すぐに相手は出た。
「はい。——もしもし?」
智恵子の声だ。
敦子は、しばらく黙って、受話器を持っていた。智恵子の耳には、羽田空港のロビーのざわめきが聞こえているだろう。
「どなたですか?」
智恵子が、少し怯《おび》えたような声を出す。
福岡から帰って来て、なぜ空港から智恵子へ電話する気になったのか、自分でもよく分からなかった。ともかく確かなのは——メモを捨てても、この番号は、敦子の記憶の中にしっかりと刻み込まれてしまっていた、ということだ。
「智恵子さん?」
と、敦子が言うと、向こうもすぐに分かったらしい。
「あの……」
「どうしてるの? 元気?」
敦子はできるだけ当たり前の口調になるように心がけた。
「はい。あの……すみませんでした、あの時は」
と、智恵子は言った。「九州へ、帰られてたんですか」
「妹の結婚式の後、父が倒れちゃってね、入院して、大騒ぎだったの」
「大変ですね」
「当分入院ってことになって、今日、東京へ戻って来たの。今、羽田で……。ね、今、どこにいるの?」
「あの……四《よつ》谷《や》の方のマンションなんです」
「誰か知ってる人のお宅?」
「ええ」
少し曖《あい》昧《まい》に言って、「ちょっと出られないんですけど……。こっちへ来ていただけませんか」
「ずいぶん他人行儀な言い方ね」
と、敦子は冷やかすように言った。「でも良かったわ、元気らしいし。どうしたのかと思って」
「すみません。そのことも説明したいんですけど」
「電話じゃね。——一人なの?」
「そうです」
「いいわ。そっちへ行く。場所、どの辺?」
と、敦子は訊《き》いた。
羽田から、新宿へ出るリムジンバスに乗って、敦子は息をついた。
飛行機の中で、ずいぶん迷っていたのである。放っておくべきかどうか。
しかし、智恵子が、会社にやって来るのを止めることはできないのだから、それならむしろ会いに出向いた方がいい。敦子は、そう思った。
それなら、大西にも、智恵子をアパートに置いていたことを、知られずにすむ。
ともあれ、智恵子に会うのは、これが最後になるだろう、と思った。
智恵子に会えば、彼女の父親のことを思って、辛いことは分かっていたが、それでも敦子は、会わないですますわけにはいかなかったのだ。
少なくとも、智恵子が無事で、元気にしているということが分かれば……。もちろん、そんなことは、「智恵子にとっては」何の意味もないことなのだが。
——智恵子の説明にも、多少不正確なところがあって、マンションを見付けるまでに、大分歩き回ってしまった。
途中で電話を入れようかとも思ったのだが、敦子は割合に、家を見付けたりするのが得意なので、勘を頼りに捜し回ってしまったのである。それでも、ほとんど大よその見当だけで、マンションを捜し当てて、一息ついた。
そう新しくない、四階建てのマンションで、外見は、少し古めの公団アパート、という印象だった。
「三〇二だったわね」
と、呟《つぶや》いて、下の郵便受けを見る。
名札は入っていなかった。他の部屋でも、入っている部屋の方が少ないくらいである。
階段を上って行くと、買い物に行く主婦とすれ違った。もう臨月が近いのじゃないかしら、と敦子は思った。大きなお腹《なか》で、階段を用心しながら下りて来る。
私も、一、二年したらああなるのかもしれないわ、と敦子は思ったりした……。
三階へ上がって、取っつきの部屋が三〇一。三〇二には、玄関にも表札が出ていなかった。
何か、九州のおみやげでも買って来るんだったわ、と敦子は思った。まさか、帰りに直接、智恵子の所を訪ねるとは思わなかったのだから、手ぶらなのも仕方ない。
別に、おみやげを智恵子が喜ぶとは思わなかったが、話のきっかけが何かほしかったのだ。
いざ、ここまで来てみると、智恵子の目を真っ直《す》ぐに見られるだろうか、と自問してしまう。父親のことを、何も知らないと、平気で言い抜けられるだろうか……。
でも——もうここへ来てしまったのだ。今さら、帰るわけにはいかない。
思い切って、チャイムを鳴らした。部屋の中に、ルルル、という甲高い音が響くのが、表にまで聞こえて来る。
あまり広い部屋ではないようだ。通路に並ぶ、ドアの間隔を見ても、それは分かった。
なかなか、返事はなかった。もう一度鳴らそうかと思った時、
「はい」
と、用心しているような、智恵子の声が、インタホンから聞こえて来た。
「私。敦子よ」
と、できるだけ明るい声を出す。
「ちょっと……待って下さい」
智恵子が玄関へ出て来るまでに、少し間があった。
カタカタと音がして、チェーンの外れる音。
ドアが開いて、智恵子が顔を覗《のぞ》かせた。
「ちょっと迷って捜したわ」
と、敦子は微《ほほ》笑《え》んで言った。
「すみません。私も、この辺よく知らないんです」
と、智恵子は言って、「どうぞ」
大きくドアを開ける。
「じゃ、お邪魔するわね。——ここは、知ってる人の家?」
「ええ。あの——スリッパ」
智恵子は、安物ながら新しいスリッパを揃《そろ》えて出した。玄関には、智恵子の、布の靴しか置いていなかった。
「ちょっと、ここに置かせてね」
と、敦子はボストンバッグを、上がり口のわきへ寄せて置いた。
「どうぞ、こちらへ」
と、ややぎこちなく言って、智恵子は、正面のドアを開けた。
「ありがとう。でも、良かったわ、あなたが元気で。突然いなくなっちゃったから、何かあったんじゃないかって気になってたの」
見たところ、智恵子は変わりない様子だった。敦子も安心して——。
「あ……」
足が何かを引っかけて、敦子は転びそうになった。——コードだ。太いコードが、玄関の上がり口のコンセントから、正面のドアの中へ、のびている。掃除機でも使っていたのかしら?
