「永瀬さん。——永瀬さん」
肩を軽く叩《たた》かれて、敦子はハッと目を覚ました。
「あ、すみません」
椅《い》子《す》に腰かけたままだから、完全に眠っていたというわけではないのだが、ついウトウトしてしまったらしい。看護婦が、微《ほほ》笑《え》みながら、立っていた。
「お電話が入ってますよ」
「どうも」
少し赤くなって、敦子はあわてて立ち上がった。
父親は、六人部屋に入っていて、敦子は、朝からそばについていたのだ。
「こちらです」
「どうも……」
窓口の所の受話器を渡されて、敦子は、ちょっと咳《せき》払《ばら》いしてから、「もしもし、永瀬です」
「やあ、ごめん、呼び出したりして」
敦子はびっくりして、
「有田さん。どこからかけてるの?」
いやに声の感じが近かったのである。
「君のお宅」
「何ですって?」
「突然、ごめん。でも、ずいぶん君、疲れてるみたいだったしね。心配でさ、お袋も、行って来い、って言うもんだから、さっき飛行機で」
「びっくりさせないでよ! 会社は?」
「今日は土曜日だよ。どうせ休みなんだ」
「ああ、そうか。——何曜日だか、忘れてたわ」
敦子は、そう言って笑った。「母は? びっくりしてたでしょ」
「うん。——でも、お昼をごちそうになっちゃった。病院へ行ってもいいかな」
「構わないけど……。楽しい所じゃないわよ、ここは」
「分かってるさ。お父さん、少し落ちついてるようだね」
「ええ。でも、眠ってる時の方が多いし、目を覚ましても、あんまりしゃべれないの。誰かついてないとね」
敦子は、驚きからさめると、有田の顔が見られる、ということで、自分でも思いがけないほど、胸がときめいた。
「ね、今夜は泊まって行くんでしょ」
「うん。君、まだしばらくは……」
「そうはいかないわ。月曜日に帰ろうと思ってたの」
——実際、父の容態は、急に良くなることも悪くなることもない、という状況だった。
入院生活は、長引きそうな気配である。
「ともかく、母が夕方にはこっちへ来て、交替することになってるの。一緒に来れば? その後で、ゆっくり話しましょうよ」
母の面食らった顔を想像して、敦子はおかしくなってしまった。
有田が、母と電話をかわった。
「お母さん、変なことしゃべらないでよ」
と、敦子はまず釘《くぎ》を刺してやった。
「しゃべるも何も……。お前、何も言わないんだもの、びっくりするじゃない」
と、母は文句を言った。「でも——優しそうな方ね」
「そうね。一つ年下なんだけど」
と、敦子は言って、「ともかく、そんな話は家でゆっくりね。これから出る? 有田さんを一緒に連れて来てね」
「分かったよ。でも、敦子——」
「何?」
「あの人、うちへ泊まるの?」
と、母が少し声を低くする。
「まさか。どこか捜すわよ。お父さん、今は眠ってる。お昼は少し食べてたわ」
「そう。じゃ、今、煮物を作ってるから、それができたら出かけるわ」
「それじゃ、待ってる」
敦子は電話を切って、
「どうもすみませんでした」
と、看護婦に礼を言った。
病室へ戻りながら、
「ああ、びっくりした……」
と、呟《つぶや》く。
すっかり眠気もさめてしまった。しかし、それは快い驚き、嬉《うれ》しいショックだった。
有田は、元来あまり行動的なタイプではない。自分で判断して実行に移す、というのは苦手な方である。
その有田が、前もって電話の一本も寄こさずに、九州まで飛んで来たのだ。そのことが敦子には嬉しかった。
病室へ戻る前に、廊下の自動販売機で缶コーヒーを買って、飲むことにした。別に、目覚ましが必要というわけではないが、ちょっと息抜きしたかったのだ。
もちろん、ハネムーンに行っている寿子たちは、まだ父の入院を知らない。ハネムーンから戻るまで、敦子が東京へ戻るのをのばすわけにもいかなかった。
