日语童话故事 日语笑话 日语文章阅读 日语新闻 300篇精选中日文对照阅读 日语励志名言 日本作家简介 三行情书 緋色の研究(血字的研究) 四つの署名(四签名) バスカービル家の犬(巴斯克威尔的猎犬) 恐怖の谷(恐怖谷) シャーロック・ホームズの冒険(冒险史) シャーロック・ホームズの回想(回忆录) ホームズの生還 シャーロック・ホームズ(归来记) 鴨川食堂(鸭川食堂) ABC殺人事件(ABC谋杀案) 三体 失われた世界(失落的世界) 日语精彩阅读 日文函电实例 精彩日文晨读 日语阅读短文 日本名家名篇 日剧台词脚本 《论语》中日对照详解 中日对照阅读 日文古典名著 名作のあらすじ 商务日语写作模版 日本民间故事 日语误用例解 日语文章书写要点 日本中小学生作文集 中国百科(日语版) 面接官によく聞かれる33の質問 日语随笔 天声人语 宮沢賢治童話集 日语随笔集 日本語常用文例 日语泛读资料 美しい言葉 日本の昔話 日语作文范文 从日本中小学课本学日文 世界童话寓言日文版 一个日本人的趣味旅行 《孟子》中日对照 魯迅作品集(日本語) 世界の昔話 初级作文 生活场境日语 時候の挨拶 グリム童話 成語故事 日语现代诗 お手紙文例集 川柳 小川未明童話集 ハリー・ポッター 新古今和歌集 ラヴレター 情书 風が強く吹いている强风吹拂
返回首页
当前位置: 首页 »日语阅读 » 日本名家名篇 » 赤川次郎 » 正文

人形たちの椅子22

时间: 2018-09-06    进入日语论坛
核心提示:裂けた服 長いこと、敦子と平山は黙って歩いていた。 敦子は、駅に向かって歩いていることを知っていたが、おそらく平山はただ
(单词翻译:双击或拖选)
 裂けた服
 
 
 長いこと、敦子と平山は黙って歩いていた。
 
 敦子は、駅に向かって歩いていることを知っていたが、おそらく平山はただ、敦子の歩く通りに合わせていたのだろう。
 
 少し風が出て、冷たさがえり元から忍び込んで来る。
 
「——どうするの?」
 
 と、敦子は言った。
 
「どうするかな」
 
 と、平山は息をついた。「あんたならどうする?」
 
 敦子には答えられない。第三者ではないのだから。
 
「意地悪な質問だったね」
 
 と、平山は自分で言った。「それにあんたは若い。今の仕事を失っても、また何か新しいことがやれるしね」
 
 答えようと思えば簡単だ。——真実を、警察へ行って話すことだ。湖が捜索され、竹永の死体が引き上げられる。
 
 当然、警察は暴行や殺人——いや、殺意はなかったとして、傷害致死とでもいうことになるのかもしれないが——の容疑で、大西や有田を取り調べることになるだろう。
 
 平山も調べられるだろうが、そう重い罪にはなるまい。
 
 それぞれが、自分のしたことの責任を取る。それが当然の道だ。
 
「俺《おれ》はもう若くないからね」
 
 と、平山は疲れたように言った。「ただ怖い一心で、何とか死体を隠そうと思って……。そう言えば、同情してもらえるだろうかね」
 
「大西さんの話を、引き受けたの?」
 
 と、敦子は訊《き》いた。
 
「大西さんは、『君がもし、服役するようなことになったら、ご家族の面倒は責任を持ってみる』と言ったよ。これは会社としての約束だ、と」
 
 平山は、ゆっくりと首を振った。「弁護士も一流のをつけてくれる。その費用も、全部僕が出す、ともね。——きっと刑務所へ行くようなことにはならないですむ、と言っていた」
 
