敦子は、あの日の朝、課長の大西に呼ばれたことから始めて、アメリカからの客が来ることになっていたので、長野工場の組合の代表たちを締め出そうとしたことを説明した。
「すると、組合代表の締め出しを直接命令したのは、大西という課長だったんですね」
と、相原が言った。
大西の名を、敦子は口にしたくなかった。しかし、そこでごまかしたり、嘘《うそ》をついたりしたら、これからの話も信じようとしないだろう。
おそらく、他の社員からも大西の名は出ているに違いないが、敦子がそれを認めるのは全く別だ。相原たちは、「証言」を手に入れることになるのだ。
「どうです? 大西が命令したんですね」
と、相原が念を押した。
「そうです」
と、答えて、敦子は急いで付け加えた。「でも——大西課長は、上の人から言われていたんです。社長が、アメリカからみえたお客を案内して、本社へ着く時に、ロビーを——何というか、きれいにしておくように、と」
「きれいに? そう言ったんですか?」
と、相原が身を乗り出す。
「え?」
「人間ですよ。ゴミじゃない。それを『きれいにしろ』というのは、ひどい言い方じゃありませんか」
敦子は、記者がメモを取っているのを見て、
「待って下さい。あの——別にそういう言葉を使ったというわけじゃ……」
「でも、今、あなたはそう言いましたよ」
「ええ、でもそれは——」
「大西課長がそう言ったんでしょう? だからあなたも、ついその言葉が出た」
「いえ……。そうじゃありません。私は……。そうだわ。ロビーが汚れたんです。あの——組合の人たちと、会社の人たちとが争った後。それで、課長がきれいにしろと言ったので……。でも、正確にはそう言ったんじゃないかも——」
「汚れた、と言いましたね」
「ええ、血が大理石の床に——」
と言ってしまって、敦子はハッとして、智恵子を見た。
智恵子が、顔を蒼《そう》白《はく》にして、立っている。
「血が床にね」
相原は肯《うなず》いた。「課長が命令して、みんなできれいにしなきゃいけないほど、血が流れたわけだ」
「でも、鼻血を出した人が何人もいたんです。頭から血を出した人もいましたけど、大部分の人は……」
「乱闘になったいきさつを話して下さい」
相原の言い方は、厳しく、しかも冷静そのものだった。
敦子は、組合の七人が、地下の駐車場からロビーへ入って来て、座り込んでしまったこと、大西の説得にも応じようとしなかったことを話した。
「それで実力行使に出た、というわけですね」
「大西さんも、あんな騒ぎになるとは思っていなかったはずです。ただ、空港から本社へ向かう社長の車から電話が入って、大西さんも追い詰められてしまったんです」
「追い詰められた、と言えば、工場の閉鎖で職を失おうとしていた、七人の方が、よほど追い詰められていたんじゃありませんか」
相原は、早口に、まくしたてるように言った。「あなたは大西課長を弁護しますが、組合の代表たちへの同情があれば——」
「私だって、あの人たちに同情していました!」
敦子は、一瞬カッとなって、我を忘れてしまった。「あの人たちが殴られるのを、面白がって眺めてたとでも言うんですか? あの人たちの苦しい立場に、私だって同情していたんです。だからって、どうしろと言うんですか? 私はただ、受付に座ってることしかできないんです!」
——敦子は、息をついて、震える手を、膝《ひざ》に押し付けた。
「すみません……。でも……本当です。気の毒だと思ってたんです」
「分かりました」
相原は、少し穏やかな口調に戻った。「いや、あなたのことを責めないと言いながら、つい、あんなことを言ってしまって。——話を戻しましょう」
「ええ」
「会社の中の若くて力のありそうな人間を集めて、大西課長は、強制的にロビーから七人を排除しようとしたんですね」
「そうです」
「その前に、大きな布で、ロビー前面のガラス扉を覆って、中が見えないようにした。——これが、どうも信じられないんですよ」
「どういう意味でしょうか」
「ただ、ロビーからどかすだけなら、何もああまでして隠すことはない、と私には思えるんですがね。つまり、初めから、力ずくで、抵抗があれば暴力を振るってもいいと考えていたとしか思えない。どうです?」
