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人形たちの椅子22

时间: 2018-09-06    进入日语论坛
核心提示:裂けた服 長いこと、敦子と平山は黙って歩いていた。 敦子は、駅に向かって歩いていることを知っていたが、おそらく平山はただ
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 裂けた服
 
 
 長いこと、敦子と平山は黙って歩いていた。
 
 敦子は、駅に向かって歩いていることを知っていたが、おそらく平山はただ、敦子の歩く通りに合わせていたのだろう。
 
 少し風が出て、冷たさがえり元から忍び込んで来る。
 
「——どうするの?」
 
 と、敦子は言った。
 
「どうするかな」
 
 と、平山は息をついた。「あんたならどうする?」
 
 敦子には答えられない。第三者ではないのだから。
 
「意地悪な質問だったね」
 
 と、平山は自分で言った。「それにあんたは若い。今の仕事を失っても、また何か新しいことがやれるしね」
 
 答えようと思えば簡単だ。——真実を、警察へ行って話すことだ。湖が捜索され、竹永の死体が引き上げられる。
 
 当然、警察は暴行や殺人——いや、殺意はなかったとして、傷害致死とでもいうことになるのかもしれないが——の容疑で、大西や有田を取り調べることになるだろう。
 
 平山も調べられるだろうが、そう重い罪にはなるまい。
 
 それぞれが、自分のしたことの責任を取る。それが当然の道だ。
 
「俺《おれ》はもう若くないからね」
 
 と、平山は疲れたように言った。「ただ怖い一心で、何とか死体を隠そうと思って……。そう言えば、同情してもらえるだろうかね」
 
「大西さんの話を、引き受けたの?」
 
 と、敦子は訊《き》いた。
 
「大西さんは、『君がもし、服役するようなことになったら、ご家族の面倒は責任を持ってみる』と言ったよ。これは会社としての約束だ、と」
 
 平山は、ゆっくりと首を振った。「弁護士も一流のをつけてくれる。その費用も、全部僕が出す、ともね。——きっと刑務所へ行くようなことにはならないですむ、と言っていた」
 
 どうだろう? 人一人、死んでいるのだ。しかも、その死体を捨ててさえいる。
 
「それに、万一、刑務所へ行っても、すぐに出られるだろうし、その時は必ず、今の会社で、楽ないいポストを用意する。神にかけて誓う、とも言った。まあ、嘘《うそ》じゃないだろうね。大西さんの気持ちは」
 
「そうね……」
 
「妙なもんだ」
 
 と、平山は、少し首をすぼめた。「正直に本当のことを話したら、どうなる? 即座に会社はクビだろうな。上の方は、全く知らなかった、で終わりさ。大した罪にはならないかもしれないが、明日から、一家でどうやって食べて行くか、ということになる」
 
 敦子は、ギュッと唇を固く結んだ。
 
 駅の見える所まで来ていた。
 
「——さて、帰るか」
 
 と、平山は言った。「寒いところを、引っ張り出して、悪かったね」
 
「いいえ、そんなこと……」
 
「もう電車も空いてるだろう、こんな時間だからな」
 
「平山さん——」
 
「向こうで、バスがなくなるんだ。終バスが早くてね。並んでタクシーにでも乗らなきゃ」
 
 と、平山は言って、苦々しげに、「同じ方向の客をね、四人ぐらい一度に乗っけるんだ。もちろん、料金は一人ずつがちゃんと払う。タクシーの方は儲《もう》かるよ。中にゃ真《ま》面《じ》目《め》な運転手がいてね、頭数で割って、払わせるんだ」
 
 平山は、ゆっくりと息をついた。
 
「でも、当然、そういう真面目な人間は稼ぎが少ない。——どっちが、正しいのかね。家族のために、少しでもいい給料を、と思うのと」
 
 敦子は、黙っていた。平山は、気を取り直したように、
 
「じゃ、また」
 
 と、肯《うなず》いて見せた。「あのことは、女房とよく相談してみるよ。君は君で、どうするか決めてくれ」
 
「ええ」
 
 平山が、駅の方へと歩いて行く、その後ろ姿は、頼りなげで、老い込んでいた。
 
 あの人に、総《すべ》ての責任をしょい込ませて、それでいいのだろうか?
 