その部屋へ入って、敦子は立ちすくんでしまった。
カシャッ、という音がして、強烈なライトが敦子を照らし出した。
智恵子が、六畳ほどの広さの、居間の奥へと身をひいて、壁を背に立った。
「どうぞ。そのソファにかけて下さい」
と、男の声が言った。
敦子は、一体何が起こったのか、さっぱり分からなかった。ここは何だろう?
ライト。男たち。そして、自分の方を向いている、三脚にのせた大きなTVカメラ……。
「おい、玄関、鍵《かぎ》かけて来てくれ」
と、その男が言った。
ジャンパーを着た男が、居間から出て行くと、玄関へ下りて、鍵をかける。その男には見《み》憶《おぼ》えがあった。
あの男だ。乱闘事件のあった日の帰り、敦子に声をかけて来たTV局の男。そして、智恵子とデパートへ行った時、ベビー用品売り場の奥のパーラーにいた男だ。
「どうぞ、座って、楽にして下さい、永瀬さん」
背広姿の、少し年長の男が、穏やかに言った。
呆《ぼう》然《ぜん》としながら、敦子は自分でもよく分からない内に、ソファに腰をおろしていた。
居間には、四人の男がいた。それに、敦子と智恵子。
そう広くない部屋なので、ずいぶん混《こ》み合っているような感じである。
「突然のことで、びっくりなさったでしょう。申し訳ありません」
と、背広姿の男は言った。
愛想のいい口調ではあるが、いかにも手慣れた仕事、という印象も与える。
他の三人の内、二人は、ジャンパー姿。一人は、真正面から敦子を捉《とら》えているTVカメラを操作しており、もう一人の、敦子の知っている男は、居間のドアの所に立っていた。
そして、もう一人、ツイードを着た若い男が、椅《い》子《す》にかけて、メモ帳らしいものを手にしていた。
「そのドア、閉めた方がいいかな?」
と、背広姿の男が言って、「あ、そうか、コードがあるんだな」
ライトを当てられている敦子の目には、部屋の隅に立っている智恵子の表情まではよく見えなかった。
「僕はNテレビの相《あい》原《はら》といいます」
背広姿の男が名刺を出して、敦子の前に置いた。「その男は、憶《おぼ》えてらっしゃいますか? うちの松《まつ》山《やま》という男です。前にあなたに——」
「ええ、憶えています」
敦子は、やっと言葉が出るようになった。「でも、どういうことなんですか、これは」
「九月二十一日に、K化学工業のロビーで起こったことについて、追跡取材をしているんですよ」
と、相原という男は、ソファに浅く腰をかけて、早口に言った。「当日、僕は行っていませんでしたが、この松山君と、カメラマンは現場に行っていたんです」
敦子は、ゆっくりと、一人一人の顔を見て行った。智恵子は、顔を伏せ気味にして、敦子の方を見てはいない様子だ。
「どうも、社の方へご連絡しても、会っていただけないという雰囲気でしたので、失礼は承知で、こんな風に……。どうでしょう。そうお時間は取りませんが、少しお話をうかがわせていただければ……」
敦子は、松山という男の方を見た。
「あの時、デパートで……」
「ええ」
と、松山は肯《うなず》いて、「あなたがパーラーを見に一人で戻った時に、そこの——」
と、智恵子の方へ目をやって、
「智恵子さんに、手紙を渡したんです。お父さんのことで、話したいから、連絡を取ってくれ、と書いて」
それで智恵子は突然姿を消したのか。敦子にも、やっと分かって来た。
少し気詰まりな沈黙が来て、相原という男が、
「おい、お茶いれてくれよ」
と、松山に言った。
「はい、すみません」
仕度はしてあったらしい。すぐに、台所の方で茶《ちや》碗《わん》を出す音がして、お茶が出て来た。
「あんまりいいお茶じゃないですが、どうぞ」
と、相原は言って、いかにも安物の茶碗で自分も一口飲むと、「松山が、初めにお会いした時、あなたのアパートまで後を尾《つ》けて行ったんです。勝手なことをして、申し訳ありません。まあ、ドキュメントをとるには、少々強引なこともやらなきゃならないので」
あの日、帰って間もなく、誰かが玄関のドアの前まで来て、戻って行ったことを、敦子は思い出した。この男だったのか。
「あの日以来、しばらくは突発事件に追われていたんですが、その内にどうも気になる、と松山君が言い出しましてね」