 どうだろう? 人一人、死んでいるのだ。しかも、その死体を捨ててさえいる。
 
「それに、万一、刑務所へ行っても、すぐに出られるだろうし、その時は必ず、今の会社で、楽ないいポストを用意する。神にかけて誓う、とも言った。まあ、嘘《うそ》じゃないだろうね。大西さんの気持ちは」
 
「そうね……」
 
「妙なもんだ」
 
 と、平山は、少し首をすぼめた。「正直に本当のことを話したら、どうなる? 即座に会社はクビだろうな。上の方は、全く知らなかった、で終わりさ。大した罪にはならないかもしれないが、明日から、一家でどうやって食べて行くか、ということになる」
 
 敦子は、ギュッと唇を固く結んだ。
 
 駅の見える所まで来ていた。
 
「——さて、帰るか」
 
 と、平山は言った。「寒いところを、引っ張り出して、悪かったね」
 
「いいえ、そんなこと……」
 
「もう電車も空いてるだろう、こんな時間だからな」
 
「平山さん——」
 
「向こうで、バスがなくなるんだ。終バスが早くてね。並んでタクシーにでも乗らなきゃ」
 
 と、平山は言って、苦々しげに、「同じ方向の客をね、四人ぐらい一度に乗っけるんだ。もちろん、料金は一人ずつがちゃんと払う。タクシーの方は儲《もう》かるよ。中にゃ真《ま》面《じ》目《め》な運転手がいてね、頭数で割って、払わせるんだ」
 
 平山は、ゆっくりと息をついた。
 
「でも、当然、そういう真面目な人間は稼ぎが少ない。——どっちが、正しいのかね。家族のために、少しでもいい給料を、と思うのと」
 
 敦子は、黙っていた。平山は、気を取り直したように、
 
「じゃ、また」
 
 と、肯《うなず》いて見せた。「あのことは、女房とよく相談してみるよ。君は君で、どうするか決めてくれ」
 
「ええ」
 
 平山が、駅の方へと歩いて行く、その後ろ姿は、頼りなげで、老い込んでいた。
 
 あの人に、総《すべ》ての責任をしょい込ませて、それでいいのだろうか?
 
 敦子の心は、重く、暗く、ふさがれていた……。
 
 
 
 アパートまで戻って、敦子は、階段を上るのを少しためらった。
 
 もう一つ、辛い仕事が待っているのだ。智恵子に話さなければならない。
 
 これ以上、隠しておくことはできなかった。他の人間の口から、聞かせるわけにはいかない。話すのは、自分の役目だ。
 
 平山のことを思えば、それぐらい何だろう?——しかし、平山の話してくれた真実を、智恵子に告げたものかどうか。
 
 もし平山一人が、罪をかぶってくれたとしたら、敦子の話とは矛盾することになってしまうのだ。
 
 それでもいい、と敦子は心に決めた。
 
 これ以上、智恵子に嘘《うそ》はつけない。立場とか、将来の思惑などとは関係なく、人間と人間として、嘘はつけない。
 
 敦子は階段を上って行った。
 
 明かりが点《つ》いている。もちろん、起きて待っているだろう。
 
 自分で鍵《かぎ》をあけ、
 
「遅くなって、ごめんね」
 
 と、ドアを開けた。
 
 部屋の中に座っていたのは、有田だった。
 
「有田さん……。どうしたの?」
 
 敦子は、驚きで、しばらく玄関に突っ立ったままだった。
 
「大西さんから電話もらってね」
 
 と、有田は、曖《あい》昧《まい》な笑顔を見せて、「大変なことになっちゃったな、全く」
 
 上がり込んで、敦子は、布団が敷いてあり、智恵子が寝ていた跡があるのに気付いた。
 
「あの子は?」
 
 と、敦子は訊《き》いた。「どこに行ったの?」
 
「さあ……。出てったよ」
 
 と、有田は言った。「びっくりしたよ、君が出て来るとばっかり思ったから」
 
 智恵子も、当然敦子が帰って来たのだと思って、ドアを開けたはずだ。
 
「こんな時間に……。電話ぐらいしてくれれば良かったのに」
 
 と、敦子は言った。
 
「大西さんにね、今夜中に話をはっきりさせといた方がいい、って言われたんだ。僕らも話をぴったり合わせとかないとね。いつ警察も動き出すか分からない。それに——明日のこともあるじゃないか」
 