 敦子の心は、重く、暗く、ふさがれていた……。
 
 
 
 アパートまで戻って、敦子は、階段を上るのを少しためらった。
 
 もう一つ、辛い仕事が待っているのだ。智恵子に話さなければならない。
 
 これ以上、隠しておくことはできなかった。他の人間の口から、聞かせるわけにはいかない。話すのは、自分の役目だ。
 
 平山のことを思えば、それぐらい何だろう?——しかし、平山の話してくれた真実を、智恵子に告げたものかどうか。
 
 もし平山一人が、罪をかぶってくれたとしたら、敦子の話とは矛盾することになってしまうのだ。
 
 それでもいい、と敦子は心に決めた。
 
 これ以上、智恵子に嘘《うそ》はつけない。立場とか、将来の思惑などとは関係なく、人間と人間として、嘘はつけない。
 
 敦子は階段を上って行った。
 
 明かりが点《つ》いている。もちろん、起きて待っているだろう。
 
 自分で鍵《かぎ》をあけ、
 
「遅くなって、ごめんね」
 
 と、ドアを開けた。
 
 部屋の中に座っていたのは、有田だった。
 
「有田さん……。どうしたの?」
 
 敦子は、驚きで、しばらく玄関に突っ立ったままだった。
 
「大西さんから電話もらってね」
 
 と、有田は、曖《あい》昧《まい》な笑顔を見せて、「大変なことになっちゃったな、全く」
 
 上がり込んで、敦子は、布団が敷いてあり、智恵子が寝ていた跡があるのに気付いた。
 
「あの子は?」
 
 と、敦子は訊《き》いた。「どこに行ったの?」
 
「さあ……。出てったよ」
 
 と、有田は言った。「びっくりしたよ、君が出て来るとばっかり思ったから」
 
 智恵子も、当然敦子が帰って来たのだと思って、ドアを開けたはずだ。
 
「こんな時間に……。電話ぐらいしてくれれば良かったのに」
 
 と、敦子は言った。
 
「大西さんにね、今夜中に話をはっきりさせといた方がいい、って言われたんだ。僕らも話をぴったり合わせとかないとね。いつ警察も動き出すか分からない。それに——明日のこともあるじゃないか」
 
 明日のこと……。
 
 そうだった。敦子は、有田の家へ挨《あい》拶《さつ》に行くことになっていたことを、思い出した。
 
「君の気持ちも、はっきりさせないと、妙な雰囲気になっても困ると思ってさ」
 
 と、有田は言った。
 
「平山さんが来たのよ」
 
「平山さん?——そうか。出てると言ったのは……」
 
 有田は肯《うなず》いた。そして、ふっと気付いた様子で、「じゃ……聞いたんだね」
 
「ええ」
 
 有田は、体中で息をついた。
 
「まさか、あんなことになるなんて……。殴られてカッとしたんだ。力任せに放り投げちまった。——運が悪かったよ」
 
「私も、死んでるんじゃないかと、ずっと思ってたわ。でもまさか……」
 
「湖に捨てたこと? そりゃ、良くなかったかもしれない。でも、死んだら同じさ。もう何も感じない。そうだろ?」
 
「だからって——」
 
「君には分からないよ。三人とも、怖くて、びっしょり冷や汗をかいてた。山の中で道に迷って、車ごと湖に突っ込みそうになったりして……。二度と家へ帰れないんじゃないかと思ったよ」
 