「ああなったのは、たまたまです。本当に——はずみだったんです。一人が、持ってたプラカードを振り回して、社員の一人の頭に当たりました。血が出て——後はもう、何がどうなったのか……」
「しかし人数が違ったでしょう」
と、相原は言った。「うまくすれば、そんなにけが人は出なくてすんだはずだ」
敦子は、返事ができなかった。——メモを取っていた記者が、言った。
「あなたは、黙って見てたんですか」
敦子は、それまで黙っていた記者が急に口を開いたので、ちょっと戸惑った。
「あの——何とおっしゃったんですか。すみません」
「いや、そんな大《おお》喧《げん》嘩《か》になって、あなたは何もしなかったんですか?」
と、記者は何だかいやにのんびりした口調で言った。
「何も、って……」
「つまり、誰かを呼びに行くとか、止めに入るとか」
「止めに入る、なんてそんなこと……。とてもそんなこと、できませんでした。私は、ただ、呆《ぼう》然《ぜん》としていて——」
「すると、何をしてたんですか」
敦子は、少し間を置いて、
「座っていました」
と、答えた。
そう答えるしかない。
「あなたは受付の席に座っていたんでしょう。手もとに電話があるんじゃないですか」
「ええ、それは……」
「まあ、大の男が入り乱れて大喧嘩してる時に、止めに入るってわけにはいかなかったでしょう。しかし、それでロビーが血だらけになるくらい、ひどいけが人も出た。救急車を呼ぶとか、そんなことは考えなかったんですか?」
敦子は、言葉に詰まった。確かに、あの時、そんなことまで考えなかったが……。
「あの……大西課長が、けが人をすぐクリニックへ連れて行く、と言っていましたから。救急車の必要は——」
「ない、と判断したんですか?」
「——いえ、考えもしませんでした」
「大西課長が、けが人をあのクリニックへ連れて行ったのは、いつも会社の健康診断などで利用しているので、喧嘩のことが外へ漏れにくい、と思ったからじゃないでしょうか。どうです?」
「分かりません。いつも利用しているから、すぐ診てもらえるだろうし——」
「現に精密検査を受けろと言われた人もいます。あなたは目の前で、頭から血を流してる者がいるのを見ても、近所のクリニックでヨードチンキでも塗ってもらえばすむと思ったんですか」
敦子は、顔が紅潮するのを感じた。口を開きかけるのを遮るように、記者は続けて、
「あなたはその日の帰りに、ここにいる松山君が話を聞こうとするのを、はねつけましたね」
「ええ……」
「大西課長に口止めされていたんですね」
「私は——」
「あなたは組合の人たちに同情していたと言うけど、それにしちゃ、彼らのために、一言の事実も話そうとしなかったじゃありませんか」
記者の言葉は、いつしかたたみかけるように鋭くなっていた。
敦子は、こみ上げて来る、とても言葉にならない思いと、自分の気持ちを分かってほしい——せめて、智恵子一人には——という願いの間に挟まれて、両手で顔を覆った。体が震えて止まらなかった。
どう言ったら、分かってくれるだろう? あの乱闘と流血を目の前で見せられた衝撃を。
そのショックで、気分が悪くなり、早く一人になりたい、逃げ出したい、と願ったことを……。
結果として、「何もしなかった」と言われれば、敦子はそれを否定はできない。だが、「何とかしたかった」と思ったのは事実なのだ。
それは何の意味もないことなのだろうか。
「まあ待てよ」
と、相原が、記者の方へ、なだめるように言った。「せっかく、我々の取材に応じてくれてるんだ。そういじめちゃだめだよ」
相原は、敦子の方へ向いて、
「すみませんね。——ところで、こちらの竹永智恵子さんの父親のこと、ご存知ですね」
敦子は、ゆっくりと息を吐き出した。
「あの時の七人の中の一人で——」
「行方不明。——妙な話です」
と、相原は自分で肯《うなず》きながら、「あなたはロビーでの大《おお》喧《げん》嘩《か》を目の前に見ていたわけですが、その時、竹永さんがどうしたか、憶《おぼ》えていませんか」
敦子は、座り直した。