と、相原は言った。「あの日、テントの布で隠れたロビーで何が起こったのか、調べたい、と。——僕も、気になったんです。後で何かを隠す、ということはよくある。しかし、前もって隠すというのは、見せたくないことが起きると承知していたからでしょう」
「僕はあの時、あなたの会社へ抗議に行った人たちを訪ねてみました」
と、松山が言った。「ところが、まだ工場に残っていたのは三人だけ。しかも、何を訊《き》いても話してくれないんです。それも、初めの一人は、会ってくれたんですが、後の二人は……」
「即座に連絡が行ったんですね、初めの人から」
と、相原が続ける。「三人とも口をつぐんで語ろうとしない。これは何かありそうだ、ということになりまして」
「あちこち訊いて回って、竹永というリーダー格だった人が、あの時、帰って来なかったという話を耳にしたんです。娘さんは本社の人に会うといって、社宅を出たということで。——本社を訪ねていれば、当然あなたもご存知かと思いまして、アパートへ行ってみたんです。すると、この娘さんが、ちょうど買い物に出るところでした」
智恵子は、チラッと松山の方を見て、また顔を伏せてしまった。
「アパートの方に訊いてみると、親《しん》戚《せき》の娘さんだとか。でも、見た感じが、年齢とか、どうも竹永という人の娘さんとぴったりなので……」
敦子は肯《うなず》いた。
「分かりました。——智恵子さんが突然いなくなったので、心配したんですけど、ともかく無事と分かって安心しました」
敦子の言葉は本心からのものだった。そのことは、智恵子も分かってくれるだろう、と敦子は思った。
「智恵子さんの写真をこっそり撮って、それを、元の社宅の人に見せたんです」
と、松山が話を続けた。
「そこまで分かったところで、これはやっぱり何かあったんだ、ということになり、取材に本腰を入れ始めたんです」
相原は、手帳を取り出して開いた。「あの時、ロビーにいた、他の六人の内、三人はすでに転職している。その三人を、今度は手分けして同時に訪ねましてね、何があったのか、しつこく訊いたんです。危うく喧《けん》嘩《か》になりかけたりもしましたがね。結局、あの時、ロビーの、布に隠された内側で、乱闘騒ぎがあったことを聞き出しました」
話し方こそ穏やかだが、相原という男に、敦子は恐怖に近い印象を覚えた。事件がある、とかぎつけたら決して諦《あきら》めない。その鋭い眼《まな》差《ざ》しは、そう言っていた。
「松山君は、あの本社の近くの病院や診療所を一つ一つ当たって、あの時、けがの治療に当たったクリニックを見付けましたよ」
そこまで調べているのか……。
敦子は、固く両手を握り合わせた。
「かなりの騒ぎだったようですね」
と、相原は言った。「どうです?」
ビデオカメラが回っている。——敦子は、
「両方とも……感情的になっていたんです」
と、低い声で言った。
「その時、竹永さんはどうしたんです?」
「待って下さい」
と、敦子は、手の震えを必死で押さえて、「これは訊《じん》問《もん》なんですか? 私は——あの会社の社員です。立場というものが——」
「あなたは一部始終を見ていた。そうでしょう?」
と、相原が、かぶせるように言った。「おたくの社には、アルコールが入るとよくしゃべる方が何人もいましてね。クリニックで聞いた名前を頼りに、バーで取材をしました。得意げにしゃべってくれましたよ。大立ち回りの様子をね」
敦子は、智恵子が一歩前に出て来るのを見た。
「私にずっと隠してたんですね。——お父さんがみんなに殴られるのを、見てたのに!」
智恵子の目から涙がこぼれて、頬《ほお》を伝った。
——そうか。それを聞いて、智恵子は出て行ったのか。
敦子と顔を合わせたくなかったのだ。やっと、敦子にも、智恵子の気持ちが分かった。
頼りにし、父親のことを心配して、調べてくれていると信じていた相手が、実は、一番肝心な事実を隠していたのだ。智恵子がどれほどショックを受けたか……。
敦子は顔を伏せて、握り拳《こぶし》を固く閉じた歯へ強く押し当てた。痛いほどに。
「あなたを責めるつもりはありません」
と、相原は相変わらず穏やかに言った。
責める? 責める、といえば、敦子自身が、一番自分を責めていたのではなかったか。誰に言われるでもなく。
「確かに、我々も、いくつかの情報はつかんでいます」