「その時に、私に結婚してくれって、電話して来たんでしょう」
 
「うん。——帰り道に、終夜営業のレストランに寄ってね。やっと三人とも、生き返ったみたいだった。その時、むしょうに君に会いたくなったんだ。分かるかい」
 
「分かるわ」
 
 敦子は肯《うなず》いた。
 
「あんな時に、君を愛してることに気付くなんてね、妙なもんだ」
 
 と、有田は、いつもの少し照れたような笑顔になった。「でも、本当の気持ちだったんだよ」
 
 それは、敦子だって疑っているわけではない。しかし、今の敦子には、もっと気になることがあった。
 
「あの子に何を話したの?」
 
「何を、って……。僕らのことさ。僕が君と結婚することになってることと……」
 
「それだけじゃないわね」
 
 有田が目をそらしていることに、敦子は気付いていた。
 
「うん……。あの子がここにいると、君にとって、まずいことになる、と話したよ。だって、あの子がいちゃ、君と話なんかできないじゃないか」
 
「なぜまずいことになるか、話したの?」
 
「うん、まあ……。向こうも気付いてたようだった。『お父さんのこと、知ってるんですね』って訊《き》いて来たから……。はっきり言ってやった方がいいと思ったんだ」
 
「死んだ、ということを?」
 
「うん」
 
 敦子は、智恵子が寝ていた布団へ目をやった。——なぜ、もっと早く、話してやらなかったんだろう? 自分が話さなくてはいけないことだったのに。
 
「——ねえ、あの子、パジャマのままで出て行ったの?」
 
 敦子は、智恵子の服が、きちんと折りたたまれて、隅に重ねてあるのに目を止めた。
 
「ああ……。何か上にはおってたけど」
 
 敦子は、腰を浮かした。有田が、
 
「待てよ」
 
 と、敦子の腕をつかむ。「放っとけよ! 君にあの子のことを心配する義務なんか、ないじゃないか」
 
「父親が死んだと聞いただけで、どうして着替えもせずに出て行くの? あなた、それ以上のことも言ったんでしょう」
 
 敦子が真っ直《す》ぐに有田を見つめる。
 
「——だから、大西さんとの打ち合わせ通りの話さ。平山さんが、あの男を誤って死なせて、死体を湖へ捨てた、と……後で分かって、会社としても困ってたんだってことも」
 
 平山の名を出した。それを聞いて、智恵子は、敦子たちの後を追いかけようとしたのだ……。
 
「急に飛び出してっちゃったから、こっちだって、びっくりしたよ。——そうか、平山さんが来たのを知ってたからか」
 
 と、有田も、やっと理解した様子で、肯《うなず》いた。「そんなこと、知らなかったから、こっちは——。おい」
 
 敦子は、玄関へおりていた。
 
「捜して来るわ」
 
 敦子は、急いでドアを開けた。
 
 階段を足早に下りて行くと、
 
「待てよ!」
 
 と、有田が追いかけて来た。
 
「大声出さないで」
 
 と、敦子は言った。「アパートの人が起きるわ」
 
「どこへ行くんだ」
 
 外へ出て、どんどん歩いて行く敦子を止めようと、有田は駆け出して、敦子の前に立った。
 
「行かせてよ」
 
 と、敦子は言った。
 
「あの子に係《かか》わり合うのはよせよ。せっかく丸くおさまるっていうのに」
 
「この寒い中を、あの子はパジャマにコートか何かはおって飛び出してったのよ。他人だって放っとけないでしょ」
 
 と、敦子は言い返した。
 
「その前に、話し合っとかなくちゃ」
 
「何を?」
 
「決まってるじゃないか。僕らの将来がかかってるんだ」
 
 ——僕らの将来。
 
 その言葉は、敦子の胸を、やり切れない焦燥感で焼いた。その「将来」は智恵子の父の死と、平山の苦しみの上にだけ、存在しているのだ。
 
「分かったわ」
 
 と、敦子は言った。「でも、歩きながらでも話せるでしょ。あの子を見付けなきゃ。それは分かって。ただ、年下の子に対する年上の人間の義務だわ」
 
「分かった。じゃ……。どっちへ行ったか分かるのかい?」
 
「分からないけど——よく知ってるのはこの道だから」
 
 真っ直《す》ぐ駅へ出る道を、敦子は歩いてみることにした。他の道は、そう知らないはずだ。
 
「——たぶん、平山さんが、自分で総《すべ》てやったと話しても、警察は君の証言をほしがるだろう」
 
 と、有田は歩きながら、言った。「君は受付に座ってて、一部始終を見てたんだから」
 
「でも、他の人たちは?」
 
「大西さんが話すさ。ちゃんと話を合わせてくれる。大丈夫だよ」
 
「TV局の人たちは、あなたが誰かを投げとばしたってことを、つかんでるわ」
 
「でも、それが誰かは知らないだろ? だったら大丈夫。——平山さんは、あの時、乱闘に加わってなかったけど、そこも言い含めておけば、みんな、よく憶えてない、とか言うさ。あんな時だからね」
 
