長いこと、敦子と平山は黙って歩いていた。
敦子は、駅に向かって歩いていることを知っていたが、おそらく平山はただ、敦子の歩く通りに合わせていたのだろう。
少し風が出て、冷たさがえり元から忍び込んで来る。
「——どうするの?」
と、敦子は言った。
「どうするかな」
と、平山は息をついた。「あんたならどうする?」
敦子には答えられない。第三者ではないのだから。
「意地悪な質問だったね」
と、平山は自分で言った。「それにあんたは若い。今の仕事を失っても、また何か新しいことがやれるしね」
答えようと思えば簡単だ。——真実を、警察へ行って話すことだ。湖が捜索され、竹永の死体が引き上げられる。
当然、警察は暴行や殺人——いや、殺意はなかったとして、傷害致死とでもいうことになるのかもしれないが——の容疑で、大西や有田を取り調べることになるだろう。
平山も調べられるだろうが、そう重い罪にはなるまい。
それぞれが、自分のしたことの責任を取る。それが当然の道だ。
「俺《おれ》はもう若くないからね」
と、平山は疲れたように言った。「ただ怖い一心で、何とか死体を隠そうと思って……。そう言えば、同情してもらえるだろうかね」
「大西さんの話を、引き受けたの?」
と、敦子は訊《き》いた。
「大西さんは、『君がもし、服役するようなことになったら、ご家族の面倒は責任を持ってみる』と言ったよ。これは会社としての約束だ、と」
平山は、ゆっくりと首を振った。「弁護士も一流のをつけてくれる。その費用も、全部僕が出す、ともね。——きっと刑務所へ行くようなことにはならないですむ、と言っていた」
どうだろう? 人一人、死んでいるのだ。しかも、その死体を捨ててさえいる。
「それに、万一、刑務所へ行っても、すぐに出られるだろうし、その時は必ず、今の会社で、楽ないいポストを用意する。神にかけて誓う、とも言った。まあ、嘘《うそ》じゃないだろうね。大西さんの気持ちは」
「そうね……」
「妙なもんだ」
と、平山は、少し首をすぼめた。「正直に本当のことを話したら、どうなる? 即座に会社はクビだろうな。上の方は、全く知らなかった、で終わりさ。大した罪にはならないかもしれないが、明日から、一家でどうやって食べて行くか、ということになる」
敦子は、ギュッと唇を固く結んだ。
駅の見える所まで来ていた。
「——さて、帰るか」
と、平山は言った。「寒いところを、引っ張り出して、悪かったね」
「いいえ、そんなこと……」
「もう電車も空いてるだろう、こんな時間だからな」
「平山さん——」
「向こうで、バスがなくなるんだ。終バスが早くてね。並んでタクシーにでも乗らなきゃ」
と、平山は言って、苦々しげに、「同じ方向の客をね、四人ぐらい一度に乗っけるんだ。もちろん、料金は一人ずつがちゃんと払う。タクシーの方は儲《もう》かるよ。中にゃ真《ま》面《じ》目《め》な運転手がいてね、頭数で割って、払わせるんだ」
平山は、ゆっくりと息をついた。
「でも、当然、そういう真面目な人間は稼ぎが少ない。——どっちが、正しいのかね。家族のために、少しでもいい給料を、と思うのと」
敦子は、黙っていた。平山は、気を取り直したように、
「じゃ、また」
と、肯《うなず》いて見せた。「あのことは、女房とよく相談してみるよ。君は君で、どうするか決めてくれ」
「ええ」
平山が、駅の方へと歩いて行く、その後ろ姿は、頼りなげで、老い込んでいた。
あの人に、総《すべ》ての責任をしょい込ませて、それでいいのだろうか?