逃げ出したかった。これまでの話では、少なくとも嘘《うそ》をつかずにすんだ。しかし、これからは、そうはいかない。
「分かりませんわ。——もちろん、智恵子さんから写真を見せてもらって、あの七人の中に、確かに見た顔だな、と思いましたけど。でも、あの時、一人一人のことまでは、とても……」
「それはそうでしょうね。何しろ、その場は混乱していただろうし」
「ええ」
「あの七人が、初めに受付にやって来た時はどうですか。つまり、座り込む前のことですが。特別に誰か一人と話をしたとか……」
「みんな、社長に取り次げと口々に言っていたので……」
「なるほど。誰か一人が代表というのではなく?」
「ええ。私が困っていると、大西課長がやって来たんです」
「それじゃ、特に誰かと口をきいた、ということはないんですね」
「ありません」
本当らしく聞こえただろうか? 敦子は、他の組合の仲間たちから、「この人を責めても仕方ない」とかばってくれた、竹永のことを、思い出していた。
「すると、あの時、竹永さんが、とくにひどいけがをしたとか、そんなことがあったとしても、あなたには分からなかったわけか」
相原は、顎《あご》をさすりながら、「いや、その点が、一番うかがいたかったところなんですよ。何しろ、一緒に抗議に行った仲間まで口をつぐんでいる。他に、事実を知っていそうな人は見当たらないんでね」
と、少し拍子抜けの様子で言った。
「隠してるんじゃないですか」
と、記者が言ったので、敦子は気《け》色《しき》ばんで、
「嘘《うそ》じゃありません!」
と、言い返した。
「それじゃ、一体、竹永さんはどこへ行ったんです? 人間一人、どこかへ消えちまうはずがない」
「私にも分かりません。智恵子さんのためにも、と思って、私もあのクリニックへ行って、訊《き》いてみました。でも……」
「そのことは、クリニックの看護婦さんから聞いてますよ」
と、相原は肯《うなず》いた。「私たちも、あなたが善意でこの娘さんを置いていたことは、本当だと思ってます。何とか、竹永さんの消息について、調べる方法はありませんかね」
敦子は、智恵子の方へ、ちょっと目を向けた。辛くて、ほとんど見ていなかったのだ。しかし——今の自分に何ができるだろう。
「私も、やれるだけのことはやったつもりです」
と、敦子は、言葉を押し出すようにして言った。「でも、何も、つかめませんでした。私も心配しています。けれども……」
声が小さくなって消える。——しばらく、誰も口を開かなかった。
「そうですか」
相原は、軽く息をついて、「仕方がない。いや、あなたには、不愉快な思いをさせて、申し訳ありませんでしたね」
「いいえ」
敦子は、握りしめていた手の汗を拭《ぬぐ》った。
「お父さんは……」
と、智恵子が途方に暮れたように、言った。
「何か、他の面から当たってみよう。君は辛いだろうが、もう少し我慢して」
智恵子が、キュッと唇をかんだ。泣くのをこらえているようだ。敦子の胸が、引き絞るように痛んだ。
「誰かこっちにいたってことも考えられるよね」
と、記者が相原の方に言った。「親しい女性とか。よく東京へ来てたのかな?」
「そんな人、いません」
と、智恵子が食ってかかるように言った。「ひどいわ!」
「まあ、単に可能性を言ってるだけだよ」
と、相原がなだめた。「現実に、蒸発する父親なんて、いくらだっているんだからね」
相原の言葉に、智恵子はむきになって、
「父はそんなこと、しません」
と、言い返した。
「その線で当たる必要があるよ」
と、記者は、立ち上がって、メモ帳をポケットへしまい込む。「企業エゴの犠牲者、っていうんで追跡して、実は女の所に転がり込んでいたとか、会社に丸め込まれてた、なんていうんじゃ、こっちの立場がない」
「その心配はあると思ってた」
と、相原が肯《うなず》く。「他の六人より、ひどいけがをしたとして、それを種に会社をゆすったとか——」
聞いていて、敦子は、怒りがこみあげて来た。智恵子の頬《ほお》に涙が流れている。悔しいのも当然だ。
「ずいぶんひどいことをおっしゃるんですね」
と、敦子は立ち上がって、言った。「今の今まで、哀れな労働者の味方だといばってたのに」