「そして私が、はっきり証言すれば?」
 
「そう。君は、喧《けん》嘩《か》に巻き込まれていなかった、目撃者だ。君の話が一番信用されるよ」
 
「でも、あなたと婚約してるわ」
 
「だからって、君の言葉を疑う理由はないよ」
 
 と、有田は自信ありげに言った。
 
 本当にそうだろうか? 警察が、平山の話を、そのまま信じてくれるかどうか。いや、たとえ信じたとしても、それでいいのか。
 
 自分は——私はそれで安心していられるだろうか。
 
「なあ」
 
 と、有田は、敦子の肩を抱いた。「寒くないか?」
 
「大丈夫よ」
 
「僕らは……。平山さんや、家族のために、できるだけのことしてあげればいいんじゃないかな。それで平山さんも納得してるんだし……」
 
「あなただって……」
 
 と、言いかけて、敦子は言葉を切った。
 
「僕が、どうしたんだ?」
 
「あなただって、これでいいとは思ってないんでしょう」
 
 有田は、ちょっと目を伏せた。
 
「まあ……そりゃ、後ろめたさはあるさ。でも、僕のためだけじゃない。会社のためにも、それが一番いいんだよ」
 
 有田は自分の言葉に肯《うなず》いて、「そうさ。世の中、きれいごとじゃ通らないことだってあるんだよ」
 
 敦子は笑い出した。有田が戸惑ったように敦子を眺める。
 
 有田のような、「坊っちゃん」が、分かったようなことを言うのが、おかしかったのである。たぶん、生きることの哀《かな》しさも辛さも、骨身にしみて感じたことなどない有田が……。
 
 ——駅までやって来た。
 
 どこにも、智恵子の姿は見えなかった。すれ違ったわけではない。それでは、どこか別の道を行ったのだろうか。
 
「気がすんだかい」
 
 と、戻りながら、有田が言った。「——どこに行くんだ?」
 
 敦子は、さっき平山と来た道を、逆に辿《たど》って行くことにした。あの陸橋を越えて、アパートまで戻ってみよう。
 
「もう帰ってもいいわよ」
 
 と、敦子は、足を止めて言った。「アパートへ戻っても、仕方ないでしょ」
 
「そういうわけにはいかないよ」
 
 と、有田は首を振って言った。
 
「大西さんにそう言われてるの? 私が妙な真《ま》似《ね》しないように、見張ってろって」
 
「ねえ……」
 
「ごめんなさい。でも、これは私とあの子の間のことだから。あなたに黙って、決めたりしないわよ」
 
「決めるって何を?」
 
 敦子は歩き出した。——ゆるい上り坂を上って行くと、何か冷たいものが顔に当たった。有田が空を見上げて、言った。
 
「雨だよ」
 
 細かい雨が、降りかかって来た。
 
 敦子は、肩や頬《ほお》に冷たさを感じながら、歩みを止めようとはしなかった。
 
「もうよせよ、意地を張るのは」
 
 と、有田が、敦子の肩を、強くつかんで言った。
 
 敦子は振り向いて、
 
「私はただ、あの子のことを心配してるだけじゃないの」
 
「僕らのことより大事なのか、あの女の子のことが」
 
「そんな——」
 
「そうなんだな。君は僕との結婚より、あの女の子の方が大切なんだ」
 
「比べられるもんじゃないでしょ。どうしてそんな言い方するの?」
 
「言わせたのは君だぞ」
 
 有田は苛《いら》立《だ》ち、怒っていた。声が、上ずって、震えている。——雨が強く降り出した。
 
 服を貫いて、凍るような寒さが肌を刺す。その灰色の矢の中で、二人は無言で立ちつくしていた。
 
 有田は、駅の方へと足早に歩き出した。敦子には、止める間もなかった。雨を振り払うような、その勢いは、とても止められるものではない、と敦子には思えたのだ……。
 
 これで終わり?……何もかも、おしまいなのか。
 
 追いかけて行って、有田にすがりつくか。いや、そんなことはむだだろう。有田は分かっている。敦子の方が、正しいということを。だからこそ、あんなに苛《いら》立《だ》っているのだ。
 
 だが、男と女の仲で、どっちが正しい、などということに、何の意味があるだろう……。
 
 敦子は、再び雨の中を、歩き出した。もちろん、駅とは逆の方向に。一歩ごとに、有田は自分から遠ざかっているのだ、と思いつつ、敦子は歩みを早めた。
 
 ——陸橋が見えて来る辺りで、敦子は足を止めた。
 
 ベンチに、智恵子が座っていたのだ。もちろん、雨を遮る物とてない。パジャマに、薄いレインコートをはおっただけの智恵子は、頭を垂れて、両手を固く握り合わせて、身じろぎもしなかった。
 
