空っぽの会議室で、敦子はもう十五分ぐらい、座っていた。
窓からの明るい陽《ひ》射《ざ》しが、敦子の体の片側だけを暖めている。週末の、雪にでもなりそうな雨空と、今日の目に痛いほどの青空が同じ空とは信じられないようだった。
まるで、舞台の第一幕と第二幕のように、同じ空間が、何十年も、あるいは何千キロも離れた空間に変わっているのだ。
受付、大丈夫かしら、と敦子は時計を見ながら、思った。久美江さん、今日はいやに眠そうだった。一階で、居眠りでもしてなきゃいいけど……。
大西に呼ばれて、ここで待っているように言われたのだ。あの時の様子では、すぐ来るようだったが。
敦子は窓の外に目をやった。
こんな穏やかな日に、会社も、とんでもない台風を抱え込んでしまったものだ。——もちろん、敦子はクビを覚悟している。心が決まって、気持ちも穏やかそのものだった。
昨日の日曜日、たった一日——それも、夕方までのことだったが、有田と二人きりの朝を迎え、一緒にご飯を食べた。
「リハーサルだ」
と、有田は笑って、ありあわせのおかずで、よく食べた。
夕方、二人は連れ立って、彼の家に行った。何かあったらしいことは、両親も察していたようだが、息子の話に絶句した。想像もしていなかっただろう。
しかし、父親も、たとえ遅すぎるとしても、今から警察へ行って、ありのままを話すのが最善の道だと納得してくれたのである。
たとえどんなことになろうと、有田と結婚できるまで待つという敦子に、両親は頭さえ下げてくれた。
夜は、敦子も加えて、にぎやかな夕食になり、夜遅く、敦子はアパートに帰った。
タクシーを拾うまで、と送りに出てくれた有田は、何だか拍子抜けしたようでさえあった。
「——結構、やってみると簡単なもんだなあ」
と、寒い夜の道に立って、言ったものだ。
「大変なのはこれからよ」
と、敦子はしっかりと有田の腕をつかんで、言った。
父親が、知り合いの弁護士に電話をし、月曜日の朝、父親とその弁護士が付き添って、有田は警察へ行くことになっていた。
「二人も付き添いがいるなんて、何だか恥ずかしいや」
と、有田は、まるで入試の面接みたいなことを言い出した。
「そんなことないわ。勇気があるのよ」
「僕が?」
「そう。私のフィアンセだけあってね」
二人は夜の道でキスした。ちょうど通りかかったタクシーに乗って、敦子は運転手に冷やかされてしまったのだった。
ドアが開いて、大西が会議室に入って来た。
「待たせて、悪かったね」
少し、言葉に力がなかった。
第三会議室。——大西と二人で、長いテーブルの隅の席についている。
あの日の朝も、この会議室に呼ばれたのだ、と敦子は思い出した。宮田栄子が転んで腰を打って……。
遠い過去の出来事のようだった。
「いい天気だなあ」
と、大西は、窓の方へ顔を向けて、まぶしげに目を細めた。
そして、敦子の方を向くと、
「平山君から、ゆうべ電話があったよ」
と、言った。
「平山さんが何か……」
「こっちの話は断る、と言って来た。つまり、総《すべ》てを自分一人がやったことにはできん、というんだ」
大西の口調には、少しも腹立たしげなところはなかった。「たとえ、クビになってもね。——死体を捨てるのを手伝ったことで、もし刑務所行きになっても、その間は何とか働いてしのぐから、と奥さんに言われたそうだ。子供に、父親が人を殺したと教えるのはいやだ、と……。全く、その通りだ」
大西は肯《うなず》いた。
「金で買えないものもある。すっかり忘れていたよ。有田君からは今朝、連絡をもらった。彼のお父さんとも話した」
敦子は、少し頭を下げて言った。
「父の入院の時にも、お世話になったのに、こんなことになって、すみません。でも、どうしても——」
「ああ、いいんだ。別に怒っちゃいない」
と、大西は手を振った。「どうしてあんなことをしたのかな。君まで巻き込んじまって、すまないと思ってる」
思いがけない言葉だった。皮肉でも、負け惜しみでもない、淡々とした正直な言葉に聞こえたのだ。