「もちろん、我々の基本姿勢はそうですよ」
と、相原が言った。「しかし、それと、一人一人がどういう人間かは別の話です」
「竹永さんが、会社をゆすったなんて、想像でしかないじゃありませんか」
「しかし、まあ、ロビーに座り込む、なんてのも、一種のおどしですからね」
と、相原は肩をすくめた。
「それは、あの人たちの立場なら——。あなただって、そうするんじゃありませんか?」
「かばうんですか? あなたのことを、みんなで脅しつけた、と言ったじゃありませんか、たった今」
「脅したなんて言っていません」
「しかし、困っていた、と言いましたよ」
「それは——」
「みんなで詰め寄って来たからでしょう? 社長に取り次げ、と怒鳴って」
「ええ。でも——」
「何です?」
「竹永さんは、この人を責めても仕方ない、と言って、他の人を押さえてくれたんです。決して——」
部屋の空気が一変した。
敦子は、顔が青ざめているのを感じた。
「なるほど」
相原は、鋭い目で、敦子を見つめながら、また腰を下ろした。「さっき、あなたは七人の中のどれが竹永さんだったか、分からない、と言いましたよ」
「ぼろが出ましたね」
と、記者が笑った。「あなたはこの娘さんの父親を知っていた。当然、喧《けん》嘩《か》の時、どうしたかも見てたはずですね」
——敦子は、いつの間にか、腰をおろしていた。追い討ちをかけるように、相原が言った。
「もう一つ、我々のつかんでいることがあるんですよ」
敦子は、一度に体の力が抜けて、相原の言葉に反応することもできなかった。
「例のロビーを『きれいにした』社員の一人と、この松山君が、バーですっかり意気投合しましてね。もちろん、松山君の身《み》許《もと》は知らなかったわけですが」
と、相原は言った。「ロビーでの武勇談を聞いた時、社員の中でも目立って活躍した青年がいた、という話を聞きました。力もあるし、体格も良くて、『組合の連中を、次々にぶん投げてた』と、これはその男の言い方ですがね」
敦子は、ぼんやりとテーブルに置いたままの湯《ゆ》呑《の》み茶《ぢや》碗《わん》を見ていた。相原のなめらかな声が、耳に流れ込んで来る。
「その青年というのは、有田吉男。二十七歳で、独身。——まあ、以前はさして目立つ存在ではなかったそうですね」
敦子は、有田の名を聞いて、ゆっくりと目を上げた。相原は続けた。
「しかし、あの事件で活躍してから、有田は庶務から総務一課に配置変えになった。総務一課というのは、あなたと同じですね」
「ええ」
と、敦子は肯《うなず》いた。
「ということは、大西課長の下にいる、というわけだ。今や、かなりのお気に入りらしいじゃないですか」
「よく知りません」
「そんなことはないでしょう。あなたと有田吉男は婚約してると聞きましたよ」
敦子は、疲れ切っていた。返事をする気にもなれない。いや、もう相手には分かっているのだ。答える必要なんかないのだ。
「事実ですね」
と、相原が念を押す。
「——結婚の約束はしています」
と、敦子は、呟《つぶや》くような声で言った。
「なるほど。あなたとしては、ロビーでの乱闘事件で、恋人が出世の足掛かりをつかんだということになる。微妙なところですね」
「どういう意味ですか」
「別に我々は、あなたの幸せなご結婚の邪魔をするつもりはありませんよ。しかし、あなたは、『事件』の目撃者でもある」
記者が、口を挟んで、
「あなたが嘘《うそ》をついて、竹永という男を知らない、と言ったのは、恋人をかばうためでしょう」
と、決めつけるように言った。「その有田ってのが、組合の代表の一人を気絶するぐらいの勢いで投げ飛ばし、肩にかついで、意気揚々とロビーから引き上げた、と聞いてますよ」
意気揚々だなんて……。有田だって、興奮して我を忘れたことを、恥じていたのに。
「ただ、その気絶した一人、というのが、誰なのかが、つかめなかったんです。それが竹永さんだった。——違いますか?」
と、相原は訊《き》いた。
敦子には、答えられなかった。
一体何が聞きたいの、と叫び出しそうになる。あの人は死んだ。そう聞けば満足するの?