 明日のこと……。
 
 そうだった。敦子は、有田の家へ挨《あい》拶《さつ》に行くことになっていたことを、思い出した。
 
「君の気持ちも、はっきりさせないと、妙な雰囲気になっても困ると思ってさ」
 
 と、有田は言った。
 
「平山さんが来たのよ」
 
「平山さん?——そうか。出てると言ったのは……」
 
 有田は肯《うなず》いた。そして、ふっと気付いた様子で、「じゃ……聞いたんだね」
 
「ええ」
 
 有田は、体中で息をついた。
 
「まさか、あんなことになるなんて……。殴られてカッとしたんだ。力任せに放り投げちまった。——運が悪かったよ」
 
「私も、死んでるんじゃないかと、ずっと思ってたわ。でもまさか……」
 
「湖に捨てたこと? そりゃ、良くなかったかもしれない。でも、死んだら同じさ。もう何も感じない。そうだろ?」
 
「だからって——」
 
「君には分からないよ。三人とも、怖くて、びっしょり冷や汗をかいてた。山の中で道に迷って、車ごと湖に突っ込みそうになったりして……。二度と家へ帰れないんじゃないかと思ったよ」
 
「その時に、私に結婚してくれって、電話して来たんでしょう」
 
「うん。——帰り道に、終夜営業のレストランに寄ってね。やっと三人とも、生き返ったみたいだった。その時、むしょうに君に会いたくなったんだ。分かるかい」
 
「分かるわ」
 
 敦子は肯《うなず》いた。
 
「あんな時に、君を愛してることに気付くなんてね、妙なもんだ」
 
 と、有田は、いつもの少し照れたような笑顔になった。「でも、本当の気持ちだったんだよ」
 
 それは、敦子だって疑っているわけではない。しかし、今の敦子には、もっと気になることがあった。
 
「あの子に何を話したの?」
 
「何を、って……。僕らのことさ。僕が君と結婚することになってることと……」
 
「それだけじゃないわね」
 
 有田が目をそらしていることに、敦子は気付いていた。
 
「うん……。あの子がここにいると、君にとって、まずいことになる、と話したよ。だって、あの子がいちゃ、君と話なんかできないじゃないか」
 
「なぜまずいことになるか、話したの?」
 
「うん、まあ……。向こうも気付いてたようだった。『お父さんのこと、知ってるんですね』って訊《き》いて来たから……。はっきり言ってやった方がいいと思ったんだ」
 
「死んだ、ということを?」
 
「うん」
 
 敦子は、智恵子が寝ていた布団へ目をやった。——なぜ、もっと早く、話してやらなかったんだろう? 自分が話さなくてはいけないことだったのに。
 
「——ねえ、あの子、パジャマのままで出て行ったの?」
 
 敦子は、智恵子の服が、きちんと折りたたまれて、隅に重ねてあるのに目を止めた。
 
「ああ……。何か上にはおってたけど」
 
 敦子は、腰を浮かした。有田が、
 
「待てよ」
 
 と、敦子の腕をつかむ。「放っとけよ! 君にあの子のことを心配する義務なんか、ないじゃないか」
 
「父親が死んだと聞いただけで、どうして着替えもせずに出て行くの? あなた、それ以上のことも言ったんでしょう」
 
 敦子が真っ直《す》ぐに有田を見つめる。
 
「——だから、大西さんとの打ち合わせ通りの話さ。平山さんが、あの男を誤って死なせて、死体を湖へ捨てた、と……後で分かって、会社としても困ってたんだってことも」
 
 平山の名を出した。それを聞いて、智恵子は、敦子たちの後を追いかけようとしたのだ……。
 
「急に飛び出してっちゃったから、こっちだって、びっくりしたよ。——そうか、平山さんが来たのを知ってたからか」
 
 と、有田も、やっと理解した様子で、肯《うなず》いた。「そんなこと、知らなかったから、こっちは——。おい」
 