敦子の心は、重く、暗く、ふさがれていた……。
アパートまで戻って、敦子は、階段を上るのを少しためらった。
もう一つ、辛い仕事が待っているのだ。智恵子に話さなければならない。
これ以上、隠しておくことはできなかった。他の人間の口から、聞かせるわけにはいかない。話すのは、自分の役目だ。
平山のことを思えば、それぐらい何だろう?——しかし、平山の話してくれた真実を、智恵子に告げたものかどうか。
もし平山一人が、罪をかぶってくれたとしたら、敦子の話とは矛盾することになってしまうのだ。
それでもいい、と敦子は心に決めた。
これ以上、智恵子に嘘《うそ》はつけない。立場とか、将来の思惑などとは関係なく、人間と人間として、嘘はつけない。
敦子は階段を上って行った。
明かりが点《つ》いている。もちろん、起きて待っているだろう。
自分で鍵《かぎ》をあけ、
「遅くなって、ごめんね」
と、ドアを開けた。
部屋の中に座っていたのは、有田だった。
「有田さん……。どうしたの?」
敦子は、驚きで、しばらく玄関に突っ立ったままだった。
「大西さんから電話もらってね」
と、有田は、曖《あい》昧《まい》な笑顔を見せて、「大変なことになっちゃったな、全く」
上がり込んで、敦子は、布団が敷いてあり、智恵子が寝ていた跡があるのに気付いた。
「あの子は?」
と、敦子は訊《き》いた。「どこに行ったの?」
「さあ……。出てったよ」
と、有田は言った。「びっくりしたよ、君が出て来るとばっかり思ったから」
智恵子も、当然敦子が帰って来たのだと思って、ドアを開けたはずだ。
「こんな時間に……。電話ぐらいしてくれれば良かったのに」
と、敦子は言った。
「大西さんにね、今夜中に話をはっきりさせといた方がいい、って言われたんだ。僕らも話をぴったり合わせとかないとね。いつ警察も動き出すか分からない。それに——明日のこともあるじゃないか」
明日のこと……。
そうだった。敦子は、有田の家へ挨《あい》拶《さつ》に行くことになっていたことを、思い出した。
「君の気持ちも、はっきりさせないと、妙な雰囲気になっても困ると思ってさ」
と、有田は言った。
「平山さんが来たのよ」
「平山さん?——そうか。出てると言ったのは……」
有田は肯《うなず》いた。そして、ふっと気付いた様子で、「じゃ……聞いたんだね」
「ええ」
有田は、体中で息をついた。
「まさか、あんなことになるなんて……。殴られてカッとしたんだ。力任せに放り投げちまった。——運が悪かったよ」
「私も、死んでるんじゃないかと、ずっと思ってたわ。でもまさか……」
「湖に捨てたこと? そりゃ、良くなかったかもしれない。でも、死んだら同じさ。もう何も感じない。そうだろ?」
「だからって——」
「君には分からないよ。三人とも、怖くて、びっしょり冷や汗をかいてた。山の中で道に迷って、車ごと湖に突っ込みそうになったりして……。二度と家へ帰れないんじゃないかと思ったよ」
「その時に、私に結婚してくれって、電話して来たんでしょう」
「うん。——帰り道に、終夜営業のレストランに寄ってね。やっと三人とも、生き返ったみたいだった。その時、むしょうに君に会いたくなったんだ。分かるかい」
「分かるわ」
敦子は肯《うなず》いた。
「あんな時に、君を愛してることに気付くなんてね、妙なもんだ」
と、有田は、いつもの少し照れたような笑顔になった。「でも、本当の気持ちだったんだよ」
それは、敦子だって疑っているわけではない。しかし、今の敦子には、もっと気になることがあった。
「あの子に何を話したの?」
「何を、って……。僕らのことさ。僕が君と結婚することになってることと……」
「それだけじゃないわね」
有田が目をそらしていることに、敦子は気付いていた。
