「いらっしゃいませ」
と、敦子はいった。「ご用件をお伺いいたします」
「営業の浜《はま》中《なか》さんに……」
「かしこまりました。恐れ入りますが、お客様は」
「ああ、黒《くろ》井《い》といいます。お約束がありますので」
「黒井様ですね。少々お待ち下さい」
敦子は、手もとの電話で営業を呼んだ。「——浜中さんですか。黒井様がおみえです。——はい、分かりました」
このビルに来るのが初めてらしい、その客はキョロキョロとロビーの中を見回していた。
「ただいま浜中が下りて参りますので、そちらでお待ち下さい」
「あ、どうも。——いや、立派なロビーですね」
「恐れ入ります」
と、敦子は微笑した。
「大変でしょうな、こんなにいつもツルツルに磨いとくのは」
敦子の顔が、少し固くなった。客は笑って、
「ま、これもこんなにツルツルにしとくのは大変なんですよ」
と、自分の禿《は》げた頭を叩《たた》いた。
今日は、下の受付の当番だ。敦子は、じっと彫像のように、身じろぎもせずに、座っていた。
敦子が仕事に戻って、四日たっていた。宮田栄子は、敦子の父親のことを、ずいぶん心配してくれていた。
大西は、敦子が、毎月少しずつでも、お金を返したいと言うと、
「いつでもいい。余裕ができた時でね」
と、照れたように言っている。
結局、敦子は、何事もなかったように、こうして受付に座っている。元気がないのは、父親のことが心配だからだ、と周囲では思ってくれるので、楽だった。
原久美江あたりから流れたのか、有田と来年の春に式を挙げるという噂《うわさ》は、もう女子社員の間で、知らぬ者はなくなってしまっていた。
有田も、昼食に敦子を誘ったりする。もっとも、敦子は断っていた。好んで、他の女の子たちに冷やかされたくない。
敦子は、平山が休んでいるのに気付いた。具合でも悪いんだろうか?
他人のことを心配して、敦子は自分の身の不安を忘れようとしているのかもしれなかった。いつまた、あの相原という男がやって来るか……。
有田には打ちあけるべきだったかもしれない。しかし、それは、智恵子を裏切ることになる、と敦子は思ったのだ。
電話が鳴った。すぐに出ると、
「外線よ」
と、久美江の声。「ちえ子さん、だって」
敦子がちょっと黙ってしまったので、久美江は、
「つないでいい?」
と、念を押した。
「ええ、つないで」
と、敦子は答えた。「——もしもし」
「あの……智恵子です」
と、少しおずおずした声が、聞こえて来る。
何と言ったものだろう。この間はどうも、なんて、言えっこないじゃないの。
「今、どこから?」
と、敦子は訊《き》いた。
「この間のマンションです」
と、智恵子は答えて、すぐに、「怒ってますか」
と、訊いた。
「怒る、って……。私には、怒る理由なんてないわ」
「だって、敦子さんのこと、騙《だま》して、ここへ来させたりして」
「そんなこと、当然よ。今は——一人なの?」
「ええ。本当に一人です」
敦子は、目の前のロビーを見ながら、
「色んなこと、隠してて、ごめんなさい」
と、言った。「本当にすまないと思ってるのよ」
ロビーの大理石は、外の光を映して、光っている。この場所で、あんなことが起こったなんて、信じられないようだ。
「いいんです。敦子さんはいい人だから……。何があっても、恨んだりしません」
敦子は、胸が一杯になって、何も言えなくなってしまった。
「あの——ちょっと気になることがあって……」
と、智恵子は続けた。「会って、お話ししていいですか?」
「ええ、もちろんよ。ただ——仕事中は出にくいわ。帰りにでも……。何か食べましょうか、一緒に」
智恵子は嬉《うれ》しそうに、
「やった!」
と、声を弾ませた。「いつか行った、おでんの店。この間捜して、見付からなかったんです」
「そうなの? じゃ、どこかで待ち合わせましょ」