 敦子は、玄関へおりていた。
 
「捜して来るわ」
 
 敦子は、急いでドアを開けた。
 
 階段を足早に下りて行くと、
 
「待てよ!」
 
 と、有田が追いかけて来た。
 
「大声出さないで」
 
 と、敦子は言った。「アパートの人が起きるわ」
 
「どこへ行くんだ」
 
 外へ出て、どんどん歩いて行く敦子を止めようと、有田は駆け出して、敦子の前に立った。
 
「行かせてよ」
 
 と、敦子は言った。
 
「あの子に係《かか》わり合うのはよせよ。せっかく丸くおさまるっていうのに」
 
「この寒い中を、あの子はパジャマにコートか何かはおって飛び出してったのよ。他人だって放っとけないでしょ」
 
 と、敦子は言い返した。
 
「その前に、話し合っとかなくちゃ」
 
「何を?」
 
「決まってるじゃないか。僕らの将来がかかってるんだ」
 
 ——僕らの将来。
 
 その言葉は、敦子の胸を、やり切れない焦燥感で焼いた。その「将来」は智恵子の父の死と、平山の苦しみの上にだけ、存在しているのだ。
 
「分かったわ」
 
 と、敦子は言った。「でも、歩きながらでも話せるでしょ。あの子を見付けなきゃ。それは分かって。ただ、年下の子に対する年上の人間の義務だわ」
 
「分かった。じゃ……。どっちへ行ったか分かるのかい?」
 
「分からないけど——よく知ってるのはこの道だから」
 
 真っ直《す》ぐ駅へ出る道を、敦子は歩いてみることにした。他の道は、そう知らないはずだ。
 
「——たぶん、平山さんが、自分で総《すべ》てやったと話しても、警察は君の証言をほしがるだろう」
 
 と、有田は歩きながら、言った。「君は受付に座ってて、一部始終を見てたんだから」
 
「でも、他の人たちは?」
 
「大西さんが話すさ。ちゃんと話を合わせてくれる。大丈夫だよ」
 
「TV局の人たちは、あなたが誰かを投げとばしたってことを、つかんでるわ」
 
「でも、それが誰かは知らないだろ? だったら大丈夫。——平山さんは、あの時、乱闘に加わってなかったけど、そこも言い含めておけば、みんな、よく憶えてない、とか言うさ。あんな時だからね」
 
「そして私が、はっきり証言すれば?」
 
「そう。君は、喧《けん》嘩《か》に巻き込まれていなかった、目撃者だ。君の話が一番信用されるよ」
 
「でも、あなたと婚約してるわ」
 
「だからって、君の言葉を疑う理由はないよ」
 
 と、有田は自信ありげに言った。
 
 本当にそうだろうか? 警察が、平山の話を、そのまま信じてくれるかどうか。いや、たとえ信じたとしても、それでいいのか。
 
 自分は——私はそれで安心していられるだろうか。
 
「なあ」
 
 と、有田は、敦子の肩を抱いた。「寒くないか?」
 
「大丈夫よ」
 
「僕らは……。平山さんや、家族のために、できるだけのことしてあげればいいんじゃないかな。それで平山さんも納得してるんだし……」
 
「あなただって……」
 
 と、言いかけて、敦子は言葉を切った。
 
「僕が、どうしたんだ?」
 
「あなただって、これでいいとは思ってないんでしょう」
 
 有田は、ちょっと目を伏せた。
 
「まあ……そりゃ、後ろめたさはあるさ。でも、僕のためだけじゃない。会社のためにも、それが一番いいんだよ」
 
 有田は自分の言葉に肯《うなず》いて、「そうさ。世の中、きれいごとじゃ通らないことだってあるんだよ」
 
 敦子は笑い出した。有田が戸惑ったように敦子を眺める。
 
 有田のような、「坊っちゃん」が、分かったようなことを言うのが、おかしかったのである。たぶん、生きることの哀《かな》しさも辛さも、骨身にしみて感じたことなどない有田が……。
 