「うん……。あの子がここにいると、君にとって、まずいことになる、と話したよ。だって、あの子がいちゃ、君と話なんかできないじゃないか」
「なぜまずいことになるか、話したの?」
「うん、まあ……。向こうも気付いてたようだった。『お父さんのこと、知ってるんですね』って訊《き》いて来たから……。はっきり言ってやった方がいいと思ったんだ」
「死んだ、ということを?」
「うん」
敦子は、智恵子が寝ていた布団へ目をやった。——なぜ、もっと早く、話してやらなかったんだろう? 自分が話さなくてはいけないことだったのに。
「——ねえ、あの子、パジャマのままで出て行ったの?」
敦子は、智恵子の服が、きちんと折りたたまれて、隅に重ねてあるのに目を止めた。
「ああ……。何か上にはおってたけど」
敦子は、腰を浮かした。有田が、
「待てよ」
と、敦子の腕をつかむ。「放っとけよ! 君にあの子のことを心配する義務なんか、ないじゃないか」
「父親が死んだと聞いただけで、どうして着替えもせずに出て行くの? あなた、それ以上のことも言ったんでしょう」
敦子が真っ直《す》ぐに有田を見つめる。
「——だから、大西さんとの打ち合わせ通りの話さ。平山さんが、あの男を誤って死なせて、死体を湖へ捨てた、と……後で分かって、会社としても困ってたんだってことも」
平山の名を出した。それを聞いて、智恵子は、敦子たちの後を追いかけようとしたのだ……。
「急に飛び出してっちゃったから、こっちだって、びっくりしたよ。——そうか、平山さんが来たのを知ってたからか」
と、有田も、やっと理解した様子で、肯《うなず》いた。「そんなこと、知らなかったから、こっちは——。おい」
敦子は、玄関へおりていた。
「捜して来るわ」
敦子は、急いでドアを開けた。
階段を足早に下りて行くと、
「待てよ!」
と、有田が追いかけて来た。
「大声出さないで」
と、敦子は言った。「アパートの人が起きるわ」
「どこへ行くんだ」
外へ出て、どんどん歩いて行く敦子を止めようと、有田は駆け出して、敦子の前に立った。
「行かせてよ」
と、敦子は言った。
「あの子に係《かか》わり合うのはよせよ。せっかく丸くおさまるっていうのに」
「この寒い中を、あの子はパジャマにコートか何かはおって飛び出してったのよ。他人だって放っとけないでしょ」
と、敦子は言い返した。
「その前に、話し合っとかなくちゃ」
「何を?」
「決まってるじゃないか。僕らの将来がかかってるんだ」
——僕らの将来。
その言葉は、敦子の胸を、やり切れない焦燥感で焼いた。その「将来」は智恵子の父の死と、平山の苦しみの上にだけ、存在しているのだ。
「分かったわ」
と、敦子は言った。「でも、歩きながらでも話せるでしょ。あの子を見付けなきゃ。それは分かって。ただ、年下の子に対する年上の人間の義務だわ」
「分かった。じゃ……。どっちへ行ったか分かるのかい?」
「分からないけど——よく知ってるのはこの道だから」
真っ直《す》ぐ駅へ出る道を、敦子は歩いてみることにした。他の道は、そう知らないはずだ。
「——たぶん、平山さんが、自分で総《すべ》てやったと話しても、警察は君の証言をほしがるだろう」
と、有田は歩きながら、言った。「君は受付に座ってて、一部始終を見てたんだから」
「でも、他の人たちは?」
「大西さんが話すさ。ちゃんと話を合わせてくれる。大丈夫だよ」
「TV局の人たちは、あなたが誰かを投げとばしたってことを、つかんでるわ」
「でも、それが誰かは知らないだろ? だったら大丈夫。——平山さんは、あの時、乱闘に加わってなかったけど、そこも言い含めておけば、みんな、よく憶えてない、とか言うさ。あんな時だからね」