と、相原は続けた。「しかし、正面切って、こっちの立場を明かして取材したい、と言えば、誰も口をつぐんでしまうでしょう。記事にすることも、ビデオに撮ることも、拒否されるのは分かっています」
「記事に?」
と、敦子は、顔を上げて言った。
「彼は地方紙の記者でしてね」
相原が、もう一人の、メモ帳を手にした若い男を指した。「工場閉鎖そのものに関心を持って、記事を書いていたんです。それでうちとドッキングしたわけでしてね」
「突然そうおっしゃられても……」
と、敦子は、消え入りそうな声で言った。
「あなたは、総《すべ》てを見ていたはずです。話してくれませんか。——おそらく上の人間から、何もしゃべるなという命令が出ているでしょう。あなたの社員としての立場は、よく分かります。しかし、話を聞いた限りでは、これは立派な犯罪です」
犯罪という言葉に、敦子は一瞬、血の気のひく思いがした。
「彼らはただ、組合の代表として、本社に抗議しに来ただけです。それを、若手の社員を動員して、殴るけるの暴行を加えたというのは……。クリニックの医師も、中には額を割られたり、内出血していた人もいて、後で必ず精密検査を受けるように、しつこく言ったということでした」
相原は、敦子の顔をうかがうように、「あなたを選んだのは、おそらく、あなたがその事件について、割り切れないものを感じておられるだろうと思ったからです」
「どういう意味ですか」
「だからこそ、あなたは、この智恵子さんをアパートに置いていたんでしょう? 違いますか」
「私は……放っておけなかったんです。東京に知り合いもない、と言うし、行く所もないというんで」
「優しい人ですな」
と、相原は言ったが、別に皮肉ではないようだった。「だからこそ、あなたの口から、何が起こったのか、話していただきたいんですよ。——被害にあった人たちは、みんな口を封じられてしまった。いい職場へ移すとか別のポストを約束する、と言われてね。全く、情けない話です」
情けない話、か。——職を失い、妻子をかかえて明日の暮らしも不安な人間が、投げられた縄につかまるのを、情けないと言えるだろうか。
「お父さんはどうなったんですか」
と、智恵子が、我慢し切れないように、言った。
知らない、私は何も知らない。
そう言わなくては、そうとしか言えないのだと分かっていても、敦子の口からは言葉が出て来なかった。
「まあ、落ちついて」
と、相原が智恵子をなだめるように、「この人は悪い人じゃない。現に、こうやって我々の話を聞いてくれてるんだ。もし、会社に言われて君のことを監視していたのなら、とっくに席をけって出て行ってるさ」
智恵子は、口を閉じて、燃えるような目で、敦子を見つめていた。
「——そうでしょう」
と、相原は敦子に向かって、言った。「あなたは、その気になれば、いつでもここから出て行ける。こちらには別にあなたを監禁するつもりはないんですから」
敦子は、ゆっくりと息を吐いて、
「何をお訊《き》きになりたいんですか」
と、言った。「もう、何でもご存知なのに」
「いや、正確ないきさつは分かっていません。なぜ、本社がそこまでして、組合の七人を排除しようとしたのか」
敦子は、必死で、状況をつかもうとしていた。何も言わずに出て行くことはできない。
ここで、話すことを拒否しても、この男たちが諦《あきら》めるとは思えなかった。それに、あのロビーでの出来事を詳しく話しても、それは既にこの男たちがつかんでいる事実を、整理して見せるだけのことだ。
それは避けられない、と敦子は思った。
問題は——もちろん、考えるまでもない。竹永のことだ。
竹永がどうなったか。それだけは、言うわけにはいかないのだ。
「知っていることは、お話しします」
と、敦子は、背筋を伸ばして、言った。「でも、その前に、そのカメラで撮るのはやめて下さい」
相原は、少し迷った様子だった。
「やはり、生の証言がありませんとね。顔はぼかして隠すこともできるし、声も変えられるし。あなただということは、分かりませんよ」
「あの場にいた女性は、私だけです。どんなに隠しても、私以外いないんですから。——しゃべったと分かれば、会社にはいられなくなります」
相原は、ちょっと眉《まゆ》を上げて、
「いいでしょう。——おい、テープを止めろ」
カメラマンがカメラから顔を上げた。カチリ、と音がして、
「さあ、話して下さい」
と、相原は身を乗り出した。