 ——駅までやって来た。
 
 どこにも、智恵子の姿は見えなかった。すれ違ったわけではない。それでは、どこか別の道を行ったのだろうか。
 
「気がすんだかい」
 
 と、戻りながら、有田が言った。「——どこに行くんだ?」
 
 敦子は、さっき平山と来た道を、逆に辿《たど》って行くことにした。あの陸橋を越えて、アパートまで戻ってみよう。
 
「もう帰ってもいいわよ」
 
 と、敦子は、足を止めて言った。「アパートへ戻っても、仕方ないでしょ」
 
「そういうわけにはいかないよ」
 
 と、有田は首を振って言った。
 
「大西さんにそう言われてるの? 私が妙な真《ま》似《ね》しないように、見張ってろって」
 
「ねえ……」
 
「ごめんなさい。でも、これは私とあの子の間のことだから。あなたに黙って、決めたりしないわよ」
 
「決めるって何を?」
 
 敦子は歩き出した。——ゆるい上り坂を上って行くと、何か冷たいものが顔に当たった。有田が空を見上げて、言った。
 
「雨だよ」
 
 細かい雨が、降りかかって来た。
 
 敦子は、肩や頬《ほお》に冷たさを感じながら、歩みを止めようとはしなかった。
 
「もうよせよ、意地を張るのは」
 
 と、有田が、敦子の肩を、強くつかんで言った。
 
 敦子は振り向いて、
 
「私はただ、あの子のことを心配してるだけじゃないの」
 
「僕らのことより大事なのか、あの女の子のことが」
 
「そんな——」
 
「そうなんだな。君は僕との結婚より、あの女の子の方が大切なんだ」
 
「比べられるもんじゃないでしょ。どうしてそんな言い方するの?」
 
「言わせたのは君だぞ」
 
 有田は苛《いら》立《だ》ち、怒っていた。声が、上ずって、震えている。——雨が強く降り出した。
 
 服を貫いて、凍るような寒さが肌を刺す。その灰色の矢の中で、二人は無言で立ちつくしていた。
 
 有田は、駅の方へと足早に歩き出した。敦子には、止める間もなかった。雨を振り払うような、その勢いは、とても止められるものではない、と敦子には思えたのだ……。
 
 これで終わり?……何もかも、おしまいなのか。
 
 追いかけて行って、有田にすがりつくか。いや、そんなことはむだだろう。有田は分かっている。敦子の方が、正しいということを。だからこそ、あんなに苛《いら》立《だ》っているのだ。
 
 だが、男と女の仲で、どっちが正しい、などということに、何の意味があるだろう……。
 
 敦子は、再び雨の中を、歩き出した。もちろん、駅とは逆の方向に。一歩ごとに、有田は自分から遠ざかっているのだ、と思いつつ、敦子は歩みを早めた。
 
 ——陸橋が見えて来る辺りで、敦子は足を止めた。
 
 ベンチに、智恵子が座っていたのだ。もちろん、雨を遮る物とてない。パジャマに、薄いレインコートをはおっただけの智恵子は、頭を垂れて、両手を固く握り合わせて、身じろぎもしなかった。
 