「そして私が、はっきり証言すれば?」
「そう。君は、喧《けん》嘩《か》に巻き込まれていなかった、目撃者だ。君の話が一番信用されるよ」
「でも、あなたと婚約してるわ」
「だからって、君の言葉を疑う理由はないよ」
と、有田は自信ありげに言った。
本当にそうだろうか? 警察が、平山の話を、そのまま信じてくれるかどうか。いや、たとえ信じたとしても、それでいいのか。
自分は——私はそれで安心していられるだろうか。
「なあ」
と、有田は、敦子の肩を抱いた。「寒くないか?」
「大丈夫よ」
「僕らは……。平山さんや、家族のために、できるだけのことしてあげればいいんじゃないかな。それで平山さんも納得してるんだし……」
「あなただって……」
と、言いかけて、敦子は言葉を切った。
「僕が、どうしたんだ?」
「あなただって、これでいいとは思ってないんでしょう」
有田は、ちょっと目を伏せた。
「まあ……そりゃ、後ろめたさはあるさ。でも、僕のためだけじゃない。会社のためにも、それが一番いいんだよ」
有田は自分の言葉に肯《うなず》いて、「そうさ。世の中、きれいごとじゃ通らないことだってあるんだよ」
敦子は笑い出した。有田が戸惑ったように敦子を眺める。
有田のような、「坊っちゃん」が、分かったようなことを言うのが、おかしかったのである。たぶん、生きることの哀《かな》しさも辛さも、骨身にしみて感じたことなどない有田が……。
——駅までやって来た。
どこにも、智恵子の姿は見えなかった。すれ違ったわけではない。それでは、どこか別の道を行ったのだろうか。
「気がすんだかい」
と、戻りながら、有田が言った。「——どこに行くんだ?」
敦子は、さっき平山と来た道を、逆に辿《たど》って行くことにした。あの陸橋を越えて、アパートまで戻ってみよう。
「もう帰ってもいいわよ」
と、敦子は、足を止めて言った。「アパートへ戻っても、仕方ないでしょ」
「そういうわけにはいかないよ」
と、有田は首を振って言った。
「大西さんにそう言われてるの? 私が妙な真《ま》似《ね》しないように、見張ってろって」
「ねえ……」
「ごめんなさい。でも、これは私とあの子の間のことだから。あなたに黙って、決めたりしないわよ」
「決めるって何を?」
敦子は歩き出した。——ゆるい上り坂を上って行くと、何か冷たいものが顔に当たった。有田が空を見上げて、言った。
「雨だよ」
細かい雨が、降りかかって来た。
敦子は、肩や頬《ほお》に冷たさを感じながら、歩みを止めようとはしなかった。
「もうよせよ、意地を張るのは」
と、有田が、敦子の肩を、強くつかんで言った。
敦子は振り向いて、
「私はただ、あの子のことを心配してるだけじゃないの」
「僕らのことより大事なのか、あの女の子のことが」
「そんな——」
「そうなんだな。君は僕との結婚より、あの女の子の方が大切なんだ」
「比べられるもんじゃないでしょ。どうしてそんな言い方するの?」
「言わせたのは君だぞ」
有田は苛《いら》立《だ》ち、怒っていた。声が、上ずって、震えている。——雨が強く降り出した。
服を貫いて、凍るような寒さが肌を刺す。その灰色の矢の中で、二人は無言で立ちつくしていた。
有田は、駅の方へと足早に歩き出した。敦子には、止める間もなかった。雨を振り払うような、その勢いは、とても止められるものではない、と敦子には思えたのだ……。
これで終わり?……何もかも、おしまいなのか。
追いかけて行って、有田にすがりつくか。いや、そんなことはむだだろう。有田は分かっている。敦子の方が、正しいということを。だからこそ、あんなに苛《いら》立《だ》っているのだ。
だが、男と女の仲で、どっちが正しい、などということに、何の意味があるだろう……。