父の入院の費用のことなど、山下と敦子で話し合わなくてはならないだろうが、それはまた改めて、ということにしよう。
それより、敦子を驚かせたのは、母が急に元気になって、張り切り出したことだった。
寿子の結婚に続いて父が倒れてしまったので、さぞ母も参っているだろうと思い、心配していたのだが、実際には、敦子も呆《あき》れるほど忙しく駆け回っているのだ。
敦子と寿子が、自分の手を離れて行くばかりで寂しい思いをしていた母にとって、父の入院は、却《かえ》って新しい「生きがい」を見付けたという結果になったようだ。
毎日病院へ通って来る母の足取りは、活《い》き活《い》きとしていた。
——分からないもんだわ、と敦子は思った。
母が有田を従えて(本当に、そんな風に見えたのである)病院へやって来たのは、一時間ほどしてからだった。
「やあ」
有田が、少し照れくさそうに言った。
「突然、何よ」
と、敦子はつついてやった。
「いや……。ちょっと思い立ってね」
と、有田は言いわけがましく言って、「あ、これ、お菓子。看護婦さんにあげてくれ」
「ありがとう。六本木から持って来たの?」
「こっちでも買えるかもしれないけどね」
「渡すわ。ありがとう」
と、敦子は、手さげ袋を受け取った。「父は、何だかボーッとしてるけど、顔だけ見せてってよ」
「うん」
有田は肯《うなず》いた。——少し緊張している様子なのが、おかしい。
有田が挨《あい》拶《さつ》しても、父は一向に分からない様子だった。しかし、ともかく顔だけは見たのだ。
「——敦子」
と、母が、廊下へ出ると、敦子のことを少し離れた所へ引っ張って行って、「結婚しようってことになってる、って本当なの?」
「一応ね」
「だったら、どうして黙ってるのよ」
と、母はふくれたが、本気で怒っている様子でもない。
「私のことは心配しないで、お父さんの面倒を見てあげなさいよ」
と、敦子は母の肩を叩《たた》いて、「有田さんと出て来るわ。どこか、泊まる所を捜すし、食事もしてから帰ると思うわ」
「分かったわ」
と、母はため息をついて、「ま、お前は寿子と違うからね。好きにしなさい」
「そうするわ」
と言って——敦子は、廊下で居心地悪そうに立っている有田を見た。
「なかなかいい人みたいね」
と、母が言った。
「うん」
敦子は、少し間を置いて、「お母さん、もしかしたら、今夜帰らないかもしれないけど、心配しないで」
と、言った。
「じゃ、いっそうちに泊まったら?」
「向こうが気がねするわよ」
と、敦子は笑って言った。「じゃ、電話しなくても、気にしないで」
「分かったわよ」
母も、何だか楽しげに、「お父さんの方は急にどうこうってことないし、ゆっくりしておいで。お金、持ってる?」
「彼が出すわよ」
まさか、お財布忘れて来たってことはないだろうな、と敦子は半ば本気で思った。
「ただいま」
玄関を入って、ついそう言ってしまっていた。母が病院へ行っているのは分かっていたのに。
私も相当浮かれてるわね、と敦子は、一人で笑ってしまう。——いい年《と》齢《し》して、本当に、と自分をからかうのも楽しい。
ところが、
「お帰り」
と、いないはずの母が顔を出したので、敦子は思わず飛び上がりそうになった。
「びっくりした!——何よ、病院じゃなかったの?」
「ちょっと取りに来る物があったのよ」
と、母は言って、「——あの人、有田さんだっけ? 一緒じゃないの?」
「飛行機がうまい具合に取れたから、帰ったわよ。よろしく、って」
——もう日曜日の夕方である。外は暗くなりかけていた。
「ちゃんと、お見送りしたの?」
「うん。それで少し遅くなっちゃった。——何か手伝う?」
「いいわよ、別に」
何となく、照れて敦子は奥へ入って行った。
ゆうべ有田とホテルに泊まり、目が覚めたのは昼過ぎだった。おかげで、超過料金を取られてしまったが、もちろん払ったのは有田である。