 敦子は、駆け寄って、
 
「こんなに濡《ぬ》れて!——アパートに帰ろう。さあ」
 
 と、智恵子の腕を取った。
 
 智恵子は、顔を半ば伏せたまま、強く首を振った。
 
「もう、あの人はいないわよ。帰ったわ。——ね、こんなことしてたら、風《か》邪《ぜ》引くか、肺炎にでもなったら……。早く、帰りましょ」
 
「放っといて」
 
 と、智恵子は、囁《ささや》くような声で言った。
 
「そんな……。裸足《はだし》で。真っ青よ、顔」
 
 と、敦子は智恵子の顔を覗《のぞ》き込んだ。
 
 辺りは暗かった。街灯の青白い光は、智恵子の顔を、やっと表情が見分けられる程度に照らしているに過ぎない。
 
 陸橋の下を、電車が駆け抜けて行く音がした。
 
 智恵子は、ゆっくりと顔を上げると、
 
「お父さんは、もっと冷たい所にいるんだわ」
 
 と、言った。「これぐらい、何でもない」
 
 敦子は、ベンチに、並んで腰を下ろした。
 
「——私から話すべきだったのにね。ごめんなさい。私も、平山さんから聞くまで、知らなかったのよ」
 
 敦子は、智恵子の肩を抱こうとして、手を止めた。「でも、あなたのお父さんが亡くなったことは、知ってたわ。隠していて、ごめんなさい」
 
 吐く息が白く、雨の中を、漂って消えて行く。智恵子は、泣いているようだったが、雨に濡れた顔は、涙を隠していた。
 
「誰も恨みません」
 
 と、智恵子は言った。「でも、早くお父さんを出してあげて」
 
 そう言うと、智恵子は立ち上がった。敦子が急いで立つと、
 
「一人でいたいんです」
 
 と、智恵子ははねつけるように言った。「構わないで!」
 
 智恵子は、陸橋を渡って、雨の中へと消えて行った。——一人になりたい、という智恵子の言葉に、敦子は逆らうわけにはいかなかった。
 
 ちゃんと、一人でアパートへ帰るだろうか? もう二度と、自分の前に現れないかもしれない、と敦子は思った……。
 
 ふと、誰かの気配を感じて振り返った。少し離れた所に、有田が立っている。
 
 有田が歩み寄って来ると、敦子は、濡《ぬ》れた体を押しつけるように、自分から抱きしめた。鼓動が聞こえた。いつか、自分のそれと一つになったこともある鼓動だった。
 
「——アパートへ送るよ」
 
 と、有田が言った。
 
「一人で帰れるわ」
 
「君は——」
 
 と、言いかけて、有田は黙ってしまった。
 
「だめよ」
 
 と、敦子は言って、深く息をついた。「私、本当のことを話すわ」
 
 その言葉を予期していたのだろう、有田は別に驚いた様子ではなく、
 
「どうして? 平山さんが——」
 
「あなただって、分かるでしょう。子供じゃないんだから。たとえ間違ってやってしまったことでも、自分のしたことの責任は取らなきゃ」
 
 有田は、じっと敦子を見つめていた。
 
「それで僕が刑務所へ行ってもいいのか」
 
 と、有田は言った。
 
 敦子はうつむいた。
 
「それでも構わないんだな」
 
 有田の声は、細かく震えていた。「恋人を警察に密告するのか」
 
「私は……」
 
 敦子には答えられない。答えられなかった。自分の手で、自分の幸福を断ち切るのだ。
 
 有田と二人で、幸福になれるはずだったのだ。しかし——今、敦子には、自分がしなくてはならないことが、分かっているだけだった。
 
「何だ! 言ってみろ!」
 
 有田は敦子の腕をつかんで揺さぶった。食い込む彼の指の痛さはむしろ敦子にとっては救いだった。
 
「あなたが好きよ……」
 
 と、敦子は言った。「嘘《うそ》じゃない。本当よ。だけど——」
 
 有田の激しい息づかいが、敦子の顔に感じられた。二人の吐く息が、混じり合った。
 
 有田が、敦子の腕から手をはなした。
 
「僕はいやだ。——誰が、認めたりするもんか。誰が!」
 
 敦子はよろけるように、後ずさった。
 