「今、専務とも話したよ。——まあ、ここまで来た以上、マスコミに名が出るのも仕方ない。責任は僕がとる。社長や専務は、一切知らなかったことにしてね」
大西は敦子を優しい目で見て、「君は何も嘘《うそ》をつく必要はない。ただ、専務のことは黙っていてくれないか。僕の立場もある」
「分かりました」
と、敦子は肯いた。「——大変なことになりますね」
「全く、人生、何が起こるか分からんね」
大西はちょっと笑った。
「あの……」
「うん、君のことだ。どうするね?」
訊《き》かれて、敦子は戸惑った。こっちに選ぶ権利があるとは思えない。大西は、
「辞めるか」
と、言った。
敦子は、ゆっくりと肯《うなず》いた。
「そうだな。ここにはいられないだろう」
と、大西は言った。
「あの——当然、辞めさせられると思っていました」
と、敦子は正直に言った。「警察で証言したら……」
「クビにする正当な理由はないよ。しかし、早い方がいい。辞表は?」
「一応、書いて来ました」
「そうか。じゃ、すぐ出してくれ」
敦子は、制服のポケットから、白い封筒を出して、机の上に置いた。
「じゃ、すぐ手続きしよう」
と、大西はそれを手に取って、「専務も、この二、三日は、君のことどころじゃないだろう。その間に、手続きを、全部すませちまった方がいい。退職金が出なきゃ、大変だろう、君も」
「ええ、それは……」
「すぐ経理に回すよ。規定は何とでもなる」
と、大西はちょっと考えてから、「君のお父さんには申し訳ないが、危篤ってことにして。君がすぐ故郷へ帰らなきゃならないからと言えば、今日は無理でも明日には退職金が出せるだろう」
敦子は、ただ、
「よろしくお願いします」
としか言えなかった。
「有田君の方は、まあ無理だろうな。——いい奴《やつ》なのに、悪いことをしたよ。君が支えになってやってくれ」
大西は、立ち上がった。「じゃ……。経理の方から連絡させる。今日付で退職にしていいね」
「はい」
大西は、敦子の肩を、軽く叩《たた》いて、
「よく働いてくれた。いい仕事が見付かるといいね」
「大西さん」
と、敦子は見上げて、「やっぱりお辞めになるんでしょう」
「公になった時点で、もう辞めておかないとね。『元・課長』にしておかなきゃならんのさ」
と、大西は肩をすくめて見せた。「後のことを、宮田君や原君と話しておいてくれ」
大西が会議室から出て行く。
敦子も立ち上がったものの、すぐには受付に戻る気になれず、窓辺に寄って、明るい光を浴びた。
平山と有田が、今、それぞれの試練を受けているのだ。そして大西もまた。
——なぜ、こんなことになったんだろう? 誰のせいで?
敦子は会議室を出て、受付の方へと歩いて行った。
智恵子のことだけが、気がかりだ。有田と、雨に打たれながらアパートに戻った時、智恵子はもう、いなくなっていた。持ち物も、必要な物だけを詰めて、持って行ったようだった。
たぶん、智恵子はまた、あのTV局で用意したマンションへ帰ったのだろう。
いくら敦子個人に恨みはなくても、父の死体を捨てるのにも、加担したと思っているかもしれない。そう思われても、仕方がないのだし。
有田の話で、すぐに竹永の死体は引き上げられるだろう。智恵子にとっては、辛い再会になるに違いない。
——三階の受付に戻ると、原久美江が座っている。
「久美江さん。一階じゃなかったの?」
と、敦子は声をかけた。
「一階で、座ったままウトウトしちゃって」
と、久美江はちょっと舌を出して見せる。「うるさい客に見られちゃったの。宮田さんから昼休みにお叱《こ》言《ごと》だわ、きっと」
「大丈夫かな、と思ってたのよ」
と、敦子はつい笑ってしまった。
「ねえ、それより——」
久美江が声を低くして、敦子の方へ顔を寄せると、「何かあったの? 専務が、さっき凄《すご》い顔して飛び出してったわ」
「そう……」
「大西課長、何か言ってなかった?」
「別に」
と、敦子は首を振った。「ね、久美江さん」
辞めることを言っておこうと思ったのだ。内線の電話が鳴って、久美江が取る。
「——課長がお呼び」
敦子は、急いで大西のデスクに向かった。
「——今ね、経理の方と話したよ」