妙なものだった。智恵子と会うというので、敦子まで、胸をときめかせている。
智恵子が以前の通りの、人なつこい声を出しているのが、敦子にとっては何よりも嬉しかったのだ。待ち合わせの時間と場所を決めて、敦子は電話を切った。
今日は金曜日だ。帰りに出歩く女の子も多いかもしれないので、見知った顔に出くわす心配のない場所を選んでおいた。
そうか……。もう十二月になったんだ。
初めて、敦子はそう気付いた。やっぱり、ずいぶんぼんやりしていたらしい。冷めたお茶を、敦子は一気に飲み干した。
五時までが、ずいぶん長く感じられた。
やっと時間になって、敦子が三階へ上がって行くと、早くも久美江は帰り仕度を終えて、エレベーターホールへ出て来ている。
「お出かけ?」
と、敦子が訊《き》くと、
「うん。デート」
と、久美江は、はっきりしたもので、「一泊二日のプール・パックなの。ホテルのプールで泳いで、ゆっくり食事」
「じゃ水着持参?」
「そうよ。超ビキニのね」
と、久美江はウインクして見せた。「そうだ。有田さん、今日は八時ごろになるって、戻りが。あなたに伝えといてくれって電話があったわよ」
「そう」
有田は外出していたのだった。敦子は、すっかり忘れていた。
ロッカールームに入って、着替える。五時で帰る子は、もうほとんど帰ってしまって、今は誰もいなかった。
明後日《あさつて》の日曜日、敦子は有田の家へ行くことになっている。有田の両親に、挨《あい》拶《さつ》しなくてはならない。有田は、二人ともよく分かってるから、何も心配することはないよ、と言ってくれているが、敦子にとってはやはり、「面接試験」を受ける受験生の心境である。
まあ、きっと明日、有田から電話が入るだろう。
事務服をロッカーへしまい、鍵《かぎ》をかけると、敦子は、久しぶりに軽い足取りになって、ロッカールームを出たのだった。
「熱い……。熱い!」
智恵子が、ちくわを丸ごと口に入れて目を白黒させる。それを見て、敦子は笑ってしまった。
「ああ、おいしいけど、熱かった!」
智恵子はすでに二杯目のご飯をきれいに空にして、店の人に、「おかわり、お願いします」
と、やっている。
小さなお座敷と、四つばかりのテーブルがあるだけの小さな料理屋で、よく煮込んだおでんが売り物である。安いし、旨《うま》いし、というので、大変なこみ方だった。
「あの人たちも、よくお弁当、買って来てくれたりするんですけど」
と、智恵子は言った。「私、ハンバーガーとかの方がいいのに、何だかすごくこったもの食べさせてくれて……」
——敦子は不思議だった。
本当なら、憎み合ってもいいような二人が、こんなに楽しくご飯を食べている。確かに、それには、二人の間に横たわる影から目をそらして気付かないふりをしている必要はあったのだが。
智恵子も、父親の消息を、敦子が知っていることは分かっているはずだ。少なくとも、何かの手がかり——特に有田のことで、隠していることがあるのも、分かっている。
敦子も、智恵子が自分と有田の結婚をおびやかす存在だということは承知の上だ。
それでも、二人とも今はこの食事を楽しみたかったのだ。笑って、思い切り満腹になるまで食べることが、必要だったのだ……。
「——電話くれて、嬉《うれ》しかったわ」
と、食べ終えて、熱いお茶を飲みながら、敦子は言った。
「謝りたかったけど、パッと切られちゃいそうで……。ドキドキしてたんですよ」
敦子は首を振って、
「あなたって、いい子ね」
と、言った。
「十七にもなって『いい子』じゃねえ」
智恵子はため息をついた。「もう子供じゃないのになあ」
「ごめんなさい」
と、敦子は笑った。「でも、やっぱり、二十八歳から見たら十七歳は子供よ」
「そうかなあ」
智恵子は、頬《ほお》づえをついて、「でも、敦子さん、分かってない」
「何を?」