敦子は、ポットを持ち上げてみて、
「このお湯、新しいの?」
「さっき沸かしたばっかり」
「じゃ、お茶いれよう。お母さん、飲む?」
「そうね」
狭い台所で、母と娘、二人で、古い椅《い》子《す》に腰をおろして、お茶を飲む。
「少し苦かった」
と、敦子は一口飲んで、言った。
こんなこと、初めてじゃないかしら。お母さんと二人で、家にいる。二人きりで。
そこには奇妙な安らぎがあった。そして、母と娘と、どこか共感するものが。
母は、病気の夫のことを考え、娘は、たぶん夫になるであろう男性のことを、考えていたから……。
「明日、やっぱり帰るの」
と、母が訊《き》いたが、質問というより、確かめているだけ、という口調である。
「うん。——もう少し、いてほしければ、いてもいいよ」
「大丈夫よ。私のことは心配しないで。寿子もそのうち帰るし」
「山下さん、戻ったら、私が電話で相談するから。それに有田さんも、二人で働けば少しは送金できるよ、って言ってた」
「お前は、散々苦労して来たからね。もう、好きなようにしなさいよ」
母の言い方は穏やかで、少し疲れていて、でも幸せそうだった。
母は立ち上がって、
「じゃ、病院へ行くわ。——夕ご飯、どうする?」
「お腹《なか》空いてない。お茶漬けでもするわよ。お母さんは?」
敦子は、母を玄関まで送りに出た。
「いつ結婚しよう、とか話したの?」
と、母が訊《き》くと、敦子は、
「向こうはね……。春にでも、って言ってるけど。でも、まあ別に……」
と、口ごもった。
「決めたら、知らせるのよ」
「当たり前じゃない」
と、敦子は笑った。
「あ、そうそう」
玄関を出ようとして、母が思い出したように、「さっき、会社の人から、電話があったわよ」
「私に? 誰だろう」
「何ていったかしら……。若い女の人」
「原さん?」
「そうそう。そんな名前だったわ。出かけてるって言ったら、結構です、って。『お父さん、いかがですか』って、訊いてたわよ」
「じゃ、電話しとくわ。——行ってらっしゃい」
敦子は、母を送り出した後、手帳を取って来て、原久美江の自宅へ電話しようと思った。
手帳を開いて——来年のカレンダーがのっている。
「来年の春にしよう」
と、有田が言い出したのは、ゆうべ、夜遅くに、ルームサービスで軽い食事を取った時のことだ。
「何を?」
分かっていて、そう訊き返したのは、すぐ返事をするのが怖かったせいだろうか。
結婚に決まってるじゃないか。——もちろん、そうよ。私だって、今すぐにでも結婚したっていいと思ってる。
でも、父の容態が、もう少し落ちついて、後のこともはっきり決めておかないと……。
「何とかなるさ」
と、有田はのんびりと言った。「他のことを前提にして、結婚のことを決めるんじゃなくて、結婚を前提にして、他のことを決めりゃいいじゃないか」
——これには、敦子も参ってしまった。
確かに、あれが片付くまで、これがはっきりするまで、と言っていたら、何もできなくなってしまう。
母には、曖《あい》昧《まい》に言っておいたが、敦子は、来年の三月ごろ、結婚しようという有田の言葉に、肯《うなず》いてしまっていたのである。
この前、初めて有田とホテルで過ごした時とは違って、敦子の胸には穏やかな歓《よろこ》びがあった。これが、いつまでも続いてほしい、と思うような。
気を取り直して、原久美江の自宅へ電話をしてみる。日曜日の夕方、あの忙しい久美江が家にいるかどうか……。
「はい、原です」
意外だった。
「あら、珍しい」
「何だ、敦子さんか」
と、久美江は笑って、「今から出かけるところよ」
「じゃ、悪いわね」
「ううん、まだ早いの。明日、帰れそう?」
「ええ。あさってから出るわ。ごめんなさいね、迷惑かけて」
「いいんじゃない? 宮田女史も張り切ってるし」
「電話くれた?」
「うん。ちょっと思い出してね……。お父さんの具合、いかが?」