と、大西は言った。「今日中に、仮払いで何とかするそうだ。君も今日でけりがつく方がいいだろう」
「ありがとうございます」
敦子は、頭を下げた。
「いや、課長としての最後の仕事になるかもしれんからね」
大西は少し照れたように笑った。「昼休みの後に、経理の人間が説明に行くよ」
「分かりました」
「じゃあ……そういうことだ」
何か言いたかったが、言うべきことを、思い付かなかった。黙って一礼して、退《さ》がった。
受付に戻る途中で、敦子は足を止めて、振り返ってみた。
大西は、引き出しを開けて、中の物を、屑《くず》入《い》れに捨てたり、デスクの上に並べたりし始めている。きれいに整理しておきたいのだろう。
その姿は寂しげで、小さく、縮んでしまったように見えた。——会社のために骨身を削って来た何十年の日々が一体何だったのか。
会社のために、休みもなく働いて、その結果が「会社のために会社をやめる」……。
今、大西の中にどんな思いが渦巻いているのだろう、と敦子は思った。
たぶん、大西は何も考えていないだろう。ただ、疲れと、迷子になった子供のような戸惑いがあるだけだろう。
会社を恨むことなど、大西には考えられないのだ。それは彼の生活そのものだったのだから。
大西が見せてくれた優しさも、間違いなく大西自身なのだ。敦子は、父が倒れた時、自分の預金をおろしてまでお金を貸してくれた大西の、あの照れくさそうな顔を、忘れられなかった。
あの時、大西は敦子をエレベーターホールへと連れて行って、お金を手渡してくれた。
課長の椅《い》子《す》を離れた大西は、あんなに人間くさい、優しい男なのだ。
今、課長の席に座った大西が、ひどく頼りなげに、小さく見えるのは、課長の椅子に座っていながら、もう課長ではなくなっているからだろう。
——敦子は受付の席に戻った。
「ちょうど良かった」
久美江が電話を取っていた。「妹さんから」
「妹?」
受話器を取って、思い出していた。「——もしもし、寿子? 今日帰ったんだっけ」
「そう。今、成田よ」
寿子の声は、元気そのものだった。
「そう。楽しかった?」
「二、三日しかたってないような気がする」
と、寿子は言って、「ね、うちにかけたの。お父さん、倒れたんだって?」
「でも、すぐどうってことないのよ。知らせても心配するだけだと思って」
「びっくりしたよ。お姉ちゃん、大変だったね」
「いつものことでしょ」
と、敦子は言った。「そのまま九州に?」
「彼が、会って行きたい人がいるからって、明日の飛行機にしてあるの。今夜はホテル。お姉ちゃん、出てこない?」
「うん……。山下さんとも相談しておきたいことがあるからね」
父の入院費用など、敦子一人ではとても持ち切れないに違いなかった。
「じゃあ、ホテルに入ったら、また電話するね」
「うん。——私、今日でここを辞めるの」
隣に座った久美江が、エッと短く声を上げて、敦子を見た。
「会社、辞めるの?」
寿子もびっくりしたように訊《き》き返して来た。「どうしたの? 何かあったの」
「色々ね」
そう言ったとたん、敦子は胸が詰まって、言葉にならなくなってしまった。悲しいわけでもないのに、涙が出て止まらなくなった。
「お姉ちゃん。——もしもし? 大丈夫?」
寿子の声が、耳もとで響いていた。
長い一日が、やっと終わった。
——敦子にとっては、退職金についての説明を聞いたり、あれこれ何種類もの届を出したり、ロッカーの中の私物を整理したりして、忙しくしていたので却《かえ》って良かったのだが、午後には早くも色々な噂《うわさ》が社内を駆け巡っていた。
大西が辞め、敦子が辞める。そして専務の国崎が、社長は急に入院することになったから、と連絡して来る。そして、どこから話が出たのか、有田が警察に出頭したということも、三時ごろには、知れ渡っていた。
これだけ重なれば、誰でもただごとでないことは分かるだろう。
——受付の仕事のことで、何か話があるだろうと思ったのだが、宮田栄子は、ただ、
「後のことは心配しないで」