 敦子は、駆け寄って、
 
「こんなに濡《ぬ》れて!——アパートに帰ろう。さあ」
 
 と、智恵子の腕を取った。
 
 智恵子は、顔を半ば伏せたまま、強く首を振った。
 
「もう、あの人はいないわよ。帰ったわ。——ね、こんなことしてたら、風《か》邪《ぜ》引くか、肺炎にでもなったら……。早く、帰りましょ」
 
「放っといて」
 
 と、智恵子は、囁《ささや》くような声で言った。
 
「そんな……。裸足《はだし》で。真っ青よ、顔」
 
 と、敦子は智恵子の顔を覗《のぞ》き込んだ。
 
 辺りは暗かった。街灯の青白い光は、智恵子の顔を、やっと表情が見分けられる程度に照らしているに過ぎない。
 
 陸橋の下を、電車が駆け抜けて行く音がした。
 
 智恵子は、ゆっくりと顔を上げると、
 
「お父さんは、もっと冷たい所にいるんだわ」
 
 と、言った。「これぐらい、何でもない」
 
 敦子は、ベンチに、並んで腰を下ろした。
 
「——私から話すべきだったのにね。ごめんなさい。私も、平山さんから聞くまで、知らなかったのよ」
 
 敦子は、智恵子の肩を抱こうとして、手を止めた。「でも、あなたのお父さんが亡くなったことは、知ってたわ。隠していて、ごめんなさい」
 
 吐く息が白く、雨の中を、漂って消えて行く。智恵子は、泣いているようだったが、雨に濡れた顔は、涙を隠していた。
 
「誰も恨みません」
 
 と、智恵子は言った。「でも、早くお父さんを出してあげて」
 
 そう言うと、智恵子は立ち上がった。敦子が急いで立つと、
 
「一人でいたいんです」
 
 と、智恵子ははねつけるように言った。「構わないで!」
 
 智恵子は、陸橋を渡って、雨の中へと消えて行った。——一人になりたい、という智恵子の言葉に、敦子は逆らうわけにはいかなかった。
 
 ちゃんと、一人でアパートへ帰るだろうか? もう二度と、自分の前に現れないかもしれない、と敦子は思った……。
 
 ふと、誰かの気配を感じて振り返った。少し離れた所に、有田が立っている。
 
 有田が歩み寄って来ると、敦子は、濡《ぬ》れた体を押しつけるように、自分から抱きしめた。鼓動が聞こえた。いつか、自分のそれと一つになったこともある鼓動だった。
 
「——アパートへ送るよ」
 
 と、有田が言った。
 
「一人で帰れるわ」
 
「君は——」
 
 と、言いかけて、有田は黙ってしまった。
 
「だめよ」
 
 と、敦子は言って、深く息をついた。「私、本当のことを話すわ」
 
 その言葉を予期していたのだろう、有田は別に驚いた様子ではなく、
 
「どうして? 平山さんが——」
 
「あなただって、分かるでしょう。子供じゃないんだから。たとえ間違ってやってしまったことでも、自分のしたことの責任は取らなきゃ」
 
 有田は、じっと敦子を見つめていた。
 
「それで僕が刑務所へ行ってもいいのか」
 
 と、有田は言った。
 
 敦子はうつむいた。
 
「それでも構わないんだな」
 
 有田の声は、細かく震えていた。「恋人を警察に密告するのか」
 
「私は……」
 
 敦子には答えられない。答えられなかった。自分の手で、自分の幸福を断ち切るのだ。
 
 有田と二人で、幸福になれるはずだったのだ。しかし——今、敦子には、自分がしなくてはならないことが、分かっているだけだった。
 
「何だ! 言ってみろ!」
 
 有田は敦子の腕をつかんで揺さぶった。食い込む彼の指の痛さはむしろ敦子にとっては救いだった。
 
「あなたが好きよ……」
 
 と、敦子は言った。「嘘《うそ》じゃない。本当よ。だけど——」
 
 有田の激しい息づかいが、敦子の顔に感じられた。二人の吐く息が、混じり合った。
 
 有田が、敦子の腕から手をはなした。
 
「僕はいやだ。——誰が、認めたりするもんか。誰が!」
 
 敦子はよろけるように、後ずさった。
 