あれは不幸な事故だったのだ。竹永は気の毒だったが、もう生き返っては来ない。
ほんの弾みの……そもそもが自分の責任でもない喧嘩のために、有田が「人殺し」になるなんて……。
相原や、記者、そして智恵子もまた、敦子の答えを待っていた。——重苦しい沈黙が、何分も、果てしなく続くかのようだった。
「いいですか」
と、相原は、しびれを切らしたように、「あなたは、竹永さんの顔を知っている、と認めたんですよ。喧《けん》嘩《か》の時、どうなったか。自分の恋人が気絶させた相手が、竹永さんだったかどうか、分からないわけがない。そうでしょう?」
敦子は、いつの間にか、両手を再び固く握り合わせていた。そして、
「分かりません」
と、言った。
「信じられませんね」
「でも、本当です。私は目の前で乱闘を見てショックを受けて——気分が悪くなったんです」
「気分がね」
「本当です。乱闘が終わって、受付から離れたんです。三階へ行って寝てました。原久美江さんに訊いて下さい。——受付の同僚です」
「すると、乱闘の間は座っていたけど、それが終わって、すぐに席を立ってしまった、と?」
「ええ」
「それはおかしい。あなたは、大西がロビーをきれいにしろと命令した、と言ったじゃありませんか。それは当然、ロビーにけが人がいなくなった後のことでしょう。少なくとも、けが人がロビーから運び出されるまでは、あなたはその場にいたはずだ」
「それは——」
「それは? 何です?」
敦子は、見えない紐《ひも》で、自分の首をゆっくりと絞められているような気がした。
「お父さんはどうなったんですか!」
智恵子が、叩《たた》きつけるように言った。「あなたも一緒にお父さんを殴ったんだわ!」
敦子は、ぶつかって来る言葉から逃げようとするかのように、智恵子から顔をそむけた。
「もう、隠してもむだですよ」
相原は、ふと立ち上がると、座っている敦子の傍《そば》に来て、片《かた》膝《ひざ》をついてしゃがみ込んだ。「何もかも話して下さい。悪いようにはしません。我々はあなたの恋人を警察へ突き出したいわけじゃないんですから」
優しい口調だった。
敦子の中の、張りつめていたものが、音を立てて切れた。
敦子は、涙が溢《あふ》れ出て来るのを感じて、抑えようとした。しかし、止められない内に、激しい発作のように、肩が震えて、しゃくり上げながら、敦子は泣き出した。
もう、逃げる場所もなく、支えてくれる人もない。一人きりで堪《こら》える限界を、越えてしまっていた。
「泣いてごまかそうたって——」
と、記者が言いかけて、相原が手ぶりで制した。
「——どうなんです?」
と、相原は、敦子の耳に口を近づけて、「有田が肩にかついで行ったのが、竹永さんだったんですね」
敦子は、肯《うなず》こうとした。もう否定してはおけない。——だが、敦子が肯く前に、相原は、
「竹永さんは? 今、どこにいるんです?」
と、たたみかけて来た。
敦子は知らないのだ。——竹永が「どこにいる」のかは。
敦子は首を横に振った。
「もう一度訊《き》きますよ。竹永さんはどこです」
相原の口調は厳しいものになった。敦子はもう一度首を振って、
「知りません」
と、震える声で言った。
「なるほど」
相原は立ち上がった。冷ややかな目で敦子を見下ろすと、