と、微《ほほ》笑《え》んで言っただけだった。「何とかなるわよ」
辞めて行く人間は、すでに会社の中でも「別世界」にいるのだ。誰も、皮肉も言わないし、からかいもしない。奇妙に親しげで、それでいて礼儀正しくて……。
五時のチャイムが鳴る少し前に、大西の席へ行って、借りていたお金を返し、挨《あい》拶《さつ》をした。大西は、ただ肯《うなず》いて、
「元気で」
と、言っただけだった。
——敦子は、何だか夢でも見ているような気持ちで、会社を出た。
久美江が、別れ際にグスグス泣き出して、敦子をびっくりさせたが、それはまあ、一種の条件反射みたいなものだったのだろう……。
ロビーを抜けて行こうとして、敦子は正面の受付の椅《い》子《す》の方を振り返った。
今は誰もいない。——受付は空気のように。
宮田栄子の言葉を思い出して、敦子はふっと微《ほほ》笑《え》んだ。そしてビルを出た。片手に、私物を入れた大きな紙袋を下げている。
明日、また、ここへ来てしまいそうな気がした。
「——あら、お帰りなさい」
アパートの下で、水町の奥さんに会った。「まあ、大荷物ね」
「今日、会社を辞めたもんですから」
と、敦子が言うと、水町の奥さんは、
「じゃあ、いよいよ?」
と、目を見開いた。
「いえ、それだけじゃないんですけど」
と、敦子は笑って、「次の仕事も探すんです」
「そうなの。でも、少しのんびりしなさいよ。働くばかりが能じゃないわ」
「そうですね」
と、歩き出そうとすると、
「さっき、あの親《しん》戚《せき》の子が来てたみたい」
と水町の奥さんが言った。
親戚の子?——智恵子のことだろうか。
でも、まさか……。
階段を駆け上がって、部屋のドアを……。鍵《かぎ》がかかっていなかった。暗いのに。
「智恵子さん?」
と、中を覗《のぞ》き込んで、呼んでみる。
返事はなかった。敦子は中へ入って、明かりを点《つ》けた。
智恵子が、洋服のまま、横になっていた。座布団を二つにたたんで、枕《まくら》にしている。
具合でも悪いのかしら? 明かりを点けても、目も覚まさないなんて……。敦子は不安になった。
そっと近寄って、智恵子の顔に、顔を近付けてみる。
スーッ、スーッ、と深い寝息が聞こえた。敦子の気配を感じたのか、ちょっと瞼《まぶた》を動かしたが、少し背を丸めるようにして、また深々と息をつく。
眠っているだけなのだ。敦子はホッとして、体を起こした。風《か》邪《ぜ》引くわ、こんな格好で。
敦子は、智恵子を起こさないように、そっと立って、押し入れから毛布を出すと、静かに智恵子の肩までかけてやった。
今度は、智恵子はぴくりとも動かなかった。
持ち物は、部屋の隅に置いてある。敦子は、智恵子が「帰って来た」のだと思った。もう、出て行かないだろう。
敦子は、ちゃぶ台の前に座って、眠っている智恵子を眺めていた。
色んなことが落ちついたら、智恵子を学校へやることも考えなくてはならない。夜学にでも通うことになるかもしれないが。
有田がどうなるかによって敦子の生活は大きく変わって来る。
しかし、当分は、智恵子と二人で、支え合って暮らして行くことになるだろう。——そう考えるのが、敦子には楽しかった。
時計を見た。山下と寿子と、ホテルで会うことになっているが、まだ出るには早い。有田からの連絡も、深夜になるだろう。
敦子はちゃぶ台に両手を置いて、頭をのせた。そのままうたた寝でもできそうだ。
つややかな智恵子の頬《ほお》が、白く光って見え、少し開き加減の唇は、子供のようにあどけない。
——ぐっすり眠って。
誰よりも、智恵子が一番の「被害者」なのだ。人は、全く悪意がなくても、加害者になることがある。世の中が悪い、と言ってみたところで、その責任は人間が負わなくてはならないのだ。
ゆっくり眠って。
あなたが目を覚ますころには、ほんの少し、いい世の中になっているかもしれない……。
敦子は、いつしか眼を閉じて、浅い眠りに身を委《ゆだ》ねていた。
夢の中で、光るロビーと、その奥の受付に座る誰かが見える。敦子を迎える見知らぬ笑顔は、智恵子の明るい笑顔と、どこか似ているように見えた。