敦子が、父の容態を説明すると、
「フーン」
と、久美江は感心したように、「うちの親父も、いつかそうなるのか」
「まだお若いでしょ」
「そうだ。ねえ、有田さん、そっちへ行かなかった?」
敦子は面食らって、
「どうして知ってるの?」
「やっぱりか」
と、得意げに、「敦子さんが早退してから、航空会社に電話してたから。ははあ、追っかけて行く気だな、って、ピンと来たのよ」
「さっき東京へ発《た》ったわ」
「じゃ、一泊?——ねえ、もうはっきり決まったんでしょ」
「結婚のこと? そう……。まあね」
「おめでとう」
「待ってよ。まだあちらのご両親にもお会いしてないのよ」
「そんなの、ただの手続きじゃない。ま、ともかくお幸せに」
「どうも」
と、電話なのに、敦子は赤くなっていた。
「そうだ。また忘れるところだった。——ね、敦子さんが早退した次の日にさ、電話があったの。アパートの方へかけてもお留守みたいですけど、どうかなさったんでしょうか、って」
「誰から?」
「ええとね……。待ってね。手帳にメモを挟んでおいたはずなんだけど。ちょっと……」
ガサガサという音がして、少し間が空いた。
「あった、あった。ええとね、女の子よ。若い子みたいだった。ちえ子、って言って下されば分かります、って。分かる?」
智恵子から電話? 思いがけない話に、敦子は一瞬、答えられなかった。
「もしもし?」
と、久美江が不思議そうに言った。
「ごめんなさい。分かるわ」
と、敦子は答えて、「知ってる子なの。何か言ってた?」
「今週一杯休んでる、って言ったら、何だか心配してたみたい。体でも悪くしたのか、って」
と、久美江は言った。「故郷でご用があって、とだけ言っといたわ」
「そう」
「それで、連絡があったら、電話をいただけませんか、って。番号聞いてあるの。今、言う?」
敦子は少し迷ってから、
「言って」
と、右手にボールペンを持った……。
竹永智恵子が、なぜまた今になって、敦子に連絡して来たのだろう? 電話番号から見ると、都内にいるらしい。
しかし、親類や知人がいない、と言っていたのに。あれは嘘《うそ》だったのだろうか?
久美江との電話を終えて、しばらく、敦子は電話の前に座り込んでいた。
——もう、何もかも終わったと思っていたのに。今ごろ、どうして……。
終わってなどいない。それは、敦子にも分かっていた。
竹永の死は、そこで終わるような問題ではない。しかし、有田と話していても、決して「そのこと」は口に出さなかったし、ゆうべは、実際に思い出しもしなかったのだ。
このまま、忘却の中に沈めて、時折泡がはじけるように思い出すかもしれないが、それもやがて途絶えるだろう、と……。考えた、というわけでもなく、ただ過去の流れへと放り込んだだけだ。
智恵子は、自分から敦子のアパートを出て行ったのだ。その時点で、敦子の責任は、もう果たしてしまった。——その理屈で、自分を納得させることも、不可能ではなかったが……。
敦子は、電話へ何度も手を伸ばしては、引っ込めた。今さら話すこともない。何も言えないのだから、いっそ連絡をしない方が、ましだ。
メモした番号を、敦子はじっと見ていたが、やがて、そのメモを、手の中で握り潰《つぶ》した。
薄い平凡なメモ用紙は、思いがけないほど大きな音をたてて、小さな紙《かみ》屑《くず》になった。
敦子は、それを台所の屑入れに放りこむと、奥の部屋へ入って行った。
「三月、三月、と……」
手帳を開け、赤のボールペンを手にして、畳に腹《はら》這《ば》いになると、三月の挙式のためには、いつ、何をしたらいいのか、メモし始めた。
差し当たりは、有田の両親に会うこと。そして式場を捜すこと。それから仲人を決め、日取りを決めて……。
考えることは山ほどあった。敦子は、来年のカレンダーを、飽かず眺めていた。