「私のこと、未経験だと思ってるでしょ」
「ええ?」
敦子は面食らって、「突然、何よ」
「ちゃんと、経験してるんだから、私」
敦子は目を丸くした。
「——本当に?」
智恵子は肯《うなず》いて、言った。
「あの町、出て来る時に、高校で、仲の良かった男の子がいて……。向こうもね、お父さんが新しい仕事見付けて、あとひと月で町を出るってことだったから……。もう会うことないでしょ。ほとんど、絶対に。だから、町を出る前の日に、私の部屋で」
自分で話しておいて、智恵子は少し照れたように目を伏せた。「泣かせるでしょ、ドラマチックで」
「そうね……。でも、いい思い出になった?」
「まだ、そうでもないです。これっきり、手紙も書かない、って約束したから……。でも、時々、会いたくなったりして」
「もう、その子、町にはいないの」
「ええ。友だちに電話した時、さりげなく訊《き》いたら、もう出てったって」
——父親と二人きりだった智恵子が、その父親を失って、どんなに寂しく、孤独だったか、敦子は、初めてそのことを考えた。
敦子のように、好んで独り暮らしをしているわけではないのだ。独りになってしまったのだ。どんなにか、誰かにすがりたかっただろう。
敦子は、智恵子の心細さを思って、胸が痛んだ。
智恵子は、ちょっといたずらっぽく笑って、
「どう、負けたでしょ」
と、言った。
「負けた」
敦子は答えて微《ほほ》笑《え》んだ。
智恵子は、真顔になって、お茶を一口飲むと、
「あの時、ビデオがずっと回ってたんです」
と、言った。
「え?」
「あの人たち、ビデオを止めてなかったんです。カメラはそのまま敦子さんを撮ってて……。敦子さんも座ったきりだったから、カメラの方、覗《のぞ》かなくても撮れたんです」
敦子は唖《あ》然《ぜん》とした。
「じゃあ……。ビデオテープに入ってるの? あの時のやりとり、全部?」
「後で、プレイバックして、『大丈夫、これなら顔が分かる』とか言ってるの聞いて、分かったんです。私は知らなかったんです」
敦子も、智恵子の言葉を疑いはしなかった。
——あのやりとりでは、返事こそはっきりしていないが、有田が竹永に暴行を加えたと認めているのも同じだ。
もし——あれがTVなどで流されたら。
「私、もちろん、あの人たちが父のことを調べてくれるのに感謝してます。でも、そのために敦子さんのこと、騙《だま》したり、おどかしたりして……。いやだったんです、目的さえ正しければ、少しぐらいの嘘《うそ》は構わないっていうのが……」
敦子は、智恵子の複雑な気持ちを考えて、心をふさがれる思いだった。
そして、ふと敦子は思い付いて、
「今、相原って人たち、何を調べてるのかしら」
と、言った。
「他の人に目標を変えたみたいです」
「他の人? 誰のことかしら」
「私には詳しく教えてくれないんですけど……。やっぱりあの時に——喧《けん》嘩《か》があった時にそこにいたはずだって。守衛さんみたいな人で……」
「平山さん?」
「ええ、そう。平山って人です」
平山は今日、休んでいた。何か関係があるのだろうか。
「会いに行ったのかしら」
「たぶん……。今日はずっとみんな出てましたから」
平山を、あの団地に訪ねたのだとすれば……。しかし、おそらく平山は何もしゃべるまい。
敦子が恐れていたのは、平山の所にTV局が行ったことを、大西に知られた時のことだ。平山一人、会社と無関係な人間にしてしまうのは、いともたやすいことだからである。
「敦子さん、その平山って人、よく知ってるんですか」
と、智恵子が訊いた。
「うん。もう結構いい年《と》齢《し》なんだけど、まだ子供さんが小さくてね。今、九つかな。とっても気の優しい人なのよ」
そう言いながら、敦子は、不安がふくらんで来るのを感じていた。相原たちは、平山から何を聞き出したのだろう?