「では、今のあなたの話を、警察へ伝えましょう。当然、あなたも、大西課長も、有田吉男も取り調べを受けることになりますね」
と言った。
「でも……」
「この智恵子さんが、ただお父さんの行方が分からない、と言いに行っただけでは、警察も相手にしてくれないかもしれないが、我々の証言があれば、話は違いますよ。いいですね、警察の取り調べはこんなものじゃありませんよ」
相原は、突き放すように言った。
「待って。——時間を下さい」
敦子は、必死だった。「私が、自分で何とかして竹永さんのことを——」
「じゃ、認めるんですね、有田が竹永さんに重傷を負わせたことを」
敦子は、青ざめて、唇をかんだ。——竹永を殺した、とは、絶対に言えない。
「はっきり返事をして下さい!」
相原が怒鳴るように言って、敦子は顔を伏せた。——重くのしかかる沈黙。
その時、急に、静かな一つの声が、沈黙を破った。
「もう、やめましょう」
と言ったのは、智恵子だった。
誰もが、戸惑った。それほど、智恵子の声は、さっき敦子を責めた時とは違って、穏やかになっていたのだ。
相原が、当惑気味に、智恵子を見た。
「やめよう、って……。どうしたんだ?」
と、智恵子に訊《き》く。「もう少しなのに」
「もう、いいんです」
智恵子は、首を振った。「私……その人のことは分かってます。本当にいい人なんです。その人を泣かせるなんて、いやです」
「だけどね、君のお父さんのことを——」
「敦子さんは知ってるのかもしれませんけど……。でも、どうしても言えないんだと思います。言えるのなら、私に話してくれてます」
「我々はそれを何としても聞きたいんだ」
「でも、もう今日はやめて。——お願いですから」
敦子は、涙に濡《ぬ》れた目で、呆然と智恵子を見ていた。
智恵子が、敦子の方へやって来ると、
「ごめんなさい」
と、目を伏せて、言った。「お世話になったのに、こんなに辛い思いをさせて。——お父さんが、もしここにいたらきっと怒るわ。恩知らず、って」
敦子は、ハンカチで顔を拭《ぬぐ》った。智恵子は相原の方に向いて、
「もう、帰してあげて」
と、言った。
「分かったよ」
相原は肯《うなず》いて、「——永瀬さん。よく考えて下さい。いずれ我々は真相を突き止めます。あなたが話してくれれば、それが早くなる。決心がついたら、いつでもここに電話を」
敦子は、よろけるように立ち上がった。
出て行っていいのだろうか? 本当に?
居間を出る敦子を、誰も邪魔しなかった。背中に、突き刺さるいくつもの視線を感じた。
玄関に出て、靴をはいていると、智恵子が出て来た。
「道、分かりますか」
と、智恵子は言った。
敦子は振り向いて、
「ええ……」
と、かすれた声で、言った。
——風が出ていた。濡れた頬を、北風が凍らせながら吹き抜けて行く。
マンションから遠ざかりかけて、敦子は振り返った。誰かが見ているような気がしたのだ。
もちろん、それは気のせいだったかもしれないが、これからは、いつも誰かに見られているように思えるだろう。隠さなくてはならないものを、抱いている限りは。
敦子は、ほとんど駆け出すように、マンションを後にした。追いかけて来る不安を、後に置き去りにしようとでもするかのように……。