 黙っていればいいのだ。それで何もかもうまく行く。有田と結婚して、子供を作って、楽しく暮らせばいい。その内には、智恵子のことも、平山のことも、忘れて行く。
 
 そうなのだ。——有田の言葉は、敦子の思いでもある。
 
 しかし、どんな夢も、人一人の死を、消してはくれない。
 
 遠くから、雨の低い囁《ささや》きを縫って、電車の音が聞こえて来た。この陸橋の下を通るのだ。何秒か後には。
 
「あなたが決めて」
 
 と、敦子は言った。
 
「何を?」
 
「私の気持ちは変わらないわ。でも、あなたを捕まえさせたいわけじゃないのよ」
 
「だったら、どうしろって言うんだ」
 
「電車が来るわ」
 
 敦子は、陸橋の手すりに、もたれた。「私を一押しすれば、それですむわ」
 
 有田は、目を見開いた。
 
「——何だって?」
 
「誰も疑わないわ。私が飛び下りたと思うだけ。私だって——その方が、どんなに楽か……」
 
「君は——」
 
 と、有田は言った。「僕をおどかすのか」
 
「違うわ」
 
 敦子は有田に背を向けた。——手すりは、敦子の胸の少し下辺りまでしかない。
 
「本当にやったらどうするんだ!」
 
「構わないのよ」
 
 敦子は、近付いて来る電車の灯を見つめていた。
 
 敦子は、ふっと肩を落とした。
 
 そう。これが、一番いい解決だったのかもしれない。
 
 苦しみはほんの一瞬のことだろう。あの電車の前に落ちれば、意識は一瞬の内に押し潰《つぶ》されてしまうだろうから。
 
 有田に憎まれるか、智恵子に恨まれるか、いや、何よりも自分を許せない辛さから、逃れる道は、これしかなかったのだ。
 
 有田が後ろに立つのが、気配で感じられた。——そう。これでいいのだ。
 
 さあ、ちょっと力を入れて一突きしてくれれば、それでけりがつく。長い長い悩みが、かき消されてしまう。
 
 早くして。電車が来る。
 
 有田の手が、敦子の両肩にかかった。
 
「敦子」
 
 有田の手は震えていた。電車は陸橋の下を駆け抜けようとしていた。
 
 間に合わない! 敦子は、両手でぐいと手すりを押して、身を乗り出した。
 
「よせ!」
 
 有田が、敦子の体を力一杯抱きしめて、そのまま後ろ向きに倒れた。
 
 電車が、足下を轟《ごう》音《おん》と共に駆け抜ける。震動が、敦子の背中に伝わって来た。
 
 激しく心臓が打っていた。——しばらくして、有田が、肩で息をしながら、起き上がった。
 
 敦子は、仰向けになったまま、降りかかる雨を、顔に受けていた。
 
「——起きろよ」
 
 と、有田が言った。「起きられるか?」
 
「ええ」
 
 敦子は、地面に手をついて、体を起こした。
 
 有田は、ゆっくりと手で顔をこすって、
 
「雨の中で、座ってることないな」
 
 と、言って、立ち上がった。「さ、手を」
 
 敦子の手を、有田の頑丈な手がつかんで、引っ張った。立ち上がった敦子は、腰の辺りに痛みを感じ、顔をしかめた。
 
「打ったのか!」
 
「ちょっと……。破れてるわ、ここ」
 
「本当だ。馬鹿力だからな、僕は」
 
 有田は、そう言って、ちょっと笑った。「アパートに帰ろう」
 
 二人は、歩き出した。
 
 雨が小降りになって、上がりそうな気配だ。
 
 有田が、敦子の肩を、しっかりと抱き寄せた。どっちにしても、二人とも芯《しん》まで濡れてしまっているので、あまり暖かくはならなかった。
 
「また、やり直せるかな。もし——」
 
 と、少しためらってから、「刑務所へ入ることになっても」
 
 敦子は、有田の肩に頭をもたせかけた。
 
「私が代わりに入ってあげる」
 
「新婚用の部屋を作ってもらおう」
 
 と、有田が言った。
 
 敦子は、軽く笑って、有田の手に、自分の手を添えた。
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