「その人も、あの時は一緒に……」
「いいえ。平山さんは、ロビーを隠してたのよ。外から見られないように。後で、けがした人たちをクリニックへ連れて行ったりしたはずだわ」
「そうですか」
敦子は、もう覚悟を決めていた。
結果はどうなろうとも、少なくとも、智恵子には本当のことを、話してやらなくてはならない。ただそれには竹永の死体をどうしたのか、知る必要があった。
それを知っているのは誰だろう?——大西はもちろんだが……。
大西一人で、竹永の死体をどこかへ隠すなどということができるだろうか。
「——あ、ごめんなさい」
と、智恵子が言い出した。
「何が?」
「今夜は、あのことは話さないようにしようと思っていたのに」
「そう……。もう少し待って。ちゃんと話すわ。私にも分からないことが、まだ残ってるの」
「はい。信じてますから、敦子さんのこと」
と、智恵子は両手をきちんと膝《ひざ》に置いて、「ごちそうさまでした」
ペコンと頭を下げた。
「いいえ、どういたしまして」
「敦子さん、泣いちゃだめですよ、寂しくっても」
「何よ、もう……」
と、敦子は苦笑するしかなかった。
「私——」
「なあに?」
「また、敦子さんのお部屋に帰ってもいいですか」
「——ええ。いつでも。ちゃんとあなたのタオルケットと毛布、そのままにしてあるわよ」
「ありがとう。何だか……変でしょ、こんな年《と》齢《し》で、一人でいるのも」
「ほら、部屋の鍵《かぎ》。また、渡しておくわね」
出て行く時に、智恵子が返して行った鍵を、敦子はキーホルダーから外して、テーブルに置いた。「いつでも入ってて、いいのよ」
「すみません」
智恵子は、その鍵を手に取ると、しっかりと握りしめて、ニッコリ笑った。
敦子は、目頭が熱くなって、あわてて立ち上がった。智恵子に笑われそうで……。
しばらく、呼び出し音が鳴り続けていた。
留守なのだろうか。——夜なのに、誰もいないなんてことがあるだろうか。
アパートへ戻って、敦子はすぐに平山の所へ電話を入れてみたのだ。部屋は冷え切って寒かったが、ストーブに点火する間も惜しかった。
諦《あきら》めかけた時、向こうの受話器が上がった。
「もしもし。——平山さんですか」
少し間があって、
「どなたですか」
と、低い女の声がした。
「奥さんですか。あの、会社の永瀬ですけど……」
「主人は出てます」
と、平山の妻は、固い口調で言った。「もう電話しないで下さい」
敦子は、言葉を失った。——やはり、何かあったのだ。
だが、その時、電話口の向こうで、声がした。
平山の声だ。
「だめよ——」
と、妻が言っているのが聞こえる。
「同じだよ、今さら」
平山が、受話器を取った。「——もしもし」
「永瀬です」
「やあ」
「あの……」
「すまんね。女房の奴《やつ》、君が何か言ったと思ってるんだ」
「TV局の人が……」
「うん。取材だ、といってね。この団地のことを聞きたいと言うんで、今日、待ってたんだ。ところが、来てみると——」
「私、平山さんのことは何も言ってないの。本当よ」
「分かってるよ。調べる気になりゃ、簡単だ」
と、平山は言った。
「それで、何か……」
「何も知らんと言ったが、一時間ぐらい粘ってね。君のビデオを見せられた」
敦子の頬《ほお》が、焼けるように熱くなった。
「ほんの少しだけどね」
と、平山は続けた。「向こうも仕事なんだろうが、いやだね」
「平山さん、今日のこと、誰かに話した?」
少し間を置いて、平山は、
「うん」
と、答えた。「大西さんに電話で知らせたよ」
「そう……」
胸苦しい思いで、敦子は肯いた。
「黙ってようかと思ったが、後で分かった時に、却《かえ》ってまずいと思ってね」
「そうね。そうかもしれない。じゃ、ごめんなさい。奥さんによろしく」
電話を切る。大西から有田へ、当然話が行くだろう。——寒い部屋の中で、敦子はじっとうずくまるように座っていた。