敦子は、再び雨の中を、歩き出した。もちろん、駅とは逆の方向に。一歩ごとに、有田は自分から遠ざかっているのだ、と思いつつ、敦子は歩みを早めた。
——陸橋が見えて来る辺りで、敦子は足を止めた。
ベンチに、智恵子が座っていたのだ。もちろん、雨を遮る物とてない。パジャマに、薄いレインコートをはおっただけの智恵子は、頭を垂れて、両手を固く握り合わせて、身じろぎもしなかった。
敦子は、駆け寄って、
「こんなに濡《ぬ》れて!——アパートに帰ろう。さあ」
と、智恵子の腕を取った。
智恵子は、顔を半ば伏せたまま、強く首を振った。
「もう、あの人はいないわよ。帰ったわ。——ね、こんなことしてたら、風《か》邪《ぜ》引くか、肺炎にでもなったら……。早く、帰りましょ」
「放っといて」
と、智恵子は、囁《ささや》くような声で言った。
「そんな……。裸足《はだし》で。真っ青よ、顔」
と、敦子は智恵子の顔を覗《のぞ》き込んだ。
辺りは暗かった。街灯の青白い光は、智恵子の顔を、やっと表情が見分けられる程度に照らしているに過ぎない。
陸橋の下を、電車が駆け抜けて行く音がした。
智恵子は、ゆっくりと顔を上げると、
「お父さんは、もっと冷たい所にいるんだわ」
と、言った。「これぐらい、何でもない」
敦子は、ベンチに、並んで腰を下ろした。
「——私から話すべきだったのにね。ごめんなさい。私も、平山さんから聞くまで、知らなかったのよ」
敦子は、智恵子の肩を抱こうとして、手を止めた。「でも、あなたのお父さんが亡くなったことは、知ってたわ。隠していて、ごめんなさい」
吐く息が白く、雨の中を、漂って消えて行く。智恵子は、泣いているようだったが、雨に濡れた顔は、涙を隠していた。
「誰も恨みません」
と、智恵子は言った。「でも、早くお父さんを出してあげて」
そう言うと、智恵子は立ち上がった。敦子が急いで立つと、
「一人でいたいんです」
と、智恵子ははねつけるように言った。「構わないで!」
智恵子は、陸橋を渡って、雨の中へと消えて行った。——一人になりたい、という智恵子の言葉に、敦子は逆らうわけにはいかなかった。
ちゃんと、一人でアパートへ帰るだろうか? もう二度と、自分の前に現れないかもしれない、と敦子は思った……。
ふと、誰かの気配を感じて振り返った。少し離れた所に、有田が立っている。
有田が歩み寄って来ると、敦子は、濡《ぬ》れた体を押しつけるように、自分から抱きしめた。鼓動が聞こえた。いつか、自分のそれと一つになったこともある鼓動だった。
「——アパートへ送るよ」
と、有田が言った。
「一人で帰れるわ」
「君は——」
と、言いかけて、有田は黙ってしまった。
「だめよ」
と、敦子は言って、深く息をついた。「私、本当のことを話すわ」
その言葉を予期していたのだろう、有田は別に驚いた様子ではなく、
「どうして? 平山さんが——」
「あなただって、分かるでしょう。子供じゃないんだから。たとえ間違ってやってしまったことでも、自分のしたことの責任は取らなきゃ」
有田は、じっと敦子を見つめていた。
「それで僕が刑務所へ行ってもいいのか」
と、有田は言った。
敦子はうつむいた。
「それでも構わないんだな」
有田の声は、細かく震えていた。「恋人を警察に密告するのか」
「私は……」
敦子には答えられない。答えられなかった。自分の手で、自分の幸福を断ち切るのだ。
有田と二人で、幸福になれるはずだったのだ。しかし——今、敦子には、自分がしなくてはならないことが、分かっているだけだった。
「何だ! 言ってみろ!」
有田は敦子の腕をつかんで揺さぶった。食い込む彼の指の痛さはむしろ敦子にとっては救いだった。
「あなたが好きよ……」
と、敦子は言った。「嘘《うそ》じゃない。本当よ。だけど——」