 黙っていればいいのだ。それで何もかもうまく行く。有田と結婚して、子供を作って、楽しく暮らせばいい。その内には、智恵子のことも、平山のことも、忘れて行く。
 
 そうなのだ。——有田の言葉は、敦子の思いでもある。
 
 しかし、どんな夢も、人一人の死を、消してはくれない。
 
 遠くから、雨の低い囁《ささや》きを縫って、電車の音が聞こえて来た。この陸橋の下を通るのだ。何秒か後には。
 
「あなたが決めて」
 
 と、敦子は言った。
 
「何を?」
 
「私の気持ちは変わらないわ。でも、あなたを捕まえさせたいわけじゃないのよ」
 
「だったら、どうしろって言うんだ」
 
「電車が来るわ」
 
 敦子は、陸橋の手すりに、もたれた。「私を一押しすれば、それですむわ」
 
 有田は、目を見開いた。
 
「——何だって?」
 
「誰も疑わないわ。私が飛び下りたと思うだけ。私だって——その方が、どんなに楽か……」
 
「君は——」
 
 と、有田は言った。「僕をおどかすのか」
 
「違うわ」
 
 敦子は有田に背を向けた。——手すりは、敦子の胸の少し下辺りまでしかない。
 
「本当にやったらどうするんだ!」
 
「構わないのよ」
 
 敦子は、近付いて来る電車の灯を見つめていた。
 
 敦子は、ふっと肩を落とした。
 
 そう。これが、一番いい解決だったのかもしれない。
 
 苦しみはほんの一瞬のことだろう。あの電車の前に落ちれば、意識は一瞬の内に押し潰《つぶ》されてしまうだろうから。
 
 有田に憎まれるか、智恵子に恨まれるか、いや、何よりも自分を許せない辛さから、逃れる道は、これしかなかったのだ。
 
 有田が後ろに立つのが、気配で感じられた。——そう。これでいいのだ。
 
 さあ、ちょっと力を入れて一突きしてくれれば、それでけりがつく。長い長い悩みが、かき消されてしまう。
 
 早くして。電車が来る。
 
 有田の手が、敦子の両肩にかかった。
 
「敦子」
 
 有田の手は震えていた。電車は陸橋の下を駆け抜けようとしていた。
 
 間に合わない! 敦子は、両手でぐいと手すりを押して、身を乗り出した。
 
「よせ!」
 
 有田が、敦子の体を力一杯抱きしめて、そのまま後ろ向きに倒れた。
 
 電車が、足下を轟《ごう》音《おん》と共に駆け抜ける。震動が、敦子の背中に伝わって来た。
 
 激しく心臓が打っていた。——しばらくして、有田が、肩で息をしながら、起き上がった。
 
 敦子は、仰向けになったまま、降りかかる雨を、顔に受けていた。
 
「——起きろよ」
 
 と、有田が言った。「起きられるか?」
 
「ええ」
 
 敦子は、地面に手をついて、体を起こした。
 
 有田は、ゆっくりと手で顔をこすって、
 
「雨の中で、座ってることないな」
 
 と、言って、立ち上がった。「さ、手を」
 
 敦子の手を、有田の頑丈な手がつかんで、引っ張った。立ち上がった敦子は、腰の辺りに痛みを感じ、顔をしかめた。
 
「打ったのか!」
 
「ちょっと……。破れてるわ、ここ」
 
「本当だ。馬鹿力だからな、僕は」
 
 有田は、そう言って、ちょっと笑った。「アパートに帰ろう」
 
 二人は、歩き出した。
 
 雨が小降りになって、上がりそうな気配だ。
 
 有田が、敦子の肩を、しっかりと抱き寄せた。どっちにしても、二人とも芯《しん》まで濡れてしまっているので、あまり暖かくはならなかった。
 
「また、やり直せるかな。もし——」
 
 と、少しためらってから、「刑務所へ入ることになっても」
 
 敦子は、有田の肩に頭をもたせかけた。
 
「私が代わりに入ってあげる」
 
「新婚用の部屋を作ってもらおう」
 
 と、有田が言った。
 
 敦子は、軽く笑って、有田の手に、自分の手を添えた。
轻松学日语,快乐背单词(免费在线日语单词学习)---点击进入
顶一下
(0)
0%
踩一下
(0)
0%