってる奴《やつ》がいるんだ」
「ありがとう……。悪いわね」
「そんなことしか、役に立たないからな」
と、有田が言うと、聞いていた宮田栄子と久美江が、
「優しいのね、有田さん」
「有田さんも寝不足の顔してるよ」
と、からかうように言った。
敦子は、ちょっと笑った。——もちろん、冗談を言っていられるような場合ではないのだが、疲れ切って、重苦しい気分の時、こんな軽い一言で、ずいぶん気分がほぐれるものだ。
休暇届の伝票を書いたり、細かい仕事を片付けたりしていると、
「永瀬君」
と、大西に呼ばれた。「ちょっと——」
急いで立って行くと、大西は席の方でなく、エレベーターホールの方へと敦子を促して、連れて行った。
何だろう? 敦子は、ちょっと戸惑いながら、ついて行った。
大西は、足を止めると、周囲に人がいないか見回して、
「今、訊《き》いてみたんだけどね」
と、口を開いた。「君、前の借りた分の返済が終わってないんだね」
敦子の顔から血の気がひいた。——大西がびっくりして、
「おい! 大丈夫か?」
「ええ……。うっかりしてました。すみません」
敦子は頭を振って、「あと少しだと思うんですけど」
二十万円借りて、それを月に一万円ぐらいずつ返している。天引きされるので、どこまで返したものか、よく憶《おぼ》えていないのである。
「あと半年だそうだ」
「半年ですか……」
「一、二か月のことなら、日付をずらして、何とかする、ということだったんだがね。半年となると、決算期を過ぎてしまう。それはまずい、ということなんだ」
「分かりました」
と、敦子は肯《うなず》いた。
仕方ない。無理は言えなかった。
「それで……。これ、今、下ろして来たんだ」
と、大西が、銀行の封筒を、敦子の手にのせた。
「あの……」
「五十万ってわけにはいかないが、三十万ある。その内返してくれればいいよ」
「そんなこと……。大西さんのお金なんでしょう」
「これでも課長だよ。これぐらいは出せるさ。——気にしなくていい。また、帰ってから、相談しよう」
大西は照れたように言って、敦子の肩をポンと叩《たた》くと、「じゃ、僕は外出して、夕方まで戻らない。気を付けて行っておいで」
返事をする間もない内に、大西は行ってしまった。
敦子は、銀行の名の入った封筒を開けて、中身を覗《のぞ》いた。——三十万円。
使うのはアッという間だが、返すのは楽ではない。次のボーナスで、返せるだろうか?
取りあえず、これを借りて行くしかなかった。大西としては、もちろん敦子が口をつぐんでいるように、という気持ちでもあっただろう。
しかし——大西は、本当に、敦子のことを心配し、こんな「善行」に少々照れてもいたのだった。決して、装っているわけではない。
部下のことを心配する、優しい課長が、人一人、死なせたことに目をつぶっていようとする。
そのどちらの気持ちも嘘《うそ》ではないのだ、と敦子は知った。
敦子は、封筒を制服のポケットへ入れて、歩き出した。