有田の激しい息づかいが、敦子の顔に感じられた。二人の吐く息が、混じり合った。
有田が、敦子の腕から手をはなした。
「僕はいやだ。——誰が、認めたりするもんか。誰が!」
敦子はよろけるように、後ずさった。
黙っていればいいのだ。それで何もかもうまく行く。有田と結婚して、子供を作って、楽しく暮らせばいい。その内には、智恵子のことも、平山のことも、忘れて行く。
そうなのだ。——有田の言葉は、敦子の思いでもある。
しかし、どんな夢も、人一人の死を、消してはくれない。
遠くから、雨の低い囁《ささや》きを縫って、電車の音が聞こえて来た。この陸橋の下を通るのだ。何秒か後には。
「あなたが決めて」
と、敦子は言った。
「何を?」
「私の気持ちは変わらないわ。でも、あなたを捕まえさせたいわけじゃないのよ」
「だったら、どうしろって言うんだ」
「電車が来るわ」
敦子は、陸橋の手すりに、もたれた。「私を一押しすれば、それですむわ」
有田は、目を見開いた。
「——何だって?」
「誰も疑わないわ。私が飛び下りたと思うだけ。私だって——その方が、どんなに楽か……」
「君は——」
と、有田は言った。「僕をおどかすのか」
「違うわ」
敦子は有田に背を向けた。——手すりは、敦子の胸の少し下辺りまでしかない。
「本当にやったらどうするんだ!」
「構わないのよ」
敦子は、近付いて来る電車の灯を見つめていた。
敦子は、ふっと肩を落とした。
そう。これが、一番いい解決だったのかもしれない。
苦しみはほんの一瞬のことだろう。あの電車の前に落ちれば、意識は一瞬の内に押し潰《つぶ》されてしまうだろうから。
有田に憎まれるか、智恵子に恨まれるか、いや、何よりも自分を許せない辛さから、逃れる道は、これしかなかったのだ。
有田が後ろに立つのが、気配で感じられた。——そう。これでいいのだ。
さあ、ちょっと力を入れて一突きしてくれれば、それでけりがつく。長い長い悩みが、かき消されてしまう。
早くして。電車が来る。
有田の手が、敦子の両肩にかかった。
「敦子」
有田の手は震えていた。電車は陸橋の下を駆け抜けようとしていた。
間に合わない! 敦子は、両手でぐいと手すりを押して、身を乗り出した。
「よせ!」
有田が、敦子の体を力一杯抱きしめて、そのまま後ろ向きに倒れた。
電車が、足下を轟《ごう》音《おん》と共に駆け抜ける。震動が、敦子の背中に伝わって来た。
激しく心臓が打っていた。——しばらくして、有田が、肩で息をしながら、起き上がった。
敦子は、仰向けになったまま、降りかかる雨を、顔に受けていた。
「——起きろよ」
と、有田が言った。「起きられるか?」
「ええ」
敦子は、地面に手をついて、体を起こした。
有田は、ゆっくりと手で顔をこすって、
「雨の中で、座ってることないな」
と、言って、立ち上がった。「さ、手を」
敦子の手を、有田の頑丈な手がつかんで、引っ張った。立ち上がった敦子は、腰の辺りに痛みを感じ、顔をしかめた。
「打ったのか!」
「ちょっと……。破れてるわ、ここ」
「本当だ。馬鹿力だからな、僕は」
有田は、そう言って、ちょっと笑った。「アパートに帰ろう」
二人は、歩き出した。
雨が小降りになって、上がりそうな気配だ。
有田が、敦子の肩を、しっかりと抱き寄せた。どっちにしても、二人とも芯《しん》まで濡れてしまっているので、あまり暖かくはならなかった。
「また、やり直せるかな。もし——」
と、少しためらってから、「刑務所へ入ることになっても」
敦子は、有田の肩に頭をもたせかけた。
「私が代わりに入ってあげる」
「新婚用の部屋を作ってもらおう」
と、有田が言った。
敦子は、軽く笑って、有田の手に、自分の手を添えた。